奥坂まや

https://blog.goo.ne.jp/kitamitakatta/e/08afb02c9c34ca2a5bc1874c07643445 【永遠のマドンナ奥坂まや】より

『俳句』8月号、口絵に「季語と俳人」に奥坂まやの写真があった。若々しくはつらつと撮れている。

背景は井の頭公園で、この近くに住んでいたころひとり吟行に訪れたなどと紹介されている。

まやさんの俳句が2句紹介されている。

銀漢に露一顆なる地球かな まや

露ですぐ思うのが川端茅舎の<金剛の露ひとつぶや石の上>でありこのつつましさが俳句本来のものとずっと思ってきた。ところがまやさんの露は、地球という存在さえ一粒の露でしかないと言う。この豪胆さが奥坂まやという俳人のすべてといってもいい。豪胆にして諸行無常の味わいを背後にはらむ。

原爆忌巨大画面に手が犇く まや

まやさんのこの季語への執着はすさまじい。ぼくの知るかぎり原爆忌の句はほかに3句ある。この句は、川のなかへ逃げ込み全身ただれた瀕死の人たち、または死者が水の上に手だけが出ている地獄の光景を思ってしまう。しかしそれはあまりにもえげつないので、ワールドカップで歓声を上げている人たちの歓喜の手をまず思うべきかもしれない。

作者も平和なサッカー観戦の無数の手から無残な死者のそれに感慨が転じていったのかもしれない。いずれにせよ手に視点を絞り「手が犇く」と描写したのが冴える。

作者は昭和25年7月16日生まれ。小生よりぼくより1歳半ほど年上であり原爆投下のとき生れていないはずである。それなのにどうして目撃したかのように惨い死を書き続けられるのか。才能のある人は見なかったものまで見えて怖いと思う。

まやさんは「移ろい滅びゆく仲間」という短文を寄稿している。

まやさんは学生のころ小説を書いていたという。夫(中山玄彦)に誘われて俳句に入る。

「移ろい滅びゆく仲間」というのは次のようなことらしい。

俳句は、季語との交感によって「諸行無常」を受け入れる。内面に立て籠もっていた私は、俳句を作って、外部に、季語の世界に、開かれた。季語と私たちは、この宇宙に束の間存在し、移ろい、消え失せてゆく仲間なのだ。

まやさんに誘われて吟行をはじめて経験したとき30年ほど前のこと。

まやさんから10句提出と言われ仰天し「10句ですか?」とけげんな顔をすると「鷹に入ったんだから当然でしょ」と跳ねつけられた。

ベンチに座ってなにやら書くまやさんを背後からこっそりのぞいた。するとノートは文字でびっしり埋まっていた。蟻の巣をのぞいたみたいに文字で真っ黒であり、すべて俳句であった。まやさんには未来永劫勝てないと悟った瞬間であった。まやさんはぼくのマドンナなのだ。


https://blog.goo.ne.jp/kitamitakatta/e/8ba3513e8ee1fac6fe1865a13303c789 【「俳句」7月号奥坂まやを読む】より

鬼おこぜ

月刊誌「俳句」に奥坂まや(鷹同人)が「鼓動」と題して発表した21句。これを天地わたると山野月読が合評する。天地が●、山野が○。

緋牡丹の獅子吼咲とぞ云ふべかり

●「獅子吼咲」は「ししくざき」と読みます。「獅子吼」を広辞苑は、1)仏が説法するのを、獅子が吼えて百獣を恐れさせる威力にたとえていう語、2)大いに熱弁をふるうこと、と解説しています。

○「獅子吼咲」というのは「獅子咲」からの造語ですかね。「緋牡丹」に「獅子」とくれば、唐獅子牡丹を思います。獅子=百獣の王には牡丹=百花の王。

●いや、「獅子咲」ではなく「獅子吼+咲」でしょう。作者は、ライオンが吼えるさまという言葉の原点に立って緋牡丹の豪快な開きようを形容しています。

箍外せし如く牡丹ばらけ落つ

○「牡丹」の花弁が一斉に散る状況ですね。「箍外せし如く」「ばらけ落つ」と表現することで、散る前の「牡丹」ならではの花弁の群れ満ちた状況が目に浮かびます。

●前の句もそうでしたが作者十八番の比喩です。小生はまやさんの本質は比喩であるとずっと思っています。

メーデーや花屋の花のみな根無し

●言われてみれば花屋の花はだいたい切り花です。

○「根無し」ではない、鉢植えも扱われているケースはありますが、こうしたケースを例外として「みな根無し」と言い切ることの面白さ。

●花屋に鉢植えも10%ていどあるでしょう。それを無視して「みな根無し」と言い切ってしまうから句が強いのです。メーデーという浮かれ気分が「みな根無し」を支えています。思い切りのよさも奥坂の大いなる魅力です。

蜘蛛の巣張り闇が息してゐる生家

○張られた「蜘蛛の巣」に目が行くことで、日頃はあまり意識しない家の隅々の「闇」に意識が行くことはありますね。「闇が息してゐる」と感じてしまう作者の意識。

●生家に父母はおらず廃屋でしょう。闇に匂いさえ感じる迫力があります。

麦飯を嚙み口中に風の記憶

○「麦飯」ならではの味覚。「風」に揺れる「麦」畑の記憶でしょうか、そこにはきっと作者もいて。

●麦飯から麦の秋を感じました。あのころ吹き渡る風を思いました。

抱きしめて鼓動交じらず夏の星

●わからないんです。主語は作者で目的語は夏の星と読めばいいのでしょうか。

○中七で切れると読んだので、下五の「夏の星」は句全体の目的語としてではなく、「抱きしめて鼓動交じらず」に対して、まやさんの言うところの供え物としてあるのでは。強く抱きしめることで互いの「鼓動」を感じることはできても、それは決して「交じ」りはしない。こうした孤独感に対しての「夏の星」という絶妙の配合。

●すると「抱きしめて」は人ですか。情事みたいな場面なのでしょうか。

○少なくとも、作者が誰かを「抱きしめて」いるとまずは読まれることを作者は想定していますよね。その上での話としては、銀河系というシステムが、腕を回すように無数の「星」を「抱きしめて」いるというモチーフが隠されているのかも知れません。その場合には、ミルキーウェイとも言われることからの母性への意識があるように思います。

水に滲むやうにほうたる光りをり

●蛍は水からそう離れずに飛び交います。よって「水に滲むやうに」は蛍の本質をとらえています。

○「水に滲むやう」に見えるのは、蛍そのものというよりは蛍の「光」だと思いますが、蛍そのものも「水に滲むやうに」感じさせる句ですね。

●一物仕立ての句としても絶妙。蛍の光の表現として秀逸です。

死螢にこんもりと蟻簇がれる

●こういう発想の句はすでにあると思うのですが「こんもりと」が効いています。

○「簇がれる」という漢字は知りませんでしたが、「群がれる」よりも「蟻」の一群感が出ていいですね。

かすかなる顫音発し蛇の舌

●中七が見どころです。顫音(せんおん)はトリルの訳語で、トリルは2つの隣接する音符(通常は半音またはトーン離れている)の急速な交代からなる装飾音のことです。

○音楽に疎く、トリルなるものを理解していないのですが、それでも、「蛇の舌」の発する音のイメージから逆に「かすかなる顫音」なるものを想像させます。

●音といっても心象に響く音なんですが「顫音発し」を得ることで一句になりました。俳句は言葉の芸であるとつくづく思いました。

喨々と眼を張りて鱏しづか

●作者が得意とする海の動物詠。初期から海の生物は大好きで、「もも色のほのと水母の生殖器」という句もあります。

○「喨々と」という表現は一般には聴覚的な把握として用いると思いますが、それを「眼を張り」具合という視覚的な把握に用いて新鮮。これは鷹主宰得意の五感のクロスオーバーですね。

●共通するテクニックです。

細き肢きつちり束ね烏賊泳ぐ

●よく見ています、「細き肢きつちり束ね」。その通りです。

○言われてみれば確かに。あの複数の「肢」を「きつちり束ね」なければ、あれほどの泳力は生まれないでしょうね。

鱓(うつぼ)

大暑なり巌を鱓(うつぼ)のめり出づ

○海中の情景に対して「大暑なり」というのもすごい把握ですね。「のめり出づ」というのは、動作的に想像はつくのですが、あまり見かけない表現では。表現としてよく見かける「のめり込む」を意識した言い回しでしょうかね。

●そうです、ふつう空間で使う「大暑」を海の中へ持ち込んだ感覚に魂消ました。「のめり出づ」もなかなか出てこない表現。作者はここぞと思って使ったように思います。

○まやさんの句は、「初めにモノありき」的なつくりの句が多いですね。面白いです。

●この句の鱓を作者は長い時間見たと思います。見て言葉を引き出すので言葉が強くありきたりではないのです。

鬼おこぜ突兀の背を氷詰

●「鬼おこぜ」も獰猛です。まやさんは本質的に獰猛なものが好きなんですよ。

○「突兀」なる言葉も初めて知りました。漁によって獲らえられ、鮮度を失わわぬように「氷詰」にされた「鬼おこぜ」。上五・中七の獰猛な印象からの下五の転じ方が面白い。

●「突兀(とっこつ)の背」効いていますね。一般に女流はやわとかやさしいというイメージをこうむりやすいのですが、まやさんはエネルギッシュで獰猛。小生は彼女の魅力をラグビーにおける「ハードタックラー」と見ています。対象にぶつかって言葉を摑み取るのが奥坂です。言葉遣いに勢いはありますが繊細です。

機動隊一群無音油照

●おしゃべりはしませんね。彼らが集結しているだけで緊張感があります。

○きっと本当は無線マイクを通じて連携・連絡をとっているのでしょうがね。「機動隊」の訓練かも知れませんが、「機動隊」が投入されるような状況を思うと、「油照」感も一入。

●全部漢字で動詞が皆無というのも不気味です。

龍の骨抱きし巌雷蒼し

●「龍の骨」、考えこんでしまいました。龍は空想の動物ゆえ化石などないわけです。すると竜骨というようなイメージなのかと。岩山を恐竜の体と思ったとき太い骨が通っているという感覚かと。

○本句の発想の起点(契機)は「蒼」き「雷」の発生だと思います。この「蒼」き「雷」を「蒼」き「龍」だと見立てることで、「龍の骨抱きし巌」という措辞が生まれたのではないかと。

●この句はイメージが錯綜していませんか。小生とあなたと読みが異なったように。

○「蒼」き「雷」によって「巌」が映し出されるわけで、その岩肌の荒々しさに「龍の骨」を感じたのでは。私としては、「蒼」き「雷」によって「巌」に投影される「龍の骨」であり、それはレントゲンのようなイメージなのですが。

艶聞のごと密豆の紅求肥

●紅求肥、べにぎゅうひ。とろんとしたやつですか。

○「求肥」は表面はざらざらした、やや甘い練り物で、色は様々です。この「紅求肥」を捉えて「艶聞のごと」とは凄い比喩です。「密豆」は通常は「蜜豆」と書くと思いますが、いずれにしても「密」=「蜜」からの発想じゃないでしょうか。

急流は魚影許さずほととぎす

●岩魚はいるような気もしますが中七は押してくるものがあります。

○岩魚などが実はいたとしてもいいんでしょうね、というか、いることを前提とした方が「魚影許さ」ぬほどの「急流」具合として活きてくるように思えます。句中の「ほととぎす」は鳴き声によって捉えられたのでしょうか。それとも作者の視界にあるのでしょうか。措辞的には後者のように思えました。

●小生は鳴き声ととらえましたが奥坂の季語の置き方としてはやや甘さを感じました。急流も音を立てていますから鳴き声でなくて「青嵐」のようなもののほうが効いたのではないかと。この季語はいつものまやさんらしくないですね。

○鳴き声と捉えたのでは、急流の音と重なって面白くないとの想いもあって、「ほととぎす」は作者の視界にあるのではと考えました。そうすると、「急流の魚影」を鋭い視線で窺う「ほととぎす」という構図になり、まやさんらしいのではないのでしょうか。

●この季語はやわですよ。

炎熱や黒曜石は星蔵す

●「炎熱や」と言っていますから真昼です。黒曜石は灼熱の岩場にあって光った。それを星ととらえたのです。

○そうでしょうね。一方で、「黒曜石」といえば、武器・刃物等の素材として活用されてきた石器時代などのイメージがあり、「黒曜石」のそうした時代性みたいな観点から、「黒曜石」そのものが時代・時間を内包しているという捉え方があり得ますが、そうした膨大な時間の内包という意味では、「星」も似ていますよね。

●そう「黒曜石」は悠久の時間なんです。暗黒の宇宙なんです。「黒曜石」を白昼に置きそこに星を見た感覚に凄みを感じました。

大輪のダリアは光蹴りて咲く

●「ダリアは光蹴りて咲く」、いかにもまやさんらしい措辞でにんまりしました。

○通常の安易な表現では「光り輝く」的な言い様になりそうなところを、「光蹴りて」として「大輪のダリア」の擬人化によって主体性を如実に示した句ですね。

黒人の膚(はだへ)日に映え朱欒咲く

●さきほど黒曜石がありました。灼熱と黒との引き合いが好きな作者です。

○「朱欒」と言えば、九州、長崎をまずはイメージしますが、土地はあまり関係ないのかな。「朱欒咲く」なので、食する実の方ではなく、白い花が扱われているわけで、そういう観点からは「黒人の膚」との対照はわかりやすいとも言えそうです。

●白い花でなくてオレンジでもいいような気がしますがこれは作者の感覚の領域です。

大滝の無数の牙の落下せる

●水の落ち方を牙と見ました、それも無数の牙と。

○斬新な把握ですねえ。今回の一連の句の中で、私的には最も飛躍を要しそうな暗喩です。ものの見方として鳥瞰的視点とか虫瞰的視点とかが言われますが、本句は「大滝」から「落下する」水を虫瞰的視点によって分解して「牙」として捉え直したとの言えますし、一方で、「無数の牙」を言うことで、この「大滝」の獣性を見出したのだとすると、それは鳥瞰的視点とも言えそうです。

●去年の鷹11月号、星辰賞を滝関連の20句で桐山太志が受賞しました。奥坂はこの選考委員でしたが一人だけ認めませんでした。理由として桐山の「滝の中滝加速して落ちにけり」「滝落ちる半ば生まるる浮力あり」など滝そのもの句が類想的で弱いというのです。この句の発想の凄さ、大胆さを見るにつけあのときの奥坂の心情を納得せざるを得ない気持ちです。

「滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半」以来久々に出た滝の一物の傑作ではないでしょうか。


https://blog.goo.ne.jp/kitamitakatta/e/82ad72742197f14a3e6865584ad6d063 【世界探求派奥坂まやを読む】より

ヨミトモF子からメールが来て鷹1月号の奥坂まや作品はつまらないという。彼女は自分のブログに毎月奥坂まやの句を取り上げているらしいが今月は食指が動ないと嘆く。

F子はまず、「熟柿が遊蕩の色は誰かがやっているし、鵙の贄も驚かない。全体に既視感がある」と酷評する。

ぼくが昔から奥坂まやの信奉者でありいつでも贔屓することを知って、ぼくにまやさんを読んでみろ、とけしかける。

確かに奥坂まやが当時同じ五人会の姐御で初心のぼくをびしびし鍛えてくれた。

直接指導ということに関しては藤田湘子に次いでまやさんにお世話になった。以来まやさんの物への寄る鋭さ、世界を大摑みするダイナミズムなどに惚れこんでいる。

さてぼくの「永遠のマドンナ」奥坂まやの近作24句を鷹1月号からさかのぼって見て行く。

白昼

かなかなの溢れ出でては退るなり

まやさんはかなかなが好きだ。前月号もこれを詠んでいる。かなかなは鳴くときと休止の間に趣がある。たしかに「溢れ出で」るように声がふくらむ。ぼくは朝のかなかなを聴くことが多いが5時を過ぎて世間が明るくなると「退るなり」である。夜も真っ暗になるまでは鳴かず後ずさりするように消えてゆく。感覚的に実直にとらえている。

皆どこに往つたのか白昼のカンナ

「行った」でなく「往つた」のであるから自分が道にはぐれたとかいうような行楽の場面ではなかろう。カンナの赤や黄色が鮮やかなところでふと死者のことを思ったのだろう。現実のカンナのまばゆさが逆にいまここにいない人のことを感じさせたのである。

中央例会にこの句が出て加藤静夫が「この人は型を熟知して崩していますね」と言ったのが印象的。そう、破調にして欠損感を出している。

颱風来天の底ひを鳴らしつつ

颱風であるから「鳴らしつつ」は当然のことゆえ、奥坂クラスはここでちょっとした芸を見せる。それが「天の底ひ」である。天の底ひは「天網」という言葉に似てやや観念臭があるが句を深くする。「底ひ」といったことで空間に奥行をもたらしたのではないか。

ひくと腹うごめきさうな鵙の贄

ヨミトモF子が写生としてもの足りないという句である。

餌食になったばかりのなまなましい贄ではなかろうか。だから動きそうと見ている。素直な目の働き。奥坂のほかのダイナミックな句に比べれば地味だがこれはこれでいいのでは。

遊蕩の色となりたる熟柿かな

たしかにF子のいうように「遊蕩の色」は誰かがやっていても不思議でない比喩である。奥坂は一物を書くことを自分に課しているようなところがある。まあその意気をよしとしたい。

里山を斎きて木の実降りにけり

奥坂は感覚的に物をとらえることでは鷹の第一人者。ラグビーにおけるタックルのごとく物にぶち当たる体質が奥坂の句を諧謔から遠ざけ、世界探求派にしている。

いままでみてきた句もこれからみる句も物を感覚的にとらえるという奥坂のゆるぎない姿勢から生まれている。

けれどこの句はむしろ思想的であり斬新である。

「斎きて」<いつきて>がキーワード。

ぼくは奥坂自身に巫女的資質を感じひそかに「平成の巫女」などと思っているが、奥坂自身、「斎女」「斎王」にそうとう思い入れがあるのではないか。「斎く」は、心身を清めて神につかえるという意味だが、木の実が降るのが「斎く」ことであると、内容を人から植物に大胆に転化した。木の実が土を汚すという常識的な発想を打ち破ったことが新しい。

今月の6句の中で奥坂がもっとも深化した境地である。なぜヨミトモF子がここに気づかなかったのか。

(2018年鷹1月号)

灯の盈ちて回送電車夏の果

季語が秋の暮や暮秋ならまるで平凡。夏の果という輝きがすぐ前まであった季節ゆえさびしさなどもろもろの情感がある。

かなかなの声は時間の後ろより

たしかに蟬系の声は時間の経過をあやふやにし、時間という観念にゆさぶりをかける。作者にとってかなかなの声は時間と空間をあやしくしてくれる嬉しい使者なのだろう。

固練の靴墨のひび終戦日

瓶に入った靴墨。これは意外と早く使えないほど固くなってひびが入ってしまう。いいところをとらえている、さすがは物執着派の目の効かせ方。これぞ終戦日というきわめつきの句である。

まくはうり月のひかりを孕みけり

「孕みけり」で詩が立っている。万物の協応関係はアニミズムであるということを例示したような句。

くちびるの分厚き魚拓颱風圏

「くちびるの分厚き魚拓」ならぼくでも言えそうだが、颱風圏には驚いた。ぼくなら秋の風とか安易にやってしまいそうなところを颱風圏をもってきて、魚拓を生動させようとしたのが奥坂らしい。龍の絵から龍が飛び出ていくような幻想がわいてくる。

レモン一顆つめたき声のごとくあり

不思議な句である。もっと若いころの奥坂ならここで「ごとく」を出さずに、<レモン一顆つめたき声のひびきけり>と物をぶつける手を使ったのでは、とふと思った。実はこちらのほうが鮮やかで好きなのだが、作者はあくまで配合を拒否してレモンそのものを追い求めている。

攻撃の手が二つあり迷いそうなところで一物に舵を切った作者の心意気を感じた。

(2017年鷹12月号)

露一顆

炎暑なりダンプは砂利を逆落し

これは作者の自家薬籠中の素材であるし、表現の仕方でもある。危なげなくて楽しめる。

鉤並び屠場しづかや日の盛

鉤には肉がまだかかっていないと見る。けれど匂いは十分あってなまなましい。「日の盛」は奥坂の好みの季語でありこれを使わせたら鷹でナンバーワン。

熱帯夜都会は無音怖れけり

熱帯夜の東京が無音であったらと想像すると怖い。実際そういうことはなく夜も音に満ちているからこそ都会は安心と思う。「怖れけり」と擬人化しておもしろくなった。

月光の鉄扉の中へ列進む

ナチス兵が監視しているユダヤ人の行進を想像してしまった。鉄扉の中に入るとガスが出てなどと想像させるような内容で怖い。物を書き極めることで出る怖さ。

蒼穹の切先として鵙の声

感覚派の面目躍如の句。「蒼穹の切先」が言葉の発見。それはすなわち写生の醍醐味ということになる。

天日に露一顆なる地球かな

大胆な切り口である。地球に露一顆ではなく地球というものが露一滴であるという。それはいいとして「天日に」が意表を突く。灼熱の火の玉のもとの露一顆ということを凡百には考えられない。

こういう句があるから奥坂まやを「世界探求派」と呼びたくなる。「人間探求派」があるのだから。

       (2017年鷹11月号)

兵の墓

兵の墓直立不動にて灼くる

墓が「直立不動」は当然だが「兵の」で味わいを出した。小技を利かした句。

音と音諍ふ街や日の盛

<熱帯夜都会は無音怖れけり>を裏返したような内容。上五中七は街を端的にとらえていて秀逸。

納本のかがやく小口蟬しぐれ

かがやく小口から新しい紙の匂いがする。視覚、嗅覚を満足させてくれてとどめが聴覚に蟬の声。<天日に露一顆なる地球かな>というような大摑みに異能を発揮する作者だが、こういう小技も味わい深い。

皮引くや桃は慕情のごとうるほひ

この皮はすんなり長く広く剥けたのであろう。中身の桃の肌合、潤いが感じられる。慕情とはよく言ったものである。

盂蘭盆や蛇口より水むさぼれる

水を飲んだとき作者は死者を痛烈に思っている。哀悼の句といっていい。炎天では死者への思いなど出ないが、「盂蘭盆」でそれが濃厚。特に戦没者の霊を感じているにちがいないあ。南方で渇いて死んでいった人々を。

配線の黒く壁這ふ原爆忌

烈日が容赦なく当っているたぶん白っぽい壁の黒い電線を見て実直な原爆忌にした。この季語も奥坂の大好きなものでこの句を含めて原爆忌を5句以上は書いているだろう。

(2017年鷹10月号)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000