Facebook 一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)より
·もし私が、自分の中に希望を見つけられるなら地球と人類の未来にも希望はあります。
もし私が、自分自身に希望を見出せないのなら地球と人類の未来にも希望はありません。
もし私が、自分に人間らしさを見つけられるなら私は、全人類の中にもそれを見つけることができるでしょう。
もし私が、自分の中に人間らしさを見出せないのなら他の誰かにもそれを期待することはできないのです。
https://note.com/yayoshikawa/n/n2e4c42c2be8e 【自分が源(みなもと)、全ての原因は自分にある】より
こんにちは、吉川です。私がとても大切にしている考えに「自分が源」という言葉があります。「自分が源」とは、どんな結果でも選択したのは自分であり、物事の結果の原因は自分であるという考え方です。上手く言った要因も上手くいかなかった要因も、自分が要因と考えると、良いところを継続したり改善したりして良い方向に進みやすくなります。
逆の考え方になると、「周りが源」となります。物事の結果の原因は他人や状況・環境の考えです。この考えをすると、上手くいったときは他人がいないと次も上手くいかない状態となり、上手くいかなかった原因が他人だとすると、人の行動をコントロールする必要が出てきますが、他人をコントロールすることはできないので計画が立てづらくなります。
どんな時でも「自分が源」の考えでいることが、うまくいく秘訣だと思っています。
先日プロジェクトの会議があり、リーダーが数字の目標達成を話し合う時間がありました。
あるリーダーが「正直、今月の目標達成が危うい。スタッフが辞めたのが大きな原因です」と報告していました。
すると、「それは上司のコミット不足では?」との指摘がありました。
報告したリーダーは、「周りが源」の考えで話し、改善策も他人に依存した考えでした。もし「自分が源」の考えだったら、今あるヒト・モノ・カネの資源をどう使えば目標が達成できるのか?という視点になり、スタッフへの関わりも可能性をみて指導したり努力を信じ接するようになると考えます。
忙しかったり、余裕がない時ほど「周りが源」の考えになりやすいと思います。
他人が原因と考える前に、自分はどうしたらいいのか?を考えて改善する。自分の捉え方や考え方の前提で物事が決まると思うので、「自分が源」を意識して、スタッフとも関わっていこうと思います。今日もありがとうございました!吉川康弘(よっしー)
https://www.yoga-gene.com/post-58411/ 【混沌の中の秩序~沢山の神様と、たった1つのブラフマン~】より
ヨガの生まれた国インドは多神教の国だと聞いたことがある人も多いのではないでしょうか?一方で『バガヴァッド・ギーター』の教典に見られる哲学は一元論だと聞いたことがある人もいるでしょう。
世界はたった1つのブラフマン(宇宙の根本原理)から誕生したのに、インドには沢山の神様がいる。
そんな矛盾に対してのクリシュナの答えをご紹介します。
「宗教ってよく分からない、何となく怖い。」と思っている人も、ヨガの神様の説く神の存在について学ぶと先入観がすっとなくなるかもしれません。
インド的な世界の始まりで見る多神教と一元論
インドのヒンドゥー教寺院のカパーリーシュヴァラル寺院の一部
宗教って何だろう?と考える時に、”全知全能の神様の存在”をイメージする人も多いと思います。
キリスト教やイスラム教の様に世界的に人口の多い宗教は一神教です。
一神教では、たった1人の絶対的な神様が世界を作って、山や川を作り、人間も作りました。一般的に宗教と言われてイメージするのは一神教的なものではないでしょうか。
しかし、インドの世界観はだいぶ違っています。
カオス(無秩序)なインドの宗教観
インドはとても大きい国です。もともと各地にあった土着の宗教を統合する形で現在の宗教ヒンドゥー教が出来上がりました。
そのため同じヒンドゥー教徒であっても、信じている神様が違えば世界の創造神話も違う場合があります。
例えば世界の始まりについてみてみましょう。
ヒンドゥー教の3大神の1人であるヴィシュヌ神派の神話では、「ヴィシュヌ神のおへそから蓮の花が咲いて、蓮の中から出てきた創造神ブラフマーが世界を作った」と伝えられています。
それに対してシヴァ派では、「世界の始まりのカオスの中、ヴィシュヌ神とブラフマー神のどちらが先に生まれたのかを言い合っているところ、巨大なリンガ(シヴァ神のシンボル)の中からシヴァ神が現れて、ヴィシュヌ神もブラフマー神もシヴァ神が創造したのだと明かす」という神話が伝えられています。
インドの多神教は多くの信仰を取り込んでいったため、同じ宗教でありながらも地域や信じる神様によって言い伝えが異なります。
この混沌(カオス)こそがインドらしさでもあります。
インドの信仰を1つにまとめる一元論とは?
インドの宗教では、人によって信じるものが全く違うと書きました。
それでは、結局インド人にとって宇宙はなんなのかが良く分からなくなってしまいましたね。
それに対して、クリシュナ神は、多くの神様が存在する多神教を1つにまとめる説明をしてくれています。
しかし、これらの少ない知識を持った人たちの受け取る果報は有限である。天の神々に帰依する人たちは神々に到達し、私(クリシュナ)に帰依する人は私に到達する。(バガヴァッド・ギーター7章22節)
日本の神道と同じように、もともとインドに存在する土着の信仰は、自然界の様々な力を神格化したものです。
例えばシヴァ神の前身として知られるルドラ神は暴風雨の神様です。
嵐は災害によってあらゆるものを破壊する恐ろしい自然災害ですが、嵐が去った後の濡れた土壌には、必ず新しい芽吹きが生まれます。
そのため古代の人々は、嵐の災害が人々から奪いすぎないように、また日照りの時には恵みの神をもたらしてくれるようにと、暴風雨をルドラ神として崇拝しました。
このように多神教では自然界にある様々なエネルギーに対して崇拝します。そのため、とても多くの神様が存在することは自然なことです。
しかし、これらの神様の能力には限りがあります。
例えば太陽神であれば、あらゆる活動を助けるエネルギーを与えてくれますが、疲労を癒すエネルギーには劣っているでしょう。
だからクリシュナは、個々の神様への信仰を「有限」だと表現しました。
多神教では、人々の望みの数だけ神様が存在します。
ヒンドゥー教の祭儀ではガネーシャ神から始まって沢山の神様に順番に祈っていきます。人生を救うためには、沢山の神様から恵みを頂かなくてはいけません。
細分化する多神教の神様を1つにまとめたのは一元論という考え方です。
一元論では、宇宙に存在する全てのものはたった1つのブラフマンであると説きます。
世界には山があり川があり森があります。そこには沢山の動物や人間が暮らし、天界には様々な神様が存在します。これら全てを”別々のもの”としてとらえることもできますが、本質を見ると1つのブラフマンです。
全てはブラフマンから発生し、ブラフマンであり、ブラフマンに帰っていくと考えます。
個から全体に意識を移していく一元論
急に小難しい話になってしまいましたね。
ブラフマンや一元論については古代から様々な説明がなされてきました。
有名なものでは、宇宙を土に例えた説が『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』という古い教典に書かれており、様々な哲学者によって解説されています。
ブラフマンは土に例えることができます。
土から粘土を作り、様々な形の食器や水瓶、花瓶や家も作ることができます。
私たち人間は出来上がった今の状態を見ながら「これはコップでこれは皿だ」と認識します。もしくは「この焼き物は有名な作家が作ったら高価だ」と優劣を付けようとします。
しかし、本質を見てみると全ては同じ土でしかありません。土であったものが形を変え、いつか壊れたらまた土に帰っていきます。
私たち人間はその時々の目に見える状態のみで評価をしてしまうので、世界の本質に気が付くことができません。
人間だって同じです。本当は大きな地球という惑星の一部でしかありません。
しかし個々が自我を持ってしまったため、人間だけが得をする環境を作り上げて、その人間社会の中でも個々が自分個人に富が集中するようにと願います。その結果、人間同士で争いが絶えないですね。
私たち1人ずつが大きな世界の一部であると感じることができると、争いが少なくなります。自然界から人間だけの快適さのために搾取しすぎた世界は、結局人間にとっても不快な環境を導いてしまいました。
自分と周りの繋がりを感じて、平等に豊かになれる方法を見つけると、結果的に自分自身もより幸福を見つけやすくなります。
だからクリシュナ神は、信仰においても個々の神々に祈るのではなくて、全体の根本であるブラフマンに対しての意識を高めるようにと説いています。
バガヴァッド・ギーターで唯一の宇宙原理ブラフマンを説いているのであれば、「もう一元論だけでいいのでは?多神教を信じ続けることに意味があるの?」と考えてしまうかもしれません。しかし、どちらの信仰も全て認めて包み込むのがインドの多様性です。
バガヴァッド・ギーターでは、人にはそれぞれのダルマ(職務)があり、誰もが自分らしく生きる多様性を認めています。
哲学的に「一元論とは?」と説いても小難しく理屈っぽくてしっくりこない人も沢山います。また、土地で代々信仰してきた神様がいる場合、急にそれを取り上げることも暴力的です。
クリシュナ神は、あらゆる神様に対する信仰も否定しません。また、ヨーガにおいても対立する全ての流派を正しいヨーガだと認めています。
世界はたった1つのブラフマンである。しかし、人の願いの数だけ神様が存在する。
そんな混とんとした中にも秩序があるバランスこそがインドらしさです。
Facebook 田中 宏明さん投稿記事
今目の前にコップがあるとしますただのそこらへんにあるコップです さて^ ^突然ですがそれは「あなた」だと思いますか? まぁ当たり前にそうは思いませんよね
では次はそのコップを触ってみましょう コップを持つと冷んやりとした感覚が伝わって来ます ではその冷んやりは「あなた」でしょうか?違いますよね^ ^
あなたは「冷んやり」を感じたのであって冷んやりそのものではありません
では次です「ああ、このコップはずいぶん冷たいな」と「思ったこと」はあなたでしょうか?
さぁ、ここからが少しややこしく感じるかもしれませんね でも簡単ですあなたにただ
「ずいぶん冷たいな」という思いが湧いただけであなたは「ずいぶん冷たいな」という思いではありませんよね^ ^ ここまでは大丈夫でしょうか?
この方法は インドの聖者ラマナ・マハルシの雑なパクりなんですが この問いかけを
ひたすらやってみると最終的に「自分」という ものがどこにも「見つけられない」
ということに気づく仕掛けになっています
例えばあなたの身体も思いも「あなた」の思いや身体であってあなたそのものではありませんよね?^ ^じゃあ「あなた」って どこにいるんですかと言われたら最終的にはそんな全体を
「認識」しているものつまり「意識」が自分なのだとわかります
「馬鹿いうんじゃない」「全ての五感や知覚作用は脳の働きによるものだ!」という、正しい
ツッコミを入れて来る人がいると思いますが ではそんな五感や知覚 ひいてはこの命というものが存在することを可能にしているこの宇宙とはなんなんでしょう?^ ^
脳を通して知覚や五感という働きがあるのはわかります ではその「脳」そのものつまり生命や宇宙を創造した「何か」については誰にも解答することは不可能なんです
なぜならそれは全ての源だからです それが「何か」という問いかけさえもまた
創造の一部にしか過ぎないのです そして実はその解答不能な「何か」こそが 我々の本質なんです^ ^だから我々知覚や認識作用を持った 人間や生命が創造されたわけです
「何か」が自分で自分を認識するためにです^ ^
ではそれを踏まえ最初に話しを戻しましょう
「そのコップはあなたですか?」という質問に対しての宇宙的な答えは「はい、わたしです」
ということになるんです^ ^ 我々も含めた森羅万象あらゆる全ては「何か」のエネルギー
によって創造された兄弟姉妹なんです^ ^ だから残念ながら今目の前にいる 愚痴ばかりを言ってるしょうもないオッさんとあなたを創造したものは 同じものなんです^ ^
憎しみも怒りも 不安も怖れも 喜びも優しさも慈しみも友愛も 全ては一つなるものの中にある 彩りなんです
死も生もあらゆる叡智も宇宙人もハイヤーセルフも全ては一つなるものの戯れの中でそれぞれの存在性を楽しんでいるだけなんです
我々は「宇宙」を創った何かの一部であり同時にそれそのものでもあるんです^ ^
そんな壮大なエネルギーに創造されたわりにはずいぶんと狭い視野の中を人類は生きて来ました これからはもっと宇宙的な視野を持つ人々が出てくることでしょう^ ^
今はまさに地球的知性から宇宙的知性への進化の時です^ ^
今朝は瞑想中に「お前ら!小さくまとまんなよ!」ふとそんな声が聴こえたような気がしました😊
これからは古い社会性や価値観を生きている人にとってどんどん苦しい時代になって行きます
ただ同時にその「苦しみ」こそが新しい地球へ向かうためのチケットでもあります^ ^
だからこそ今感じているあらゆる違和感や葛藤から目を背けずにしっかりと向き合うことが
本当に大切なんです^ ^僕も日々その繰り返しです😊そんなワクワクする時代を共に歩いて
行きましょう✨旅の道連れは多いほど楽しいもんですからでは皆さまも素敵な魂の旅を😊ワハハ🌈らぶ💓
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