空のユートピア

https://note.com/iwnt22/n/n2550e9973526 【第6回 国柱会 宮沢賢治と石原莞爾①】より

宮沢賢治、石原莞爾の国柱会入信

宮沢賢治の法華経信仰は島地大等と共に国柱会創始者 田中智学(1861―1939)の影響が大きい。宮沢賢治は石原莞爾と共に生涯国柱会の会員であった。共に大正9年の信行員入信であったと考えられる。

石原莞爾(いしわらかんじ)

石原莞爾は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満州事変を起こした首謀者。二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献した。

後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。墓は、山形県遊佐町に安置されている。

毀誉褒貶が激しく、その意味においては幕末北越戦争で長岡藩を指揮した河井継之助を彷彿させる。事実陸軍大学校の卒業論文で、北越戦争の河井継之助を選んだという。河井継之助の名言「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ」の通りの生涯を送ることになった。

国柱会創始者 田中智学

その二人を入信させた、国柱会田中智学をみていこう。

明治~昭和期の宗教家。江戸・日本橋の生まれ。本名巴之助(ともえのすけ)。鐘宇(しょうう)、巴雷(はらい)と号した。父の医師多田玄竜(ただげんりゅう)は、法華信者。幼にして父母を失い、東京・江戸川一之江の日蓮宗妙覚寺で得度、二本榎大教院などに学んだが、やがてその教学を疑い、還俗して1880年(明治13)に横浜に蓮華会をおこして祖道復古、宗門改革を目ざした。

1884年には東京に進出して在家仏教の立場から立正安国会を創立、1887年には日本最初の仏教結婚式を制定、また教学の府として鎌倉に師子王文庫を設立する。さらに1914年(大正3)には、有縁の諸団体を統合して教行を統一して、檀家制度によらない在家信者の組織である国柱会を創始した。この間、日蓮主義組織教学を大成。また、宗教新聞である天業民報を発刊。文学、演芸の分野で布教に尽力した。このことをみれば、政治、軍事の面では石原莞爾が発展させ、文芸では、宮沢賢治が発展させたといえるのではないだろうか。

智学の編著は『日蓮主義教学大観』『本化聖典大辞林』など200種に及ぶが、なかでも『宗門之維新』に啓発された高山樗牛(ちょぎゅう)をはじめ、石原莞爾、宮沢賢治、中里介山ら多くの人々を感化した。なかでも高山樗牛、石原莞爾は山形県鶴岡市出身である。

ここで、注目したいのは宮沢賢治が大正九年十月頃「国柱会の信行員となった」ということである。 会員として教団の活動に取り組むのは「研究員」「信行員」である。

入会者は最初に研究員とし 修行が確立された教団から認められると、信行員に昇格した。宮沢賢治が信行員として入会可とされたことを考えると、日蓮主義に関する 一定の信仰と理解があったと推測できる。これは石原莞爾も同様である。

智学逝去後の国柱会

今日蓮として著名であった智学が逝去してからは、急速に勢いを失っていった。筆者としては意外であったが、国柱会は現存している。場所は、東京都江戸川区一之江6丁目19番地18号

宗教法人 国柱会 www.kokuchukai.or.jp

老人ホームを経営し、宮沢トシの分骨を含め合祀された方を妙宗大霊廟で祀っている。現在国柱会は穏便になり、石原莞爾、宮沢賢治を偲ぶ団体となっている。

最後に

なかなか整理はつかないが、一度纏めてみることにした。国柱会への信仰を一時期のファナティックなものとしたい読者も多いと思うが、その一時期に何が起きていたのかを見定める必要があると考える。

また対比として石原莞爾をとりあげることは、改めて宮沢賢治を見つめることになりはしまいか。今回は簡単に事項の整理に留め推察は再度改めて取り上げたい。両名共に考えられるのは、未だ進まない日蓮主義の理解ではなかろうか。ゆっくりと取り組んでいきたい。

参考文献

『日本大百科全書』(ニッポニカ)小学館

『田中智学先生略伝』田中芳谷著(真世界社・師子王文庫)

『日蓮主義とはなんだったのか』大谷栄一 著 講談社

『宮沢賢治全集』ちくま文庫

『イーハトーブと満州国』宮下隆ニ 著 PHP研究所


https://www.asahi.com/articles/ASS9D42Z0S9DUJUB00LM.html 【宮沢賢治と石原莞爾 2人が夢見たユートピア 明大の岩野教授に聞く】より

 【岩手】北東北の詩人・宮沢賢治と、満州事変の首謀者とされる関東軍の参謀・石原莞爾。詩人と軍人という対極的にも見える2人には、いくつもの共通点が存在している。その共通点と差異について、明治大学の岩野卓司教授に聞いた。

 2人の共通点は?

 いずれも東北出身で(石原は山形出身)、日蓮宗の熱心な信徒でした。共に田中智学の影響を受けて1920年、彼が作った在家団体「国柱会」に入会しています。入会後は日蓮の教えに基づいて平和な世界を希求し、それぞれの「ユートピア」を目指します。

 国柱会とは?

 明治政府は天皇を中心とした国家体制を整え、神道を国の宗教の中心に据えました。仏教は迫害され、寺院が破壊される「廃仏毀釈(きしゃく)」運動が起きたため、天皇制と親和的な立場を模索する宗派が増えていきます。

 一方で、日蓮宗は元々、戦闘的な宗派です。「折伏(しゃくぶく)」という概念があり、相手の意見を認めず、論破して改宗させ、日蓮の教えを広めていく。

 田中は、そんな時代の流れである天皇制と、攻撃的な日蓮の教えを融合し、日本を中心とした世界の統一を目指す考え方を打ち出します。第2次世界大戦での日本のスローガンに「八紘一宇(はっこういちう)」がありますが、これも田中の造語です。「世界が一つの屋根の下で一緒になる」という意味で、侵略戦争の肯定にもつながりかねない考え方です。

 田中の思想を石原は武力で実現しようとした?

 そう思います。石原は陸軍随一の鬼才と呼ばれ、関東軍の参謀として満州事変の計画を立案します。柳条湖で鉄道を爆破し、それを中国軍のせいにして兵を動員すると、周到に計算を尽くしたやり方で、中国東北部に満州国を建設します。

 彼はそこを武力ではなく徳によって統治する「王道楽土」と呼び、日本、中国、満州、朝鮮、蒙古の各民族が手を取り合って生きる「五族協和」の精神を掲げます。

 同時に「最終戦争」を見据えます。

 石原は当初から「最終戦争」の構想を抱いていました。日本が満州を領有し、工業力を高めて国力を蓄え、最終的に対米戦争に勝利するというプランです。著した「最終戦争論」では、一瞬で敵の首都を廃虚としてしまう、超音速の航空兵器や核兵器、大陸間弾道ミサイルなどの登場を予測しており、その先見性には驚かされます。

 一方で、世界の全面戦争とは、まさに折伏なんだ、ということも言っており、なぜ合理的な判断をすべき軍人が、宗教的な考え方と結びついているのか、疑問です。

 彼の中にはまず国柱会的な理想があり、それを軍事的な理由で正当化していったのではないかと思います。

 一方、賢治が目指したユートピアは?

 賢治も最期まで国柱会の会員でしたが、彼の著作には天皇崇拝や侵略戦争というものは出てきません。代わりに「イーハトーブ」という、独自の理想郷を作品の中に作り上げます。

 彼が目指したユートピアの特徴は、異界との交流です。亡き妹を嘆く詩集「春と修羅」。亡くなった友と銀河を旅する「銀河鉄道の夜」。生者と死者の交流だけでなく、「セロ弾きのゴーシュ」や「なめとこ山の熊」などには、人間と動物との交流も多く描かれています。「イーハトーブ」の住人には、日本人のみならずゴーシュのような人、さらには人間のみならず動物、植物、異界の民がいるのです。

 賢治はおそらく、仏法が提唱した「世界の平和」を、人間や動物、植物を巻き込んだ形で実現しようとしたのではないでしょうか。

 日本や天皇が中心ではなく、人間さえも中心ではない世界。万物に神や精霊が宿るというアニミズム的な考え方によって構築されているからこそ、彼のユートピアは今も多くの人に支持されているのだと思います。


https://sauvage.jp/activities/3119 【明治大学リバティアカデミー講座「日本人の魂の古層を探る」レポート(3):「石原莞爾から宮沢賢治へ ー古層をめぐって」(岩野卓司教授)】より

野生の科学研究所に関わりの深い先生方が登壇する、2015年度明治大学リバティアカデミー講座「日本人の魂の古層を探る」。その中から、特に研究所に関わりの深い先生方の登壇回レポートをお届けしています。今回は、7月1日に開催された、明治大学法学部教授 岩野卓司先生の講義「石原莞爾から宮沢賢治へ」をレポートします。岩野さんは、フランス現代思想、精神分析、現象学、宗教哲学などを幅広く研究対象にされています。一昨年に野生の科学研究所で開催された「ジャン=リュック・マリオン贈与の哲学」の講義も、記憶に新しいところです。

石原莞爾と宮沢賢治

今回の講義で岩野さんは、軍人だった石原莞爾(1889-1949)と詩人で童話作家の宮沢賢治(1896-1933)という対極的な二人を比較し、共通点と相違点を明らかにしていきます。石原莞爾の背景とともに、宮沢賢治の世界が、今までとは違う面から深く掘り下げられました。

石原莞爾と宮沢賢治はどちらも東北出身です。日蓮宗の宗徒であり、同時に日蓮宗の在家団体「国柱会」の会員でした。同じ1920年に入会し、日蓮を信奉する会の理念に大きな影響を受けています。二人は平和を希求する非常に強いユートピア思想を持ち、それぞれの立場で理想の世界を追求していきます。石原は関東軍参謀として満州事変首謀者として満州に王道楽土を求め、賢治は作品中に岩手のドリームランドともいえる「イーハトヴ」を構想します。王道楽土とイーハトヴは、「魂の古層」とどのような関係があるのでしょうか。岩野さんはまず、二人の理解に欠かせない人物、田中智学について説明します。

岩野先生 田中智学と国柱会

賢治と石原の二人に大きな影響を与えた国柱会の創始者、田中智学(1861-1939)は10歳で日蓮宗の宗門に入っています。

鎌倉時代に誕生した日蓮宗の始祖日蓮は、法華経を末法の衆生を救済する唯一の教えとし、時間と空間を超越する絶対の真理を掲げました。仏法と王法が一致する王仏冥合を理想にして、正しい法に基づかねば正しい政治は行われないと主張、宗教上は天皇の権威をも一切認めない、仏法絶対の立場にたちます。日蓮は戦闘的でした。相手を徹底的に論破して説得改宗させる折伏(しゃくぶく)を用い、教義を主張し幕府や諸宗に対抗し、佐渡に流罪になることさえありました。そんな日蓮の教学を受け継ぎ、日蓮宗はその後も時の政権と激しく対立していきます。しかし、やがて分派も増え、時代の流れの中でだんだんと温和になり、明治初期までには葬式仏教的体制に組み込まれるようになります。1870年ごろに天皇制の強化のもと神道が中心となり、廃仏毀釈が始まると、仏教教団は民衆からも迫害を受けるような状況に陥りました。仏教界は生き残りをかけて、天皇制と自らをどう結びつけるかに苦慮するようになります。多くの宗派が天皇制と親和的になっていく状況下、宗派の現状に田中智学は疑問を持ちます。

田中は還俗(1880)して独自の宗門改革を目指し、日蓮宗の激しさを取り戻そうとしました。折伏もそのひとつでした。悪い奴は論破して懲らしめるという教義実践は後に、武力を使ってでも宗旨の世界統一を目指すという、石原莞爾の理想につながっていきます。田中はまた、日蓮の教義に基づく強いユートピア思想を背景に、「天下国家のための宗門」、「日本を中心とした世界統一の天業」、「天皇による国立戒壇(僧の免許を国が発行)」などを主張します。プロパガンダ1914年に諸団体を結合して結成した国柱会は、日蓮聖人の三大誓願のひとつ「我れ日本の柱とならん」(開目抄)に言葉を借り、日蓮主義と国体論(日本を天皇中心の神国とする国粋主義的考え)を結合させたものでした。その中に「法国冥合」「王仏冥合」を入れ込み、日蓮の終末論(今が末法の世である)を援用し、仏法による日本の世界統一が、絶対的な平和に繋がると強引に理論づけたのです。また、『古事記』『日本書紀』と日蓮の考えを関連させるために、日蓮の理想「一天四海皆帰妙法(全て世界は法華経のもとに治まる意)」と神武天皇の「八紘一宇(はっこういちう=世界は一つの屋根に統一する意、田中の造語)」を結びつけました。戦時ナショナリズムが高揚する中で、法華経の世界統一は古来より日本の使命であるという解釈が前面に出され、思想的に侵略戦争を助長することにもなったのです。

元を正せば、天皇崇拝と繋げた八紘一宇の理想も、田中個人が考えた人工的な組み立てでした。田中が日蓮の教えに結び付けたのは近代の天皇制であり、そこに関連付けた『日本書紀』『古事記』の解釈には整合性はありません。田中が普遍的だと主張した日本の古層は、真理の実証には繋がらないのだと岩野さんは解説しました。

思想家としての石原莞爾

この田中智学の理論を信奉し、それを現実のものにしようとしたのが、石原莞爾でした。昭和陸軍随一の鬼才といわれた石原は、関東軍参謀として、満州事変(1931)を立案、その作戦は計算を尽くした見事なものであった、と評価されています。しかし一方でこの事変は、その後の日本が無謀な戦争に突入していく原因を作ったという批判もあります。石原は参謀本部作戦部長として抜擢された後、日中戦争の処理に失敗、東條英機との対立が原因で出世コースからはずれます。現役を退いて以降は、教育、思想活動に勤め、第二次世界大戦には軍人としてほとんど関わらなかったため、A級戦犯を免れています。

石原の行動は、道義的には田中智学の「世界の統一」理論を青写真として、武力でその統一を実現しようとしたものでした。武力の背後に田中と同じユートピア志向があり、満州国に王道楽土、五族協和といった、徳を信じるスローガンを実現しようとしたのです。満州国をアメリカ合衆国のシステムのように、日本から独立させる構想も持ちました。しかし、東條や岸たち軍人政治家は、満州国を従属国とのみ考えていたため、この構想は誰からも相手にされなかったといいます。

石原は満州事変当時すでに、対米決戦「最終戦争」の構想を抱いていました。『最終戦争論』(1931)『戦争史大観』(1941)に記されている彼の計画では、「最終戦争」に備えるために満蒙を領有し、ソ連にならって5か年計画をたて日本の工業化を推進し、最終的に対米に勝つことを目指しています。石原にとって「最終戦争」が必然性を持つ理由は、二つありました。

東京大空襲

一つは〈軍事上の理由〉です。ヨーロッパの軍事史では、一回で勝敗を決める「決戦戦争」と、傭兵を目減りさせないためにうまく逃げながら戦う「持久戦争」が、交互に繰り返されました。しかし、フランス革命以後国民皆兵となり兵士の補充がいくらでもできるようになったため、次に起こる戦争(第二次世界大戦)は最終決戦になる。そこで戦争は終焉し、絶対平和が到来するというのです。推論の根拠に合理性は欠けるものの、一瞬にして首都を廃墟にしてしまう兵器の開発(超音速の航空兵器、核兵器、大陸間弾道弾)や、兵器を搭載した空中戦の必要性など、未来に対する石原の予測は鋭いものがありました。

二つ目は〈宗教上の理由〉です。日蓮の予言(実際はモンゴルに対するもの)をもとに、末法の世(現在)における、上行菩薩(いわば救世主)による世界統一の救済があると石原は考え、それを最終戦争と結びつけたのです。日蓮の「一天四海皆既妙法」が、日本を中心とした世界統一であるという解釈や、1919年から48年後に日蓮の言葉は成就するという田中智学の予言を、石原は無批判に受け入れています。全く非合理なこの宗教的理由を、なぜ石原は近代の軍事バックボーンにしたのか、問題になるところです。

石原は日蓮宗の折伏を道義とし、武力の方面を強く打ち出して世界統一を構想し、田中智学の教えをもとに、ユートピアとしての東亜連盟を実現しようとしました。しかし、その信念は、近代になって作られた天皇制信奉とその枠組に囚われたままでした。彼の魂の古層は「八紘一宇」にとどまっていました。上からしつらえた解釈に立脚した天皇制を擁護する彼の思想とその理論には、限界があります。当時の軍人や政治家、思想家たちよりはるかに未来志向とはいえ、石原は根本にさかのぼって、田中智学の理想を検証することはなかったのです。

宮沢賢治の古層

宮沢賢治も、最後まで国柱会の会員であり、石原と同じように強い信仰を持っていました。しかし、賢治は国柱会にいながら不思議なことに、天皇崇拝や国体論にも侵略戦争にも、ほとんど関心を示していません。彼は日蓮の教えそのものを強く信奉していたので、後から付け加えられた理屈に対しては、本能的になにか違うと感じていたのではないか、この賢治の感覚が、魂の古層と結びついているのではないかと岩野さんはいいます。

雨ニモマケズ

賢治も大変ユートピア志向の強い人でした。「イーハトヴ」は賢治の心象風景にある、ドリームランド(ユートピア)としての岩手県です。幼少時から東北地方での冷害や貧しさを見聞きした体験は、例えば「グスコーブドリの伝記」に見えるように、自分が犠牲になって災害に立ち向かうといった精神を生み出しました。彼の作品には高い霊的能力を感じさせる世界がたびたび登場します。死んだ妹と魂を交流する『春と修羅』、子どもたちが神の子の幻想界と交錯する「風の又三郎」、死出の旅路を行く「銀河鉄道の夜」など、生と死の交流がいたるところに出現します。自然についての描写も、よくいわれるような自然との共生というよりは、植物も動物もすべてを巻き込んだ自然との一体感として現されています。「山川草木悉皆成仏」とは、すべてに仏が宿るという、日本的な民間信仰の原点にあたる言葉ですが、仏典の中にはこれは似た記述はあるものの、言葉そのものはみあたりません。賢治の精神世界は、この「山川草木悉皆成仏」に近いものが感じられ、それは仏教以前にも民間にあった、根源的な古層の自然観、アニミズムともいえる感覚と結びつくのではないか、と岩野さんは述べます。

賢治は田中智学の「仏法による世界の統一」を、石原のように日本を中心としたものとは考えませんでした。イーハトブの世界は、コスモポリタン(世界市民)の意識が強く、いろんな人が登場します。エスペラント(世界共通言語)を志向し学んだ賢治にとっては、日本人だけという限定された発想はなく、そこには外国人もいて、人間だけでなく植物や動物も含み、異界やお化けまでもすべてが混在する、すべてを包み込む法華経的世界が理想だったのです。人間と動物の交流を描く「セロ弾きのゴーシュ」では、人間と動物の境界は曖昧です。輪廻を信じていた賢治は、人間と動物の入れ替わりも自然な形として考えています。田中智学の言う「世界の統一」を、賢治の場合は自然との一体感という形で、作品中に表したといえるのではないでしょうか。

すべてが仏であるという感覚は、屠殺と肉食を嫌悪し否定する悩みや菜食主義としても描かれます。「なめとこ山の熊」「ビジテリアン大祭」「注文の多い料理店」などは、他の生き物を殺す狩猟に怒りを持ち、食物連鎖についても否定的な主題が現れます。賢治は、「よだかの星」で鳥が虫を食べる罪を描き、食物連鎖のない世界をさえ考えていこうとするのです。

シュタイナー図録

このような賢治の世界を、人間の世界を動物に仮託した、メタファーとして読む研究者もいますが、岩野さんは別の考えを示します。賢治の理想にはどこにも中心がなく、世界全体が対称で、動物も植物も同等で、人間中心という発想がないのです。それは彼独自の法華経の世界観の現れであり、背後に彼の魂の古層があるのではないか、全てに精霊が宿り生き物は聖なるもの、という古層の自然感覚があるのではないかというのです。上から与えられたものではない、いわば縄文時代から民衆の中で息づいているような感覚が、賢治の作品の底に流れているのではないか、それがわれわれの心を打つ部分なのではないか、と岩野さんは重ねて指摘しました。

この古層の感覚を持ちながら、未来へ終末のユートピアを求めて、賢治の精神は旅をしていきました。彼にとっては、伝統や現在に安住せず、常に次へ進み理想に向かい現状を打破していくことが、信仰の教義を折伏するのと同じ行為だったのです。「絶対に平和な世界」「本当の幸福」として、彼は戦争も屠殺もない世界を求めていきます。「カラスの北斗七星」「フランドンの農学校の豚」に読み取れるように、戦争の悲惨と屠殺の悲惨とは、彼の中では同じ重みを持ちます。「みんなの幸」「まことの幸福」の実現とは、嫌いでもない人間を殺すことや憎いわけでもない動物を食べるために殺すことを、忌避する行動(徴兵拒否や菜食主義)とパラレルなのです。

賢治の供犠と贈与、他力

賢治が「みんなの幸」「ほんとうのさいわい」といい、最終的に法華経の真実のために選んだ道は、自己犠牲と自己贈与の旅でした。「カラスの北斗七星」「銀河鉄道の夜」には、自己を捧げるサクリファイスの考えが表現されています。ここでは贖罪と無償の贈与がセットになっているのです。賢治は他の生物を殺すという罪を問い詰めていきます。彼の自己犠牲、自己贈与の精神は、「何べん引き裂かれてもかまわない」「何べん焼かれてもかまわない」というように、何度も悩み苦しみを繰り返し、罪の贖罪や自己贈与の形をどこまでも追求していきます。中沢所長は賢治のこの姿を「贈与の霊がとりついている」と岩野さんに話したそうです。月何回殺されても生命の理想に向かっていく、憎むことのできない敵を殺さないでもよい世界を、どうにか実現していこうとする、それが賢治の持つ精神世界でした。

さらにそこに重なるのが、宇宙の盲目的な意思が生物を最後には究極の幸福に導く、という宗教的な進化論です。いわば他者からの贈与です。なにか大きなものが自分に力を貸してくれるという、楽天的ともとれる人間の進化論を賢治は持っていました。能動的な自己犠牲の果てに、受動的な絶対平和が実現する世界が現れ出てきます。このような希望を内包する未来的な思考は、日本の古層に連なってきたものではないか、何か縄文的なものが変容した形ではないか、と岩野さんは改めて指摘します。私達の精神の古層を探る可能性が、またひとつ明らかになるのではないかという予感とともに、盛況のうちに講義は締めくくられました。


https://note.com/iwnt22/n/n3a5169a7d0be 【第7回 『日蓮主義とはなんだったのか』宮沢賢治編】より

筆者の考える「宮沢賢治編」の要点

今回は、大谷栄一著『日蓮主義とはなんだったのか』(以下、本書)で宮沢賢治について記載されている部分について論じてみたい。はたして、宮沢賢治は日蓮主義者として夢をみていたのか。本書では、宮澤賢治とその宗教思想について、9頁ほど論じている(304-312頁)。著者大谷氏の賢治の日蓮主義に関する見解は、筆者は次の箇所に要約されていると考える。

"すなわち、自分の心の一念によって、 現実の国土に永遠絶対の本国土を感得する天台的法華経観から、折伏という積極的な布教活動による現実変革を通じて、この現世に本国土の建設をめざすのが、国柱会の法華信仰の特徴だった。 賢治の信仰は、前者から後者へと移行した。"

『日蓮主義とはなんだったのか』310頁

折伏(しゃくぶく)とは、折破摧伏を略した仏教用語であり、悪人・悪法を打ち砕き、迷いを覚まさせること。 人をいったん議論などによって破り、自己の誤りを悟らせること。 あるいは、悪人や悪法をくじき、屈服させること。(Wikipedia より)

折伏を通して宗教として実践して行動し、現実世界を仏国土にしていく(娑婆即寂光土)、国柱会の法華経観を宮沢賢治は見いだしたといってよい。それが、父政次郎、親友保坂嘉内への折伏に繋がっていく。

日蓮主義の生い立ちの土壌

田中智学が日蓮主義を唱えた時代、江戸時代幕府の檀家制度で布教という面では宗派を問わず退化し仏教は形骸化し、葬式仏教化していた。同時に、廃仏毀釈により仏教がなくなるのではという仏教界全体の危機があった。ここに、各宗派による仏教の近代化がはかられる。浄土真宗においては、暁烏敏、近角常観、清沢満之らがリードした。その中で、日蓮宗からは、日蓮主義の田中智学がリードした。田中智学が提唱したのは日蓮に立ち返れ、という在家仏教集団である。

なお、日蓮主義は、日蓮+ism(主義)から生まれ、田中智学が坪内逍遥に相談してできた造語である。

ナショナリズムとしての日蓮

日蓮主義は、右翼から、左翼の仏教社会主義まで含んだ、幅の広さのある宗教運動になっていった。ここでとりあげる日蓮主義は田中智学のものに限定したい。

田中智学の掲げる日蓮主義は天皇制とも結びついた国体論にもなり、法華経による天皇を中心とした国体を目指していた。法華経による宗政一致による日本統合である。

同時に、日蓮の予言を再解釈し、まずは日本から先んじて、他の国土を仏国土(理想世界)として世界統一して行くという思想であった。いずれにせよ、ナショナリズムの精神的支柱に日蓮をすえたものであり、日蓮信仰に立ち返ってのナショナリズムであった。この延長線上に、石原莞爾の満州国建国があると思われる。

今日では、考えられないこのようなナショナリズム思想が世論の大勢の支持を得るとは考えられないが、一世を風靡した。

終わりに

ただし、筆者にも疑問は残る。何故宮沢賢治は日蓮主義の中でもなぜ国柱会でなければならなかったのかである。

これは、国柱会の当時の勢いが呼びよせた偶発的なものであった可能性もなきにしもあらずではないか。 当時、一世を風靡して今日蓮とよばれたカリスマが田中智学であった。時代の変化を捉えるのが早かった賢治特有のものといっていいのかもしれない。しかし、日蓮主義のもっていた「この世でいかに仏国土をつくるか」。これに宮沢賢治がこだわっていたとすれば間違いではないのかもしれない。満州国や、他国へ仏国土を実現しようとする発言は書簡でも見つかっていない。仏国土は、宮沢賢治にとってはイーハトーブであったかもしれない。

また、継続して検討していこう。

参考文献『日蓮主義とはなんだったのか』大谷栄一 著 講談社

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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