蜻蛉の輪をなす二頭常しなへ 五島高資

https://www.idex-jpn.com/topics/detail/442 【<和と輪>】より

皆さんおはようございます。致知出版社 致知4月号「人との輪が仕事をつくる」

料理研究家 城戸崎 愛氏

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 これは私の人生全部に通じることですけど、人との繋がりですよね。それはずっと大事にしてきました。

 人との輪というのは、輪っかの「輪」と平和の「和」の両方ですね。そうやって人との輪を大切にすることができたからこそ、そこに和が生まれて、こうして長いこと仕事をさせていただくことができたと思うんですよ。

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 「和」というと調和とか平和、「輪」は絆とか人間関係が連想できます。また、 人の輪、人の和は、なんとなく手をつないでいるようなイメージがでもあります。

 日本人は「和」を大切にしてきた。

「和を以て貴しとなす」は、聖徳太子が制定した17条憲法の第一条に出てくる言葉で、「人々がお互いに仲良く、調和をしていくことが最も大事なことである。」という教え。

 人はひとりでは生きていくことはできない。当たり前のことである。しかしどれだけのご縁を放棄し、ご縁を切ってきただろうか。しかしその時は気づかないのである。自分が今生きているということは、ご縁によって生かされてきたと考える方が素直で自然である。

 みんな仲良く、人の「和」を大切にして、その繋がりの「輪」を広げていきたいと思います。

https://www.shirayama.or.jp/kouwa/k421.html 【421号「以和為貴」】より

はじめに

本年は聖徳太子が亡くなられてから1400年にあたります。「和をもって尊しとなす」は、聖徳太子の十七条の憲法の第一条に記されています。

一般には「仲良くするのは尊いことだ」という意味だとされていますが、本来は「和をなによりも大切なものとしなさい」という意味で「話し合いをすることが大切」あるいは「議論することが大切」であるといった意味であります。原文は漢文で記されており、四字熟語で、「以レ和為レ貴」とあり、「無レ忤為レ宗」と続き、「争いはするな」であり、十七条憲法の十七条目の冒頭には「大事なことは一人で決めず、みんなで議論して決めなさい」とあります。

この言葉は孔子の論語からの引用であるとも言われておりますし、明治天皇の五箇条の御誓文の「広く会議を興し万機公論に決すべし」にも通じるものがあります。

◆ 国のあり方と律令制

太子はその昔、日本の国のゆくすえを案じ、この国のあり方と律令制について考えました。そして天智天皇時代の近江令、天武天皇時代の浄御原(きよみはら)律令、その後これを修正した文武天皇の大宝元年(701)の大宝律令があり、また元正天皇の養老2年(718)に若干の修正をした養老律令があります。

奈良・平安時代の法制によって政治がおこなわれ、秩序と道徳が護られ、いわゆる「この国のかたち」あり方が築かれたのであります。

戦後60年を経た平成16年に制作された「歸国」(倉本聰著)のドラマのように、靖國神社に英霊として祀られた御魂が現代を見返した時に『こんな日本にするために我々は尊い命を捧げたのか』の一節が忘れられません。

また京都の一燈園は、昭和29年6月、国会で起きた与野党の乱闘事件を契機に、代議士を選んだ国民の側の責任をお詫びする証として、毎月皇居と靖国神社のトイレ掃除を奉仕していると聞きました。

太郎坊・阿賀神社夫婦岩(男磐・女磐)太子が霊威を感じ太郎坊山を篤く崇拝したと伝わる。 [提供 太郎坊宮]

当社では戦中、大前にて武運長久を祈り、出征していった御英霊に対し、少しでも御霊安かれと本年4月より神職を石川護國神社に派遣し、奉仕させて頂いております。

鎮護国家とは、異変のないように国家を鎮め、守護することであります。

平安時代初期の空海(真言宗の開祖)は、高野山を開いた後、弘仁4年(823)朝廷より鎮護国家の道場として東寺を賜っているし、石清水八幡宮は貞観元年筑紫豊前国より京都の鎮護国家のために八幡大神の神霊を勧請しました。

昭和12年 出征奉告祭(白山比咩神社境内)

◆ 現代が抱える問題

今、私たちがおかれている喫緊の問題は、地球環境問題や温暖化の問題、根強い人種や民族間の偏見、難民問題や各国家が抱える不調和、核開発やエネルギー問題、食糧問題、それに相対して生命の根本の意識を共有し、人類が目指すべき新たな時代の潮流を創り出すことが、この国のかたちを考える上で必要なことと思います。

「世界四大文明」と言われるメソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河(中国)文明は「四大河文明」とも言われ、川を中心として栄えた文明であったが、上流の緑を破壊し、砂漠化したために文明が滅びたと言われています。

◆ むすび

私たちは今何かを忘れているように思います。

「権利と義務・自由と平等のはきちがえ、平等と公平・公と私の別」であります。

例えば、消防士が、警察官が、看護士が、「個」を大事にし「公」をおろそかにしたらどうなるでしょう。

医療従事者や防災・救急に関わる人達は家族の事を気に掛けながらも公のために一所懸命尽くしているのです。

国の為、世界の人の為、何をなすべきか。自分を律し、国そして人々の幸せのために、国を修めるのが修理固成です。

自己中心の民主主義のように個を大切にしすぎる教育は、国を滅ぼします。

昔も今も陽は昇り、陽は沈み、やがて夜が明け一日が始ります。その一日は昨日と同じではなく、明日と同じでもない。全ての動植物が等しく与えられている恵みであります。自然の生業(なりわい)のなかに神があり、生かされて生きています。その自然を我々は「カミ」といい崇めてきました。

今一度、改めて自然を見つめ直し、五感をもって心を養い調和のとれた社会を築きましょう。

蓬も麻中に生ずれば 扶けずして直し   -荀子-

(10月1日の今月のことば)


Facebook寺島 義治さん投稿記事

神道には哲学がないというが、やっぱりウソに思える。神話や儀式を調べていくと、明らかに哲学があると思わざるを得ない。日本人は古来より、どうやら苦しみを「わざわい」と考えていたフシがある。たぶん長らく農耕民族だったから、嵐や洪水などの荒ぶる災害が最大の苦しみだっかからではないかと思う。

逆に、シアワセな状態のことは「しずけさ」と捉えていたようだ。

そこで、このわざわいの原因は「しずかではない」=「荒ぶっていること」と定義していたっぽい。

また、このことは必ずしも神や自然現象だけでなく、人間個人にもあてはまると考えた。

つまり、人間の魂が「荒ぶる」ことが、多くの苦しみの原因になると捉えていたみたいだ。

だから神道では「ミソギ」のほかに「タマシズメ」も重視する。

タマシズメは神や死者の魂に対して行われる祈りであるが、生者に対しても行われるそうだ。

生きている人間の魂を、鎮めるのである。そして魂が鎮まれば、人は神と合一すると考える。

これを「鎮魂帰神」という。そこで、生者の魂を鎮める方法として、意識の対象を「石」に置くというのがあるらしい。この石は直径2~3cmほどの丸い黒石だそうである。

これに意念を凝らすことで、人の魂は鎮まる、と考えるのである。

石や岩は古来から「永遠」の象徴でもあったし、カミそのものでもあったそうだ。

石や岩は動かず、変化せず「鎮まっている」。だからカミの本質は「鎮まっていること」と考えたのかもしれない。

石や岩に意念を集中=意識を同化させれば、意識もカミと同質になると考えたのではないか。

ただしこの「鎮魂帰神法」という修行法は、明治時代に本田親徳という人が広めたそうである。だから、古来よりあったエクササイズというわけではない。

ただし、その元となる思想はさらに古い時代から存在していたようで、これが「永遠=鎮まること」「苦しみ=荒ぶること」という概念だったかもしれない。

おそらく修行法としての鎮魂は、禅や密教の影響を受けているとは思う。

でもそれはただパクったというわけではなく、やはり「たましずめ」にまつわる神道の哲学が根本にあったはずだ。

面白いのが、インド哲学やヨガ、道教、仏教でも、「静」を非常に重視することだ。

そのどれもが、坐禅のように動かずじっと心を落ち着け、静かにとどまることをとても重視する。

理由はその状態が「空」を直感する、最も良い方法と考えるだからだそうだ。

禅に至っては、そうした鎮まっている状態を「悟りそのもの」とさえ表現することがある。

つまり、インド哲学もヨガも仏教も道教も神道も「しずか」を目指しているのである。

そして「しずか」が極まれば、ヨガではニルヴァーナに達し、仏教では悟りを得て、道教では仙人となり、日本ではカミとなる。

このへんが、西洋化した現代と、大きく異なるところなのかもしれないな。

現代社会では、活発で活動的で充実した状態、アクティブな状態を善として、その状態が幸福であると考える。

しかし東洋では逆に、静かに鎮まる空虚な状態、パッシブな状態を善とし、その状態こそが森羅万象と同化する幸福な状態と考えた。

東洋では、アクティブな状態はむしろ「自然原理に背くもの」とさえ捉え、不幸を招くとも考えるのである。

あらゆる不幸は「荒ぶる魂」から生まれる。

「鎮まる魂」こそが永遠に至る幸福の本質である。

この考え方は、決して幼稚とは思えない。むしろ「ニルヴァーナ」に匹敵する高度な哲学ではなかろうか。

「静けさ」を失うことが「日本を失う」と言っても過言ではないのかもしれないな。

西洋的な経済活性や自己実現という「荒ぶる魂」に占領されることは、日本人であることを失うことかもしれぬ。

日本人は、もっと「しずか」になるべきだ。

日本人ならば、すべからく「しずかちゃん」を目指すべきなのだ。

だから日本人なら、昼間っから風呂に入ろう。

そして「イヤンノビタサンノエッチ」という祝詞を唱えるのである。

人は周囲によって育てられます。歴史・伝統と共に帝王学・国学・皇学など、人の上にたつ人間をしっかりと育成しこの国のあり方を考えたいと思います。



コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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