https://e-satoken.blogspot.com/2009/05/blog-post_27.html 【行く春や 鳥啼き 魚の目は泪 (芭蕉)】より
季節は初夏、すでに春は過ぎ、かつをの美味い季節である。
そんなとき思い出すのが、芭蕉のこの一句。『奥の細道』の最初から二番目にでてくる俳句である。芭蕉46歳のときの旅だが、現在の年齢でいえばもう60歳を過ぎての旅立ち、と考えていいだろう。
『奥の細道』冒頭の文章はいまでもソラで暗唱できる。暗唱というのはたいへんよい教育だといえよう。よい日本語の文章のリズムをカラダに沁み込ませることができるから。
徒然草でも、方丈記でも、平家物語でも、源氏物語も、伊勢物語も、みなもちろんいまでも冒頭の文章は暗唱可能だ。百人一首も高校時代暗記させられたが、いまでは上の句と下の句がただちに結びつかなくなってしまっているのはまことにもって残念だ。正月に歌留多しなくなって久しいから仕方ない、か。
暗唱は英語でも、それ以外の言語でも同様だ。極端にいえば、トロイを発掘したシュリーマンのように、本をまるごと1冊を暗記してしまうのが、語学上達の秘訣である。『古代への情熱』にその方法で古代ギリシア語含めて数ヶ国語をものにしたことが書かれていたのは、少年時代に読んで強く印象に残っている。とくにロシア語が自分の商売拡大の上で大いに役立ったことが強調されていた。
さて、表題の句がでてくる前振りの文章は以下のとおりだ。
弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明(ありあけ)にて光おさまれる物から、不二(ふじ)の峰幽(かすか)に みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云(いふ)所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行春や鳥啼魚の目は泪(ゆくはるや とりなき うをのめはなみだ)
是を矢立(やたて)の初(はじめ)として、行道(ゆくみち)なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後(うしろ)かげのみゆる迄はと見送なるべし。
(出典)Japanese Text Initiative および 『芭蕉 おくのほそ道』(萩原恭男校注、岩波文庫、1979)
(付記)Japanese Text Initiative は、バージニア大学図書館エレクトロニック・テキスト・センターとピッツバーグ大学東アジア図書館が行っている共同事業だ、とウェブサイトにある。アメリカの大学が日本文学のデータベース化をすすめているとはねえー、国文学は専門ではないので知らなかったが、驚きだ)
陰暦3月27日は、太陽暦5月16日だと岩波文庫本の脚注にあるから、ちょうど今ごろの時分である。芭蕉は深川の芭蕉庵から舟で隅田川を約10kmをさかのぼり、千住まできて陸にあがったらしい。そこで詠んだのがこの句だが、意味は素直に読めば難しくない。英訳を示しておこう。
Spring passes
and the birds cry out ---
tears in the eyes of fishes
(出典)Narrow Road to the Interior, translated by Sam Hamill, Shambala Centaur Edition, 1991
高校時代、面白い解釈をしたヤツがいたのを思い出す。いわく、芭蕉は「魚の目」が痛くて泣いたのである、と。いわれてみれば面白いが、どうなんだろうかねー? たしかに魚の目は痛いが、これは「トンデモ」解釈としかいいようがないだろうなあ。
これも同じく高校時代だが、日本史の授業で聖徳太子が隋の皇帝に親書を送った、という有名な史実を習ったあとの休み時間のことだ。この親書で聖徳太子は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」と書いているのだが、「つつがなきや、っていうのはツツガムシがいないから痒くないということなんだぜ、えーほんとかよー、なんて会話が交わされたのだが、こちらは必ずしも「トンデモ」でもないようだ。とはいえ、そうではないという主張も優勢ではある。
まあ、民間語源説というのは話のネタとしては面白いが、信憑性については疑問、というケースが多いものだ。
同じく文学作品の非常識な解釈もまた面白いことは面白いのだが・・・書かれた瞬間から作者の手を離れてしまうのは、けっして文学作品だけではない。難しいねー。
https://e-satoken.blogspot.com/2010/09/10.html 【庄内平野と出羽三山への旅 (10) 松尾芭蕉にとって出羽三山巡礼は 『奥の細道』 の旅の主目的であった】 より
これまでも何度も書いてきたが、松尾芭蕉は、『奥の細道』の旅において、出羽三山を巡礼している。元禄二年(1691年)のことである。旧暦6月3日に羽黒山に入っている。
<羽黒>
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉(ずし・さきち)と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎(やど)して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊にをゐて誹諧興行。 有難や雪をかほらす南谷
五日、権現に詣(まうづ)。当山開闢(かいびやく)能除大師(のうぢょたいし)は、いづれの代の人と云事をしらず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、黒の字を里山となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。 出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍(はべる)とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にしてめで度御山と謂つべし。
八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに 道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上にいたれば、日没て月顕る。笹を鋪篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。
谷の傍に 鍛治小屋と云有。此国の 鍛治、霊水を撰て爰に潔斉して劔を打、終(つひに)「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍利の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。
涼しさや ほの三か月の 羽黒山 雲の峯 幾つ崩て 月の山
語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな 湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良
(出典)Japanese Text Initiative Oku no Hosomichi および 『芭蕉 おくのほそ道』(萩原恭男校注、岩波文庫、1979) 太字ゴチックは引用者=私)
荒俣宏は『「歌枕」謎ときの旅ー失われた幻想の地へ-』(荒俣宏、光文社知恵の森文庫、2005)のなかで、「芭蕉が出羽三山の拝礼を旅のピークに設定した」のではないかという仮説を示している(P.220)。
もしそうであったとすれば、芭蕉の『奥の細道』の旅の意味を考える上で、きわめて重要な指摘だといえるだろう。出羽三山は「死と再生」の重要な霊場であったからだ。「死と再生」といえば、小栗判官蘇り伝説の熊野もそうであるが、出羽三山のほうは、死んで再び生まれる(新生する)という性格が強いようだ。芭蕉もそこを狙ったのか。
たしかに、『奥の細道』を最初の1ページからたどってみると、出羽三山の巡拝がピークであり、クライマックスであることは理解できる。
出羽三山とその後に続く象潟(きさがた)訪問にいたる前半と、それ以降の後半の密度がかなり違うことに気がつかされるからだ。前半は旅の喜びと決死の覚悟、悲壮感がないまぜになった複雑な感情に彩られているのに対し、後半はとにかく目的を達成して、旅をこなしているという印象が否定できなくはないからだ。
前半で詠んだ俳句のほうが有名なものも多い。もちろん後半に詠んだ俳句や旅のエピソードなど面白いものも多いが、感情の陰翳という点では前半が勝っているような気がする。後半は、上方に近づくにつれて、故郷に帰ってきた安心感(・・芭蕉は忍者の里・伊賀上野生まれ)のようなものが感じられる。
修験道にも造詣の深い日本宗教研究者の久保田展弘は、『日本の聖地-日本宗教とは何か-』(久保田展弘、講談社学術文庫、2004 単行本初版 1994)のなかで、このようにいっている(P.322~323)
全行程二千四百キロを百五十六日かけて行脚した『奥の細道』行で、芭蕉は三山滞在中に四句を記している。先の一句(・・引用者注;「27 語られぬ湯殿に濡らす袂かな」)と左記の三句である。
24 有難や雪をかをらす南谷
25 涼しさやほの三日月の羽黒山
26 雲の峰幾つ崩れて月の山
片雲の風にさそわれて旅だった『奥の細道』行の全旅程に五十句を配した芭蕉は、出羽三山での四句を、出発に際して詠んだ「草の戸も住替る代ぞひなの家」から数えて、ぞれぞれ二十四・二十五・二十六・二十七句目に当てている。
・・(中略)・・
芭蕉の『奥の細道』行脚にとって、出羽三山の巡礼は、あるいはその時代における体験修行であったと解することもできるかもしれない。私は、俳人芭蕉の旅を支えていたものは、一貫して修験者的な意欲と感性にあると考えている。その芭蕉が出羽三山で、五十句の折り返し点に配した四句を詠み、そのなかに「雲の峰幾つ崩れて月の山」などの、森羅万象を内面に受けとめたような句のあることは、芭蕉に三山詣での体験の反映が、感性深くにまであったと見なけれならない。
木綿しめ(注連)をかけて、強力(ごうりき)に導かれ、「雲や雫山気のなかに、氷雪を踏んで登ること八里ばかり、さらに日や月の通路である雲関に入るかと疑われるほど、呼吸も苦しく、身もこごえ、ようやく頂上に登ると・・・・・」と月山登拝の苦しさを記したが、それはまさに峰入り修行の山駆けを体験しているに等しい修行ぶりだった。
(注:引用は講談社学術文庫版から。太字ゴチックは引用者=私による。また芭蕉の句の前につけたナンバリングは私による)
文学作品としての『奥の細道』は、この旅が終わってから3年後に亡くなっているので死後の出版になる。旅が終わってから3年近く推敲に推敲を加えた上で完成した文学作品である。芭蕉はこの作品を、精緻に構築していたことが、久保田氏の記述から知ることができる。
なお、芭蕉一行は、尾花沢から、「閑かさや岩にしみ入(いる)蝉の声」で有名な立石寺を経て、最上川を下るルートで羽黒山に入っている。月山から湯殿山まで往復しているようだ。健脚である。もちろん強力に荷物は背負わせていたようであるが。
われわれが「山伏修行体験塾」で着た道着に宝冠の行者姿(・・この格好については、(6) に掲載した私のポートレートを参照)は、芭蕉も同じ格好で羽黒山や月山に登ったことを知れば、『奥の細道』の読みも深まるというものだろう。
芭蕉一行は、月山山頂には日没に合わせて登ったようにも思われる。月山山頂から真西は日本海、日本海に沈む夕陽をみながら、月山において東の空に月を見る。
月山が山中他界であったことを考えれば、神秘的で幻想的というだけにとどまらず、信仰を感じる瞬間であったのだろうと想像している。
なお、芭蕉が月山山頂で宿泊した藁葺きの小屋は、いでは文化記念会館に模型が展示されており、内部に入って当時を体感することができる。山頂の気温はそうとう下がったことであろうから、芭蕉たちの旅もなまはんかなものではなかったであろう。
芭蕉一行は、『奥の細道』には直接書かれていないが、羽黒山から月山山頂を経て湯殿山に下ったあとは、また同じ道を通って羽黒山に戻っている。
当時はもちろん、女人禁制の聖地であったことを記しておく。
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