蘇生のものにあふがごとく

Facebookあいことばさん投稿記事

「ご馳走さま」の意味です♪

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「馳走(ちそう)」という言葉があります。

世界的日本食ブームの中で、「Gotisou Spirits(ゴチソウ スピリッツ)」等という言葉を、アメリカのフランス料理店で多く耳にします。

馳走、ご馳走とは、客人をもてなすために、山野を駆け巡って素材を集める、その心意気を示します。遠くから、長年の友人がやって来る。しかしこの町には名物も、最高のそして贅沢な素材もない。せめて川で魚を釣り、山で山菜を摘んで、食べさせてあげたい。

自ら山川を巡りひとつの膳をあつらえます。その時、こう言うでしょう。

「何も特別なものはないが、山や川を巡って集めたものだ。せめてもの心尽くし、味わってくれ!」心を味わってくれ!その思いこそが、ご馳走の精神です。

取り寄せた贅沢な料理の品々ではなくても、質素な膳をあつらえるまでの「プロセス」こそが、馳走です。

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「外国人に伝えたくなる 美しい日本人の姿」佐藤芳直 著すばる舎より

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おもてなしの原点ですね♪高価なものは無くても、その相手をもてなすプロセスに意味がある。僕がよく行く日帰り温泉があるのですが、そこがまた素晴らしいんです!

いつ行っても、入り口までの道のりの石道に水が打ってあります。

その道が乾いていることはありません。また、その季節の葉っぱもいい感じに落ちています。

おそらく、きれいに掃除した後、バランスよく置いているのだと思います。

音は自然の川の音と、自然の鳥や虫の鳴き声が聞こえてきます。

香りはその温泉オリジナルのお香があり、統一して強すぎず弱すぎず香ります。

まだ僕が気付かないだけで、もっとたくさんのおもてなしをしている事でしょう。

しかし、それを相手にアピールするわけでもなく、さりげなくしている事に、おもてなしを感じるのです。

ご馳走もきっとそうでしょう♪

いろいろ苦労して手に入れたけど、相手をもてなしたい一心だから、そんなことは語らずとも伝わるものですね(😊)b

そこに日本人の「おもてなし」をみます。

本屋さんでも、僕が必ず毎月買っている「読書のすすめ」さんでは、そのおもてなしを感じます。

http://www.dokusume.net/

きっと、相当な数の本を読んでいる中で、本物の本だけを紹介してくれるけど、そんな苦労は一切語らず良い本をすすめて下さいます。

そういう語らずとも、もてなす心が粋で大好きなんです♪

そして、もてなされる側も礼節をもって「ご馳走様」という言葉をしっかりと伝えていきたいですね♪

客だから、金払ってるんだから、と大人がしていたら、子どももきっとマネするでしょう。

良い見本を見せていきたいものですね(*^_^*)

※魂が震える話より


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12879048175.html 【おくのほそ道を歩く~岐阜県大垣(最終回)】より

(岐阜県大垣市 奥の細道むすびの地)

大垣市というのは古くから「水の都」と言われているそうだ。

多くの民家に「自噴井戸」があった、という。

「自噴井戸」とは字のごとく「自ら噴き上がっている井戸」。

普通の井戸は釣瓶やポンプで地下から汲み上げるが、「自噴井戸」は勝手に水が湧き上がってくれるのである。

街を歩いていると、神社に自噴井戸が残っていたり、親水公園的な場所があったりする。

今、そういう実感はないが、街というか集落に「いい水」は絶対条件である。

それを考えれば、この街は「いい街」なのである。

市街地へ近づくと、写真のようにいたるところに芭蕉が登場する。

バス停に奥の細道での句が掲載されているのにも感嘆した。

市街地中心部へ進んでいくと、川に出て、そこが奥の細道むすびの地であった。

ここが2400キロと言われた「おくのほそ道終焉の地」である。

川辺には有名な「川燈台」があり、芭蕉と芭蕉を迎える谷木因の像が建っていた。

「木因」(1647~1725)は大垣の俳人で、船問屋の主人である。

「水の都」の「船問屋主人」であるから、芭蕉のよきパトロンでもあった。

芭蕉は1644年生まれであるから、ほぼ同年代と言っていい。

芭蕉は木因を高く評価し、大垣を四回も訪れている。

「大垣」を「むすびの地」としたのも「木因」がいたからこそと言われている。

が…、なぜか「おくのほそ道」には登場していない。

曽良の旅日記では、

(九月)三日 辰ノ剋、立。乍行(ゆきながら)春老へ寄。及夕、大垣二着。

天気吉。此夜、木因二会。(後略)

(九月)六日 同。辰剋出船。木因、馳走。(後略)

とあり、曽良は大垣で木因に会い、木因にごちそうになったりしている。

一方、「おくのほそ道」では、

【原 文】

駒に助けられて大垣の庄に入れば、曽良も伊勢より来(きた)り合ひ、越人(えつじん)も馬を飛ばせて、如行(じょこう)が家に入り集まる。

前川子(ぜんせんし)・荊口(けいこう)父子、その外(ほか)親しき人々、日夜(にちや)訪(とぶら)ひて、蘇生(そせい)の者に会ふがごとく、かつ喜びかついたはる。

【意 訳】

馬に助けられ、大垣の庄に入ると、曽良も伊勢からやってきて、越人も馬を飛ばし、如行の家に集まった。

前川子、荊口父子はじめ、そのほか親しい人々が夜昼問わず訪ねて来て、まるであの世から生き返ってきた者にでも会うかのごとく、無事を喜び、疲れをいたわったりしてくれる。

とある。

ここで登場するのは「曽良」「越人」「如行」「前川子」「荊口」たちであり、「木因」は登場しない。

どうやら、後日、「仲違い」をしたと考えられている。

木因は芭蕉よりかなり長生きをした。

芭蕉死後、「おくのほそ道」が刊行され、評判を呼んだが、木因はどんな思いでそれを眺めたことであろうか。

市内に正覚寺という寺があり、そこに「芭蕉塚」があり、さらにその脇には「木因の墓」があった。

「本当にこれ、墓?」という感じの粗末な墓であり、さらに悲しみを誘う。

最後に川辺にある「奥の細道むすびの地記念館」を見学し、この日は終了。

脚が疲労で重かったが、やり遂げた快感があり、芭蕉の心に一歩近づけた思いがした。


https://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/oku/ogkaa01.htm 【<大垣>(おおがき)岐阜県大垣市】より

 大垣は戸田氏十万石の城下町。また陸路(美濃路)と水路(水門川)が通じる物資の集散地であり、西濃地方最大の都市として繁栄しました。左写真は水門川と大垣のシンボル住吉灯台。かつての賑わいを偲ばせます。

 芭蕉は八月二十一日(陽暦10月4日)頃に大垣に到着。芭蕉にとって大垣は幾度か訪れたことのある地。未知の地を巡る旅であった「奥の細道」の旅も、ここ大垣が結びの地ということになりました。

 駒にたすけられて、大垣の庄に入れば、曽良も伊勢よりかけ合ひ、越人(えつじん)も馬をとばせて、如行(じょこう)が家に入り集まる。

<現代語訳>馬に(乗って徒歩の苦労を)助けられて、大垣の町に入ると(折から)曽良も伊勢から来合わせ、越人も馬を走らせてきて、如行の家に(みんな)入り集まる。

 前川子(ぜんせんし)、荊口(けいこう)父子、其外(そのほか)したしき人々、日夜とぶらひて、ふたたび蘇生のものにあふがごとく、且(かつ)よろこび、且(かつ)いたわる。

<現代語訳>前川子、荊口父子(をはじめ)、そのほか親しい人々が昼も夜も訪ね来て、まるで生き返った人に会うかのように(私の無事を)喜んだり疲れをいたわったりしてくれる。

 大垣では、多くの門人・知人から温かいもてなしを受けました。病気治療のため加賀の山中で別れた曽良とも無事再会を果たします。

 「奥の細道」の旅はとりあえずここまで。しかし芭蕉の旅はまだまだ続きます。大垣には半月ほど逗留し、九月六日(陽暦10月18日)には、はやくも次の目的地、伊勢へと向けて旅立つのでした。

 大垣は新たな旅の出発の地になります。木因(ぼくいん:左写真奥が木因の像)らの見送りを受け、舟に乗り込みます。

 旅のもの憂さも、いまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと又ふねに乗りて

<現代語訳>長旅の疲れの重い気分もまだ抜けきっていないうちに、九月六日(陽暦10月18日)になったので、伊勢神宮の遷座式(せんざしき)を拝もうと思い、再び舟に乗って…

続いて、芭蕉の句(↓)へ。

<芭蕉の句>

 蛤の ふたみに別 行秋ぞ

(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)

<句意>

蛤の(離れがたい)ふたと身とが別れるように尽きぬ名残を惜しみつつ、(私は伊勢の二見ガ浦へと出発することになったけれども)秋もまた去ろうとしている。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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