Facebook長岡 美妃さん投稿記事
哲学をするということ、すなわち真理を追求するということについて。
「なんでそんな難しいを考えるのか?」と言われる。もっと世間一般的なことや感覚的なことよりも、知りたい「問い」があるのだ。
病とは何か?人間とは何か?生死とは何か?苦しみとは何か?現実とは何か?…その「問い」が私を哲学的思惟に誘う。
ヴィトゲンシュタインの哲学をまとめ出会った言葉がある。
彼は言う。「人間の体には水面に浮かび上がる自然な傾向があって、水の底へと潜るには努力しなければならない。それと同様に、哲学的に思考をするためには、その自然の傾向性に逆らって水の底へと潜っていく努力が必要である」と。
人間の初期設定のまま、つまりは世界に投げ出された状態のまま、目で見て、耳で聞いて、世界というモノサシを当然と思って生きるだけでは何も分からなかった。水面に浮かび世間一般の楽しみや感覚的な満足に浸るより、水の底にある真理を知りたいという渇望がうごめく。だから私は哲学的思惟を起こす。
人は誰もがいずれスピリチュアルペインに出会う。その時、何者かに向かって叫ぶように問う。「人間とは何か?」「この苦しみとは何か?」「生きるとは何か?」「死ぬとは何か?」を・・・その問いを投げるのが今なのか、先なのかの違いだけ。哲学は特別な人がする学問ではない。人間の根源を問う、人間にとって第一優先にされるものなのだ。
Facebook船木 威徳さん投稿記事【 何よりもまず「自分」に驚く 】
ソクラテスは「驚くことが、知の探究の始まり」と、言ったそうです。
私にとって、この世界は、見るもの、聞くこと、味わうもの、感じることのすべてが、感動に満ち満ちています。驚くことばかりです。なぜ、日の出はこんなに美しいのだろう。
なぜ、この歌手の歌声、歌詞に、こんなに感動するのだろう。(例えば、森進一さん)
なぜ、こんなに美味い里芋を作れるのだろう。(知り合いの農家からもらいました)
なぜ、私の頭は、突拍子もないことを次々と思いつくのだろう。普段、あえてやらないと、
驚くことはないのですが、その気になれば、驚きと感動に満ちているのは、他でもない、「自分自身」ではないでしょうか?
こんなことを身につけた。こんなことを続けている。こんなことを思いついた。こんなことまで…。私で言うなら、ずっとやりたかった農業。
一滴、ひとつまみの農薬や化学肥料も使わないで、自分で美味いと、感動できる野菜を作りたいと、勉強を続け、畑を借り、トラクターを買い、お米屋さんを回って、肥料の材料を集め、
長い時間をかけて発酵させた肥料を土に馴染ませていきました。
現地のお年寄りたちが、自然に集まってきて、たくさんのアドバイスをくださったり、道具を貸してくださったりしています。
1年前には、トラクターを操る、自分など、自分で想像したこともありませんでした。
驚くこと、感動することが、あらたに、ごく自然に、新しい知識や知恵をもたらしてくれます。
ほんのすこしの成長であっても、自分自身に感動すること。それが、やがて、この世で最も素晴らしい人との出逢い、不思議なご縁、という、深い感動、大きな驚きを持ってきてくれる…。私はそう信じています。
〜王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり
この日の思い出を見る 船木 威徳【 楽して、成績アップ! 】
小学4年の娘と、ときどき一緒に勉強しています。問題集をやっていると、娘はときどき、深いため息をつきます。「疲れたか?」と尋ねると、「そりゃ、疲れるでしょ。」と答えます。
「勉強は、好きじゃないの?」と聞くと、「好きな人なんていないでしょ。」そうかも知れない。確かに、学校の勉強なんて、楽しいかどうかなど、考えたことはないし「楽しい」わけがないというよりも。「楽しい」かどうかなど、考える意味もそこで真剣に考えたことはないかも知れない。でもねえ、なにが勉強かなど考えなくても、新しいことを知り、新しい考え方を知る、そして、新しく手にした道具・武器を使って新しく自分で考えてみる。
そんな、小さな試みを通じて「ぼくは生きているんだ。すごいじゃないか。」そう「感動する」ことこそが、私は、勉強の意味だと考えています。
いや、思いつきのような考えのひとつで、偉そうに娘にも伝える自信はないけれど。
「驚く」ことが「知」のはじまり、だと説明する人もいます。
舌を出した白髪のおじいさんの写真をアインシュタインだということは多くの人が分かっているかも知れません。しかし、世界一有名と言われる方程式E = mc2を理解しているひとが、どれだけいるでしょう。
理数系がだめだった私について言えば、しかしこれは、その意味を聞いたとき、ことばでは言い表せないくらいの、感動を感じました。
アインシュタインと同じように、学校の黒板に、チョークで「E = mc2」と書いてみたときの感動。
「ああ、こうして進歩してゆく人類のひとりなんだ、このオレも・・・。」簡単に言うなら、小さな大豆1つにも、驚くようなエネルギーがつまっており、わずかな質量でも莫大なエネルギーが含まれているということです。
これで、太陽がとてつもない熱や光を出しながら燃え尽きないでいられることの説明もできたのです。
テレビによく登場する、齋藤孝さんという大学教授がいます。その人が、著書のなかで、こう言っています。・・・ところが、E = mc2にも驚かない人もいます。
「だから何?全然わからない」と切り捨ててしまう人。数式が出てきた時点でもう「無理」と言って知ろうとしない。あるいは「『源氏物語』?古文はつまらない」「x軸とかy軸なんて
知らなくても生きていけるし」などと言って深みに入っていこうとしない。
それは、失礼ながら「無教養な人間のやる無作法な態度」というものです。
(齋藤孝「読書する人だけがたどり着ける場所」SB新書)
この<それは、失礼ながら「無教養な人間のやる無作法な態度」というものです。>
という強い口調のことばこそ、著者が、実はもっとも伝えようとしていた想いなのではないか
私はそう感じてしまうのです。
私も、まったく同じように感じるのも、その人をバカにしているのではなく、せっかく手にできる宝物を、どぶに捨てているようなもったいなさを感じてしょうがないからなのです。
齋藤さんは、こうも言います。
・・・驚くべきことに驚けるのは、実は、教養があるからです。知識豊富で教養豊かな人は
もうあまり驚くことがないのではないかと思うかもしれませんが、逆なのですね。
知れば知るほど、心の底から驚くことができるのです。
知識がないと、何がすごいのかわからない。ぴんとこない、ということになります。
ソクラテスは、「驚くということ、驚異の情が、知の探究のはじまり、すなわち哲学だ」と言います。小学4年の娘と、日本や世界の農業、日本の食糧自給率について学んでいた時に、
遺伝子組み換えの穀物の話をした際、娘が、やたらと「じゃあ、これからどうやって買い物をしたらいいの。『遺伝子組み換えでない』って、分からなくするの?なんで、そんな法律に変えるの?だれが変えるの?」と、びっくりするような質問をしてきましたが「じゃあ、どうしたらいいか?を自分で考えて自分で答えを出して、自分を自分で守るだけでなくほかの人も助ける力をつけるのが、勉強なんだ。」と話すやいなや、「ちょっと、そろそろ休憩しよう。」
と行ってしまいました。
ドラマに出てくるように、親の話に子どもが目を輝かせて感動してくれた経験なんて、そうそうしたことがありません。~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり
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