ペンタスに十字もありて神無月 五島高資

https://note.com/nakaderagama/n/nfad14c7f97e7 【『神道と仏教とキリスト教』君たちはどう生きるか考察】より

記事タイトルの解説ですが、私は物語中盤から登場する不思議な世界は、『様々な宗教観と死生観が混在し、お互いに接触できるが、同時にお互いに独立している世界』だったと思います。

世界の縮図

これは私たちが生きている世界そのものです。全てが繋がっていて、同時に独立しているんです。もっと狭い範囲でいいますと、『現代日本の宗教観・死生観そのもの』です。

神道

物語中盤の『不思議な世界』に登場した黒い人影(幻?死者?)は神道的世界観を表していると思います。この黒い人影は『漁をせず、生命を殺さず、血液と臓物に触れない』という存在です。これ、神道における『穢れ』に対する考え方とまるまる同じだと思うんですよ。

『穢れ』は怪我、病気、死、血液、犯罪を媒介として、それに触れたものに災いが感染するという感覚です。強い『穢れ』に触れた者は最悪の場合 死んでしまい、自身も『穢れ』となります。誤解されがちですが、『穢れ』って『汚い』という意味とは微妙に違うんですよね。

現代ではおめでたいことである出産も、宗教的な意味では『穢れ』に分類されるんです。

女性を『穢れ』として女人禁制とする聖域がありますが、これって女性を見下したり 汚いものであると捉えたりする考え方じゃないんです。

女性そのものではなく、血液(月経)や出産や死ぬ可能性を『穢れ』としていて、出産は破水や出血がある上に、昔は死と隣り合わせ(医療技術が未発達)であるので、そのことを『穢れ』と捉えて、聖域とは接触しないようにしているという考え方だと私は解釈しています。

『出産』により生まれた人間は、性別に関係なく生まれながらにして皆平等に『穢れ』に触れた存在であるという解釈もあるようですが。

上記の考え方には宗派による違いがありますし、私はこの記事を通して、『穢れ』の考え方の是非を問いたいわけではありません。

次の章と関連する内容ですが、私達日本人にとって神道と仏教は身近にあり、ごちゃ混ぜになっています。しかし、【死】に対する認識は真逆なんですよね。

神道では『穢れ』と捉えて、出来るだけ触れないようにします。

仏教では『転生』する過程であり、宗派によっては極楽浄土へ行くことを意味します。

もし家族が亡くなった場合、仏壇では家族の極楽行きを願い、同時に神棚は神棚封じをして、一定期間触れません。

キリコさんの話によると、この黒い人影(幻)は死者のような存在で、これに接触することはタブーである様子。

そして、次の章で解説しているワラワラは別の世界へ転生し、人間の赤子になります。

逆の視点を持つと、別世界への転生は今いる世界からの消滅、つまり今世での死を意味します。しかし、ワラワラが転生する様子は希望があり、消滅や死を恐れていません。

むしろ、自らの意志で積極的に転生しようとしています。

黒い人影(幻)とは「巨大魚を直接殺すことはできない」という共通点がありますが、

消滅や死に対するイメージが違うんです。これは黒い人影(幻)の表す神道的世界観とは違い、

ワラワラは 仏教的世界観であることを表しているのではないでしょうか。

仏教

ワラワラは、グルグルと螺旋を描きながら天へ上り、まったく別の世界で まったく別の姿(人間の赤子)として転生します。

これ、仏教で言うところの輪廻転生と六道の考え方のまんまじゃないですか?

輪廻転生とは命あるものはグルグルと車輪が回るように何度も転生を繰り替えし、人だけでなく動物なども含めた様々な生命として生まれ変わることです。

早い話が「来世での生まれ変わり」という意味で、インドの根本的な生命観です。

六道とは仏教において、全ての生命が生前の罪や善行の結果として輪廻転生する6種の世界のことです。

六道には下の6種類の世界があり、前世→今世→来世でまったく別の世界で まったく別の姿として転生する可能性があります。

天道 人間道 修羅道 畜生道 餓鬼道 地獄道

ワラワラはペリカンに食われることもあるため、両者の接触は可能です。

しかし、両者は別の原理によって存在し、ワラワラのみが別の世界へ転生することが出来ます。両者の空を飛ぶ原理もまったくの別物です。

ペリカンは羽を使い理論的に説明可能な方法で飛びますが、ワラワラは理論的には説明不可能な飛び方です。

ペリカンとワラワラの2つは、別の死生観・別の宗教観を持っていることが分かります。

ペリカンの飛び方は、具体的で合理的で、私は西洋的なイメージを抱きました。

ワラワラの飛び方は、神秘的で東洋的なイメージです。


https://shins2m.hatenablog.com/entry/2024/09/02/000000 【鎌田先生、神道を語る】より

一条真也です。

京都大学名誉教授の鎌田東二先生といえば、日本を代表する宗教哲学者として知られています。また、日本における神道研究の第一人者です。ステージ4のガン患者でありながら「ガン遊詩人」として積極的にライブ活動を続ける神道ソングライターでもあります。まさに超人です!

https://www.youtube.com/watch?v=haCpmL3r8B4

そんな鎌田先生の動画をYouTubeで見つけました。「【魂の対談】日本はとんでもない国だった」というタイトルの動画で、サムネには「神道が一気にわかる」「まつりに隠された4つの意味」と書かれています。今年の3月20日(鎌田先生の誕生日!)に収録されていますが、なんと10万回再生を超えています!

YouTubeより

動画は、「むすび大学」がYouTubeで運営する番組です。「むすび大学」は、日本人が今こそ学ぶべき真の教養を身につけるための教育系チャンネルだそうです。歴史、哲学、宗教、文学、政治、ビジネスからテクノロジーまでジャンルは問わず、日本が誇る“結び”の精神によって古今東西の学問を和合させて、新しい文化の創造を目指しているとか。その内容も興味深いですが、「むすび」という大学名が素晴らしい! わが社の「サンレー」という社名にも「産霊(むすび)」という意味があるので、「むすび大学」さんに親しみを感じました。

『古事記と冠婚葬祭』(現代書林)

鎌田先生とわたしは、昨年11月に対談本『古事記と冠婚葬祭』(現代書林)を上梓いたしました。鎌田先生いわく、神道には「神からの道」「神への道」「神との道」という3つの意味があり、すべて「祭り」という祈りの形式を通して総合的に実践されます。「祈り」は1人で捧げる行為ですが、祭りは地域の仲間や家族とともにみんなで行う集合行為です。祈りは霊性の基盤である一方で、祭りは公共性の基盤です。そして、「祭り」には、以下の4つの語源的意味があります。

待つ

――神々の訪れを待つ行為としての祭り

奉る

――供え物を奉り芸能所作を奉納する行為としての祭り

服(まつ)ろう

――大いなる存在と意思に従う行為としての祭り

真釣り

――真の大いなる均衡・バランス・調和としての祭り

鎌田東二先生と

鎌田先生とわたしは「魂の義兄弟」の契りを交わし、満月の夜の文通である シンとトニーのムーンサルトレターを続けています。現在は第234信ですので、あと半年でちょうど20周年の240信となります。その鎌田先生は本日2日の夜、京都から小倉にお越しになられます。翌3日は、病床にある父をお見舞いして下さる予定です。ご自身がステージ4のがん患者でありながら、父のお見舞いに来て下さるそのお気持ちに感謝の念でいっぱいです!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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