天高く澄んだ秋空のように

Facebook一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)さん投稿記事

私たちが生きているあいだに自分という存在の根源に気づき この肉体の人生が壮大な生命の流れの中の 一片であることがわかれば 生命は、誕生と死を超えてすでに永遠なものです。

そうした気づきの中で自分に与えられた生を内面の光と愛、良心と慈悲に従って誠実に生き

他の存在に役立つことができたなら死はもはや恐れではなく祝福となるでしょう。


Facebook村中大祐 Daisuke Muranaka conductorさん投稿記事

自分の感性を信じると確実に社会からは乖離するんだよ。だから、みんなそうなるのを怖れているのが社会の構図だよ。でもね。一度はさ。乖離しないとダメだと思う。

そうやって 自分が試されるワケだから。でも、実はそこからが本当の旅なんだよね。

そういう旅を何十年も続けて来た。お蔭で何度も息の根を止められそうになるような

ありがたいチャンスも頂いた。笑 何故ありがたいか?って そうやって人間は

自分を知るからなんだとそう思うようになった。

自分を表現するってことはリスクでも何でもない。人と乖離することや人と意見が違うことは

何も怖れる必要のないことなのに 人と違うことに過敏になる理由。それは、すぐに結果を求めるからだよね。僕たちは平成という30年をそうやって過ごして来たんだよ。

すぐに何でも結果を求めたんだ。何でもすぐに手に入ると思っていたし何でもすぐに手に入れられないと何をやってもすぐにみんなから批判さる社会があった。待つこと、育てることはご法度だったんだ。

だから自分を待ってやるとか自分を育ててやるとか本当の意味ではしてこなかったんじゃ

ないかな。でも、もう不毛の時代に引導を渡さないといけない。

自分を知ることは時間がかかること。そこに時間とお金を投資することさえできれば

日本と日本人は絶対に再生できる。天と地と人を繋ぐ。 これはそういう話し。

年齢は関係ない。おそらく、年寄りだって自分を知らない人だらけ。それが今の日本だから。

まだ間に合う。今から始めれば30年はかかるかもしれないけれど。一人一人が自分と向き合うことに本格的に投資するべき時。それは今だと思う。

私は以前から音楽というものを言語化するのはナンセンスだと多くの方に言われました。

でも、音楽とは音だけではなく音の「その周辺」に広がる世界観があります。

それを伝えることがある意味では私の責務のように感じていました。

私は独学で音楽を学びウィーンでアカデミズムを吸収し自分のなかで様々な言語を使いながら

さまざまな世界観を併せ持つようになりそれによって特異な学びをこれまで行ってきました。

日本語で言語化できない世界のほうが多いくらいでしたが日本語に言語化することで母国語の世界に「自分の観たもの」を変換し可能な限り伝わるように感性で捉えた世界を言語化しようとしました。

そのなかで行き着いたひとつの結論は「自分のバイブを知りそれを言語化する」ということだったのです。

つまり「それが音楽である」と言いたいわけです。

なぜなら創造するものも再創造するものも全ては「自分の波動」がカタチになります。

その本質は音楽でも作品でもなく「自分に帰結する」からです。

生み出されるものとは自分の鏡なのです。

だから出会う人には「あなたは誰ですか?」という質問をするのです。笑

多くの人は自分を知りません。「知っている」と思うのは上辺だけのことで

実は、言葉にすることで「自分」というものを初めて手にします。

それによって完全な自分の姿を獲得できるわけではないですが少なくとも言語化することで

自分の断片を手にできるのです。自分のストーリーとはそこから「始める」のです。

物語とは「始まる」ものではありません。ヘリゲルの言うように「矢は自ずと放たれる」と

言いたいんですがそこは、「矢を放つ」んです。

物語とは自分で自分を知りそこから始めるものです。

音楽とはそういう自分を知るためのツールに過ぎません。でも、すごいツールです。

自分を知るための最強のツールなのです。


Facebook OSHO Japaneseさん投稿記事

「思考」

 マインドは、実体としては存在していない――それがひとつ目のことだ。思考のみが存在している。

 ふたつ目に、思考はあなたから分かれて存在している。それらはあなたの本質とひとつではなく、来ては去る――あなたはとどまり、あなたは存続する。

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 マインドは、実体としては存在していない――それがひとつ目のことだ。思考のみが存在している。

 ふたつ目に、思考はあなたから分かれて存在している。それらはあなたの本質とひとつではなく、来ては去る――あなたはとどまり、あなたは存続する。あなたは空のようだ。決して来ることもなく、決して去ることもなく、常に存在している。雲は行ったり来たりする。それは瞬間的な現象であり、永遠ではない。たとえあなたが思考にしがみつこうとしても、それを長くとどめることはできない。それは去らねばならず、それ自体の誕生と死を持っている。思考はあなたのものではない。それはあなたに属してはいない。それらは訪問者として、客として訪れるが、主人ではない。

 深く見守るがいい。そうすればあなたが主人になり、思考は客になる。そして客としてなら、それらは美しい。しかし、もしあなたが主人だということをすっかり忘れて、彼らが主人になったら、そのときあなたは混乱に陥る。これが地獄というものだ。あなたは家の主人であり、家はあなたの物なのに、客が主人になってしまっている。彼らを迎え入れ、面倒を見るがいい。しかし、彼らに同化してはいけない。さもなければ、彼らが主人になってしまう。

 マインドが問題になるのは、あなたが思考をあまりにも深く自分の内側に取り込みすぎて、距離を、それらが訪問者であって行き来するということを、完全に忘れてしまったからだ。とどまっているものを、いつも覚えておきなさい。それがあなたの本性、あなたのタオ(道)だ。決して来ることもなく去ることもないもの、ちょうど空のようなものに、いつも注意を払っていなさい。ゲシュタルトを変えるがいい――訪問者に焦点を合わせてはいけない、主人に根差したままでいなさい。訪問者は、来ては去って行く。


Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

存在そのものが「表現」である

朝夕、ひんやりとしてきました。静かに、季節が深まっていくのを肌で感じるこの頃ですね。

「誰もが自分の人生の表現者であり、観客でもある。」

この言葉が示すように、私たちの生きる瞬間、瞬間が、果実のように豊かな実りを迎えるときです。

野の花は、どうやって蕾をほころばせるのだろう?

なぜなら、その可愛い花は自由に根ざしているから。

イギリスの詩人がうたった、野の花の無垢な姿は、評価や計算、世間や常識などに無縁な存在のあり方を教えてくれます。

「表現者」と聞けば、特別な才能を持つ「発信者」だと考えるかもしれません。表現する=演じるとういうことが思い浮かぶからです。

しかし、表現するとは、生(いのち)を開いていくことだと思います。

「童心こそは天才の種」。これは、天高く澄んだ秋空のように、心のままに自らを生きる自由さを指しています。誰もが自分の中に、年齢や環境にとらわれのない自由な魂を持っています。天才というより、天分ですね。自由の中で、誰にでもある得意が萌芽するのです。

子どもの頃は、周りの期待や評価や、役に立つかどうかといった思惑なしに、「やってみたい」「やらずにはいられない」というシンプルな情熱に突き動かされていました。まさに、根源的で純度の高い「表現」であり、得意の芽生えでしょう。

残念なことに、人は成長とともに、「常識(正しさ)」や「役割(らしさ)」や「生産性」とか「効率」というまことしやかな罠に陥ってしまいます。

表現とは、何者かになることや、沢山の選択肢を持つことではなく、深い秋空のように、どこまでも広がっていくとらわれのないことでしょう。それは、何かを「表現する」という能動的な行為であると同時に――

存在そのものが、すでに豊かな実りを宿した「表現」そのものであるからです。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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