大和魂 ⑮

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より

■鎌倉武士

 

衣笠城落城に際して撤退作戦についてゆかない人物があった。総帥衣笠義明・・89才になる老将であった。子供達が退城を促しても、彼は毅然としてこれをはねつけた。 

「俺はここに残る。お前達は急いで城をぬけだして、殿(頼朝)の在否をたずねてまいれ」 

なぜそうするかについて、彼は凛(りん)としておのが思いを語る。 

「三浦は源家代々の家人だ。幸いもう一度源氏が再興しようとするときにめぐりあったことは何たる喜びであろう。俺ももう80過ぎ、残る命は知れたものだ。いまこの老いの命を武衛のために投げうって、子孫の手柄にしたいと思う」 

「老命を武衛に投じ、子孫の勲功を募らんと欲す」 

ここでは、義明は二つのことを言っている。 

「命を捧げること」「それを子孫の功績にすること」 

この二つをワンセットにして言っているのだ。もっとはっきりいうならば、彼は単に頼朝のために死にさえすれば本望だ、と言っているのではない。ちゃんとこれを子孫の手柄として、ひきかえに褒美を貰うつもりだ、と言っているのだ。 

これまでの鎌倉武士のイメージは後世作られたものであって、この時代の武士の素顔を伝えるものではないのである。 

むしろ、彼らは「戦うこと、そして死ぬこと」と「褒美を貰うこと」を端的に直結させ、これを根本ルールとして主張しているのだ。 

義明はただ源家再興を手放しで喜び、無償の奉仕、無償の死を遂げようとしているのではない。精神の美学としての無償はたしかに感動的だが、「子孫の勲功」の部分を無視して、犠牲的な死だけを見ようとするのは、この時代に対する歴史的理解とは言えない。むしろ大事なのは、後半の部分である。 

なぜなら、東国武士団は、これまで常に奴隷的な無償の奉仕を続けてきた。今度の旗揚げは、その奴隷的な境涯から脱するための第一歩である。義明は、はっきりこれまでの境涯への訣別を語っている。それが「子孫の勲功を募らんと欲す」という言葉になって現れているのだ。 

戦死を含めたさまざまな奉仕が、必ず見返りとして恩賞を伴う。・・これを当時の言葉で言えば「御恩と奉公」である。つまり彼らの死には保証があるのだ。彼らは決して死に損にはならない。命を投げ出して戦ったものの子孫には必ず報いがある。この時代の恩賞の対象となる手柄には二通りある。一番乗り、あるいは名ある敵の首を上げること。これを積極的な手柄とすれば、戦死は消極的な手柄なのである。 

少し時代は下がるが、合戦注文とか軍忠状とか呼ばれるものがいろいろ残っている。どこでどんな戦いをしたかという報告書で、そこには、どんな傷を受けたかということまで細かく書いてある。これを戦(いくさ)奉行が承認すると、恩賞にあずかることができる。はっきりいえば、まさに、「一傷いくら」なのだ。まして戦死は大変な犠牲だから、遺族には必ず恩賞の沙汰がある。 

敵に勝ち、所領を奪い、その分け前に預かるまでは、東国武士は屍を乗り越え乗り越え戦うのだ。ここには「御恩と奉公」の倫理が筋金入りで通っているのである。 

もしこれを余りにも功利的な見方だという人があるとすれば、その人は、江戸時代的な武士道観(主君が一方的に奉公を強いるゆがんだ精神主義)に毒されているのだ。 

頼朝に命を捧げる所だけ意味を持たせるのは歴史的理解ではないし、また「子孫の勲功を募る」という言葉を、「名誉なことをする」とか、「手柄話として子孫の語りぐさにする」というくらいにしかとらない見方があるのは、我々が後生のいわゆる武士道的解釈にとらわれすぎているからだ。 

この「御恩と奉公」は命強くも、その後長く生き続ける。戦国武士が命がけで働いたのもそのためだ。 

江戸時代には、これがやや変質する。徳川幕府が日本全国を掌握してしまったために、それ以後の侍たちは、巧妙手柄をたてる余地もなくなってしまったし、もし功績があっても、新たに「御恩」が加えられることはほとんど不可能になってしまったのだ。そうなったとき、徳川幕府は新しい抜け道を考える。 

「奉公したとしても御恩がないのはあたりまえ。武士は恩賞など目当てに働くものではないぞ」 

いわゆる「武士道」が確立するのはまさにこの時点からである。鎌倉の起点から見ればむしろ後退したかに見えるこの考え方は、徳川300年を支配する。 

そして明治維新を迎えたときに、面白いことに、「御恩と奉公」は装いを新たに復活してくる。

■武芸の鍛錬 

鎌倉時代の武士たちは、武芸の鍛錬をたいへん重視し、「弓矢を射ること」「馬に乗ること」は、子どものころからきびしくきたえられた。館の内外では、笠懸(かさがけ)・流鏑馬(やぶさめ)・犬追物(いぬおうもの)・巻狩(まきがり)など、武芸の訓練をかねた遊びがさかんに行われた。 

笠懸とは、笠を的にし、馬を走らせながら矢を射るものだ。笠は直径50cmくらいの檜の板を皮につつみ、中に綿がつめてあった。笠懸は平安時代の終わりごろに始まり、鎌倉時代に特にさかんになった 。 

流鏑馬とは、馬を走らせながら、一定の間隔をおいて立てられた、四角い板の的をつぎつぎに矢で射ていくものだ。的は3つ立てられるのが普通であったようで、これも平安時代の終わりごろに始まり、鎌倉時代にさかんになった。現在も、各地の神社のお祭りなどの際、行われている。 

犬追物とは、長さ40mほどの縄を輪にし、この中に放した犬を、とりかこんだ四騎の武士が矢で射るというものだ。鏃(やじり)ははずしてあるとはいうものの、当たればかなりの苦痛をともなったことだろう。犬追物では「動く的」を射るから、馬の乗り方、弓矢の使い方などを訓練するには、たいへん役立ったそうだ。 

巻狩とは、獲物のいそうな野山をかこみ、棒や大声で獲物を追いこみながら、馬上から弓矢で射て、しとめるというもので、狩猟である。 

武士たちはつねに戦いに備えた暮らしをしていた。京で行われていたような文化や遊びは、彼らの間にはあまり広がらなかった。ふつうの武士たちの学問のレベルも、都の公家たちなどと比べると、たいへん低い水準にとどまっていたようだ。 

一方で、武士の生活に合った、武士独特の道徳が形づくられていった。この武士の道徳は、当時、「武士のならい」「兵(つわもの)の道」などとよばれ、主従関係の基礎となる「忠(ちゅう)」と、一門の団結を保つための「孝(こう)」という考え方が基本になっていた。具体的には、武勇・礼節・廉恥・正直・倹約・寡欲などを大切にしていた。これらの道徳は、武士がきびしい毎日をおくるうちに自然と生まれてきたものだ。この時代に生まれたこれらの武士の道徳は、時代をへ、江戸時代になると「武士道」とよばれるものへと発展した。

 

■武士道・諸話

 

■徳川家康 / 分断支配

「君、君たらずとも、臣、臣たれ」という、使う側にとっては非常に都合のいい論理が走者することになる。この論理が"武士道"として、日本の全武士に適用された。使う側の権力は一段と強くなった。使われる側は、結局は上を見ずに下ばかり見るようになる。

これは、信長・秀吉の両先輩が残していった日本社会を、ローリング(修正)を加えながら長期維持管理するための家康としては、どうしてもそうならざるを得なかった。家康の得意な組織と人事の管理法は、「分断支配」である。家康自身、「ひとりの人間にすべての能力がそなわっているなどということは考えられない。人間には必ず長所もあるが、欠点もある」と告げていた。したがって、「仕事は、複数の人間の組み合わせによってはじめて成功する」という考えを貫いた。かれは少年時代から青年時代にかけて、駿河の今川家の人質になっていた。人間の実態をよくみた。そのためにかれの人生観は有名な、「人の一生は重き荷を負いて遠き道をゆくがごとし。必ず急ぐべからず」という根気強いものになる。同時にこのころかれは、「人間不信の念・・・

■伊達政宗 / 不動明王のような心で危機を脱した

「恐れてはなりませぬ。不動明王は、この世の悪に対する怒りを退治すべく、自分の体から炎を吹き立てているのでございます」と説明した。そして、「若君も、一隻眼を恥じてはなりませぬ。この不動明王のように、悪を退治するお人におなりあそばせ」といった。あの一言によって政宗はそれ以前の自分とは変わった人間になったことを感じた。

つまり、「あの日からおれは生まれ変わった」という自覚が持てた。眠れぬ夜を、箱根山中の底倉の一室で送りながら、政宗は振転反測した。不動明王の姿がちらついて日の裏から離れない。政宗は反省した。

(あの日、虎哉宗乙師に教えられた初心を、おれはずっと持ち続けていたのだろうか)という疑問だ。師僧は、「世の悪を退治するために、一隻眼をご活用なさい」と告げた。おれは確かにあの日以来、はじらいの気持ちを捨てて、自信を持つ活動家に変わった。しかしその活動の内容は、果たして師僧のいった、「この世の悪を退治する」ということに集中していたのだろうか。

「おれ自身の野心・野望の達成にあったのではないのか」という思いが湧いてきた。こんなことは今までない。かれは目的を達成するたびに、さらに自信を深めた。が、今、「では、その目的は誰のためのものか」と開かれれば、はたと答えに迷う。政宗は、「今までの行動は、すべておれ自身のためではなかったのか」と思いはじめていた。あの恐ろしい不動明王が、炎を吹き立て剣を撮るって、自分に迫って来るような気がする。不動明王は叫ぶ。

「政宗よ、おまえの敵はおまえだぞ」その三日が政宗の脳天を打ち砕いた。衝撃は今も去らない。しかし、その衝撃が改宗の、「助かりたい」というひたすらな思いを遮断した。政宗は己を取り戻した。前田利家と徳川家康は確かに豊臣秀吉の側近であり豊臣政権の実力者だ。しかし、ここで嘆願の姿勢を取って、命乞いをするのはいやだった。

(最後まで、自分を貫き通したい)それがおれの武士道なのだと改宗は自分に言い聞かせた。

■敵討ちの意識  

江戸初期には財政的に豊かで留守宅への扶持も十分あり余裕を持って仇討ちの旅に出られた。しかし、中期以降になると武士道が形骸化し「酒の席の喧嘩」や「囲碁、将棋での争い」などつまらないことが原因による殺人事件が増加、敵討ちの届けも増加する。一巻・雨の鈴鹿橋の後藤伊織が上司の天野半兵衛に職場内のいじめに逆上し殺してしまったようなこともあっただろう。  

しかし、四巻・鰻坊主の善空こと津田庄之助は兄が敵の妻を犯して殺されたなど被害者に非があり敵を恨む気持ちがなくとも敵討ちをしない限り家督が継げない。津田の場合は兄は他人の妻を犯して殺されたのだから自業自得なのだが、藩の重役と関係があったのか兄の汚行をもみ消し敵が兄を殺したという処理がなされたのだろう。  

敵討ちは私事という考え方が定着し、届けを出すと停職になり俸禄が取り上げられる。御役目を務めていない者に俸禄を出すだけの財政面で余裕がなくなったのだろう。敵討ちの旅は親類・知人の援助に頼るしかなかったが本懐が遂げられずに長年経つと援助を頼みにくくなるだろう。  

本懐を遂げれば帰参し武勇が讃えられ十六巻・浮沈で登場する滝久蔵のよう加増されることもある。浪人なら忠臣蔵の中山安兵衛のように評判となり腕が買われ仕官の道が開けることがある。ただ、みっともない討ち方では体面上帰国するできず最悪帰参が適わないこともあったそうだ。  

四巻・夫婦浪人の高野十太郎の敵である村尾が公金横領犯など藩に関わる不正を犯し逃げた場合は藩からの経済的な援助や情報提供が期待できた反面、十一巻・助太刀で中島伊織が藩家老縁者である渡辺九十郎を討って帰参しても歓迎されなかったように政治が敵討ちに絡むことがあり大名や家老の縁者が殺人事件を起こしても被害者の親族へ金や役職を与えて「なかったこと」ということにして解決することもあっただろう。  

■徳川家光の報復を享受した老職・青山忠俊

家光がここまで育ったのは、もちろん青山忠俊の功績が大きい。しかし忠俊はそうは思わない。というのは、家光自身が最近忠俊に対し、非常に悪感情をつのらせていることを知っていたからだ。忠俊にすれば、あいかわらず死んだ家康から命ぜられた、「竹千代に勇武の道を叩きこめ」ということを至上命令として励んでいる。家光が将軍になったからといって手加減はしない。あいかわらず厳しい諌言を行う。そのたびに家光は嫌な顔をする。まわりの者がハラハラして、「青山殿、もはや家光公は天下人だ。少しひかえられてはいかが」と言うが聞かない。

「これが俺の役割なのだ」と言って、自己の信条を絶対に曲げなかった。本当なら家光も、自分の私感情を抑えて長年世話になった息俊を、例えば正式に幕府の老中に任命するとかの通があったはずだ。しかし家光はそうはしなかった。逆に、私感情による報復行為に出た。家光は将軍になってから二か月後、突然、青山忠俊に次のような命令を下した。

「本丸老職を解任する。領地のうち二万五〇〇〇石を没収する」

江戸城内は大騒ぎになった。中には良識派もいる。その連中は、「家光公は恩を知らない。あのいくじなしの竹千代様が、今日のような立派な天下人になれたのは、青山息俊殿のお蔭ではないのか」そうささやき合った。しかし忠俊は二言も弁明はしなかった。固く口を結んだまま、黙って家光の命令に従った。

家光の報復はそれだけではすまなかった。二年後の寛永二年(一六二五)には、「領地はすべて没収する。遠江(静岡県)小林の地において、蟄居を命ずる」と言われた。連座制がとられて、長男の宗俊も同じように蟄居を命ぜられた。

一説によれば、この処分は、家光の父秀忠の指示によるものだといわれる。秀忠は、家光が将軍になった後もあいかわらず厳しい諌言をやめない忠俊に腹を立てていた。秀忠の考えは、「昔ならいざ知らず、天下人に対して大勢の人間の前で性懲りもなく諌言を行うなどというのは、不忠の臣である」と断定した。もっと勘繰れば、「青山忠俊は、あたかも自分が家光を将軍にしたという意識があるのだろう。依然として諌言をやめないのは、それを天下にひけらかしているのだ」と感じた。青山息俊にそんな気は全くない。しかし彼は、「俺が進んでこういう目にあうことが家光様の天下人としての地位を安定させる」と思っていた。だから、いってみれば、「自分からク″見せしめ″の役を買って出る」という心持ちだったのである。

蟄居の地にあって、二言も弁明もせず沈黙を守り続ける忠俊の姿に、多くの武士が感動した。家光もさすがに考えた。そこでまず手はじめに、同じ蟄居を命じた忠俊の息子宗俊を呼び出し、旗本に登用した。そして、それを一種の謝罪の意味として息俊に使いを出した。

「一時の怒りに任せて蟄居を命じすまないと思っている。蟄居を解くので、もう一度、私の側にきて仕えてはくれぬか」と申し出た。しかし、忠俊は使者にこう答えた。

「ありがたいお言葉ではございますが、お受けするわけには参りません。なぜなら、蟄居を許されて私が江戸城にもう一度まかり出れば、世間では上様(家光)が、過ちを犯されたと噂をいたします。絶対にそんなことはあってはなりません。上様は、私が死ぬまで蟄居の刑を解いてはなりませぬ。さようお伝えください」

使者からこのことを聞いた家光は初めて、「浅はかであった」と深く反省した。忠俊はそのまま蟄居を続け、寛永二十年(一六四三)に相模国(神奈川県)今泉村で死んだという。彼の信念は、「沈黙こそ、武士道の真髄だ」というものであった。  

■中村藩士問答の諭し

伊東発身、斎藤高行、斎藤松蔵、紺野織衛、荒専八等、侍坐す。皆中村藩士なり。翁諭して曰く、草を刈らんと欲する者は、草に相談するに及ばず。己が鎌を能く研(と)ぐべし。髭(ひげ)を剃(そ)らんと欲する者は、髭に相談はいらず、己が剃刀(かみそり)を能く研ぐべし。砥(と)に当りて、刃の付ざる刃物が、仕舞置きて刃の付し例(ためし)なし。古語に教えるに孝を以てするは、天下の人の父たる者を敬する所以(ゆえん)なり。教るに悌を以てするは、天下の人の兄たる者を敬する所以なり、と云えり。教わるに鋸(のこぎり)の目を立てるは、天下の木たる物を伐(き)る所以なり。教るに鎌(かま)の刃を研ぐは、天下の草たる物を刈る所以也。鋸(のこぎり)の目を能く立てれば天下に伐れざる木なく、鎌の刃を能く研げば、天下に刈れざる草なし。故に鋸の目を能く立れば、天下の木は伐れたると一般、鎌の刃を能く研げば、天下の草は刈れたるに同じ。秤(はかり)あれば、天下の物の軽重は知れざる事なく、桝(ます)あれば天下の物の数量は知れざる事なし。故に我が教えの大本、分度を定る事を知らば、天下の荒地は、皆開拓出来たるに同じ。天下の借財は、皆済(かいざい)成りたるに同じ。これ富国の基本なればなり。予、往年貴藩の為に、この基本を確乎と定む。能く守らばその成る処量(はか)るべからず。卿等能く学んで能く勤めよ。

孝経 広至徳章「教以孝所以敬、天下之為人父者也、教以弟所以敬、天下之為人兄者也」(教えるに孝をもってするは、敬をもって天下の為の人を父とするものなり。教えるに弟をもってするは、敬をもって天下の為の人を兄とするものなり)。 

尊徳は、この説話で、努力の対象を間違わぬよう諭している。尊徳の仕法事業にあっては、それは分度の決定であった。分度が決定していなければ、基がぐらつくわけであるから、末端でどれだけ頑張ってみても成功には到達しない。烏山藩の仕法が、良いところまで進みながら瓦解してしまったのも、分度が決まらなかったことによった。それを招いたのも、仕法の責任者であった家老の菅谷八郎衛門が、最後の決断をわが身に代えてでもという強い意思で、藩主達に迫らなかったからであった。決断をしなければならない時には、責任者はわが身に代えてでもという意志を持ってトップに相対することが必要である。葉隠れ武士道の「武士道とは、死ぬことと見つけたり」の意味に通ずる。 

■山鹿素行の感化

赤穂城が没収せられた際、藩士の数はすべて=.百数十人であった。この内籠城または殉死を申合せた者が百余人であったに、二十一ヵ月の後、仇家に討入って亡君の恨みを晴らした者は四十七人だったので、世人はその中途に逃げ出した臆病老や、背信漢の多いのを憤慨するが、しかし、あの人心儒弱、風俗淫靡を以て有名な元禄時代に、三百余人の藩士中四十七人が、生命を投げ出してあの義挙を遂行したということは、むしろその人数の多いのに驚くべきではないか。

なおまた世人は、四十七人中にはいろいろの性格、いろいろの事情があるに、それを統一して一致の行動をとらしめた大石良雄(よしたか)の威望と手腕とを嘆称するが、しかし大石いかに威望と手腕とを具えていても、藩士の多くが大野九郎兵衛父子のごとき人物であったら、到底あのような義挙を見ることはできない。四十七人が死を覚悟して亡君の仇を報ずることに終始したのは、忠義の精神が一藩に行き渡り、大野父子のごとき人間は武士の風上に置くべきでないとする気風が、藩中を支配していたので、大石はその気風を巧に指導し、その精神を中心に人々を統率して、ついにあの武士道の花を咲かせたのである。

だから、義挙は大石を中心として決行され、大石なくしてはあのような見事な成果を得ることは不可能だったと断言し得られるが、しかし大石以下をしてこの義挙に出でしめた力は、別に存在していたことを知らねばならぬ。それは山鹿素行(やまがそこう)の感化である。素行が内匠頭の祖父長直に聰せられて、前には八年間江戸藩邸で在府藩士のために文武の学を講じ、後には幕府の忌誰(きい)に触れて、赤穂の地に調(たく)せられ、更に九年間また在国の藩士に書を講じ、忠孝節義の重んずべき事を説いたのが、一藩の人心に強い感化を与え、世はいわゆる元禄時代の華奢柔弱の時代だったに拘わらず、赤穂藩には質実剛健の気風が満ち、忠孝の精神が人々の頭を支配していたので、素行が去ってから二十六年後に、四十七士の義挙となったのである。大石内蔵助その人すら、素行の感化によって人格の根本を築いたものであること、殆んど疑う余地もない。だから、赤穂義士を知るには山鹿素行を知らねばならぬ。教育の力の偉大さは、山鹿素行と赤穂義士との関係に於て最も明白に証拠だてられる。では、山鹿素行とはどんな人物か。

素行の本名は甚五右衛門といい、素行は号である。先祖は肥後の山鹿(やまが)にいたので、地名を氏にしたのである。父の玄庵は江戸で医者をしていた。素行は幼時から頭脳明敏、六歳にして経史を学び、九歳の時林羅山の門に入り、十一歳の時すでに、小学 ・論語・貞観政要などを人のために講義したが、その弁論が堂々老大家のようだったので、驚かない者はなかったという。十八の時、武田流の兵学者北条安房守氏長に入門して兵法を学んだが、五年の間に数多い弟子の中で首席となり、二十二で秘伝奥義をスッカリ伝授された。そして後に山鹿流の兵法を創始した。

当時幕府は儒学を奨励していたが、それは林道春(羅山)の系統を引いた朱子学であった。朱子学というのは、儒教を哲学的に解する朱烹(しゆき)の学派で、深遠とはいえようが、元々儒教は実生活の実行に重きをおいたものなのに、朱子学は兎角空理空論に走る嫌いがあった。それで素行は朱子学を排斥し、官学の林家と相対時し、門人が三千人を超えるに至った。そのため、幕府の誤解を招いた。

また当時の漢学者は、中国を孔孟の本国として、日本よりも一段上に位する国柄のごとく心酔する傾きにあったが、素行は、日本こそ貴い神の国で、日本の国体こそ万国無比のものである。我国の学問はこの国体を擁護するものでなければならぬという意味を説いた。それらが、幕府には気味わるく聞かれたに相違ない。

これよりさき赤穂藩主浅野長直(内匠頭長矩の祖父)とくに素行の人物と学問に傾倒し、初めは門人となって教えを受けたが、後には礼を厚うしてこれを招聴し、禄千石を給した。

『浅野内匠頭分限牒』によると、家老の大石内蔵助千五百石を筆頭として、次は岡林杢之助、奥野将監、近藤源八の各千石、その次は八百石が五人、六百五十石が二人という割になっている。祖父長直の時代に於ても、藩の所領が同じである以上、家士の禄高も大差なかったに相違ない。しかるに、山鹿素行を聴して千石を給したのは、随分思い切った優遇である。しかも素行はその時まだ三十一歳であった。三十一の青年、いかに名声が高くとも、これを招聰して、藩中第二位の高禄を給することは、恐らく藩士の大部分が反対したであろうから、長直は非常な決意を以て家臣の反対を押切り、素行招聴の希望を実現したのだろうと察せられる。従って素行も、この君公の知己の恩に感激し、藩士教育のために心力を尽すこと、一般の賓儒とは異なっていたこというまでもない。

素行が浅野藩の人となったのは、承応元年十二月で、その翌年赤穂城縄張のため】度赤穂へ行って、数ヵ月滞在したことはあるが、その他はズット江戸の藩邸で、藩士のために士道を講ずること満八年、万治三年九月に致仕(ちし)した。

ところが、それから六年の後、寛文六年十一月、素行の著『聖教要録』が幕府の忌誰(きい)に触れて、素行は赤穂の地へ調(たく)せられ、浅野侯にお預けとなった。幕府が素行を、他所へやらずに赤穂に講したのは、前に長直が高禄を以て抱えていたのみならず、今なお尊信しているので、双方のために好都合であろうとの、当局者の同情ある計らいだったのだろう。というのは『聖教要録』が、林大学頭を中心として多くの人に信奉せられている朱子学を攻撃したために罪を獲たのであるが、本来学問上の議論で、しかも、素行の主張にかなり共鳴老もあるので、罪にはしても普通の罪人扱いにはせず、とくに便宜を計ったものと考えられる。

この素行の赤穂調居を、藩主長直がどれほど喜んだか知れぬ。早速二の丸の大石頼母助(内蔵助の祖父良欽の弟で家老)の隣邸に迎え、旧師として尊敬した。爾来満九年間素行は赤穂に止って、表面謹慎中の罪人であるが、実際は賓儒のごとき待遇を受け、藩士の教育に力を注いだ。大石頼母助のごときは,毎日訪問を欠かさず、一日二回副菜物を贈って九年間絶たなんだ。

藩主長直は寛文十二年に卒去し、子長友が嗣いで太守になったが、在任僅かに四年で延宝三年他界。そのあとへ八歳の長子長矩が立った。この年、前将軍家光の二十五回忌に相当したので、素行は赦免せられ、赤穂を立って江戸へ帰った。

素行の赤穂調居は四十五歳から五十四歳までで、一生中最も膏の乗り切っていた時代であり、その名著『中朝事実』1この書は明治時代に、乃木大将によって翻刻せられ、天皇陛下に献上せられたーもこの間に書かれたのであるから、藩士に与えた感化の偉大であった事も想像されよう。

素行の赤穂を去った時、大石内蔵助は十七歳、吉田忠左衛門は三十五歳、間喜兵衛は四十一歳、堀部弥兵衛は四十九歳だった。その他小野寺十内、原惣右衛門、村松喜兵衛、貝賀弥左衛門らは、いずれも二十五から三十前後だったから、皆相当の感化を受けたに相違ない。

四十七義士の出現は、山鹿素行と、素行を尊信した藩主長直の力であること疑うベき余地もない。素行の墓は、東京牛込区弁天町の宗参寺にあり、毎年素行会(会長井上哲次郎博士)で祭典を行う。

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