http://kenkokusi.web.fc2.com/oona/3.2.html 【播磨国におけるスサノオ伝承】より
『播磨国風土記』には三箇所に少彦名(すくなひこな)の話が出てくるが、その全てをなぜかスクナヒコネとしており、内二箇所は少日子根、他の一箇所は四文字全てを変えて小比古尼と表記している。わざわざ表記を変えた箇所は、大己貴と小比古尼が「堲(はに、粘土)をかついで遠くに行くのと、屎(くそ)をしないで遠くに行くのと、どちらがやり通せるだろうか」といって二人でがまんくらべをしながら遠くへ行くという、たわいもない話を地名由来に結びつけたもので、おそまつでしたといわんばかりに四文字全てを変えている。
さて、少彦名と少彦根(原文では少日子根、小比古尼であるが本HPでは少彦根と表記)が同神であることは、どちらも大己貴と対になって登場していることや、少彦根が登場する近辺の神社伝承では少彦名とされていることからわかる。たとえば、『播磨国風土記』の餝磨(しかま)郡枚野(ひらの)里(姫路城跡のそば)の条に、少彦根は日女道(ひめじ)丘の女神と日を定めて会う約束をした云々とあるが、姫路城南西1㌔ほどの姫路市十二所前町(じゅうにしょまえちょう)の十二所神社(図の5)の祭神は少彦名で、「この地方の開発の祖神にして長畝(ながうね)国主の神とも称す」と伝承されている。
その少彦名がなぜ少彦根とされているのか。私はここに、ある重要なメッセージが込められていると思うのであるが、その試論を述べる前に、出雲国における神社伝承を解析する過程で疑問点としてあげておいた少彦名と大己貴やスサノオとの関係を再確認しておこう。
出雲には、大己貴の農耕拓殖の伝承が数点あったが、その内、半数以上が、なぜか少彦名との協同作業になっていた。ここで私は「はたして、この少彦名とは誰か? 『書紀』によれば、少彦名は大己貴と力をあわせ心を一つにして、天下を経営した人物として、あるいはタカミムスヒの子、すなわち天孫族の一人として最大限の持ち上げようであるが、『出雲国風土記』ではただ一箇所登場するだけである。(中略)これはなにやら、中央から記述を制限されたスサノオに似ている気がしてならないのであるが、今は深追いを避け……」として、見解を保留しておいた。
ここでなぜ私が少彦名にスサノオの姿を重ねてしまうのかその理由を二、三あげておきたい。まず、少彦名の世代である。『書紀』の主張によれば彼はタカミムスヒの子とあるが、その場合、スサノオ=五男仮説(別稿のHP【建国の祖スサノオの真実】をご覧下さい)に立脚すれば、少彦名とスサノオとは同世代とみなせるのである。なぜなら、『書紀』は神代紀九段において、スサノオたるオシホミミが、タカミムスヒの御子の栲幡千千(たくはたちぢ)姫と結婚したとしており、よって、二人が通常の同世代婚であれば、スサノオはタカミムスヒの子の世代であると主張していることになって、ここに少彦名がタカミムスヒの子であれば、スサノオとは同世代ということになるのである。
次に、神社伝承。一つは繰り返しになるが、前述の山口県小野田市の赤嵜(あかさき)神社の伝承、「神代の頃、大己貴大神・少彦名大神が外国からの帰路、この地に船を止め上陸された云々」は少彦名=スサノオを強く暗示している。それはまた、周防灘( す おうなだ)を挟んで対峙する福岡県行橋市(ゆくはしし)天生田(あもうだ)の清地(すが ち )神社に、スサノオ、五十猛( いたける)父子の朝鮮半島からの帰還伝承があったことからも補強されよう。
さらに、少彦名は菅原道真に主役の座を奪われるまでは天神様として全国津々浦々の神社に祭られていたことは周知の事実であるが、中には、少彦名にかわって天穂日を祭神とする天神社が、かつての吉備国・岡山県に散見される。たとえば、加賀郡吉備中央町や高梁(たかはし)市巨瀬町(こせちょう)、あるいは中井町等の天神社がそれである。すでに検証したように天穂日はスサノオの異名同体であったので、ここに天穂日を通じて、少彦名=スサノオが暗示されている。蛇足ながら、なぜ吉備国かといえば当地はまことにスサノオ伝承の色濃い地域であって、あちこちに祭られているほか、備前における鉄生産の中心地であった赤磐(あかいわ)郡吉井町(現赤磐市)にはスサノオが剣を洗ったと伝わる血洗いの滝が伝承されている。さらに、この地から西南およそ8㌔の石上(いそのかみ)布都魂(ふつのみたま)神社にはかつてスサノオがヤマタノオロチを斬ったと伝えられる剣が祭られており、スサノオが実際このあたりにやってきて、製鉄技術の指導をしたというようなことがあったとしておかしくないのである。
ところで、香川県観音寺市流岡町(ながれおかちょう)の加麻良(かまら)神社の伝承は少彦名とスサノオとの関連を示す上で興味深い。それは、「昔、神田村羽方( は かた)二の宮大水上(おおみなかみ)神社に少彦名が来たりて夜毎に泣き叫ぶ、大水上神は木桝(ます)に命(みこと)を乗せて川に流すと、神室山の中腹に着き泣き止む、云々」とあって、スサノオの特異性の一つ泣き叫ぶという所作が二神に共通しているのも看過できない。
さて、以上の少彦名とスサノオとの濃厚な重なりを念頭において、『播磨国風土記』を見渡すと、そこにはスサノオの話が一切出てこないことに気付く。少彦名が少彦根と名を変えて三箇所に登場していたからには、そしてもし、少彦名=スサノオであるならば、『播磨国風土記』のどこかにスサノオがありのままに登場していてもよさそうなものであるがまったくその気配すらみせないというのは、一体どうしたことだろう。スサノオ=少彦名仮説が成り立てば三箇所に足を踏み入れていたということになるが、そうだとしても、大己貴が伊和大神や葦原志許乎(あしはらのしこお)と名を換えて四十箇所にも記されていたのと比べて、あまりにも少ない気がする。あるいは、少彦名とスサノオとは私の推測に反して全くの別人で、結局のところ、スサノオはこの地に足を踏み入れなかったということなのだろうか。
そのあたりを、神社伝承で探ってみるとどうなるか。結論から先にいえば、スサノオは確かにこの地に足を踏み入れたといわざるをえないのである。その詳細は追々みていくとして、そうだとすれば、『播磨国風土記』はどうしてそれを無視したのだろう。
さきほどの少彦根が登場した餝磨(しかま)郡枚野(ひらの)里の日女道(ひめじ)丘には世界遺産に指定された姫路城が聳(そび)えているが、その北東2、3㌔ほどのところに白国(しらくに)神社(6)があって、「白国は新羅(しらぎ)なり。往昔広峯(ひろみね)牛頭(ごず)天王、新羅に行幸し帰朝のとき、少時この地に坐(いま)す。故に白国という云々」なる伝承が伝わっている。この広峯牛頭(ごず)天王がスサノオを意味することは、すぐあとでもでてくるが誰もが知るところであろう。またその北北東約13㌔に前述の與位(よい)神社(4)があってスサノオと稲田姫が祭られているが、「太古諸神国土経営のときこの地に巡幸あり云々」と伝承されている。この諸神は祭神から考えてスサノオ一族を意味するものと思われる。それを証するかのようにその東方30㌔ほどの加東市天神(てんじん)にスサノオを祭神とする一ノ宮神社(7)があり「神代に素戔鳴( す さ のお)が天降り地方巡見の際、当地に休憩した。その遺蹟に奉祀したのが一之宮である」と明確に伝わっており、かつ、地名の天神(てんじん)もいわくありげである。
また、その南18㌔ほどのかつての明石郡、現神戸市西区神出町(かんでちょう)の神出神社(8)にもスサノオ、稲田姫、大己貴のスサノオ一家が祭られており、「伝えいうこの地に二山あり。俗に東を雄岡山(おっこうざん)、西を雌岡山(めっこうざん)といい山名を神出(かんで)という。けだしスサノオ、稲田姫ここに遇会し御子大己貴を生み給う云々」とある。大己貴がこの地で誕生云々は周辺に類似伝承がないことから信頼度は低いが、少なくともスサノオ一家が面影を残すほどの少時、この地に滞在したという程度の推測は許されるであろう。それは、神出なる地名からもいえそうである。
以上のスサノオ伝承に囲まれた高砂市阿弥陀町に生石(おうしこ)神社(9)があるが、自説を証するかのごとく、少彦名、大己貴が祭られており、「往昔(おうせき)大己貴神、少彦名神、勅を受けて国土を経営せしとき、ここに石御殿を造りその石屑を北の方一里ばかりなる高御位山(たかみくらやま)に捨て給う。然るにいまだこと終らざるに天佐久売(あまのさ ぐ め )来たりてこの山の麓に軍を起さんとせる阿賀神ありと告げしかば、二神麓の里に下りて神らをつどへ阿賀神を平らげ天下の経営を終り給う。その後崇神十三年、二神を祭った」と伝承されている。すなわち、スサノオの面影濃い領域中に少彦名が割り込んでいるのである。
さらにここで、少彦根が登場した日女道(ひめじ)丘の姫路城に話を戻すと、その北方約4㌔に広峯山があって、京都の八坂神社の元宮として名高い広峯神社(10)が建っている。小椋一葉氏が入手された由緒書には、「崇神天皇の御代に広峯山に神籬(ひもろぎ)を建て、素戔鳴(すさのお)、五十猛を奉斎云々」(『消された覇王』)とあるが、当社は少なくとも皇極元年(642)には創建されていたことが但馬国の関神社(養父郡関宮町)の由緒からわかる。そこには、「皇極天皇元年、西国悪疫(あくえき)流行しかば、但馬、播磨は国の中央なるによりて牛頭(ごず)天王を但馬国の羽山、播磨国の広峯山に鎮祭してその厄の以東に及ぶことを防ぎしにはじまり、云々」とあるが、皇極元年といえば、仏教公伝(こうでん)からほぼ一世紀、仏教興隆の道を開いた聖徳太子没後二十年を経ているが、まだまだ人心は仏よりも神を頼っていたということがわかるのである。
ここで再び『播磨国風土記』に戻ると、そこには7世紀後半の天智や天武朝の記事も見えるので(讃容[さよ]郡中川里)、先ほどの皇極元年にスサノオを奉斎したという興味深い記事、あるいは前述のスサノオの足跡を伝える神社伝承のどれかが採録されてもよさそうなものを、スサノオのスの字も出てこない。
なぜ、『播磨国風土記』はスサノオを隠す必要があったのか、あるいは推察通りであれば大己貴、スサノオの協同作業を大己貴、少彦根に変える必要があったのか。答はおそらく、『書紀』との整合性を保つためではなかったかと思われる。なぜなら、大己貴、スサノオとの協同作業と記せば、二人の世代差が親子程度内であることを露呈することになってしまうからだ。『書紀』は本文で二人を親子と明記しながらも(神代上八段)、その一書①には大己貴をスサノオ六世の孫とし、一書②には七世の孫ともして、二人の間におよそ一世紀以上もの乖離があるととぼけている。すなわち、『書紀』はその本文と一書とではまるで違った二人の時間差を示し、読者を困惑させているのであるが、それを『書紀』撰上五、六年前の『播磨国風土記』に実は二人は親子でしたとあまりにあっけらかんと明かして欲しくなかったのではあるまいか。苦心の一書を台無しにしないためにも。こう考えると、やはり、『書紀』と『播磨国風土記』とは裏で結びついているとしか考えざるをえないのである。
ところで、皇極元年の西国悪疫流行に話を戻すと、その二年後に今度は東国の方で疫病が流行したらしく、それがヤマトへ波及することを恐れてか、東国とヤマトとの中間近辺の静岡県藤枝市岡部町三輪に神(みわ)神社が勧請されている。由緒には、「皇極天皇三年四月、東国に疫病が起こり、これを鎮めるために意富太多根子(おほたたねこ)二十六代の孫三輪四位をして大神(おおみわ)神社の御分霊を祭祀させたのに始まる」とあり、ここでは大物主、すなわち大己貴が勧請されている。
このようにヤマト朝廷は国の東西で疫病が流行すると、それが中央へ波及することを恐れて、スサノオや大己貴を疫病退散の神として早くから祭祀していたのである。当然、祭祀される神は中央のみでなく、列島各地にも名が轟き、かつ信頼が寄せられている神でなければ人心は治まるまい。
スサノオと大己貴。二人が活躍した年代は推定では西暦150年を中心とした前後一、二世代。すなわち二人は倭国大乱の真っただ中の人物で、その大乱はスサノオ亡き後(あと)、大己貴が終焉させ、国造りを完成させた可能性が高い。疫病退散の神として列島東西に祭られたのもそうした名声が各地に語り継がれていたからに違いない。二人がまた、全国各地に医薬や温泉の神として祭られているのも同じ理由からと思われる。
この二人が列島各地を渡り歩いて国域を広げていった様子を『書紀』は大己貴、少彦名の国造りと表現しているが、その国造りの様子を「(少彦名が常世郷(とこよのくに)に至りましきのち)、国の中に未だ成らざる所をば、大己貴神、独りよく巡り造る」として結んでいる(八段一書⑥)。
『播磨国風土記』にも採録された大己貴、少彦名(少彦根)の国造りはその一片ではなかったか。それを、ここまで見たように播磨国内の神社伝承が強く示唆しているのである。換言すれば、神社伝承が『書紀』や風土記における中央の作為を正し、庶民から見た古代史を復元しうる大きな力をもっていることを強く示唆しているともいえよう。しかも、『書紀』やわずかに残存している風土記は、倭国全体のほんの一部しかカバーしていないが、神社伝承は全国津々浦々に残されており、全域をカバーしている。
以上のように、『播磨国風土記』と神社伝承の力によって、『書紀』に秘められた大己貴とスサノオの本質部分に相当程度肉薄できたと考える。そんな中、『播磨国風土記』で意図的に無視されているスサノオの足跡について、一点、解しかねていることがあるので今後の課題として触れておきたい。
それは播磨国西南部の讃容(さよ)郡におけるおびただしいスサノオ祭祀である。『兵庫県神社誌』(兵庫県神職会、昭和十三年)中巻の佐用郡には三十三社の神社が掲載されているが、これは明治三十九年の「一村、一社」の政令に基づき多くの神社が合祀されたあとの数で、それ以前にはこの十倍程度の神社が存在していたことが、同誌に記録されている合祀された神社名と祭神からわかる。それらをざっと見渡すと、不思議なことにそのおよそ三分の一以上の約百三十社がスサノオを祭る荒(こう)神社である。
その上、佐用郡にはなぜか、わがスサノオ=五男仮説ではスサノオと同体であるオシホミミ(吾勝勝速日天忍穂耳尊[あかつかちはやひあまのおしほみみのみこと])の祭祀も散見される。合祀後の三十三社中にも、二社の吾勝神社(内一社は吾勝速日( あ かつはや ひ )神社)があるし、二社とも他の吾勝神社との合祀とあるから、都合四社の吾勝神社があったことになる。加えて八幡神社や大避(おおさけ)神社にも吾勝神社を合祀したとあるので、計六社。さらに、江川神社や福澤神社、及び道祖神社には祭神としてオシホミミが祭られている。このようにざっとみただけでも、さほど広くない佐用郡のおよそ十社にスサノオ同体のオシホミミが祭られているというのはどうしたことか。ある意味では、オシホミミとスサノオとは異名同体とするわがスサノオ=五男仮説の傍証といえなくもないが、そのオシホミミは前述のように豊国(とよのくに)あたりにおけるスサノオの異名であった。ことによれば、そのあたりからこの地に移住した人々が少なからずいたのであろうか。
疑問は続く。荒神社の祭神は全国的にはホムスビやカグツチとされることが多いが、ここではなぜか目に付く限り、すべてがスサノオで、中には『古事記』で大己貴の父とされる天葺根(あまのふき ね )が合祀されている。天葺根の祭祀は出雲国簸川(ひかわ)郡の二社の境内社以外、私は知らなかったが、この地では荒神社以外に、たとえば佐用町三日月(みかづき)の八幡神社境内には天葺根を祭る三社の稲垣神社と一社の稲荷神社に合祀されているのを含め、ざっとみても八社ほどに天葺根が祭られている。もちろん大己貴の父は『書紀』や神社伝承ではスサノオであるので、『古事記』の天葺根は『書紀』のスサノオと同体であろうが、なぜここに突然、『古事記』でしか知りえない神が現れるのか。
このように、佐用郡とスサノオとの浅からぬ因縁が強く感じられるのであるが、今のところスサノオの足跡伝承が見つかっていない。一体、佐用郡でなぜこれほどスサノオの人気が高いのか。謎は昏迷の度を増すばかりであるが、一つのヒントになりそうなのが『播磨国風土記』讃容郡の鹿庭(かにわ)山(現佐用町大撫山(おおなでさん))の説明箇所に、「山の四面に十二の谷があり、みな鉄を産する」とあって、この地域と鉄との強い結びつきである。
そんなことから鍛冶技術にたけた出雲びとあるいは豊前の香春(かわら)あたりの人々がスサノオを氏神としてこの地に移住してきたという想像にかられなくもないが、今のところ決め手になる史料もなく、佐用郡にみられる一種異常ともいえるスサノオ祭祀の謎の解明は私にとって今後の検討課題の一つである。
さて、話を少彦名の考証に戻すと、やはりその正体はスサノオであったとしか思えない。『播磨国風土記』はそのスサノオを意識的に伏せて、かわりに少彦名を少彦根にかえて登場させている。しかしこれはまさに頭隠して、尻隠さずで、神社伝承の方からスサノオの正体があちこちに顕現しているのである。
以上、スサノオ、大己貴親子の足跡が、西日本の古代主要国、出雲、日向、播磨に色濃く残されていることがわかった。次節では、東日本の北部、これも古代の大国越(こし)に残る大己貴の足跡伝承を追ってみることにしよう。実はここでもスサノオ=少彦名が垣間見えていることを我々は知ることになる。
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