Facebookあいことばさん投稿記事
吉野弘さんが書いた「夕焼け」という詩をご紹介いたします。感じるものがあります♪
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いつものことだが 電車は満員だった。 そして いつものことだが若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。うつむいていた娘が立ってとしよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。別のとしよりが娘の前に横あいから押されてきた。娘はうつむいた。
しかし 又立って 席を そのとしよりにゆずった。としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。二度あることは と言う通り別のとしよりが娘の前に 押し出された。
可哀想に。娘はうつむいてそして今度は席を立たなかった。次の駅も 次の駅も
下唇をギュッと噛んで身体をこわばらせて。僕は電車を降りた。固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主はいつでもどこでもわれにもあらず受難者となる。
何故ってやさしい心の持主は他人のつらさを自分のつらさのように 感じるから。
やさしい心に責められながら娘はどこまでゆけるだろう。下唇を噛んでつらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。
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やさしい人の「心」を見ていてくれる人がいます。唇を噛んでこらえているのを見ている人もいます。やさしさは、どれだけ相手の立場を考えられるか?
相手のことを思えるか?人には人の事情や思いがあるものです。
この娘も、3人目のご老人が目の前に立ったところから、この娘をみると「席を譲らない娘」に見えますが、 最初から見ていた人には「勇気を出して2回も席を譲った娘」です。
だれかを非難している人がいますが、「その出来事の全てを見たうえで言っていますか?」と思ってしまいます。
一部の断片的な情報だけをたよりに、人を責めたり傷つけたり・・・ その部分だけ注目されたら、確かに「悪人」にも見えますが、それが本当に答えでしょうか?
僕は、孟子が言う「性善説」を信じたい。
性善説とは、人間の本性は基本的に善であるとする教えですが、本来ひとは皆、誰かを思っているし、本当の悪人はいないと信じたい。
とはいえ最近は、残虐なニュースが多く、胸が締め付けられる思いですし、しっかりと罪を償って頂きたいのですが、 生まれながらにしての「悪人」はいない筈です。
もしかしたら、この詩の娘も、2回譲ったのに、3回目たまたま譲らなかったシーンを、たまたま誰かに咎められたらどうでしょう。
次からは、もう席を譲らなくなってしまうかもしれませんし、電車に乗るのが嫌になってしまうかもしれません。
逆に、この善行を見ていた大人が、2回も偉いね♪って言葉を掛けていたら、また譲りたくなるかもしれません(*^_^*)
情報の断片だけで判断せず、しっかりと相手の優しさや相手のしてきたことを見れる大人でありたいと思いました♪
※魂が震える話より
https://note.com/brainy_pansy893/n/nb1c26ecb7502 【「現代詩の入り口」3 - 言葉と二人きりになりたかったら、吉野弘の詩を読んでみよう】より 松下 育男
松下 育男
2023年8月3日 10:00
「現代詩への入り口」3
― 言葉と二人きりになりたかったら、吉野弘の詩を読んでみよう
本日は吉野弘さんの詩を読んでみようと思います。吉野さんは、言葉とその意味について、真っ正面から考え続けた詩人です。珠玉の作品がいくつもあります。どんな時代になっても、あるいは、詩のことをなにも知らない人が読んでも、読み終えた瞬間、小さな溜息をついて、しばらく動けなくなります。そのような詩を、たくさん書いた詩人です。
*
「Burst
花ひらく」
事務は 少しの誤りも停滞もなく 塵もたまらず ひそやかに 進行しつづけた。
三十年。
永年勤続表彰式の席上。
雇主の長々しい讃辞を受けていた 従業員の中の一人が 蒼白な顔で 突然 叫んだ。
――諸君!
魂のはなしをしましょう
魂のはなしを!
なんという長い間、
ぼくらは 魂のはなしをしなかったんだろうーー
同輩たちの困惑の足下に どっとばかり彼は倒れた。つめたい汗をふいて。
発狂
花ひらく。
――又しても 同じ夢。
☆
「burst」について 松下育男
あまりにも有名な詩で、なにを言ったらいいのか難しく感じます。この詩はいくども思い返します。きっかけがなにもない時にも、「魂のはなしをしましょう」という詩句は、僕の頭の中に響き始めます。吉野弘さんのことを思う時、どうしても「魂の詩人」と思ってしまうのは、この詩のためであろうと思います。それほどにこの発狂は衝撃的でした。衝撃的なのは、この発狂が発狂とは感じられないからなのです。むしろ、ここで突然「魂の話をしましょう」と言い出さないたくさんの人々の方が発狂しているのではないかと、思ってしまうからです。
ここで言っている「魂の話」というのは、「本音」と言い換えることもできます。生きていて、いろんな枠組みやルールのもとに、日々考え、ものを話し、行動をしているけれども、それはあくまでも多くの抑制を自分にかけた上でのことです。本当に思っていること、本当にしたいことは、違うはずなのです。でも、だからと言って、言いたいことをお互いに言っては、まとまる話もまとまらないし、やりたいことをやっていてばかりでは、継続的な安定した生活を送ることができません。ですから、世の中そう単純ではないわけです。毎日、しがらみの中で生きていると、考えること、話すことが、自分の話せることのすべてであるように感じてしまいます。そうしている方が楽だからです。この詩は、そういう人に、「面と向かって言いたいことを言いましょう、一番大切なことを話しましょう、それが生きているということなのではないですか、」と問い詰めています。
この詩を思い出すたびに、僕はどれほど真剣にものを言ってきたかを振り返り、反省をさせられます。
この詩の最後は、じつはこれは夢の中のことであったと、救いを用意しています。でも、これは本当に救いになっているでしょうか。詩の中の人にとっては、「ああ、自分は狂ってはいなかった、あんなにみっともないことをしたわけではなかった」と安堵するのでしょう。でも、この詩を読んだ人は、「魂の話を今しなくてもいいのか」とずっと思い続けるのです。詩の中の人は夢から覚めますが、詩を読んだ人は、ずっと夢の中でこの詩を見続けるのです。
*
「奈々子に」
赤い林檎の頬をして 眠っている 奈々子。 お前のお母さんの頬の赤さは そっくり
奈々子の頬にいってしまって ひところのお母さんの つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと 酸っぱい思いがふえた。
唐突だが 奈々子 お父さんは お前に 多くを期待しないだろう。
ひとが、 ほかからの期待に応えようとして どんなに 自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり知ってしまったから。
お父さんが お前にあげたいものは 健康と 自分を愛する心だ。
ひとが ひとでなくなるのは 自分を愛することをやめるときだ。
自分を愛することをやめるとき ひとは 他人を愛することをやめ 世界を見失ってしまう。
自分があるとき 他人があり 世界がある。
お父さんにも お母さんにも 酸っぱい苦労がふえた
苦労は 今は お前にあげられない。 お前にあげたいものは。
香りのよい健康と かちとるにむづかしく はぐくむにむづかしい 自分を愛する心だ。
☆
「奈々子に」について 松下育男
読めばそのまますべてがわかる、解説のいらない詩です。今回、「詩の教室」で奈々子さんご自身にこの詩を読んでいただきました。とても貴重な体験だなと思いながら僕は聞いていました。詩の当事者、ということでは作者よりも関わりが深い人が読む詩ってどうなのだろうという思いで、耳をすましていました。すばらしくも忘れられない時間になりました。
で、教室でも少し話したのですが、この詩は奈々子さんに向けて書いた詩であり、同時に、そうでない詩とも言えます。言うまでもなく、これはすべての子供達(ひいてはすべての人たち)に向けた吉野さんのメッセージでもあります。
言っていることは大きく二つです。
一つ目は、「お父さんは お前に/多くを期待しないだろう。」というところ。期待をされることが、どれほど子供の心の負担になるかということで、これはもちろん子供のことを言っているだけではなくて、自分自身にも向けています。というのも、この言葉のちょっと前には、「お父さんにも ちょっと/酸っぱい思いがふえた。」と書いていて、酸っぱい思いというのはおそらくつらい思いや悔しい思いのことを含んでいるのではないかと思われます。吉野さんご自身が生きていて何か嫌な経験をしたか、そうした思いに苦しめられたものだろうと想像されます。その嫌な経験は、吉野さんがだれかの期待に応えようとして大変な思いをした、そういうことなのではないかと思えます。それがどのような経験であったかということは、敢えて書いてありません。せめて娘には、過剰な期待の外で、ゆるやかな思いの中で生きて欲しいということなのでしょう。
メッセージの二つ目は「自分を愛する心」を持ちなさいと言うことです。」このメッセージは、一つ目の期待に答えようとして頑張りすぎるなというのと、繋がっています。自分というものがどのようにできあがっていても、たとえ人よりも劣っているところがあったとしても、あるいは人とうまく行かなかったとしても、何ものと比較することなく、自分は自分を愛してあげなさい、というメッセージです。考えてみれば、つらいときというのは、自分が劣っていると感じていたり、楽しくないと感じていたりする時です。どんな自分でも愛していなさい、というのは単純なメッセージではあるけれども、たしかにこれ以上に大切なものは思い浮かべられません。
この詩はすべての子供達に向けたメッセージなのですが、やはりきっかけは奈々子さんへの思いです。詩は、一人に向けて書かれたものこそたくさんの人の胸を打つということを、あらためて気付かせてくれます。
この詩で僕が一番好きなのは最後のところです。「かちとるにむづかしく/はぐくむにむづかしい」。とてもきれいな言葉です。「かちとる」、「はぐくむ」。適切なところに置かれた日本語は、なんと美しく受け止められるものかとため息が出てきます。
*
「I was born」
確か 英語を習い始めて間もない頃だ。
或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように、白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。
女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
女はゆき過ぎた。
少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
ーーやっぱり I was bornなんだねーー父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだねーー
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。
父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。――蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってねーー
僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日、これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると、その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとま
で こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。
父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
ーーほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。
☆
「I was born」について 松下育男
この有名な詩については、これまでさまざまな人の多くの鑑賞文がありますから、僕が付け加えることはありません。あるいは、どんな鑑賞文を必要とせずとも、この詩は受け止められ、打ちのめされるほかはありません。それにしても、幾度読み直しても、そのたびに胸を打たれます。それはどうしてだろうと思うのです。もうこの詩の内容は知っているのに、しばらくして読み直すと、またあらためて感動してしまう。それはどうしてだろう。いろんな詩人の傑作詩を多く読んできたけれども、その中でも、この詩は特別に思えます。幾度読み返してもそのたびに迫ってきます。
その理由を僕はわからないけれども、ひとつは、やはり詩の主題が命そのものについての事だからなのではないだろうか。「世に生まれ出ることの不思議」「それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ」「ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体」。これらの詩行を平静な気持ちではどうしても読めません。詩の方へ強く惹かれてしまいます。
「蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが」とあり、ここ読んだ時には、なんと短い命なんだと思う後で、いや、蜉蝣のの命の二、三日と人の命の八十年と、何の違いがあるだろうと、思ってしまいます。この詩に書いてあるのは、生きることに限りがあることのどうしようもない切なさであり、その意味で、あらゆる存在の悲しみでもあります。なんと壮大な詩だろうと思います。そして、その限りある命を受け継いでゆくことに、むなしくもあり、それでいてとほうもなく尊い意味に、この詩は満ちています。そう思います。
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「夕焼け」
いつものことだが 電車は満員だった。 そしていつものことだが 若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。 うつむいていた娘が立って としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。 礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。 娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に 横あいから押されてきた。娘はうつむいた。 しかし 又立って
席を そのとしよりにゆずった。としよりは次の駅で礼を言って降りた。娘は坐った。
二度あることは と言う通り 別のとしよりが娘の前に 押し出された。
可哀想に 娘はうつむいて そして今度は席を立たなかった。
次の駅も 次の駅も 下唇をキュッと噛んで 身体をこわばらせてーー。
僕は電車を降りた。 固くなってうつむいて 娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる。
何故って やさしい心の持主は 他人のつらさを自分のつらさのように 感じるから。
やさしい心に責められながら 娘はどこまでゆけるだろう。 下唇を噛んで つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。
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「夕焼け」について 松下育男
この詩もとても有名です。僕はたぶん教科書で読みました。一度読んだら決して忘れられない詩。どうしてそんな詩が書けるんだろうと思います。
この詩に胸を打たれるのは、美しい描写でも見事な比喩によるものでもなく、共感を呼ぶことができるからなのだろうと思います。電車やバスに乗って、疲れていて、席が空いていれば座りたくなるのは当たり前。そんな時に限ってお年寄りが目の前に立つ。そんな経験はだれでもしてきているし、その時に、瞬時に席を譲る時もあるし、疲れていると、立つべきか、眠ったふりをしてそのままやり過ごそうかと悩んだことは誰にでもあります。誰にでもあって、誰もがつらく悩むことが詩の中に書いてあれば、この女性はどうしたろうと、身を乗り出して詩をさらに読みたくなるというわけです。
この詩の女性の気持ちの揺れは痛いほどにわかります。一人目の老人の時、二人目の時の気持ちも分るし、三人目に立たれた時に、身を細くして座っていたつらさも、読んでいるこちらにそのまま伝わってきます。すごい詩だなと思います。読んでいるこちらも、詩の前で身を細くしてドキドキしてしまうわけです。
詩の後半は、このような出来事のあとについての吉野さんの感想が書かれています。詩としては、「固くなってうつむいて/娘はどこまで行ったろう。」で終わってもなんら問題はありません。それでも間違いなく傑作です。でも吉野さんはどうしてもこの出来事についてまとめのコメントを書きたくなったようです。「やさしい心の持主は/他人のつらさを自分のつらさのように/感じるから。」と書いてあります。なるほど優れたまとめ方だなと思います。こうして書いてあれば、詩はさらに読み手に詩の内容を理解してもらえます。
久しぶりにこの詩を読んで、なぜ吉野さんは最後の方で、こうして解説まがいのことを書きたくなったのだろうと気になりました。それはおそらく、この詩を書きながら、吉野さん自身がこの詩にいたく感動して、その感動を表明したくなってしまったのだろうと思われます。
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「生命は」
生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい
花も めしべとおしべが揃っているだけでは 不充分で 虫や風が訪れて めしべとおしべを仲立ちする
生命は その中に欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分 他者の総和 しかし 互いに 欠如を満たすなどとは 知りもせず
知らされもせず ばらまかれている者同士 無関心でいられる間柄
ときに うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように 世界がゆるやかに構成されているのは なぜ?
花が咲いている すぐ近くまで 虻の姿をした他者が 光をまとって飛んできている
私も あるとき 誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき 私のための風だったかもしれない
☆
「生命は」について 松下育男
根底から新しいことに出会った時には、驚きはするけれども、その驚きにはすぐに慣れてしまいます。けれど、すでに知っていることについて、ちょっと違う見方を示された時には、驚きはずっと続きます。示されたことに対する驚きだけではなく、そういう感じ方をすることができる人そのものにも驚いてしまいます。
生き物がそれ自身で命を生み出すことができない、という考え方を私たちすでに知っています。でも、それを詩にしようとは思いません。なぜなら、だれでもが知っていることだからです。ところが吉野さんは、そういっただれでもが知っていることをあらためて詩にします。そして、誰でもが知っていることに、新しい感じ方、見方を示してくれます。
「生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」のところを読んだ時に、ぼくはため息をつきました。こんな感じ方ってあるんだと思いました。言われてみればそういうことかと、わかりました。ここにある、私たちがここにいる、ということはまさに、「いる」「ある」ということです。それなのに、「いる」「ある」ということは、それ自身の中に「いない」「ない」を含んでいるのだというのです。その「いない」「ない」は別の「いる」「ある」が手を貸してくれて、次の「いる」「ある」に命が受け渡されるということだと、吉野さんは言っています。こんなふうに感じることができるって、すごいなと思うわけです。
この詩は、でも一連目の発見だけでは終わっていません。僕だったらここで詩を終えるなと思います。だって、こんなにきれいな終わり方をしているのだから、これで立派に一篇の詩になっているわけです。でも吉野さんは、さらに続けます。二連目では、手を貸してくれる命の受け渡しの他者がお互いに無関心であったり、時に疎ましくも感じられると書いてあります。きれい事の詩では終わらせない、もっと奥があるじゃないかと、吉野さんは自分の書いている詩の奥に目を凝らしています。
そういうものなんだよと、吉野さんは言っています。誰かの手助けが必要であって、でもその誰かはすぐ側にいるかもしれない。わたしはその人のためになにもしてあげていないと思っているのに、実はいるだけで手助けになっていたりもする。生きて行くって不思議なものなんだなと、肩をたたかれているようです。
「私も あるとき/誰かのための虻だったろう/あなたも あるとき/私のための風だったかもしれない」。こんなに美しく納得させられてしまう詩を、ぼくはほかに知りません。
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「ほぐす」
小包みの紐の結び目をほぐしながら 思ってみる ――結ぶときより、ほぐすとき
すこしの辛抱が要るようだと
人と人との愛欲の 日々に連らねる熱い結び目も 冷めてからあと、ほぐさねばならないとき
多くのつらい時を費すように 紐であれ、愛欲であれ、結ぶときは
「結ぶ」とも気付かぬのではないか
ほぐすときになって、はじめて 結んだことに気付くのではないか
だから、別れる二人は、それぞれに 記憶の中の、入りくんだ縺(もつ)れに手を当て
結び目のどれもが思いのほか固いのを 涙もなしに、なつかしむのではないか
互いのきづなを あとで断つことになろうなどとは
万に一つも考えていなかった日の幸福の結び目 ――その確かな証拠を見つけでもしたように
小包みの紐の結び目って どうしてこうも固いんだろう などと
呟きながらほぐした日もあったのを 寒々と、思い出したりして
☆
「ほぐす」についての感想 松下育男
これはとても易しい比喩でできた詩です。「ヒモをほどく」という行為を語ることによって人と人の関係を断つことに言及しています。この詩では「ほどく」ではなく「ほぐす」と言っています。きれいな言葉です。詩を作りたくなる言葉です。おそらく吉野さんは、行為そのものよりも、「結び目をほぐす」という言葉のきれいさに触発されてこの詩を書こうと思ったのではないかと想像します。詩というのは、現実の動作や出来事からも作られますが、言葉それ自身からもでき上がってくるものです。いったんこの言葉はいいなと思ったら、詩は容易にできあがってくるものです。この詩は、実に無理のない展開で、だれが読んでも納得のできる内容の詩になっています。
よく言われるように、あるいは容易に想像できるように、「結婚」よりも「離婚」の方がエネルギーがいるのでしょう。たしかに結婚しようとする二人が過ごすのは笑顔で見つめあっている時間ですが、離婚にたどり着くまでの二人には、さまざまな言い合いや、時に罵り合いや、思うように進んでいかない状況に夜も眠れないこともあるのだろうと思います。
昨日の詩「生命は」の話と繋がってきますが、この詩でつくづく思うのは、詩というのはなにも新しく思いついたことを書くことではないのだなということです。大抵の人が知っていることを敢えて書く、自分の言葉で自分の感じ方を少し加えて、だれでもが知っていることを書くだけで、なんと深い詩になるのだろうということです。そのへんの加減を知っている詩人として、吉野さんは最も秀でていたのではないかと思うのです。
みんなが知っていることを書こうとする人は、偉ぶったりするはずがありません。書く側が書かれる側と同じ高さの目線でものを見ています。それでいて、目をみはるような新しさを感じることができます。詩と言うのは、なんと奥深いものかと、この詩を読むと思うのです。
*
祝婚歌 吉野弘
二人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい 立派すぎないほうがいい
立派すぎることは 長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい 完璧なんて不自然なことだと うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが ふざけているほうがいい ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても 非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで 疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい
立派でありたいとか 正しくありたいとかいう 無理な緊張には 色目を使わず
ゆったり ゆたかに 光を浴びているほうがいい 健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに ふと 胸が熱くなる そんな日があってもいい
そして なぜ胸が熱くなるのか 黙っていても 二人にはわかるのであってほしい
☆
「祝婚歌」について 松下育男
結婚する時には、相手を好きでしかたがないわけですから、これから楽しいことばかりがあるだろうと感じているわけです。それはもちろん間違ってはいないのですが、いざ結婚してみると、面倒くさいことや、ちょっとしたいさかいや、勘違いや、考え方のずれや、不機嫌や、不用意な言葉や、なにやかやが出てきて、うまくいかなくなることがあるわけです。ひとつの家に人二人が生きていくためには、一人の時には気にしなくてもいいことであっても、意識して守らなければ関係が円滑に進まないことがあるわけです。で、円滑で穏やかで幸せな関係であるためにはどうしたらよいのかということが、この詩には書かれています。
昨日は離れ離れになる詩で、今日は結びつく詩です。
この詩を読むと、思いだすことがあります。僕が勤め人だった頃、昼休みに、部下がぼくに愚痴をこぼしたことがあるんです。夫婦喧嘩が激しいらしいんです。奥さんが尋常でなくなる、わけがわからなくなるっていうんです。道理を通して説明してもわかってもらえない。白いものを黒だと言ってきかない、って言うんです。その話を聞いた時にね、吉野さんのこの詩を思いだしたんです。「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだ」ってところです。つまり、正しいことを言っていればいいってものじゃない。たとえ奥さんが間違ったことを言っていたとしても、ではそんなことを言うようになった、そこまで奥さんの精神を追いつめたのは自分だということを、奥さんは訴えているのではないのか。そこをわかってあげないと、夫婦生活ってなかなかうまくいかないと思うんです。
この詩を読むたびに、僕はあまりに共感をするので泣きそうになります。「祝婚歌」というのですから、まさに結婚をして二人で生きて行く人のための詩であり、言葉であるわけですが、僕はどうしてもこの詩を、「人の生き方」として読んでしまうのです。読めてしまうのです。もちろん、ひとつひとつの言葉は、結婚生活を無事に継続させるためにおぼえておきたいことではあるのですが、もっと目を凝らすと、相手があろうとなかろうと、人一人が常に心しておきたい言葉でもあることがわかってきます。
「愚かでいよう」「完璧でなくてもいい」「真面目すぎなくてもいい」「人をとやかく言えるような自分ではない」「正しいことでも、相手の気持ちを考えて言おう」ということです。それから、「光をあびよう」「健康でいよう」「生きていることに胸を熱くしていたい」ということです。まさに、僕がずっと詩に書きたいという思いを、吉野さんはたった一篇の詩に(それこそ完璧に)作りあげてしまっています。すごい詩だなと思いながら眺めていると、言葉というものがあんまり素敵なので泣きたくなってくるのです。
この詩については、もうこれ以上語ることはありません。吉野さんの「こうしていよう」といういくつもの提案の最後に、僕はもう一つの言葉を追加したいと思うだけです。「つらい時には、吉野さんの祝婚歌という詩を読み直してみよう」。
*
「冷蔵庫に」
冷蔵庫 お前、唸ってたな。 生きものみたいに 深夜 歌っていたのかもしれないが
それにしては陰気な歌だった 冷蔵庫 生きものの真似をしていたのか、お前
冷蔵庫 間違っても 生きものの感情なんて身につけてはいけないよ
機械以外のものになってはいけない 冷蔵庫 設計された働き以上のことをしてはいけない
休み休み、働いていればいい 如何にあるべきかなんて苦悶するんじゃないよ
ロボットに感情を持たせようなどと 人間が考え始めるご時世だが
そんな馬鹿な夢想の相手をしてはいけない 生きものになれば確実につらいことがふえる
人間は何十万年もドタバタ見苦しく生きてきたのに まだ自分に愛想を尽かすことも知らない
そういう狂った生きものなんだから 人間を見習ってはいけない
ただ、設計されただけの働きを 休み休み、果たしていればいい
知らずに与えられた機械の幸福というものを お前は破らぬほうがいい
わかったな
な
☆
「冷蔵庫に」についての感想 松下育男
冷蔵庫に語りかけている詩です。言うまでもなく、ホントは冷蔵庫ではなく、人間(読者)に話をしているわけです。冷蔵庫に語りかけているだけで、冷蔵庫を人と見立てているわけではなく、むしろ、人のようになるな、生き物のようになるなと言っているわけです。だからちょっと複雑です。だって、生き物になるなという冷蔵庫に対して、生き物に話すように話しているわけですから。
ともかく、この詩は冷蔵庫に対して話しているわけではなく、人に向けて書いています。ではなにを言おうとしているかというと、まず「機械以外のものになってはいけない」と書いてあります。「機械以外のもの」になるなというのは、本来あるべき姿や目的を忘れるなということです。
それから「休み休み、働いていればいい」とあります。これは分かりやすい。熱があったり、どうしてもつらい時は会社を休んでもいい、学校へ行かなくてもいいということです。無理をするなということです。
次に「如何にあるべきかなんて苦悶するんじゃないよ」とあります。自分もこうあるべきだという規範にしばられなくてもいい。あるがままでいいんだと言っています。
それから「知らずに与えられた機械の幸福というものを/お前は破らぬほうがいい」と最後に言っています。これはどう解釈できるでしょう。「知らずに与えられた幸福」とは、「生まれてそのまま感じられる幸せ、日にあたってあたたかいと感じること、人の顔を見て嬉しくなる気持ち、目が覚めて話をし、眠くなったらぐっすり眠る、今日も自分であること」そんな当たり前の幸せだけで充分じゃないかと、言っているようです。
つい余計な欲望に振り回されて、人よりも優位に立ちたいと思ったり、褒められたいと願ったり、そんなことの愚かしさを言っているのかなと、僕は思います。
「わかったな」と言われれば、「そう努めます」と答えるのが、僕にとっての無理のない精一杯です。
*
「最も鈍い者が」
言葉の息遣いに最も鈍い者が 詩歌の道を朗らかに怖さ知らずで歩んできた と思う日
人を教える難しさに最も鈍い者が 人を教える情熱に取り憑かれるのではあるまいか
人の暗がりに最も鈍い者が 人を救いたいと切望するのではあるまいか
それぞれの分野の核心に最も鈍い者が それぞれの分野で生涯を賭けるのではあるまいか
言葉の道に行き昏れた者が 己にかかわりのない人々にまで 言いがかりをつける寒い日
☆
「最も鈍い者が」についての感想 松下育男
よく言われることに、子どもの頃には人前に出ることを極端に嫌がっていたのに、いったん出てしまうと、目を見張るほどに自己表現ができて、一流の役者や歌手や表現者になる、ということがあります。何かに対して苦手であると感じること、自分にはとてもできないと拒否反応を示すこと、そういう感覚というのは、実は心の深いところで、そのものに強く惹かれているということがあるのかもしれないと、確かに思います。人前に出ることを苦手だと感じる人は、人前に出て自分を表現することに多くの思いを込めているから恐れているのではないか。そういう理屈なのかなと思います。
この詩を読んでそんなことを感じました。一連目から、「詩歌の道を朗らかに怖さ知らずで歩んできた」とあるわけですから、これは吉野さんがご自身のことを書いているようです。もちろん吉野さんのことを、だれも「言葉の息遣いに最も鈍い者」とは感じていませんが、ご自身はそう思っていたのだと思います。そこには本人でないとわからない原因や理由があったのだと思います。吉野さんが言葉を発することが苦手だった、と想像することは決してありえないことのようには思われなくて、だからこそ苦手な言葉が、尋常でない衝撃を持って読者に伝わったのだろうと想像できるわけです。
二連目にも、個人的に考えさせられることがあります。「人を教える難しさに最も鈍い者が/人を教える情熱に取り憑かれるのではあるまいか」。詩の教室で僕は何を教えられるだろうと、よく思います。自分だって何もわからないままじゃないかと、自分を責めてもいます。でも、このわからなさを伝えたいという情熱、わからないからこそ詩を書き続けることができるのだという思いを伝えたいという情熱が出てきてしまうわけです。
四連目は、それらを総じてまとめ上げています。「それぞれの分野の核心に最も鈍い者が/それぞれの分野で生涯を賭けるのではあるまいか」。とても見事なまとめかたです。なるほどなと幾度読んでも頷いてしまいます。
で、おそらく僕が読みきれていないのは最終連です。四連目までは、すっと論理の筋の通った詩ですが、五連目は突然わかりづらく感じます。この連は、急に元気がなくなったように感じます。ここも吉野さん自身の事であるとしたら、いったいこう書こうと思っ理由はなんだろうと、さまざまに感じてしまいます。何か現実の出来事があったのだろうと想像をするばかりです。
自信のない人が、なにかを成し遂げるのだと書いていた詩の最後のところで、その人の自信のなさがまたぶり返している。そんな感じがします。詩一篇のさらなる奥深さが、この連で示されていると思えば、吉野さんの感受性のなんと繊細なことかと驚かざるをえません。
*
「さよなら」
割れた皿を捨てたとき ふたつのかけらは 互いにかるく触れあって 涼しい声で
さよならをした。
目には侘びしく 耳には涼しいさよならが 思いがけなく 身に沁みた。
ちょっとした皿だった。
鮎が一匹泳いでいる 美しくない皿だった。 ごく ちょっとした皿だったけれど
自分とさよならするのは たいした出来事だったに違いない。
皿のもろさは 皿の息苦しさだったに違いない。
ちょっとした道具だったけれど 皿は 自分とさよならをした。
ついでに 僕にも 涼しいさよなら聞かしてくれた。
さよなら!
人間の告別式は仰山だった。 社内きっての有能社員に ゆらめくあかりと
たくさんの花環と むっとする人いきれと 数々の悼辞が捧げられた。
悼辞はほめかたを知らないように どれもみな同じだった。
――君は有用な道具だった
――有用な道具
――道具
――具
遺族たちは 嬉しさと一緒にすすり泣き 会葬者は もらい泣き 花環たちも しおれた。
ききわけのよい ちょっとした道具だった。
ちょっとした道具だったけれど 黒枠の人は 死ぬ前に 道具と さよなら したかしら。
☆
「さよなら」について。 松下育男
比喩とはどのようなものかをよく示している詩です。キーワードは「道具」と「ちょっとした」のふたつの言葉でしょうか。このキーワードで亡くなった人を表し、このキーワードを通過して比喩としてのお皿を表しています。
でも、この詩は単に人をお皿に喩えているに留まりません。前半のお皿について書いているところは、喩えというよりも、それだけでひとつの独立した詩が成立するほどの完成度をもっているからなのです。実際、前半を読んでいる時には、お皿が自分からお別れをする詩なのかなと思って読んでいます。
「割れる」ことを「かるく触れ合って」と表現したり、涼しい声をたてたり、侘びしかったり、さらに自分とさよならをすると書いているところなど、皿を擬人化しています。つまり皿を人の動作で喩えているわけです。さきほども見ましたように、でもこのお皿は、それ自体が死んだ人を喩えたものとしてこの詩に出てきているわけですから、喩えが複雑に絡みあっているわけです。人を喩えている皿を人で喩える。そういう構造になっています。
詩を読む時には、でもそんな構造は気にしません。単に、どのように表しているかを堪能すればよいわけです。前半のすばらしい箇所は、やはり「ごくちょっとした皿だったけれど/自分とさよならするのは/たいした出来事だったに違いない。」のところです。どこといって自慢のできるものではないけれども、それ自身にとってはかけがえのない存在なのだと言っています。つまり、この世にある、存在する物はどんなものでも貴重なのだということです。身にしみます。さらに「皿のもろさは/皿の息苦しさだったに違いない。」と続く擬人的な描写は見事です。読んでいるこちらまで息苦しくなってきます。
で、これほど見事な詩が前半に書かれていて、でもこの詩の中心はその後なのです。なんとぜいたくな比喩だろうと思うわけです。後半は、自分とお別れした人のことが書かれています。お皿で書かれていた「美しくない」とか「ちょっとした」という形容は、後半の人にも掛かっています。いや、そうでもなさそうです。というのも「社内きっての有能社員」と書いてあるからです。ぜんぜん「ちょっとした」人ではなかったようです。と、いったん思いますが、その有能は、よく見てみれば、「ききわけのよい/ちょっとした道具」としての有能さであったということがわかります。なんだ、道具としては有能ではあったけれども、存在のありかたとして、やっぱり「ちょっとした」ものであったわけです。だったらやはり、美しくない一枚のお皿と同じだったのです。
最後、「黒枠の人は/死ぬ前に/道具と さよなら したかしら。」というのは、誰かのための存在ではなく、自分のための大切な命に戻ったかということです。魂を取り戻せたかということです。どうでしょう。 答えは読者が考えてくださいと問うています。さらに、あなたの存在はどうでしょうと。
ということで、「吉野弘の詩を読む」も、今日でおしまいです。「互いにかるく触れあって/涼しい声で/さよなら」をしましょう。
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