https://www.fujingaho.jp/travel/hotel/g45149048/hoshinoya-koyomi-november-20230929/ 【11月の季語「紅葉且つ散る」|星のや 暦のことば】より
句と文=佐藤文香
葉が色を変え、木々は冬支度に入る。こちらの木はようやく黄が兆(きざ)したところ、かと思えばあちらはもう散りつつあるというように、晩秋から初冬にかけての木々の移り変わりには遅速がある。それを味わう季語が「紅葉且つ散る」だ。紅葉する種として代表的なのはイロハモミジ、その他カエデ属の葉。桜や櫨(はぜ)などの落葉樹の紅葉や黄葉も、野山の景観を徐々に塗り替えてゆく。桜と違って半月以上は見頃が続くので、少し遠出をして紅葉狩、というのもいい。
「紅葉且つ散る」は古歌由来の言葉で、江戸前期の俳人・其角(きかく)の〈かつ散りて御簾に掃かるる栬(もみぢ)かな〉を例句の筆頭に、歳時記に立項されるようになった。「同時に」を意味する副詞「且つ」から一句を起こす大胆さが、紅葉する葉だけでなく舞い落ちる空間を見せ、一句のふところを広げる。
空を彩る葉、宙を舞う葉、そして落ち葉し掃かれるもの。風景の三つの面にそれぞれの段階の紅葉が配されることで、その場が華やかな舞台となる。音楽や踊りがあればさらに贅沢だ。散る紅葉は、きっと演者としても活躍するだろう。
紅葉且つ散るや鼓を掠(かす)めむと
さとうあやか◯俳句作家。1985年生まれ。夏井いつき氏による俳句の授業をきっかけに句作を開始し、高校時代は「俳句甲子園」に出場。俳人の池田澄子氏に師事。第10回宗左近俳句大賞受賞。句集に『菊は雪』(左右社)などがある。
(略)
https://blog.goo.ne.jp/yoshi13711/e/f41b5de16b4029d8287fb92a24d8bdde 【“ 紅葉且つ散る ”(季語)】より
* 「紅葉且つ散る」という季語があります = 紅葉しつつ散るという意味です。
【俳句・高浜虚子】 一枚の紅葉且つ散る静かさよ
* 「紅葉を散らす」=恥ずかしさや怒りなどで、顔を赤くする、顔を赤くそめたさまを、紅葉を散らした様子にたとえたもの。
【雑俳・柳多留】 双六で紅葉をちらす妻と妾
日本語はホントに素晴らしい。何でも詠んでおられる。
私にはとても出来ない。頭が半分ダメではなおさら、病気(脳後遺症)のせいにしておこう。
今朝はホントに寒い! 部屋の中でも応える。 4時半起床
https://kinouchihiromichi.hatenablog.jp/entry/2020/09/22/091240 【紅葉且つ散る(もみじかつちる)】より
秋の季語と言えば月と紅葉が代表格か。さまざまな表現がある。「紅葉且つ散る」は季語としては比較的長い。今を盛りにしている紅葉があるかと思えばすでに散ってしまっているものもある。散った紅葉が小川を流れていく。風に舞っていくことも。そして、その同時進行を味わうという季語である。
山全体から感じることもあれば、一本の木から感じることもある。視線の高さの違いで感じたり、あるいは、時間の経過を感じたりもする。
紅葉且つ散る老境へまた一歩 岩田千代子
https://note.com/myoukishuken/n/nc37fc39ed6b5 【雪後せつご始めて知る松柏しょうはくの操みさお】より
季節は「大寒だいかん」、一年のうちで、もっとも寒さの厳しい時節です。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
さて、今回の禅語は、禅語としては、比較的よく知られたものです。
雪後始せつごはじめて知る松柏しょうはくの操みさお
事難じかとうして方まさに見る丈夫じょうぶの心しん
雪後始知松柏操
事難方見丈夫心
松や柏かしわ、槙まきの樹は、美しい花を咲かせるわけでもなければ、立派な実を付けるわけでもありません。
競い合うかのように花々が咲き乱れる百花繚乱ひゃっかりょうらんの春、瑞々しい生気が燃え立つような翠滴みどりしたたる初夏、すべてのものが光り輝き、生命を謳歌おうかしているような夏、去りゆくものが残されたすべての力を振り絞るかのように、最後の命の光芒こうぼうを放つ錦繍きんしゅうの秋...日本の四季は、本当に美しい。
そして、すべてのものが静けさの中に閉ざされ、厳寒の銀世界に覆われる冬、この冬こそが、それまでは誰の目を惹ひくこともなく、ひそやかに控えていた松や柏、槇たちの出番です。
しかし、「松柏」の「出番」とは言っても、松や柏、槙の樹が何か特別なものをもたらすわけではありません。
梅や桜、桃や柿、あるいは楓のような樹木は、見頃の姿、盛りの有り様の見事さが身上です。梅や桜であれば、何よりも花、桃や柿であれば果実、楓であれば紅葉。
春に芽吹き、華麗な花を咲かせ、青々とした新緑を茂らせ、豊かな果実を撓たわわに実らせ、そして色とりどりに紅葉を見せながら散っていく...それぞれ種類によって、さまざまな違いはあるものの、その頂点にある「華はな」の素晴らしさがずば抜けているから、古くから多くの人たちによって愛され、珍重されてきています。
しかし、松や柏、槙の樹は、それとは反対に、いつでも同じ。
変化しないところをその身上としています。
「常磐木ときわぎ」と呼ばれるように、「とこいわ(常:とこ/磐:いわ)」つまり「磐いわ」のように「常に」変わらない強さを讃えられるのです。それが「操みさお」。
雪後始めて知る松柏の操...
美しさを競い合う四季の移ろいが終わりを告げ、暗く厳しい冬がやってきます。鉛色の空に、木枯らしが吹き渡ります。枝だけが突き刺さるように天に向かって突き出たままの樹木。枯れて色を失い、生気を無くした叢くさむら。
そしてそこに雪がやってきます。
雪はすべてを覆い隠し、色褪あせた世界を白一色に染め上げます。
美しいけれども、命を感じることができない、閉ざされた世界...
そこに、松や柏は、ただひとり新鮮な緑の色を変えることなく立っています。
美しい花や紅葉、甘美な果実によって媚こびるような魅力を振りまくことはないけれども、一番厳しく、一番辛い時にも「操」を守って、決しておのれの在り方を変えることがない。
何も特別なものなどなくても良い。
桜や梅、桃や柿、あるいは楓のような、誰もが惹ひき寄せられて足を停め、思わず見上げるような「華」がなくとも良い。
人から羨うらやまれたり、誰かを大喜びさせたりするような、優れて抜きん出た才能や業など必要ないのです。
こうしたものは、確かに備わっていればそれに越したことはないものです。しかし、なくてはならないものか? と訊きかれたならば、それは違う。あれば、自分にとっても、人にとっても、豊かな人生をもたらしてくれるものではあるけれども、そのようなものなど、実は、なくてもやっていける。どれほど素晴らしいものであろうとも、所詮しょせんはそれだけのもの。
私たちにとって一番大切なものは、それなしにはやっていけないものです。
それを無くすことなど、絶対にできないもの。そのためであれば、命懸けで頑張ることができるもの。それが「なくてはならないもの」です。
雪後始めて知る松柏の操...
この禅語が教える「なくてはならないもの」は「操(みさお)」です。
「操」だって、何を古くさいことを言っているんだか...
そんな声が聞こえてきそうですね。しかし、それは違います。
時代とともに変わっていかなくてはならないものは、たくさんあります。しかし、絶対に変えてはいけないものもある。それは、私たちの「生き方」の根本に関わるところ。生きていく姿勢、「生きること」そのものの土台になるところです。「操」とは、まさしくその「生き方」の根本を指す言葉なのです。
桜や梅には桜や梅の、桃や柿には桃や柿の、楓には楓の生き方がある。
だから、桜や梅には、桜や梅の「操」があるのです。
桜の操とは、毎年毎年、美しい花を咲かせたら躊躇ためらうことなくさっと散っていくこと。
桃の操は、毎年毎年、すべての力を果実に托たくし、撓たわわに実をならし、成熟させること。
楓の操は、毎年変わることなく最後の力を振り絞って、厳しい冬に向かって最後の命を赤赤と輝かせること。
「操」とは、何も「松柏」に限ったものではありません。誰もが自分の「操」を持っています。それをなくしてしまっては自分が自分でなくなってしまうようなところ、自分が自分であるための、ギリギリ最後のところです。
それでは、皆さんの「操」とは、どのようなものですか?
雪後始めて知る松柏の操...
始めて知る...そう、本当に大切なものは、厳しい冬、過酷な雪の中を潜くぐって「始めて」わかるのです。
自分の人生に対して真剣に誠実に向き合い、どんなに辛くとも自分の苦難にちゃんと自分の力で立ち向かうことをしなくては、ギリギリのところで、自分の生きるべき本当の在り方、自分の本物の「操」はわからないのです。
そして、本当に厳しい世界をくぐり抜けてきた時、「なくてはならないもの」以外はすべてなくなってしまうということが、実感としてわかるのです。華も実も、すべて...
だから、一番尊いのはやはり「松柏」の操。
この世に生を受けてから死ぬまでの間、目立つことなく、ひっそりと静かに私たちの命を繋ぎ止めているもの。それが「松柏の操」です。
失敗をし、苦労を重ね、病になり、歳をとり、華やかな彩いろどりの世界をすべて失う...私たちは、この厳しい「雪」を経験て「始めて知る」のです。
そして、
事難じかとうして方まさに見る丈夫じょうぶの心...
困難の中で始めて現れるのが「丈夫の心」です。私たちはよく「大丈夫、心配するな」などと言いますが、その「大丈夫」。
この「大丈夫」とは、ほかならぬ私たち自身のことです。
何があってもぶれることのない自分、絶対にあきらめることなく、厳しい雪の最中でも、常に緑を守り続ける。
順調な時にも驕おごらず、逆境でも挫くじけない、本当の強さを持った自分。
「丈夫」とは、すべてを捨て、すべてをなくしても、歩き続けるべき最後の一筋の道を、たった一人で行く者なのです。
私たちも、不器用でもいい、地味でもいい、ただひたすら愚直ぐちょくに正直に、誠実に、真っ直ぐ自分の道を歩んでいきたいものです。
撮影:工藤 憲二 氏
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