https://ameblo.jp/sinigami902/entry-11502654472.html 【生物と怪物と妖怪の違い】より
Twitterにはまってしまい、2か月もほったらかしにしてしまいました。
お久しぶりです、当ブログ主、闇の中のジェイです。今回は私の考える生物と怪物と妖怪の違いです。今回も狭い見識の中で述べております。グチではありませんので、前回よりはひどくないとは思います。多くある考えの一つとして見てもらいたい。
生物と怪物と妖怪は生命の有る無し、科学的知識が有効かどうかで違ってくるのではないかと思う。
生物はもちろん、命に限界があり、一度失った命は戻らない。科学的知識が通用する存在である。
怪物はもちろん、命に限りがある。短命な怪物を除けば、ほとんどは強靭な肉体を有しているとされているが故になかなか死なないだけなのではないだろうか。科学的知識がある程度有効であるが、逸脱する生態もある存在であろう。
で、妖怪はというと、命は無い。急に現れては、突如として消える。科学的知識が有効かどうかは、現象系か化物系かで違ってくる。現象系は説明できないだけで科学的知識は通用する。しかし、化物系は科学的知識は通用しない。
例えば、今まで見たことがない生物のようなものが捕らえられたとしよう。ここで解剖され、中身がちゃんと臓器として確認できれば、生物、あるいは怪物である。既存の生物分類に当てはめることができれば、なおさらである。しかし、ここで解剖ができない、薬が効かない、古来から伝わる呪法でのみ、何かしらの作用があるならば、これは化物系の妖怪である。
話はここで終わらない。
未確認生物、UMAであるが、名前の通り、生物として未確認なだけであり、科学的知識の範疇に完全に入るならば、生物。現在の科学ではおよばない部分があれば、怪物であろう。
よく、江戸時代のポケットモンスターとして、娯楽商品化された妖怪が取り上げられることがある。
ポケモンは妖怪かということで、賛否両論があるようだが、私の意見としては厳密にポケモンは妖怪とは呼べない。
個別の名前があり、姿があるモノ、つまりキャラクターであり、多くの種類で一つのカテゴリーを形成している点では、「ポケモン」と「妖怪」という言葉は似たものではある。
しかし、背負っている背景設定が違う。妖怪は取り扱っているものによって違いはあるが、化け物、精霊、自然物を象徴する神、はては不可思議な現象のキャラクター化といったように、生物、怪物の域を完全に逸脱している。
それに対し、ポケモンは科学が通用する世界で、人の手に負えない面もあるが、多くはペットのような感覚で接している。そもそもポケモンとは、弱ると小型の入れ物に入れるくらい、体を小さくすることができる生き物の総称である。モンスターボールに入るのが、一般的であるが、ほかにも眼鏡ケースに入るという事例が設定としてあるという。あの世界にはユーレイも存在する。しかし、ユーレイはモンスターボールでつかまえることはできない。あの世界観の中ではすでにモンスターボールという科学的象徴を通して、科学的知識が通用するものと、通用しないものとを分けているのである。ポケモンの墓なるものもあの世界には存在している。ポケモンはあくまで、生物、怪物(モンスター)として捉えられていることがわかると思う。
さて、ここで厄介なのは、河童のように、妖怪ともUMAとも分類されるものや、酒呑童子、土蜘蛛、鵺などのように退治した、つまり殺した、生命として維持できなくしたとされるもの達の存在である。
まず、河童などのモノ達であるが、これは生物、怪物としての存在、妖怪としての存在というのが別々にあるのではないかと思われる。河童らしきものが発見された、生物として解明されれば、UMAとしての河童は見つかったことになるだろうが、妖怪としての河童が見つかったことにはならない。
人を見れば相撲を取り、牛馬や人を水に引きずり込んでは尻子玉を抜く、切られた体をつなぐ薬を作ることができる、人語を話す、そして人間が解剖しようとしても解剖できない、生物として分類できない、これらの条件がそろって、初めて妖怪としての河童を見つけたと言えるだろう。
さて、退治されたモノ達であるが、これらは厳密には怪物として分類されるのであろう。というよりは、これらは、退治された瞬間、怪物として分類されるのである。それまでは妖怪と呼んでも差し支えない。しかも、退治したにも関わらず、再び姿を現すということであれば、これは怪物ではなく、妖怪なのであろう。
妖怪というラベルはその存在を知る人がいるかぎり、その存在を記録したものがあるかぎり、復活可能であることをあらわすものであると考える。
https://note.com/nktb__a/n/n992c40b6f6ee 【人間と怪物、どこに違いがあるのだろう】より
はじめに
「人間と怪物、どこに違いがあるのだろう」
本作品の始めと終わりに投げかけられる、印象的なこの問い。観る人によってさまざまな解釈があると思うけれど、私なりに考えたことを記録しておこうと思う。
「怪物」という表現
まず、本作品において「怪物」という表現が何に対して用いられているか。
もっとも印象的なのは、カジモドの外見の醜さに対する「怪物」。まだ赤子であるカジモドの顔を見た瞬間に、フロローが「怪物だ」と言葉をもらす場面や、その他にもカジモドを指す三人称として「怪物」とフロローが言う場面など。
また、フィナーレにおいて、カジモド以外が顔に墨を塗っていくシーンも、外見にスポットライトを当てた「怪物」の表現と理解している。
しかし、内面に対しての「怪物」という表現も登場する。
たとえば、牢屋(のような場所)でフロローがエスメラルダに言い寄る場面。エスメラルダは、フロローのやり方や心持ちに対して「怪物」と表現した。
「怪物」は存在するか
では、作中で「怪物」と呼ばれたカジモドやフロローは、本当に怪物なのだろうか。
私の中では、それは違うと思っている。
皆が人間であり、怪物そのものは存在している訳ではないというのが私の解釈。
ひとりの人間の中に、人間と怪物が混在しているわけでもなく、絶対的なものとして「人間」は「人間」でしかないと考えている。
しかし、相対的なものとしてのみ「怪物」は生み出され、実体としてではなく概念として存在するのだと思う。
人間と怪物、どこに違いがあるのだろう
もう少し噛み砕くと、私の中での人間と怪物は以下の通り。
人間:
この世界に物理的に存在する、神の子※。実体がある。
怪物:
自分自身や、自分の考える正しさを守るために、人間が心の中で作り出す存在。実体はない。
つまり、皆が神の子※としての人間なのであり、怪物そのものが存在するわけではなく、「人間が怪物を生み出している」のだと思う。
フロローの場合「外見が醜いものは悪だ」という自分自身の考えを守るために、自分の中でカジモドの存在に対して「怪物」というレッテルを貼り、自身の考えや行動を正当化しているのではないか。
フロローに対し「怪物」と言ったエスメラルダの場合、欲望にまみれたフロローから自分自身を守るため、フロローを「怪物」とすることで、自分の意志を貫き通したのではないか(自分の命のために、フロローのもとにゆくことはしなかった)。
※人間が「神の子」だというのは、あくまでもキリスト教的な背景がある本作品における解釈。エスメラルダのナンバー「神よ 弱き者を救いたまえ」でも「人は誰でも神の子」と歌われている。
おわりに
こう考えると、19世紀のパリではなく、21世紀の日本に生きている私たちも、自らの心の中で「怪物」を作り出すことがあるのではと思う。
だからこそ『ノートルダムの鐘』は、時代も場面設定も現在の私たちのそれとは大きく異なるにも関わらず、観る者の心に深く突き刺さり、思考を深めさせてくれるのだろう。
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