https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/20190402/ 【芭蕉 『俳文学大辞典』明治書房】
より
俳人。【姓名・号】松尾宗房。幼名、金作。元服後、通称、甚七郎又、忠右(左)衛門ともいったと伝える。俳号は、はじめ実名を用い、ついで桃育・芭蕉(ばせを)に改めた。別号に釣月軒・泊船堂・夫々軒・坐興庵・栩々斎・華桃園・芭蕉洞・素宣・風羅坊などがある。
【生没】
正保元年(一六四四)伊賀上野赤坂町にて出生、元禄七年十月十二日、大阪で没。享年五十一。
【墓】
大津市膳所義仲寺。
【肉親】
父は松尾与左衛門(明暦二年二月十八日)歿。母はもと伊予宇和島の産で、百(桃)地氏の出であったといわれ、天和三年(一六八三)六月二十日没。祖父の代までは柘植に住み、与左衛門の時、上野に移り住んだ。芭蕉には兄一人(半左衛門)・姉一人(山岸氏に嫁ぐ)妹が三人があった。妹のうち二人は片野氏及び堀内氏に嫁ぎ、未妹はのち長兄半左衛門の孝女となった。芭蕉には又市衛門という次兄があったとも伝えるが、信ずべきではない。又右衛門は半左衛門の実子で、この文右衛門が元禄十二年に没した、ために、末妹(おヨシ)を養女にしたのである。
一説によって、芭蕉の父又は兄の名とされる儀左衛門は、おヨシの婿の名を誤り伝えたのである。芭蕉には、後に尼となって寿貞と称した内妻があった。次郎兵衛は二人の間に儲けられた子である。外に、まさ・おふうの二女も芭蕉の娘と考えられるし、理兵衛も多分芭蕉の子としてよいであろう。
ただしこれらについては異説もある。
片野望翠は義弟、山岸半残は甥であった。天野桃隣及び望月野也は肉縁というが、明らかでない。松村猪(伊)兵衛は寿貞方の親族であろう。
【芭蕉 師承】
俳諧は季吟の門と伝えられる。季吟は芭蕉の主君蝉吟の師で、その関係から季吟に近づいたものと考えられる。季吟には和学についても教を受ける所があったに相違ない。
禅の師は仏頂和尚。医は本間道悦に、書道は北向雲竹に、画は門人許六について学んだ。漢学を田中桐江に、詩を伊藤坦庵に承けたとする説は、なお考えねはなるまい。坦庵との関係は、「芭蕉子招二余輩一醼二東郊別業て」と前書する坦庵の群が発見されて以来明るみを得たかの如く見えたが、その後この芭蕉子が京土着の別人と考えられる資料が出現するに及んで、再び手懸りを失ってしまった。
【芭蕉 閲歴】〔延宝以前〕
幼少のころ召し出され、二歳年長の伊賀上野の藤堂主計良忠(蝉吟)に仕えた。覚文六年(一六六六)の四月主を失い、六月その位牌を高野山報恩院謂棚院に納めるに当り使者をつとめたと伝えられる。その後、致仕を乞うたが容れられないので、間もなく無断で出奔するに至った。その理由については、二三の所伝があるが、すべて伝説の域を出ない。出奔後は、京に上って諸学の修業に努め、一方、血気に任せて時には遊里にも足を運んだらしい。寿貞との間に交渉を生じたのは、仕官時代の末と考えられるが、あるいは在洛時のことであったかもしれぬ。
俳諧には寛文初年以来従ったと推定され、同四年の『佐夜中山集』に初めて句が見える。
覚文十二年正月、郷里の天満宮に奉納すべく『貝おほひ』を編み、その稿本を携えて東下し、江戸の書肆から上梓した。この東下の同伴者は藤堂佐渡守の臣向井八太夫(俳号、卜宅)であったらしく、その紹介で本小田原町の杉風(さんぷう)を知ったようである(梅人『桃素伝』)。なお、同伴者及び最初草鞋を脱いだ先についてはト尺とする説もある。
【芭蕉 閲歴】〔延宝・天和〕
杉風家に落着いた芭蕉は、その後、本郷・浜町・本所高橋等に転々と居を移し、杉風・卜尺らの斡旋によって生計の途を講じたらしい。小石川関口町の水道工事に関係したのも当時のことであろうし、文、高野幽山の執筆を勤めたと伝えるのが事実であれは、やはり東下後間の無い頃のことであったと考えられる。
延宝四年(一六七六)六月二十日頃に帰郷、七月二日猶子桃印を同行し(と推定される)東下の途についた。延宝八年の冬、深川六間堀に移り、翌九年(天和元年)の春、門人李下から芭蕉を贈られた。芭蕉庵の庵号がある所以である。このころまた仏頂和尚に参禅したと推定される。
翌天和二年(一六八二)十二月十八日、駒込の大円寺を火元とする大火のため芭蕉庵類焼。高山麋塒に伴なわれて甲斐の谷村に赴いたといい、文仏頂和尚のゆかりによって甲斐の六祖五平の許に身を寄せたと伝えられるのは、その直後、天和三年早々のことであろう。三年五月江戸に帰り、しばらく船町に仮居し、冬、再興の芭蕉庵に入った。
延宝・天和期は、俳諧の面からみると、談林調の俳諧に心酔した延宝六年頃までと、老荘への関心を示した同七・八年頃と、蕉風の曙光がさしそめ、それが次第に形を整えていった同九年以後との三つに細分することができよう。
芭蕉における談林的な色彩は、延宝三年五月に東下中の宗因を中心とする百韻に一座して以来度を加えたようで、翌四年春の信章(素堂)との両吟二百韻、五年冬から六年春へかけての信章・信徳との三吟三百韻は、この期間における代表的な作品であった。
芭蕉が俳諧の点者として立ったのもこのころらしく、七年刊の『富士石』に「桃膏万句に」(万句は宗匠としての立机記念と詞書する等窮の句が見える。『桃青伝』によると、梅人は六年春の桃青歳旦帳を所持していたというから、芭蕉の立机はあるいは五年にまでさかのぼり得るかもしれない。なお、この期間の仕事としては、六年十月に前後十八番の句合に判詞を書いている事も忘れてはならないであろう。芭蕉の老荘思想は、延宝八年秋 刊の『田舎句合』『常盤屋句合』に最も明らかであるが、それは恐らく前年あたりから徐々に培われたものと推定される。芭蕉における老荘への傾倒は、惟中などの場合にくらべて、談林的なものに対する訣別の第一歩たる所に特色があった。
さて、八年春には一門の実力を世に問うべく『桃青門弟独吟二十歌仙』を上梓した。芭蕉一派の世間的な地位を築きつつあったさまが想察されるのである。延宝九年には、蕉風俳諧の初声と称せられる『俳諧次韻』を成就し、また言水編の『東日記』に、例の「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」以下、談林と明らかに一線を劃する発句を多数発表した。この以前からきざしが見られた漢詩的な表現及び内容の摂取は、このころから次第に著しさを加え、二年後の『虚栗』に至って最も高潮に達した。この書の上梓されるに及んで、蕉門一派の勢力はもはや、ほとんど江戸俳壇の主流となった観がある。
【芭蕉 閲歴】〔貞享・元禄〕
元禄七年に他界するまでの十一年は、別に「七部集」時代ともいうべく、芭蕉の俳諧が進展し、円熟し、且つ枯淡への深まりを見せた時代である。
貞享元年(一六八四)八月門人千里を伴なって故郷への旅に発足し、
貞享二年四月末に帰庵した。この九箇月間の紀行が「野ざらし紀行」である。元年の十月には名古屋に在り、約三箇月滞在して『冬の日』の五歌仙、その他の適句があった。帰素直後の六月二日、出羽尾花沢の清風を迎えて古式の百韻一巻を興行、
貞享三年正月には其角の「初懐紙』の百韻に一座し、前半の五十韻に注を加えた。この年、又、蕉風開眼の作として名高い「古池や」の句が成ったと推定され、七部集中第二の集である『春の日』も出板せられた。
貞享四年八月、曾良・宗波と共に常陸鹿島に月を賞して「鹿島紀行」があり、十月には『続の原』の句合冬の部に判詞をしるし且つ跋文を草した。その月二十五日帰省の途につき、翌元禄元年(一六八八)八月末、越人を伴ない、木曾・更科を経て江戸に帰着。「笈の小文」「更科紀行」の二篇は当時の紀行である。九月十日及び十三日に、素堂亭残菊の宴、芭蕉庵月見の宴が、それぞれ催され、十二月十七日には門下七人と共に深川入貧の句があった。かくてその年も暮れ、元禄二年三月初旬、輿羽行脚に旅立つため芭蕉庵を人に譲り、杉風の別墅に移った。こうした勿忙の間に認められたのが『阿羅野』の序でみる。同月二十七日曾良を伴って発足、陸奥・出羽・三越を遍歴し、九月六日伊勢の遷宮を拝すべく美濃の大垣から揖斐川を舟で下った。この紀行が「奥の細道」である事は、あらためていうまでもなかろう。遷宮式拝観後、九月下旬に帰郷して約二箇月滞在、十一月下旬路通と共に奈良の祭礼を見、京都によって去来亭で鉢叩を聞き、大津に智月を訪ね、膳所で越年した。
元禄三年正月上旬伊賀に帰り、二月伊勢に赴いた外は、三月中旬頃まで郷里に在って、門下との唱和に忙殺されていた。その後、再び膳所に出て、四月初旬には石山の背後国分山の幻住庵に入った。在庵中、京の去来・凡兆と連絡して『猿蓑』編纂の議が進められた。八月十日前後に下山し、膳所義仲寺境内の庵に移った。「幻住庵記」の成ったのはこの頃であろう。九月未帰郷、十二月には京に在り、歳末湖南へ出て、大津の乙州新宅で翌四年の春を迎えた。なお、三年中に七部集中の『阿蘇野』『ひさご』が刊行された。前者は『阿誰軒俳書目』によると、前年に成り、上梓は遅れてこの年に持ち越されたらしい。
元禄四年正月初め伊賀へ赴き、三月末には文大津に在った。四月十八日から五月四日まで洛西嵯峨の落柿舎に滞在して「嵯峨日記」が成った。その後、京に出て、曾良の『近畿巡遊日記』から知られるように、諸門人と行動を共にし、六月十日大津へ出た。七月三日に『猿蓑』表し刊行。八・九両月は京・湖南の間を往来し、九月末帰東の途につき、十月末、三年ぶりで江戸に入った。橘町の仮居で越年。
元禄五年五月新築成った芭蕉庵に移り、「芭蕉を移す詞」の文があった。この年近隣に住む素堂との往来最もしげく、また八月九日には許六入門の事があり、(酒堂)を迎え、同居させている。ついで九月には東下した珍碩は
翌六年一月未の西帰まで庵に六年の春、多年手もに置いて面倒を見た猶子桃印に先立たれ、一方、寿貞の健康にも憂うべきものがあり、自らも世に倦んじて、初秋「閉開之説」を書いて客を謝した。しかし、この間も、春には出羽不玉の独吟歌仙に評語の筆を執り、江戸詰めの大垣藩士達と席を重ね、五月には彦根へ帰辞する許六には花む「紫門辞」を餞(はなむ)けし、七夕には雨星を弔う句文をものし、八月嵐蘭及び其角の父東順の死を悼んで「悼嵐蘭詞」「東順伝」等を草し、秋東下した史邦その他と一座して二三の歌仙を巻き、十月以降も素堂亭残菊の宴、野坂らとの唱和、藤堂玄虎の旅寓における唱和等があって、この年全く萎縮沈滞していたのではない。
元禄七年(一六九四)春は野妓・孤屋・利牛らと再々会合して、『炭俵』(奥付六月)所載の連句数巻があったが、五月八日次郎兵衛を連れて東海道を酉へ旅立った。名古屋・伊勢を経て同月二十八日帰郷。
翌閏五月十六日伊賀を立って近江に出で、二十二日京に赴き、六月上旬まで落柿舎に滞在した。
六月八日には江戸に残してきた寿貞の訃を知り、猪兵衛へ発てて痛嘆の手紙を送っている。
六月中旬以後は大津・膳所に在り、七月五日再び京桃花坊の去来本宅へ戻り、ついで中旬盆会を営むため帰郷した。
その後、約二箇月郷里に在って門人らと連句を応酬し、中秋の夜は門人らを兄の屋敷内に新築された無名庵に招いて月見の宴を催し、又、支考を相手に『続猿蓑』精選の事に当ったり、自撰『笈の小文』(紀行「笈の小文」とは別本)の編纂を進めたりしている。
九月八日、子の次郎兵衛と甥の又右衛門、及び支考・惟然を具して大阪へ向けて出立、途中奈良に一泊して重陽の佳節を迎えた。
大阪では酒堂亭、ついで之道亭等を宿とし、衰老の病身を押して諸所の排席に臨んだが、二十九日夜から発した泄痢の悩みが重ったので、門人らは十月五日南御堂前の花屋仁左衛門方に師を移し、急を湖南・伊勢・尾張その他の門人へ告げるに到った。かくて、急遽枕頭に集まった京・湖南の人々や旅中たまたま師の大事を聞いて馳せつけた其角らの嘆きのうちに、十二日午後四時頃ついにこの世を辞したのである。
遺骸はその夜淀の川舟で伏見に選ばれ、遺言通り膳所義仲寺の境内に葬られた。他界前後の模様及び追善俳諧の次第は、没後程なく編纂された『枯尾花』『芭蕉翁行状記』の二書に詳しい。
【人物】
芭蕉は常に前進をつづけ、且つ又みずから荊蘇の道を切り拓くものであった。彼が元来才の人であったことは、『貝おほひ』や談林期の連句が示す所だし、多感な青年期を送ったことも、寿貞との交渉や『貝おほひ』の判詞から想察されるであろう。けれども、もしも彼が才分や感性にはかり甘えたのであれば、今日知られるごとき存在は恐らく有り得なかったと思う。寛文の後半期、彼が京に在って諸学を修めたと推定される事は前にも述べた通りだが、更に延宝末には老荘に惹かれ、天和・貞享の頃は禅に傾いた。文、他界に先立つ十五年間は西行・俊成・杜甫・白楽天・李白その他の高風に憧れを燃やしつづけている。それと言い、これと言い、彼の人間形成にあずかり、その詩に奥行と幅を齎すものでなければならなかったのである。ことに禅との結びつきは、最も大きく彼に投影するものであったと思われる。芭蕉は一時禅僧たらんとした。そうした傾倒が、その精神の据え方に無関係であるわけはなかろう。彼が旅人芭蕉といわれるほど頻りに旅に出たのも、一所不住の境涯に身を置くことによって魂を無垢のままに置こうとした禅的心法のあらわれに外ならなかったと解せられるし、彼に認められる中世的な色彩も、その出自や私淑する西行・宗祇らの影響以上に、彼の心を貿ぬくものが禅であったことに由来するようである。ともあれ、芭蕉における禅が、宗因などの場合に比べて、一層体内に根を下すものであった事は疑えない。芭蕉に無常観の濃厚であった事も、かくてまた必然であったといえよう。
ところで、彼の無常観については、それが隠遁退嬰を招来するものでなく、禅家にいう「愈々充足」の果敢な方角に嚮うものであったことを承知して置かねはなるまい。彼の生情は、形式的には一応遁世的なものとも見える。しかし、実は芭蕉ほどに現実と対決し、そのうちから詩を掴み取るべく苦闘した例は、他に求めがたいのではないか。芭蕉は物質的なものの代償において、純粋で美しい詩を獲得しようとした。彼が乞食たらんとし、肉食の美味を断ったのも、つまりはそういう意味からなのである。一体、芭蕉は蒲柳の賀で、持病に苛まれがちであった。しかもい謂う所の芭蕉庵は、深川の陋巷にあって、手狭であるにもかかわらず、二三の人の雑居さえ許していたらしい。また寿貞との間にできた子供は三人もしくは四人と推定され、ここでも芭蕉は世の父親同様、家族の生清に関して煩墳な心労を重ねねばならなかったのである。にもかかわらず、彼は芸術の新と真の追求に身を削ぎつづけ、そして見事な成果をかち得たのであった。彼が一部において考えられているごとき隠遁詩人などでない事を銘記すべきであろう。芭蕉には求道者の悌があるとされるが、上述した所からすると、芭蕉の歩みは、求道者と称せられる人々のそれ以上に、困難至極なものであったと推測されるのである。こうして芭蕉が自ら「誠を勤」めぬく人であったことは明白だが、更に文、彼は指導者としてもほとんど難点の無い人物であったといえる。その寛厚・温情の人となりは、知られる如き荷兮・越人・路通らとの交渉からも承認されるであろう。大沖の乙州は師の他界に際して「皆子なりみのむし寒く鳴尽す」と詠んでいるが、この上五文字こそ、芭蕉を慈父として仰ぎ見た門下一統の気持をよく代弁するものに相違なかった。
芭蕉の臨機説法については夙に定評がある。芭蕉はいつでも門人各自に対して、その技柄や特色に応ずる適切な助言を与えて向上の一緒に就かせたのである。
なお、その卓越した指導力を語る料の一つとして、連句の捌きについても言及することを忘れてはなるまい。芭蕉参加の有無はしばしば連句一巻の出来ばえを左右した。芭蕉の同席によって、門人らの連句は別人のように精彩を加える
ことができたのである。まさに恐るべき指導者といわねばならないであろう。
【芭蕉 閲歴】【俳風】
芭蕉の俳風は一般に蕉風と称せられる。但し、古風や談林風に専念した時代は格別の特色を見ないから、ここでは除外されねばならない。その特色がやや明らかにされるのは『次韻』以来で、その後『虚栗』を経過し『冬の日』に至ってようやく蕉風は確立し、俳諧は和歌や連歌と比肩できる実質を具えるようになった。更に二年後の『春の日』になると、漢詩調に依存して談林的卑俗さから免れんとした『冬の日』当時における無理な姿勢が影を潜め、湿籍平明な表現のうちに詩情を寓するものになり得ている。一体、蕉風の推移変遷については、十一変論・七変論・五変論等があるが、要約していえば、『冬の日』『猿蓑』『炭俵』をそれぞれ代表とする三風体の推移に帰着させることができよう。『猿蓑』の風体は、雅醇・重厚・幽玄の味を追求し蕉風俳諧において一つの頂点をなすものと見られるし、『炭俵』は「別座舗』や『続猿蓑』等と同様、芭蕉が晩年特に心を傾けた軽みの風体を示すものであった。こうして蕉風の俳諧は、時期によって必ずしも一様でないが、大局的には、中世文芸の伝統を承けて空白を尊重し余情美を探ると共に、近世の文芸に共通する庶民的な性格を多分に持ち、それを見事に活かした詩であると言えよう。蕉門において俳諧は「俗談平話を正す」詩として理解されたのであるが、それはつまり、歌人や連歌師の看過した通俗卑近のうちに詩美を捉えるのをもって俳諧とすることに外ならないのである。芭蕉の俳諧が日本詩の分野に新種異香の花を辞すものであったことは、かくて明白と言わねばなるまい。蕉風俳諧の理念を示す御としては、「さび」「しをり」「ほそみ」及び「不易流行」等の名目がしばしばあげられ、又その連句の特色は一般に「匂付」の名で呼ばれている。
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