https://www.myoshinji.or.jp/tokyo-zen-center/howa/1049 【解脱】より抜粋
ほぐれるとは「解」と書きますが、もともと自らの中にあるものに気づくことだと実感しました。
さて仏教では「解脱」という言葉があります。「解脱」とは苦しみから解かれ、のがれ出ること、煩悩や束縛を離れて精神が自由になること、迷いを離れることを意味します。
『法句経』という仏典に、以下の文章があります。
前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。
過ぎ去った過去や、まだ訪れぬ未来、今思うことさえも離れることができれば、それを解脱と呼んで、生きていく老いていくことなど人生の全てに迷うことがなくなると説きます。
解脱とはさとりという言葉に置き換えることができます。臨済禅は修行道場を設けて、坐禅に励み作務や日常生活を通して、解脱・さとりに達しようという宗派です。多年にわたり修行を修められた僧侶しか達することのできない解脱・さとりの境地もあると思います。けれど、臨済禅をはじめ大乗仏教は、そんな一握りのひとのためのものだけではありません。妙心寺派では、解脱・さとりを優しい言葉にして生活信条として、檀信徒の皆様と共に歩んでおります。
https://honsuki.jp/pickup/25172/index.html 【〈柿くへば……〉正岡子規は、「柿を食べた」から素晴らしい】より
柿を見たら「食う」という感性の、どこが素晴らしいのか
正岡子規には食べ物に因んだ短歌や俳句がたくさんあります。
子規というとたいていの人が最初に思い出すのは〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉だと思います。
侘び寂びた斑鳩の景色のなかに赤い柿の色が映える句ですが、色味だけのことでいえば木になっている柿でもよいのに、食べているところが子規らしいです。
これが北原白秋だと、食べません。
白秋の詩集『邪宗門』の「晩秋」には〈空高き柿の上枝(ほずえ)を/実はひとつ赤く落ちたり。〉とあり、「あかき木の実」には〈暗きこころのあさあけに、/あかき木の実ぞほの見ゆる。〉というのがありますが、どちらも食べていません。
白秋の柿は恋心ないしは情欲の象徴ですが、子規はただひたすら純粋に「食うもの」です。そこに子規の写生精神と個性があらわれているということですね。
子規はマンネリ化していた俳句の世界を刷新し、前近代の和歌を短歌へと転換するのに(こちらは専ら歌論によって)大きく貢献しましたが、そういう人が作った句歌のどこが良いのかは「それ以前」と比較してみると見え易くなります。
■月並みでも「自分だけのもの」は個性になる
日本では昔から人々が集まって句歌を詠んで披露しあう歌会や句会が盛んでした。結社などでは毎月集まってお題を決めて句歌を作る月並み句会などが行なわれていましたが、毎回季節感あるお題が出されるのがふつうでした。
俳句には季語があり、俳句も和歌も結社ごとの作風傾向もあり、長年やっていると何となく似通った作品が多くなってきます。
月並みという言葉は、現代では平凡とかありきたりとか、良くない意味で使われがちですが、これは子規が月毎に定期的に開かれている句会などで詠まれる作品を「月並俳句」と呼び、批判したことに由来します(でも、平凡な仕事を無難にこなしていくことの大切さ、難しさもおじさんには分かります。無駄なようでも親睦会も大切だし。だいたい和歌や俳句は人付き合いの潤滑油として作られる方が多かったのです。そのようにして作られた作品自体が、しょせんは世間にありふれた景色や気持ちを「ふつう」に表した平凡な言葉でしかないのかもしれません。しかしひとりひとりにとっては、それが「自分だけのもの」です。初恋の思い出は誰にでもあり、自分のそれも世間によくあるようなものだと分かっていても、それはやはりかけがえのないものだというのと同じです。伴侶を失った際の悲しみも、多くの人が味わうにせよ、かけがえのない痛みです。季節の食べ物を楽しみにする気持ちも、絶景を見て美しいと思う気持ちも、他人が既に味わっているからといって「月並みだから」と避ける必要はないでしょう)。
そのうえ和歌でも俳句でも、昔に作られた作品を取り込んで改作する本歌取りが盛んで、まあオマージュの類なのですが、純然たる創作というより二次創作的なオタク臭漂うものの方が、むしろ好まれるというのが伝統でした。
日本文化は昔からオタク的というか、原本があってそれを「写す/移す=ずらす」のを楽しむ傾向があります。江戸時代の歌舞伎は室町時代の能に出典を求めつつエンタメ度を高め、その能は王朝和歌や『源氏物語』『平家物語』を典拠とした二次創作である……というようなものですね。
子規は和歌や俳句の近代化を目指すにあたって、まずそうしたオタク的態度を減じ(全面否定はしません。子規も仲間の内輪ネタは嫌いではありませんでした)、とりあえず二次創作よりも独創を重んじました。
子規が唱えた写生というのは、知識を通してではなく自分自身の目で対象を見据え、また自分自身を見つめて作品を作るという態度を重んじるものでした。
だから子規の句歌には、自身の好みや生活の細部を切り取った個性があります。そのひとつが食べ物への執着でした。
https://www.manreki.com/library/kikaku/01haru-hitomaro/kashin/kashin.htm 【「歌の聖」から「歌の神」へ】より
1.はじめに
越中に赴任してきた翌年の天平19年(747)春、大伴家持(おおとものやかもち)は大病をわずらい、病床にあった。その病も快方に向かっていた3月3日、大伴池主(おおとものいけぬし)に贈った歌(巻十七・3969~3972)の題詞のなかで、家持は「山柿の門(さんしのもん)」について語っている。
幼年に未(いま)だ山柿の門に逕(いた)らず、
裁歌の趣(さいかのおもぶき)、
詞(ことば)を■林(じゅりん)に失ふ。
家持は、尊敬する先人として「山柿」を強く意識していた。この「山柿」は誰を示すのか。古来いくつかの説が提示されてきたが、そのひとりが柿本人麻呂であることはまちがいない。家持にとって人麻呂は、先人としてつねに意識しなければならない歌人だったのである。
【 関連展示品】
・西本願寺本『万葉集』 (複製)
2.歌の聖・人麻呂
平安時代のはじめ、最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)『古今和歌集』の仮名で書かれた序文(「仮名序(かなじょ)」と呼んでいる)のなかに、柿本人麻呂が登場する。
いにしへより、かくつたはるうちにも、ならの御時よりぞ、ひろまりにける。
かのおほむ世や、哥の心を、しろしめしたりけむ。かのおほむ時に、おほきみつのくらゐかきのもとの人まろなむ、うたのひじりなりける。
文武天皇の時代に、「正三位柿本人麻呂」が「歌の聖(ひじり)」として活躍していたという。しかし、人麻呂が「正三位」であったという史料はなく、むしろ『万葉集』からすると、位の低い歌人であったと考えられる。
人麻呂の活躍した時代から約200年が経った平安時代のはじめ、すでに人麻呂は「歌の聖」として伝説化していた。その後、『古今和歌集』が歌人たちの手本として重視されるなかで、人麻呂はますます「歌の聖」として崇拝されてゆく。
この「歌の聖」となった人麻呂の歌が、『古今和歌集』に7首ある。しかし、すべて「読み人知らず」の歌に、「ある人の説」として「人麻呂作」と注記されていることから、真作ではないとする考えが支配的である。しかし、この7首のなかに、後世人麻呂の代表作として考えられた歌がある。
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
(巻九「羈旅歌(きりょか)」)
「余情」の最高傑作と考えた藤原公任(ふじわらのきんとう)にはじまって、この歌は人麻呂の真作としてひとり歩きしはじめた。さらには、この歌をめぐる秘伝までもが、まことしやかに語られるようになってゆく。人麻呂は、『万葉集』そのものではなく、『古今和歌集』にあるこの歌をもとに、さらにあらたな「人麻呂」像が生成されてゆくこととなるのである。
【関連展示品】
・冷泉家蔵・嘉禄二年本『古今集』 (国宝の影印)
・伝藤原公任筆本『古今集』 (複製)
3.人麿影供のはじまり
鎌倉時代の説話集『十訓抄(じっきんしょう)』に、人麿影供(ひとまろえいぐ)のはじまりをめぐる逸話がある。
歌をうまく詠みたいと日ごろから人麻呂を念じていた藤原兼房(かねふさ)の夢のなかに、人麻呂が現れた。それは、直衣(のうし)・指貫(さしぬき)・烏帽子(えぼし)姿で、左手に紙、右手に筆を持って、なにか考えこんでいる、どうみても「常の人」には見えない姿だった。夢から覚めた兼房は、すぐさま絵師を呼んで、夢に見たこの人麻呂の姿を描かせて、毎日拝礼した。そして、そのご利益で、歌がうまくなっていった。この絵像は、兼房臨終に際して、白河院に献上され、宝物として「鳥羽の宝蔵」に納められることとなる。その後、藤原顕季がその絵像を借り出して、写し描かせた。そこに、人麻呂をほめたたえる文章と、『古今和歌集』の「ほのぼのと明石の浦の…」の歌を書き加えてご本尊として崇拝するようになり、人麿影供がはじまった。元永元年(1118)6月16日のことである。
影供とは、崇拝する神仏や人物の像をかかげて、供物をそなえ礼拝する儀式のことである。
平安時代末に活躍した歌人藤原顕季にはじまる歌道家六条家(ろくじょうけ)では、このときの絵像が子孫に代々受け継がれて、人麿影供は欠かすことなく続けられた。さらに鎌倉時代になると、影供と歌合(うたあわせ)が結びつくようになって、人麻呂崇拝は、ひろく歌人たちのあいだに広がっていった。
人麻呂像を礼拝する儀式であった影供の普及は、ますます人麻呂を神格化することにつながり、歌道を宗教的に方向づける役割も果たした。同時に、人麻呂の姿が描かれたことが契機となって、人麻呂もふくまれる「三十六歌仙絵」が多く生み出されることにもなった。そのため、さきの逸話に語られる兼房の夢に現れた人麻呂が、三十六歌仙絵の人麻呂像の基準となるのである。
『古今和歌集』の仮名序のなかで「歌の聖」とされた人麻呂は、平安時代末にはじまる人麿影供という儀式の普及とともに、「歌の神」というあらたな役割をあたえられることとなるのである。
【関連展示品】
加藤千蔭「人麻呂像」
加藤千蔭「人麻呂像」
・東陽良雪「古画人丸ノ像」
・佐竹本三十六歌仙絵「人麻呂」
・『人麿集』
4.「歌の神」への変容
「人麿影供」という儀式の普及によって、人麻呂は「歌の聖」から「歌の神」へと変容していった。
藤原顕季(あきすえ)が人麿影供をはじめておこなった平安時代の終わりごろ、歌人として活躍した住吉大社第39代神主津守国基(つもりくにもと)は、和歌浦玉津島神社(わかのうらたまつしまじんじゃ)の祭神「玉津島明神(衣通姫・そとおりひめ)」を住吉大社(すみよしたいしゃ)の神として迎えた。これ以降、航海の神であったはずの住吉明神は、あらたに「歌の神」としての役割も担うこととなるのである。
そのころ、顕季にはじまる六条家が人麻呂を崇拝したのに対して、藤原定家(ふじわらていか)を輩出した御子左家(みこひだりけ)では、定家の父俊成(しゅんぜい)が住吉明神と玉津島明神を平安京に勧進して「新玉津島神社」を創建し、歌の守護神として崇拝していた。
もともとは別々の「歌の神」として崇拝されていた人麻呂・住吉明神・玉津島明神の3神は、住吉=玉津島、住吉=人麻呂など、それぞれが同一神の化身であるかのように混同されたりしながら、徐々に歌の守護神「和歌三神」として、まとめて崇拝されるようになってゆく。
人麻呂は、もはやたんなる「歌の聖」ではなく、「和歌三神」のひとりとして「歌の神」というあらたな地位を獲得したのである。そして、このような人麻呂崇拝は、歌人たちだけでなく、連歌師や俳人たちにまで深く浸透してゆくこととなる。
そのような人麻呂が「歌の神」としてあらためて注目されるのは江戸時代の中ごろ、享保8年(1723)である。この年は、人麻呂の一千年忌にあたる年とされ、明石人丸神社(兵庫県)と高津柿本神社(島根県益田市)に対して、朝廷から正一位が贈位され、祭神を「柿本大明神」、社号を「柿本社」とするという宣命(せんみょう)が下された。『古今和歌集』の仮名序のなかで「正三位柿本人麻呂」と記された「歌の聖」人麻呂は、「正一位柿本大明神」という神の最高位にのぼったのである。
しかし、このような人麻呂崇拝は、やや変化した形で民間にも浸透していた。人麻呂は「人丸」と書く場合が多く、その音にかけて「火止まる」や「人産まる」と解釈し、防火、安産の神として信仰していたのである。つまり、民間の人麻呂崇拝は、たんに最高位の大明神として霊験にあずかる対象にすぎなかったのだろう。
【関連展示品】
・「和歌三神図」(上) 、「和歌三神図」の人麿大明神の歌の拡大したもの(下)
和歌三神図人麿大明神の歌の部分の写真
・明石人丸神社「火防刷物」
・内山邸「人丸神像」 (複製)
5.さいごに
昭和3年に主婦の友社は昭和改元を記念して、『万葉集』のなかから名歌を読者投票で100首選んで「萬葉百首絵かるた」を作成した。この100首のうち人麻呂歌は、「人麻呂歌集」歌をふくめて11首選ばれている。『万葉集』中最多の歌数を誇る家持でさえ5首であることから、この数字はかなり多い。
また、アララギ派の歌人斎藤茂吉は、人麻呂を崇拝しつつ、人麻呂研究に没頭して『柿本人麿』全5巻の大著を完成させた。とくに、人麻呂の自傷歌に詠まれた「鴨山」を終焉地として探索を続け、ついに島根県湯抱温泉がその地であるという結論に達したときの感激を、つぎのように歌いあげた。
人麿がつひのいのちを終はりたる鴨山をしも此処と定めむ (昭和12年11月)
長く『万葉集』を代表する歌人は人麻呂だった。いまもそう考える人は多いだろう。たしかに当館が収集する研究論文や書籍のなかでも、人麻呂に関わるものはとくに多い。その点で、『古今和歌集』の仮名序にはじまる人麻呂崇拝の流れは、いまも脈々と続いているのかもしれない。
【関連展示品】
・「萬葉百首絵かるた」より人麻呂の札
・斎藤茂吉「人麻呂讃歌」碑拓本
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