雲龍を遊ばせ富士の秋惜しむ 五島高資

Facebook新田 修功さん投稿記事  空を見上げて四季を感じる心……⁉️🤗💕

読書セラピー「賢者の一言」空海

春の花、秋の菊は、私に笑みを送ってきて、明け方の月、朝の風は私の汚れたこころを洗い流します。

………………………………✨✨✨

空海さんの心境には程遠いと思いますが、凛とした秋の空と、少し冷たい秋風に心が洗われるような気がします🙏🌈😊日本の四季って、本当に素晴らしいですね 🍁とくに秋の空と、爽やかな風が大好きです💕😊毎日忙しく、生活に追われている人がほとんどだと思いますが、少しだけ心にゆとりを持って、素晴らしい季節を感じてみてください🙏🤗

夏は「クソ暑いっ‼️」と言って文句を言い、冬になると「クソ寒い‼️」と言っててまたボヤく私たち……(クソをつけるのは関西人だけですか?🤣)

いやいや、ニューヨークで仕事をしていた時に、部下の1人がいつも言ってました。

「fucking cold !」🤣生きているうちに、暑さ寒さも楽しむ余裕が欲しいですね。

死んじゃったら感じないんですから😱とくに気候の良い春や秋は最高です🍁🤗

高い空と、流れる雲を眺めていると、気がつけば自然に微笑んでいる自分に気がつきます。

それが、幸せというものではないかと思う、今日この頃です 💕🤗🌈

今日も読んでくれてありがとう🙏


https://www.mizu-kuki.work/entry/2023/11/23/182116 【弘法大師空海のお話⑮ ~ 高野山での一休和尚、気取らない軽やかさ ~ 「法の水茎」137】より

法の水茎

お檀家さんがお持ちくださった菊の花。毎日の水やりが日課です。ずいぶん花が大きく開いてきましたね。見頃を迎えています。

さて、今月の「法の水茎」も「弘法大師空海のお話」です。今回は高野山上での一休さんの逸話について書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

※      ※

「法の水茎」137(2023年11月号)

 「月は明月の秋を知り、花は一様の春を知る」という諺があります。「月は輝くべき秋を知って冴えわたり、花は一面の春の訪れを知って開く」という意味です。この言葉はやがて「真の友はお互いに何も語らなくても心が通じ合うたとえ」としても用いられるようになりました。

 「春の花」に「秋の月」と称されるように、今も夜空には美しい月が照り輝いています。陰暦の八月十五夜と九月十三夜の名月を「二度の月」と言い、十三夜はその年の最後の月見とするところから「名残の月」と呼ばれます。お月見の季節は過ぎ去っても、まだまだ残り惜しく思います。月も同じように、秋との別れを寂しく感じているでしょうか。

  見る人もなくて散りぬる奥山の  もみぢは夜の錦なりけり (『古今集』紀貫之)

(見る人もいないのに散ってしまう奥山の紅葉は、まさに「夜の錦」であることよ)

 十一月に入って、あちらこちらから紅葉の便りが届いています。野山が赤や黄色に色づく景色に目を奪われますが、ふと思えば、夜も変わらず艶やかな錦の衣を纏っているのでしょう。春先の梅であれば、

  春の夜の闇はあやなし梅の花  色こそ見えね香やはかくるる(『古今集』凡河内躬恒)

(春の夜の闇はわけが分からない。梅の花は闇に隠れて見えないけれど、その香りまでは隠せやしないよ)

という歌があるように、香りによって存在が知られますが、秋の紅葉となるとそうはいきません。歌に見える「夜の錦」(闇夜の錦)は「夜は美しい着物を着ても誰にも見られず全く甲斐がないこと」を表しています。たとえ明るい月光が枝先に降り注いでも、錦織りなす紅葉のお披露目は難しいでしょう。夜の帳が下りても燃えるような秋景が広がり、晩秋の風に人知れず散り急いでいる姿にも思いを馳せたいものです。

  山春の開花発心進み  山夏の涼風煩悩醒む

  山秋の葉落は空亦空  山冬の素雪は寂亦寂

(春山の開花に信仰の心が起こり、夏山の涼風に心の苦しみから醒める。秋山の落葉には実体がなく、冬山の白雪はひっそりとして静か)

 この詩(し)は「一休さん」でお馴染みの一休宗純(1394~1481)和尚が、高野山に登られて作ったものと伝えられています。高野山の山々を眺めながら、四季折々の風情に仏様の心が詠み込まれています。法の花(仏法の花)に仏心(ほとけごころ)が芽生え、法(のり)の風に煩悩(妄念)が払われ、落葉の先の青空に空(くう)(因縁)を観じ、白雪に静寂(悟りの世界)を観ているのでしょうか。秋の「空」と冬の「寂」を合わせると「空寂(くうじゃく)」となり、それは「苦しみから離れた悟りの境地そのもの」となります。高野山の自然の移り変わりとともに心が深まりゆく有り様を見つめているのでしょう。

 一休さんの漢詩をめぐるお話は、次のようなものです。

 一休和尚が高野山に登られて、あたりの山々を眺めながら漢詩や和歌を考えていると、そこに高野聖(高野山に住む僧侶)たちが集まってきました。一休さんとは知らない聖たちは、本当に作れるのかと口々に笑って冷やかしました。すると「一首できました。硯と紙をお貸しください」と言って、先ほどの漢詩(山春の開花……)を一気に書き始めました。

 聖たちは感心しました。筆跡から一休和尚と分かると、これまでの無礼を謝り、下山しようとする一休和尚を高野山に引き留めます。そして、弘法大師空海(774~835)の頂相(ちんぞう)(肖像)の賛(画に添える言葉)をお願いしたのでした。

 一休和尚はお笑いになると、持ってきたお大師さまの肖像にさらさらと文字をお書きになりました。「弘法大師活仏(いきほとけ)、死ねば野はらの土となる」。聖たちは、この句に深い意味があるのだろうと思い、高野山上の学匠(学者)に見せたところ、ただ面白おかしく書かれているだけと教えられ、開いた口が塞がりませんでした。

          (『一休ばなし』)

 最初の漢詩とは打って変わって、お大師さまの肖像画にはやわらかな句を書き残したようです。学匠が語るように、この歌句を詮索するのは野暮なのかもしれません。お大師さまを盲目的に崇拝する高野聖への皮肉とも、あるいは高野山をお大師さまの「生ける浄土」(生き仏の浄土)として崇めた歌とも捉えることができるでしょう。一休和尚の気取らない軽やかさが伝わってくるようです。

  春の花秋の月にもおとらぬは  深山の里の雪のあけぼの (『建礼門院右京大夫集』)

(春の花や秋の月にも負けず劣らず美しいのは、深い山里の雪の明け方)

 一面の雪景色は、心穏やかな仏様のお姿なのでしょうか。春の花や秋の月と同じように、冬の雪霜(ゆきしも)とも「真の友達」になれたらと思います。


Facebook 草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

ハサンと教師

ある教師が、生徒たちに知識と人生の真理を教えていました。その生徒の中に、ハサンという特に熱心な若者がいました。

ある日、教師はハサンを呼び寄せ、尋ねました。

「君は、多くの学びを得た。今や知識の深さは、水差しに満ちた水のようなものだ。だが、その水差しの中にも、まだ空(から)の部分があることを知っているかい?」

ハサンは困惑し、答えました。

「先生。水差しに水が満たされていれば、もはや空気の入る隙間はないはずです。」

教師は微笑み、静かに言いました。

「よく見なさい、ハサン。知識の水差しが満たされても、その水差し全体が置かれている「空間」を忘れてはならない。水差しの中の知識は、君一人のものだ。しかし、水差しの周りの空間は、「愛」であり、「全てとのつながり」だ。」

「水差しがいっぱいだと満足するのではなく、その水差しが、より大きな愛と奉仕の空間に浮かんでいることを感じなさい。真の知恵とは、学んだ知識と、その知識を超えた無限の空の両方を知ることなのだよ。」

ハサンはハッと目覚め、頭を垂れました。最も大切な学びでについて理解したのです。

スーフィに伝わるたとえばなしのひとつです。教えを物語というカタチにするのは、読んだり聞いたりした人が「これは自分のことかな?」と立ち止まって考え、論理ではなく共感や感動を通して、伝わるからですね。

では、なにを伝えたかったのでしょう? 

「水差しに満ちた水」= 獲得した知識のことです。経験もそうでしょう。これまでに自分が得てきたもので、それはしばしば「物差し」とか判断「基準」になります。

一方の「水差しの周りの空間」は、 愛やつながりだと教えています。「空間」というのは、知識を生かす場所のことであり、他者と創り出す「つながり」のことですね。

水差しに満ちた水は、自分の中の「水差し」にとどまっていて、言ってみれば、ひとりよがりなものです。

知識は道具。その道具を何のために使うかが重要。「学ぶこと」と「人として生きること」のバランスについての教えなのですね。現代を見通したようなたとえ話です。


Facebookおのころ心平【公認Officialページ】投稿記事【三人の王子の口ぐせと「呼吸」】

FROM おのころ心平

昔々、セイロン(現在のスリランカ)に王子が三人いました。時の王様は三人の王子に宝探しを命じました。

第一の王子は、宝石があると思われる山に向かってわきめもふらずに進みました。

「急がなきゃ」「早く帰って、誰よりも早く宝を王様にお見せしたい」「あの山に向かって、がんばろう」と一心不乱です。途中にどんなすばらしいものがあってもそれを見つける余裕などありません。とにかく早く宝石を得るためがむしゃらに進みました。

第二の王子は、少々なまけ者でさぼりグセがあり、のんびり進みました。「はあ、疲れた」

「どうせ宝なんて見つかりっこない」「だって、王様が探しに行けって言うんだもの……」と

あまり前向きではないようです。

あるとき、彼が休んだ場所で足元に石が落ちていました。その石を拾い上げてみましたが

価値がないと言って捨ててしまいました。

第三の王子は、目的の山に向かって計画的に進みました。「あの山を目指して一歩一歩落ち着いて行こう」「探せるという保証はないけど、やれることをやってみよう」と思っていました。あるところで休息をとったところ、面白そうな石があったので拾い上げてみました。

よく見ると、その石は王様から命じられた目的の宝石とは違っていましたが、とてもすばらしいものだったので喜んで持ち帰りました。

このセイロンの三人の王子のお話がもとになり、「セレンディピティ」という言葉が生まれました。「セレンディピティ」というのは何か探しているものとは違っても、それ自体に価値があるものを見出す能力のことを言い、科学的、数学的大発見のときにもよく引き合いに出される言葉です。

* * *

第一の王子のような生き方だと呼吸は浅くなり、肩呼吸になりがちです。「肩で息をする」と言いますよね。100メートルダッシュなど激しく運動したときに肩を上下に動かして

ぜぇー、ぜぇーという感じ。

「肩呼吸」は、別に激しい運動などしていなくても、無意識のうちに肩を上下に動かしてしまってする呼吸のこと。30年以上にわたって呼吸の研究をしてこられた須郷昭氏によれば

●肩呼吸は、口呼吸になりやすい。(口呼吸については後述)●肩呼吸では、横隔膜が退化する。●肩呼吸では、肺に残気が残り、宿便のように古い気が蓄積される。

●人間は呼吸から老化するが、肩呼吸では酸欠しやすく老化が早い。

●肩呼吸は、睡眠時無呼吸症候群の引き金になる。(『奇跡の呼吸法』現代書林)

など、肩呼吸の弊害は多岐にわたります。

では、あなたの呼吸が肩呼吸傾向にあるかどうか、チェックしてみましょう。

吸う息の秒数を測ります。(携帯のストップウォッチ機能を使いましょう)

1) 背筋を伸ばし、椅子にまっすぐの姿勢で座ります。

2) まず肺にある空気を 全部出し切るつもりで吐きます。

3)吐き切ったとき、吸い始める瞬間に ストップウォッチを押します。

4)息を少しずつ吸っていって……

5)これ以上、吸えないという時点まで来たら、タイムを測ります。

おなかを使った複式呼吸のできている人は、50〜60秒まで吸いこめると言います。

ところが、肩を使った肩呼吸の場合は20秒以下です。(中には10秒くらいの人もいます)

* * *

いかがでしょう。自分の吸う息の力なさに愕然としてしまいましたか?

しかし、現代人の多くが肩呼吸になっているのです。その肩呼吸の弊害について、

次回記事でお伝えします。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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