Facebookわたなべ こうさん投稿記事『モデリングの力』😊
私たちは、環境や人から大きな影響を受けて成長します。
もし、自分がなりたい姿があるなら、そのモデルとなる人に直接会い、触れ、感じることが近道です( ◠‿◠ )
人は言葉だけではなく、雰囲気やエネルギーからも影響を受けます。
豊かな人と過ごせば、その豊かさの「周波数」に自分も同調しやすくなります。
これは単なる知識以上の、体感を通した学びです。
豊かになりたい→実際に豊かに暮らしている人に会いに行く
パートナーシップを充実させたい→ 幸せな関係を築いている夫婦やカップルに会う
起業したい→成功している起業家に話を聞く
愛と喜びに満ちて生きたい→愛や感謝を実践している人に触れる
うまくいっている人は、行動や思考のパターンだけでなく、感情の持ち方や人との関わり方にも特徴があります。
それを体験として受け取ることで、自分の中の「当たり前」が自然と書き換えられていきます。
自分が憧れる人の周波数(波動)に触れ続けることで、
思考•周波数(波動)が変わり、日々の選択も変化して、結果として自分もその姿へと近づいていきます╰(*´︶`*)╯♡
Facebook加藤隆行さん投稿記事
子どものころ、母ちゃんによく言われましたね。「よそはよそ、うちはうち!」
友だちが最新のオモチャやゲームを持ってたら、「ウチも買って!」とねだる。
でも母ちゃんは即答。「よそはよそ!うちはうち!」……あの一言、有無を言わせない破壊力でしたよね(笑)。「なんでウチだけダメなんだよ!」そう反抗しても、母ちゃんは鉄壁の防御で微動だにせず。でも大人になってみると、あれ、実はめちゃくちゃ大事な言葉だったなと思うんです。
だって我々、あれだけ「よそと比べるな」と言われて育ってきたのに、「立派に人と比べまくる人間」に育ってるんですもん(笑)。
「よそはよそ」どころか、むしろ「よそが基準」で生きている人ばかり。
SNS見て落ち込み、他人の幸せを見て焦り、“ウチ”のよさをすっかり忘れる。
そしてやっぱり、母ちゃんのあの言葉は “真理”。実は「うち」は、"家(うち)"だけじゃなくて、“内(うち)”のことでもある。
つまり、「他人と比べるより、 自分の内側を大切にしなさい」ってことだったんです。
“よそ”を見すぎると、心のカメラ(意識)が外ばかり向いて、自分の中がピンボケになる。
自分の気持ちが見えなくなって「本当はどうしたいのか」よくわからなくなる。
でも“うち(内)”にカメラを向けると、小さな幸せや、本音の想いが見えてくる。
そしたらはじめて「自分らしく」生きられるんですよね。
たぶん母ちゃんは、そんなこと考えずに言ってたんでしょうけど(笑)、
結果的には、悟りレベルの教えでした。「よそはよそ、うちはうち」——つまり、
「外じゃなく、内を見なさい」ってこと。外の世界を見て落ち込んだときほど、この呪文を唱えるといいですよ。「よそはよそ、うちはうち」「うちはうち」「内は内」母ちゃん、おそるべし(^ω^)
【「よそはよそ」の落とし穴】
昨日の記事は、みなさんの懐かしさに触れたのかご感想をたくさんいただきました。
「よそはよそ、うちはうち」
https://www.facebook.com/takayuki.kato.547/posts/pfbid02mSuRDtnDxSGEr9LvCSuCbzuX9PmWxmYQ2imwi3UGHMQMTTpzTA3DFfW22qBh2zC8l
そのご感想の中で「私も親からその言葉を言われて育ちましたが 結局なぜ私はそれでも人と比べる人間に育って しまったのでしょうか? 親に反抗していたからでしょうか?」
というご質問をいただきました。確かに当然の疑問ですよね。面白い(笑)
で、お返事を書き始めたら、そのお答えも、ほかの方からのご感想でいただいていました。
~・~・~・~・
かとちゃん、いつもありがとうございます。「よそはよそ、うちはうち」で思い出しました。
私も、そうやって育てられました。
ところがね、私がテストでいい点取れなかったとき給食が全部食べられなかったとき、
図工の作品が上手く作れなかったとき「なんでみんなできるのに、 おまえはみんなと同じようにできないのか」と、よく責められました(笑)
なんで、言ってることが違うの?と質問すると「口答えするな」と言われ・・・
だから私は、子どもと孫達には「よそはよそ、うちはうち」を使うときはとても気をつけて使っています。なんていいばぁばなんでしょう♡と、自分のことをほめています。
~・~・~・~・
以上でございます(笑)。親の側に一貫性がないとこの言葉は届かない。
結局は「うちはうち、そとはそと」「人は人、自分は自分」と、親自身が自分にできてないと
子供にその想いを伝えることはむりでしょうねー。いまでは子を育てる側になられた全国のみなさま、ご注意くださいませ。子どもに伝わるのは、言葉より“あり方”。
向き合うべきはいつでも自分でっせ(^ω^)
https://gospel-haiku.com/tubo/wakaru.html 【青畝先生の俳話No.2】より
やまだみのる
似たようなことを、ぼくも「作句の心がけ」に書いたと思いますが、 流石に青畝先生の俳話には含蓄がありますね。 機会あるごとに、「温故知新」のこころを説かれ、またご自身も常に挑戦者の気構えで新し さを求めて止まない。そんな先生のお人柄がよく現れている一文だと思います。
わかる俳句を 阿波野青畝(昭和22年8月)
俳句は三尺の童子にみせても大意がわかるような表現を用いたほうがよいと思う。俳句の内部に潜んだ思想とか象徴とかいった奥行の深さについては、とうてい三尺の童子では理解できるはずはないが、表面に現れた事柄は、誰が見ても日本語が分かるように同じようにわかるものにしたいものである。
徒らに奇をてらってみたり、日本語としてちょっと疑われそうなちぐはぐした措辞を得意としてみたりして、俳句を俗人には判らぬようにして、仲間の少数人にとっては非常に斬新極まるスタイルと構想であるかのように装う俳句というものがあるけれども、私はそうした難解な俳句に一向頭を下げようとは思わない。
その代りに意味が誰にも判り、誰にも作れそうに感じられるくらい親しさをこめた俳句のうちで、よく味わえば味わうほど句のひろがりが無限につづくように思われ、その対象が自分の前にありありと立っており、それこそこの大宇宙の生命がこもっていると言わねばならぬ奥の深さをそれとなく汲みとられる俳句があると、私は逆上して嬉しくなるのである。
そして私らの俳句修行は、どんなにむつかしい思想でも素材でも構成でも、ほんとうに自家薬籠のものとなるまで自分の身の内で燃焼させてしまって、どんな鋳型へでもつぎこんだらその通りの形のものを造ることのできるような具合に、三尺童子を相手にしてうなづかせてみせる平易さのところまで表現の工夫をくりかえす----俳句修行はすなわちかくの如くあるべしものと考えている。
大言壮語は素人をおどかすのに都合がよい。しかし真に人の生命をゆりうごかすものではない。 私らは人の生命をゆりうごかそうと念願する。それには表現という問題が一番大事になってきて、いいかげんなことで大言壮語を放ち、瞞着してはいけないのであって、ほんとうによくこなれた言葉が生まれるまで、自分を責める、自分の工夫をあくまでもやりとおす覚悟である。これは実に地味な仕事で、しんぼうの要することと思う。
けれども俳句においても流行がある。流行をはばむことがあってはならない。うまく流行を善導する用意を怠けてはならないと考えるのである。杓子定規を持っていてはならぬという一語を付け加えたいのである。
https://www.kkenichi.com/entry/2022/11/16/%E9%AB%98%E6%B5%9C%E8%99%9A%E5%AD%90%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%97%E3%81%9F%E4%BA%BA%EF%BC%9F%E5%BD%BC%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AD%A6%E3%81%B9%E3%82%8B%E6%95%99%E8%A8%93%E3%80%90%E6%B8%A9%E6%95%85%E7%9F%A5【高浜虚子とは何した人?彼から学べる教訓【温故知新の意味】】より
『まだ見ぬ世界と自分に出会えるブログ』へようこそ。
ライフコーチ、会社員、Kindle作家と三足の草鞋を履いている小泉健一と申します。
このブログではライフコーチの観点から心が楽になる考え方をシェアしたり、オススメの本や映画の紹介をしたりしています。
このブログを通して知らなかったコトやモノに出会え、新たな世界が開けるかも?!
本記事は歴史から学べる教訓について書いています。僕は歴史が大好きで、よく歴史の本を読みます。『歴史は繰り返す』とよく言いますが、歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ177人目は、明治から昭和にかけて活躍した俳人の「高浜虚子」です。
俳句の生みの親である正岡子規の弟子であり、彼が創刊した『ホトトギス』という雑誌を受け継いだのが高浜虚子。その『ホトトギス』から夏目漱石が小説デビューしたのは有名です。
「客観写生」という見たままを表現するということや、「花鳥諷詠」という自然を詠むということを大切にして、伝統的な俳句を継承しました。
高浜虚子の俳句は、俳句に詳しくない人が聞いても美しさを感じます。
「桐一葉 日当たりながら 落ちにけり 」「虹立ちて 雨逃げて行く 広野かな」
まさに俳句の王道でもあるような高浜虚子の句は今でも人気です。
そんな高浜虚子はどんな人だったのか。
彼の生涯をざっくりポイントのみ触れてわかりやすく解説し、そこから現代を生きる僕たちにもタメになる教訓をご紹介していきますね。
彼の生涯や功績を知ると、「温故知新とはどういうことか」が学べます。
高浜虚子とは何した人?
高浜虚子(Wikipedia参照)
若くして正岡子規の弟子に
高浜虚子は、1874年の明治時代に愛媛県にて生まれました。
本名は高浜清。気がつかれたと思いますが、高浜虚子というペンネームは清(きよし)の読みから来ています。師匠の正岡子規の命名です。
彼は14歳の頃、中学校で1歳先輩の河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう)と出会います。すごい名前ですよね。本名は「秉五郎(へいごろう)」。本名も凄い笑
この河東先輩とは、のちに正岡子規の弟子の二大巨頭として有名になりますが、後年は考え方の不一致で対立していきます。
当時は河東先輩のツテで、正岡子規と出会い弟子入り。
わずか10代で、正岡子規から俳句を教わることになるのです。そうして20歳の頃には「虚子」というペンネームを授かります。
雑誌『ホトトギス』を継承する
彼は20代の頃に、正岡子規から後継者となるように言われますが、なんと断ります。(学問をする気はないと言ったそうです…)
後継者になることは断ったものの正岡子規がサポートして柳原極堂という俳人が創刊した『ホトトギス』という俳句雑誌を、引き継ぐことを決めます。
俳句雑誌でしたが、高浜虚子は和歌や散文(小説)も掲載するようにします。
これがあったからこそ夏目漱石の『吾輩は猫である』『坊っちゃん』が生まれたのです。
俳句から離れるが…
彼は『ホトトギス』を受け継いだあたりから河東 碧梧桐と考え方の不一致で対立していきます。
そして高浜虚子自身も散文(小説)を書くようになり俳句から段々と離れていったのです。
しかし、河東碧梧桐が、正岡子規の死後に、従来の俳句の伝統を破るような破調の俳句「新傾向俳句」を主唱するように。これに異をとなえたのが高浜虚子。
「それは俳句じゃない」とメラメラと闘志が湧いてきたようです。高浜虚子はこんな歌を詠み、俳句に復帰することにします。「春風や 闘志いだきて 丘に立つ」
正岡子規の従来の俳句を守るため、河東と対立することを決意し、俳句への復帰の想いが感じられます。
晩年
高浜虚子は、30代後半からは神奈川県の鎌倉市に移り住みます。そして先述した俳句を詠み、句界に復帰するのです。
その後は、現代俳句協会という団体を設立したり、愛媛新聞の愛媛俳壇の選者を担ったりして俳句界を盛り上げていきます。
亡くなるまで約20万句も詠んだと言われていて、晩年は俳句に没頭した人生だったのです。
亡くなったのは1959年。享年85歳。明治に生まれ昭和まで生き抜きた彼は「守旧派」と名乗り古くからの俳句の伝統を守り抜いたのです。
温故知新の意味とは
僕が高浜虚子の生涯から学んだのは「温故知新のなんたるか」ということです。
「温故知新」とは、昔のことから学び、新しい見解や知識を得るということ。
まさに高浜虚子がそれを体現していたと僕は感じました。
俳句というものを作り上げた正岡子規の、5・7・5のリズムや自然を詠むということなどの俳句の伝統は守りつつ、『ホトトギス』では小説を載せたり自身も小説にチャレンジしたりしています。基礎を学びながらその幅を広げていくというやり方はまさに温故知新。これこそお手本となるような姿ではないでしょうか。
高浜虚子から学べる教訓
高浜虚子から学べる教訓は「温故知新をいかに実行するか」ということです。
昔からのやり方を踏襲するだけでもダメ。過去を振り返らず、新しいことばかりやってもダメ。「温故知新」こそ、何事も成功させるコツではないでしょうか。
松尾芭蕉の「不易流行」も同じような意味です。本記事を書いている意義もあるんだなと感じました。笑やはり歴史から学び、今に活かして未来を作っていきましょう。(以下略)
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