https://mister-yoda.com/persimmon/ 【【ほっこりする話】「木守り柿」】より
すこし怖いお話のあとは、ほっこりするお話をしたいと思います(笑)
僕は山梨県に住んでいるのですが、この時期に車を走らせていると道端や畑に柿(かき)がなっているのをよく見かけます。日本の四季を感じられるとても好きな風景の一コマです。
小学生の時、毎週のように日曜日の18時からちびまる子ちゃんを見ていると、柿にまつわるとても印象的な風習が紹介されていました。
それは、上の方の柿は、冬を乗り切る小鳥たちのため。
下の方の柿は、おなかを空かせた旅人のため。といったものです。
昔の日本では、収穫をする柿の実は真ん中あたりにとどめ、上下に数個残しておくのが慣わしだったそうです。この収穫せずに取り残された柿は、「木守り柿」と呼ばれます。
読み方:「こもり(こまもり)がき」「きもり(きまもり)がき」
食べ物の少ない冬を乗り切る鳥たち、おなかを空かせた旅人への気遣い、
そして秋の収穫への感謝(来年の豊作への祈り)といった意味合いが含まれていました。
美しい日本のこころだと思います。
すべての物事は循環する。何事も欲張りすぎてはダメ。
今を生きる私たちも、人や自然への感謝の気持ちを持ち続けていたいものですね。
https://shigureteioukann.seesaa.net/article/201712article_7.html 【木守柿 ~素人俳句が気に食わない俳人~】より
人間サマの取り分はすでに確保して、今年の柿のシーズンは終りました。
後は鳥や虫たちの分で、越冬のための栄養となるよう、このままにしておきましょう。
他にも、再び大収穫できるようにとか、来年の五穀豊穣を願うとか諸説あるようで、ならばリンゴは? 梨は? ミカンは? と、木守柿ならぬ木守果樹の啓蒙活動推進を考えたくなります。
で、くだらない駄文はほどほどにしますが、「木守柿」は秋の季語のはずなのに、中には冬として用いている方もいらっしゃるようで、ちょっと混乱しています。
でも季重なりにならなければいいだけのことで、冬に秋の句を詠んでも、文科省の国語審議会や俳句協会などからクレームが来る心配はありません。
山頭火も柿が好きだったようで、いくつもの柿の句を遺しています。
柿が赤くて住めば住まれる家の木として
何おもふともなく柿の葉のおちることしきり
郵便屋さん
たより持つてきて熟柿たべて行く
やつと郵便が来てそれから熟柿のおちるだけ
私は自由律も俳句と思っているので、ああ、いいなあ、と鑑賞しています。
ところが、自由律は俳句ではない! と切り捨てる俳人も碧梧桐や井泉水の昔から途切れることなく連綿といらっしゃるようで、明治33年~昭和43年を生きた某俳人の著書では、バッサリどころか完全に無視されていました。
素人の俳句がとにかく腹立たしいらしく、少々長いのですが、序の章の文章を転記してみます。
いままで無数の初心俳句に接してきましたが、常に痛感することは、どの人も常に同じ入口から俳句の道に入り、常に同じ過誤を繰り返します。たとえば、星や灯(ともしび)は必ず「瞬く」と表し、センチな人は「うるむ」と言います。雨は必ず「しとど」に降り、果実は必ず「たわわ」に生(な)ります。紅葉や赤いカンナは必ず「燃え」、空や水や空気は必ず「澄む」で、帰路は必ず「急ぐ」とし、自転車は、必ず「ペダル踏む」とやります。
農夫は「背を曲げ」、農婦は「腰太し」にきまっています。母は必ず「小さし」であり、これはまあいいとしても、どんな老齢の作者でも、必ず「妻若し」とやるのは、いささかベタ惚れが強過ぎます。早乙女は必ず「紺絣」を着、どんな洗いざらしでも「紺」は「匂(にお)わ」せます。日向ぼっこは必ず老人と孫と猫とが縁側に登場します。犬は出てきません。
「犬は出てきません」に私好みのユーモアのセンスを見ますが、以上のような、いわゆる手垢の付いた表現はさすがにしないものの、ごもっともと同感しつつ、はて、私も昔はこんな俳句を作ってたかしらと、未だに未熟な我が身を省みるのです。
たとえば「柿」という題が出たとすると、(中略) だれが示唆したというわけでもないのに、初心者が最初に作る句は、必ず、柿がたった一つ梢に残り 必ず、夕陽が照らす
という場面をこしらえ上げ、 夕陽に沁み梢に残る柿一つ 柿一つ梢に夕焼褪せてゆく
夕焼の空燃え高き柿一つ 柿一つ取り残されて秋は暮る であり、あるいは「一つ」ではなくとも、夕方に持ってくる傾向が強烈です。
峡(かい)暮れて柿に残れる日の匂ひ 丘の柿夕日真赤に吸いこみぬ
柿の木の夕焼いつか空に帰し
柿と夕焼との連想はともかく、常にたった「一つ」というのが妙です。
まことに不思議でありながら、また常に事実であります。身に覚えのない人が何人いるでしょうか。
著者(残念ながらすでに故人です)は素人の俳句を十万句集め、それでも足りなかったらしく、五万句追加して十五万句を収集したというのですから、ただ者ではありません。
この本についてはいずれ詳しく触れようと思いますが、わずかこれだけ書いただけでも、多少なりとも俳句に関心をお持ちの方なら、あ、あの本、とすぐに思い当たることでしょう。
アイロニーに満ちたこの本に出合ったのは四十年近くも昔のことで、友人に「俳句の奇書見つけた」と知らせたことを覚えています。
素人の不出来な俳句に、皮肉たっぷりの容赦ない指摘で笑わせてくれます。
友人と、それこそ自分たちのことは棚に上げて大笑いしたものです。
でも、作句に及び腰になりました。
自戒。 俳句とは詠まず読むもの柿一つ ちょっとおふざけが過ぎました。
再び山頭火。柿
前も柿、後も柿、右も柿、左も柿である。柿の季節に於て、其中庵風景はその豪華版を展開する。
今までの私は眼で柿を鑑賞していた。庵主となって初めて舌で柿を味わった。そしてそのうまさに驚かされた。何という甘さ、自然そのものの、そのままの甘さ、柿が木の実の甘さを私に教えてくれた。ありがたい。
柿の若葉はうつくしい。青葉もうつくしい。秋ふこうなって、色づいて、そしてひらりひらりと落ちる葉もまたうつくしい。すべての葉をおとしつくして、冬空たかく立っている梢には、なすべきことをなしおえたおちつきがあるではないか。
柿の実については、日本人が日本人に説くがものはない。るいるいとして枝にある柿、ゆたかに盛られた盆の柿、それはそれだけで芸術品である。
そしてまた、彼女が剥いでくれる柿の味は彼氏にまかせておくがよい。
柿は日本固有の、日本独特のものと聞いた。柿に日本の味があるのはあたりまえすぎるあたりまえであろう。
みんないつしよに柿をもぎつつ柿をたべつつ時雨亭の干し柿が食べ頃になりました。
これすべてが保存食です。冬に秋の俳句ネタでした。
https://note.com/oliver_wood/n/n59076bf90a33 【 死を見つめる仏教の教え:輪廻と解脱、そして今を生きる意味】
「死」は、普段の生活の中で、ニュースや身近な人の別れなどを通して意識せざるを得ない、避けられない現実です。しかし、死とは一体何なのでしょうか。仏教の教えは、死に対する独特な視点を提供し、私たちに生きる意味を問いかけます。
仏教では、死は単なる終わりではなく、**新たな始まりの一歩**と捉えられています。すべての生命は「輪廻転生」を繰り返し、その過程は私たちの行い(カルマ)によって形作られると考えられています。善行は来世での幸福に、悪行は苦しみに繋がるとされますが、この終わりのない輪廻のサイクルから解放される道、すなわち「解脱(ニルヴァーナ)」も示されています。
仏教の根幹を成す「無常」の考え方にも、死に対する深い洞察があります。無常とは、この世のすべてのものは常に変化し続け、永遠に同じ状態であり続けることは無いという教えです。生もまた、誕生、成長、老い、そして死という流れの中にあります。この自然の摂理をありのままに受け入れることが、執着や苦しみから解放される道だと仏教は説きます。
では、死後には何が起こるのでしょうか。仏教では、宗派によって解釈は異なりますが、一般的に、魂は次の生へと向かうまでの間、「バルド」と呼ばれる中間の状態を経験するとされています。そして、再び輪廻転生のサイクルへと戻っていくのです。
しかし、仏教の最終的な目標は、この輪廻からの解放、つまり解脱を達成することです。解脱に至ることで、あらゆる苦しみから解放され、永遠の安らぎを得るとされています。
私たちは死とどのように向き合えば良いのでしょうか。仏教は、死を恐れるのではなく、 **自然の一部として受け入れる**ことを勧めます。「死の瞑想」などを通して、死を意識的に見つめ、その無常性を理解することで、今この瞬間を大切に生きることの尊さを再認識できるでしょう。死に対する理解を深めることは、同時に、他者への慈悲や思いやりを育むことにも繋がるとされています。
死は避けられない現実です。しかし、仏教の教えは、死に対する不安や恐怖を和らげ、より穏やかな心で死と向き合うための指針を与えてくれます。無常と輪廻転生という視点を持つことで、私たちは死を自然の一部として受け入れ、今を精一杯生きることの大切さを学ぶことができるでしょう。
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