『大野林火論』(村上喜代子著)を読んで

http://blog.livedoor.jp/toshio4190/archives/1084837346.html 【『大野林火論』(村上喜代子著)を読んで その(1)】より

『大野林火論/抒情とヒューマニズム』で、「いには」主宰の村上喜代子さんが第39回「俳人協会評論賞」を受賞された。

大野林火「濱」 → 野澤節子「蘭」 → 土生重次「扉」 → 一枝伸「あだち野」創刊主宰 とつづく師系なのだが、これまで「大野林火」に関する評論に触れたことがなく、関連知

識は全くと言っていいほどなかった。

俳句に関する多くの著作を残していて、改造社「俳句研究」、角川「俳句」の編集長、そして俳人協会の会長まで務めた俳壇における重鎮なのに、その業績に関する本は意外と少ない。今回、恵送いただいたこともあり、感想を書こうと読み始めたが、その内容が面白く一気に読み進むことになった。これから本書の一部の要約を数回に分けて紹介する。

その(1) 臼田亜郎、大須賀乙字とのかかわり

横浜第一中学時代の大野林火は、文学、音楽に傾倒し、あちこちに出向き、出席日数不足で落第を繰り返していた。見かねた両親が、友人の父親の家庭句会に監視を兼ねて参加させたのが彼の俳句へのスタートとなる。 その後は、性にあったのかどんどん俳句にのめりこんでいく。

1921年、金沢の旧制四高に進んでからは、臼田亞郎の「石楠」に入会する。

農本主義に立脚する「石楠」の中では、都会的で洗練されて抒情的な林火の句は異彩を放っていたという。

1924年、東京帝国大経済学部に入学してからは、中塚一碧楼、河東碧梧桐、荻原井泉水ら、「海紅」系の新傾向俳句、自由律俳句の洗礼を受ける。

そんな林火を、亞郎は「信ずること思うことを勝手にやってみるがいいが、おぼれるなよ」と諭していたという。

師の臼田亞郎は1879年信州生まれ。法政大学時代に虚子に学ぶが、守旧的な俳句に反発して離脱している。しかし、碧梧桐らの「新傾向俳句」にも与みせず、芭蕉を崇拝し俳句革新を標榜していた。

1915年、臼田亞郎は地元新聞社を辞し、大須賀乙字、風見明成らと「石楠」を設立。事務所を東京代々木の自宅に移した。その後、門下生の内紛によって乙字らと対立したが、最終的に

亞郎が「石楠」主宰についた。

亞郎は、「俳句は一句一章たるべし」として、自然礼賛、生命の俳句を提唱し、季重なり、字余りも厭わなかった。「私の俳句は、道を求める心であり、宗教に帰依する心である。

つまり、まことを念ずる心であるから、俳句は二義的なものとみられることを免れない。また逆に、私のそうした心の唯一の表現形式からすれば、宗教も芸術もなく、一切の科学もない。

自然の現れを透し、そこに閃き通う霊性の息吹に接すべく、礼賛する言葉が私の俳句である」

大野林火は、そんな思想の「石楠」に入会したのだ(1925年)。亞郎の考えに関して、次のように弁護しつつ異論も唱えている。

「亞郎のこの言を以て、俳句を道徳や宗教と同一視してはいけない。芸術のための芸術を否定して、道としての俳句を求めているのである。ただし、先生が折々示す観念臭の強い作品には、一人よがりの脆弱さを感じて共感できない」(「濱」1952年2月号)

林火は、亞郎へ「慷慨詩人」という名を捧げた。亞郎は旅に出ても風景句は僅かしか詠んでいない。どちらかといえば「写生は不得手」だったという。

「饒舌な説明句が見られるが、それが破綻を見せないのは先生の人間性の裏付けがあるからである」(「濱」同号)林火が著書「現代の秀句」(1941年)、「戦後秀句Ⅰ」(1963年)

において取り上げている亞郎句を紹介する。

●「まことを念ずる心」「道を求める心」の句

 墓起す一念草をむしるなり       臼井亞郎  花舞うて焦土の電車途絶えたり

●林火好みのリズムの良い詩情豊かな俳句

 氷挽く音こきこきと杉間かな    木曽路行く我も旅人散る木の葉

 淡雪や妻のゐぬ日の蒸し鰈


http://blog.livedoor.jp/toshio4190/archives/1084839804.html 【『大野林火論』(村上喜代子著)を読んで その(2)】より

その(2) 『現代俳句読本』と『現代の秀句』

大野林火の人生は決して恵まれたものではなかった。東大時代に恋に落ちて桂歌子と卒業後の昭和2年に結婚するも、長女涼子を8カ月で失い、翌年誕生した長男正己も3歳の時に流行性脳膜炎にかかり病臥の末に亡くしている。

その看病に献身的だった妻の歌子にも感染して、わずか24歳の若さで死亡。父親の家業失敗もかさなり、経済的、精神的にどん底の数年を経験している。その間、民間企業から県立商工学校の教職に職を移している。会社務めが不適格と悟り、亞浪の紹介を受けての転職だった。

 燈籠にしばらくのこる匂ひかな    林火

「人の勧めるまま、加持祈祷、塩断ちなどもしていた。そんな新盆の時の句で、燈籠の火を消すと微かな蠟の匂いがしてきて、得もしれぬ哀しみを覚えた」と自解している一句。

残された次女玲子がまだ2歳ということもあり、長塚登志子と再婚して、少しずつ落ち着きを取り戻してゆく。

1935年(昭和10年)、31歳で「石楠」の最高幹部に推される。「石楠」誌上での評論活動も始まり、石田波郷、加藤楸邨らと親交を得ることになる。1940年、初めての俳論書『現代俳句読本』を刊行する。俳句への態度、表現、調べなど基本的なことがテーマである。

「芸術は〈情〉を基礎としている。(中略)よって客観写生には反対だ。目は楽しませてくれるが、僕らの心まで楽しませてくれない。(中略) 写生というのは、言うまでもなく根底

にある生命を写すことである」(「新しき写生」より)

林火のいう「新しき写生」とは、虚子のいう客観写生を手法として認めつつも、それを絶対化せずに、秋櫻子のいう心に感じたものを写す「主観写生」の意義を指している。両方の手法を認めつつも「生命の写生」を勧めているのである。

林火のエポックメイキングな著作は、1941年、37歳の時に書いた『現代の秀句』であろう。

俳壇は、新興俳句、人間探求派と呼ばれる俳人が闊歩していた時代で、時代の俳人13名を取り上げた同書は、ホトトギスに偏らない人選ということで注目を集めた。「石楠」という独

立系の結社に所属していたことが幸いしたのである。

取り上げた俳人は、水原秋櫻子、山口誓子、富安風生、中村草田男、加藤楸邨、篠原梵、石田波郷、中村汀女、前田普羅、渡辺水巴、飯田蛇笏、臼田亞浪、林原耒らい井せいの13名。

良く知られた俳人ばかりであるが、刊行当時は30代だつた波郷、40代の草田男など、評価の定まっていない俳人も交じっていて、林火の目の確かさを証明している。

俳句を始める際に、誰に師事するかという点で、多くの俳人に影響をもたらせた。 

戦時中の俳壇は、言論統制のために複数の人が集まることが禁止されるという事情もあって紙上句会にならざるを得なかった。(コロナ禍でPC上の句会が行われたことに似ている)

林火らも「八尋」という謄写版刷りを6号出している。

当時はFAXもない時代で全て郵送である。それなのに、5~60名が参加し、カリエスで療養中の野澤節子も加わっている。戦時下の中で文化的なものに誰しもが飢えていたのであろう。

この『八尋』は、戦後の「濱」創刊につながっていく。1941年の『現代の秀句』の上梓の後、1943年から虚子研究をスタートさせ、翌春までの数か月間、東京駅前の丸ビルの

ホトトギス発行所に通い詰める。この行動は「石楠」幹部の顰蹙を買ったが、亞浪はそれを許していた。このホトトギス研究をもとに、1944年『高浜虚子』が刊行される。

後記に次のように書いている。

「高濱虚子先生は現俳壇の国賓的存在である。 その足跡は明治、大正、昭和という三代にわたる。(中略)現代俳句を知るには、まづ虚子を知れと言いたい」

へつらうようなそのモノ言いは、この頃の虚子の俳壇における地位を考えれば致し方ないことである。一方で、書の結びでは次のような異論も書いている。

「次代の俳句は、この虚子を乗り越えたところに樹立されなければならない。虚子によって見捨てられた俳句と生活とのつながり、人間精神を復活させるべきであろう」と。

ホトトギス以外の人間が書いた初の虚子論として注目されたが、この林火の論に対し虚子は、「私に見捨てられた生活とは何か」と問い、「説が先行することは好まないので実作に於て示してほしい」と注文をつけている。


http://blog.livedoor.jp/toshio4190/archives/1084844039.html 【『大野林火論』(村上喜代子著)を読んで その(3)】より

その(3) 大野林火の功績

1946年、「俳句研究」誌が改造社から目黒書店に移った際に、林火は4月号から10月号まで編集長を務めている。また1953年から3年間、角川「俳句」の編集長も務めた。虚子の計らいがあったとされる。

その間、沢木欣一、平畑静塔、古澤太穂、赤城さかえ、金子兜太ら社会性俳句の旗手たちに発言の場を与える企画を実現していく。

こうした俳壇の牽引の他にも、林火は数多くの功績がある。その一つが俳人の育成である。

カリエスの療養の中で句作に励んでいた野澤節子や、ハンセン氏病で差別に苦しんだ村越化石がよく知られている。

本書の後半部分で、二人とのかかわりが詳細にわたって紹介されている。   

また還暦を過ぎてから、柳田國男の勧めで地方の「年中行事」の研究、句づくりにも取り組んだことも、林火の残した業績の一つといえる。

①夜念仏(愛知)、②迎鐘(京都)、③十日夜(長野)、④加太の雛流し(和歌山)etc。

また、林火は生涯11冊の句集を出している。

本書では、3つの時代に大別されて紹介され、それぞれに著者の鑑賞文が載せられている。

(1)初期 『海門』『冬青集』『早桃』の時代

(2)中期 『冬雁』『青水輪』『白幡南町』『雪華』の時代

(3)晩期 『潺潺集』『飛花集』『方円集』『月魄集』の時代

初期の抒情的な作風から、雪月花などの耽美的なものに移り、還暦を越えたあたりから、如何に老いるかを意識し始める。

それぞれの時代の林火の句に対して、後半の多くのページをさいて著者の観賞が記されている。

大野林火という俳人が歩んできた足跡そのものである。同じ師系に身を置く人間として、じっくり読み込みたいと思う。

以上、(1)~(3)で村上喜代子氏の著作『林火論』の要約を紹介して、お贈りいただいた御礼とさせていただく。 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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