「現代詩の入り口」2

https://note.com/brainy_pansy893/n/n9e9aaf5af8dc 【「現代詩の入り口」 2 ー 切なくなりたいときには、辻征夫の詩を読んでみよう】より          松下 育男

これはもう僕の子どもたちや、あるいは、まだ生まれてきていない僕の孫たちの世代にも、必ずや言い伝えられるであろうと思われる、ほかでもない例の大震災が、ほんの2か月ほど前に、本当にあった。

実は今日の「辻さんの会」も、もっと早くに予定されていたんだけど、その震災のせいで延期されていて、やっとやることができたというわけだ。

で、この「書き物」は、せっかくのよい機会だから、一緒に辻さんの詩を読んでみようよと言う目的で書かれたもの。僕がずっと昔から愛してやまない詩人の、その中でも珠玉の10篇+1篇を、わくわくしながら読んでみようよということ。

僕は僕の素直な感想をここに書いてゆくつもりだけど、そこはすっ飛ばして、もちろん辻さんの詩だけを読んでもらっても、かまわない。

まずはじめは「風」という詩。何年前だっただろうか。僕は会社の人の結婚式に出席して挨拶を頼まれたときに、話の最後でこの詩を朗読したことがある。読んでみればわかるけど、これはとんでもなくまっすぐな恋愛詩。これほどの直球なのに、照れることなく声を出して読める恋歌を、僕はほかに知らない。たぶん恋愛ってこういうものだし、男と女がこの世にいるっていうことの意味も、この詩を読むとよくわかる。でも、試みてみればわかると思うけど、こういうふうには誰も書けない。自分が、好きな人に吹きつのる風なのだと、一日に一度思ってみるだけで、心はきれいに洗われる。そしてもし君がその時に恋をしていなかったとしても、君の中をすずしく通過してゆく風を、きっと感じることができる。

「風」

荒れる冬の海から 吹いてくる風が ひととき きみをつつんで またどこか とおくへ

吹きすぎて行く そんな 風のようなものだと わたしを思うことはできないか

吹き渡ることをやめ じっと 動かない風 それはもう風ではなく

やがてきみを息つまらせる 単なる空気だ きみが愛し きみを愛したのは風

だからこそ 出会いはあれほどに 鮮烈でありえたのではなかったか

吹きすぎ 吹き渡っても わたしは風 荒れる冬の海と春の荒野が わたしをたえず

きみのもとへおくりつづけてやまない

次の詩は、昔、テレビコマーシャルで山崎勉さんが、あの低く響く声で読んでいた詩。あれは何年前のことで、なんのコマーシャルだっただろう。自分の子どもに語りかけている詩だけど、この詩を読んだ人は誰だって、自分が小さな女の子になったかのような錯覚をしてしまう。で、生きているっていろんなむずかしいことや、辛いことがあるにしろ、とにかくこんなにきれいな詩を読んで、早々に寝てしまえば明日はやってくるさって、思えてくる。それに、眠るために目を閉じただけで誉めてくれる叔父さんが、ホントにどこかにいると思えば、わけなく寝付くことができるというもの。

「桃の節句に次女に訓示」 

なくときは くちあいて はんかちもって なきなさい こどもながらによういがいいと

ほめるおじさん いるかもしれない ぼくはべつだん ほめないけどね

ねむるときは めをとじて ちゃんといきして ねむりなさい

こどもながらによくねていると ほめるおじさん いるわけないけど とにかくよるは

ねむりなさい

ふたたび恋愛詩を読んでみよう。次の詩は、男と女の接近を書いている。あんまり接近するとどうなるかを描いている。でも、男と女が接近する時って、お互いに尋常な心持ではなくなっているときに違いない。あとで考えると、どうしてあんなに不自然で面倒なことをするエネルギーがあったんだろうと不思議になる。でも、不思議でもなんでも、鼻と鼻がくっついて息苦しくなるほどに愛してしまった人たちの末路を、この詩はあたたかく描いている。

「婚約」

鼻と鼻が こんなに近くにあって(こうなるともう しあわせなんてものじゃないんだなあ)

きみの吐く息をわたしが吸い わたしの吐く息をきみが 吸っていたら わたしたち

とおからず 死んでしまうのじゃないだろうか さわやかな五月の 窓辺で 酸素欠乏症で

次は、人から人へ伝えられる言葉ってこんなに美しいものだったのかと、あらためて思い知らされる詩。言いたいことがあって、言いたい相手があるっていうときには、書こうと思わなくたって詩ができてしまうのかもしれない。「はるか」っていう言葉の響きが、ほんものの「はるかなもの」よりも、ずっとすがすがしく感じられるのはなぜだろう。もしかしたらこの世の中は、「はるか」っていう言葉の方が先にできて、それからさまざまなものが創られたのかと、思ってしまうほどだ。

「弟に速達で」

さいきんおばあちゃんには あったか? おばあちゃんとは ノブコちゃんのことで

ははおやだわれわれの

まごがうまれて はるかという名を かんがえたそうだなおばあちゃんは

雲や山が 遠くに見える ひろーい感じ とおばあちゃんは いったのか電話で

おれはすぐに すこしゆるゆるになったらしい おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した

あれはおれが 三十才で なんとか定職についたとき 五回めか六回めの賃金で買ったのだ

おれのはじめてのおくりもので とてもよろこんでくれた なにしろガキのころから

しんぱいばかりかけたからなおれやきみは じゃ おれは今夜の列車で 北へ行く

はるかな山と 平原と おれがずっとたもちつづけた 小さな夢を 見てくる

よしんばきみのむすめが はるかという名にならぬにしろ こころにはるかなものを 

いつも 抱きつづけるむすめに育てよ 北から 電話はかけない

純粋な詩の読者なら問題はない。思う存分辻さんの詩を読んで、うっとりしていればそれでいい。でも、僕のように詩を書く人間には、時々辻さんの詩を読むのが辛くなることがある。というのも、こんなにすごい詩が辻さんに書かれてしまっているのに、なんで僕なんかが今さらへたくそな詩を、書く必要があるのだろうと思ってしまうから。だから辻さんの詩は、さしあたって詩の締め切りがない時に読むことにしている。次の詩も、締め切り前には読まない方がいい。「夕日」や「夕焼け」は、辻さんの詩の中に時々現れる。たしかに、詩にななめに射し込んでくる真っ赤な光は、僕には眩しくて仕方がない。

「挨拶」

 ――結婚に際して いくこよ おれのあたまのなかは いつもいつも夕焼けなんだ

夕日が八輌乃至十輌連結で 次から次に沈んで行く……

いくこよ おれを夏または秋の 日暮れの 燃える空だと思え

やがて来る(だろう) おれの夜には 星はおまえが輝やかせよ

次は奇妙な詩。あるいは恐い詩、と言ってもいいかもしれない。子どものころに見た夢のようなもの。でもすごくリアルだし、それにだれもが一度は感じる、生きていることの「心もとなさ」をとても的確にあらわしている。言うに言われぬ焦燥感であったり、どうしてもとどかないものに差し伸べる手であったり。生きるってすごく素敵なことだけど、そんなに単純でもないよってことを、教えてくれる。「心もとなさ」って、生まれたことの中心にあるような、気がする。

「突然の別れの日に」    

知らない子が うちにきて 玄関にたっている

ははが出てきて いまごろまでどこで遊んでいたのかと 叱っている

おかあさん その子はぼくじゃないんだよ ぼくはここだよといいたいけれど

こういうときは 声が出ないものなんだ

その子は ははといっしょに奥へ行く

宿題は? 手を洗いなさい! ごはんまだ? いろんなことばが いちどきにきこえる

ああ今日がその日だなんて 知らなかった ぼくはもう このうちを出て

思い出がみんな消えるとおい場所まで 歩いて行かなくちゃならない

そうしてある日 別の子供になって どこかよそのうちの玄関にたっているんだ

あの子みたいに ただいまって

次の詩は、昔の恋人に偶然に街中で会ってしまったという詩。読んでみればわかるけど、、恋人だった人は子供を連れているから、すでに結婚をしているわけ。たぶん、まだ好きだった時の感情が、多少は残っている中で、男はどのようにこんな立場を乗り切ることができるか、ともかくすごく勉強になる詩。それにしても、ここに出てくる昔の彼女って、なんだかずいぶん無神経に感じられるし、男の方は、情けないほど優しい。おそらく世の大半のカップルは、こんな力関係なのかもしれない。でも、ぼくがこの男なら、さすがに彼女の亭主の為に買い物に付き合うなんて、できない。

「池袋 土曜の午後」

土曜の午後 池袋で まだ忘れない恋人に ばったり出会った

彼女は片手に ハンドバッグを持ち 片手で 小さな男の子の手をひいていた

土曜の午後 池袋で 二人で じゃない三人で 歩いた

語るべきこころの問題は かつて語りつくし その他のはなしはそらぞらしい だから

黙って歩いた 土曜の午後の 池袋を

レストランで 食事をした ぼくは食事をすませたばかりだった

彼女はぼくに 大きなケーキを食べさせたがり

ぼくは食べた――おなかはもういっぱいだったから こんどいっぱいになるのは どこだろう

デパートの 食品売場で買物をした

今日は土曜日で 彼女のXが 友だちをマージャンによぶ日

ぼくは選んだ チーズ 燻製ニシン 即席ラーメン ビールは あなたのうちにあるだろう

ぼくはマージャンはできないけれど 徹夜には ざっとこんなものが必要

それから 彼女はぼくを 自分のうちにつれて行きたがり

ぼくは首をふった もちろん横に―― ね もう過ぎ去ったことなのだから

みんななにも知らないし それに知っていたって少しもかまわない――

いやだめ ぼくは行きたくない 会いたくない彼に 今日は ひとりで帰りたまえ

たぶん これからもずっとひとりで!

彼女はぼくを 駅まで送ってくる(送るだけならいいでしょ!)

駅で 電車がきて ぼくはそれに乗り それから ドアがしまる

すると電車は――別に不思議じゃないのだが ゆっくりと 動きはじめる

土曜の午後の 池袋の駅を

次は、再び不安な詩。大人になるとさっぱり忘れてしまうけど、子どもの頭の中には、子どもの頭の中の世界という物がある。たいていのものに、驚きのまなざしを持ち、実際に日々、驚いてもいる。いやなことはすごくいやに感じられ、恐いことはとほうもなく恐い。その恐さって、理屈ではなくて、おそらく「生きている」ことの核からにじみ出ているものなんだと思う。詩に出てくる「まつおかさんの家」のようなものは、誰しも子どものときにはひとつはあって、でも辻さんのようには、おとなになっても覚えているということは、ない。

「まつおかさんの家」

ランドセルしょった 六歳のぼく 学校へ行くとき いつもまつおかさんちの前で

泣きたくなった

うちから 四軒さきの 小さな小さな家だったが いつも そこから

ひきかえしたくなった

がまんして 泣かないで 学校へは行ったのだが ランドセルしょった 六歳の弟

ぶかぶかの帽子かぶって 学校へ行くのを 窓から見ていた ぼくは中学生だった

弟は うつむいてのろのろ 歩いていたが いきなり 大声で 泣きだした

まつおかさんちの前だった

ときどき 未知の場所へ 行こうとするとき いまでも ぼくに まつおかさんちがある

こころぼそさと かなしみが いちどきに あふれてくる ぼくは べつだん泣いたって

かまわないのだが 叫んだって いっこうに かまわないのだがと

かんがえながら 黙って とおりすぎる

 次は、ちょっと毛色の変わった詩。時代劇だ。辻さんが日本で初めて、詩で時代劇を書いた。(ということは、世界で初めてということだ)。そんなもの書いたって、まともな詩にはならないと、みんなが思っている中で、というか、だれもそんなことは思いもつかなかった時に、辻さんだけが詩の時代劇に手をつけた。で、読んでみればなんとも味わい深い作品で、ゆったりとテレビを観ているような気持ちで鑑賞できる。なんていうかな、そんじょそこらの詩人ではなく、まさにプロが作り上げたっていう感じの詩。特に最後の3行が、想像を絶するほどに美しい。 

「とおくの、白い雲」

前世で、ぼくは宮本武蔵だったのではないだろうか。

 おねがいでござる、と、地べたに坐って、こうべを垂れていた記憶がぼくにはある。ぼくの前には、逞しい中年の僧がひとり立っていて、ぼくは彼に、もうさっきからなんべんも頭をさげて頼んでいるのである。

 どうか、おねがいでござる。拙者がこの円のなかに坐ったら、拙者のまわりに、葦簾(よしず)をずっと張りめぐらせて下され。どうか、おねがいでござる。

 ぼくのかたわらの地面には、すでに直径二メートルばかりの円が、棒で描かれてあった。その円のなかに坐り、ぼくはこれから、なにごとかを考えはじめようとしているのだったが、いったいなにを考えたらいいのか、ぼく自身にはちっともわかってはいなかったのだ。ただ、さっき和尚から、この円を示され、ここに坐っておれ! と一喝されたとたんに、ぼくの胸はもう、ここでそうして坐っているあいだ、ぼくはたえず人目に晒されているのだ、カラスや狐もぼくを見るのだという思いでいっぱいになり、思わず、和尚、それだけはいやでござる! と口走ってしまったのである。考えることはむろん、杖で打たれることも厭わないが、人目に立つことだけは我慢できない。

 もういちど、おねがいでござる、と頭を下げたが、和尚はこたえず、とおくの、白い雲を眺めていた。

とおくで、

白い雲が、

どうかしたのだろうか

 次は、「かぜのひきかた」という詩。もう、詩の中身を読まなくても、どんなにすごい詩か、題名が表している。だって、風邪をひくことを、How to で考えるなんて、もう見事に新しい発想だし、こんな素敵な発想が空から下りてきたら、誰だってそこそこの詩には作り上げることができる。でも、辻さんのこの詩は、題名よりも中身はさらにすごい。個人的には、僕が子どもの時に、風邪をひいて熱を出した時に、母親がいつもより優しい接し方をしてくれたことを思い出す。でもこの詩は、そういうことではなく、もっと大切な、まさに「かぜのひきかた」について書いてある。読み終わったらたいてい、鼻水たらして泣けてくる。

「かぜのひきかた」   

こころぼそい ときは こころが とおく うすくたなびいて びふうにも みだれて

きえて しまいそうになっている こころぼそい ひとはだから まどをしめて あたたかく

していて これはかぜを ひいているひととおなじだから ひとは かるく かぜかい?

とたずねる それはかぜではないのだが とにかくかぜではないのだが こころぼそい 

ときの こころぼそい ひとは ひとにあらがう げんきもなく かぜです 

つぶやいてしまう すると ごらん さびしさと かなしさがいっしゅんに さようして

こころぼそい ひとのにくたいは すでにたかいねつをはっしている りっぱに きちんと

かぜをひいたのである

 最後は、時代劇どころか、人類出現前のことにまで思いをはせている詩。詩を書く人たちって、たいてい、不幸や悩みをたくさん背負っているんだぞって人に見せたがる。でも辻さんって、そうじゃない。まとめるつもりはないけど、辻さんのすごさって何かなと考えた時に、もちろんいろんなすごいところはあるけれど、中でも、詩に「おおらかさ」を与えてくれたことなんじゃないかなと、思う。だから最後は、すごくおおらかな詩。掛け値なしに、おおらかな詩。

「春の問題」

また春になってしまった これが何回目の春であるのか ぼくにはわからない

人類出現前の春もまた 春だったのだろうか 原始時代には ひとは

これが春だなんて知らずに(ただ要するにいまなのだと思って)

そこらにやたらに咲く春の花を ぼんやり 原始的な眼つきで

眺めていたりしたのだろうか 微風にひらひら舞い落ちるちいさな花

あるいはドサッと頭上に落下する巨大な花

ああこの花々が主食だったらくらしはどんなにらくだろう

どだいおれに恐龍なんかが 殺せるわけがないじゃないか ちきしょう

などと原始語でつぶやき 石斧や 棍棒などにちらと眼をやり

膝をかかえてかんがえこむ そんな男もいただろうか

でもしかたがないやがんばらなくちゃと かれがまた洞窟の外の花々に眼をもどすと……

おどろくべし! そのちょっとした瞬間に 日はすでにどっぷりと暮れ

鼻先まで ぶあつい闇と 亡霊のマンモスなどが 鬼気迫るように 迫っていたのだ

髯や鬚の 原始時代の 原始人よ 不安や いろんな種類の おっかなさに

よくぞ耐えてこんにちまで 生きてきたなと誉めてやりたいが きみは すなわちぼくで

ぼくはきみなので 自画自賛はつつしみたい

        (平成23年5月14日)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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