https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/442 【西山の秋夕焼-瓜生山歳時記 #26】より
edited by 尾池 和夫 高橋 保世
「夕焼」は夏の季語である。夕焼の現象は一年中見られ、季語として歳時記には、「冬夕焼」、「春の夕焼」、「秋夕焼」というように各季節に登場する。それぞれに夕焼の特徴が異なるが、秋の夕焼がもっとも夕焼らしく見られるということになる。「虹」も夏の季語であり同じように「春の虹」「秋の虹」「冬の虹」と言う。9月に取り上げた「月」は「春の月」「夏の月」「月」「冬の月」と歳時記にあって、月は秋こそ月にふさわしい姿であると言われる。それに対して、「日」は「春の日」「夏の日」「秋の日」「冬の日」とあり、季節感の感覚に差がない。ついでながら、「星」の場合は、「春の星」「夏の星」「冬の星」があり、秋には「星月夜」という季語があって月夜と対比されている。一方で「闇」に関しては、「春の闇」「夏闇」「虫の闇」という季語が詠まれ、冬には闇が登場していない。それぞれに歴史の中で整理されてきた日本人の感覚が見事に表現されている。
秋夕焼芯はまつくろかもしれぬ 夏井いつき
瓜生山の大階段には夕日を見るための「風の舞台」があるが、学園全体が東山にあるために、自ずから夕日を見る前項の場所がたくさん存在している。学生たちはそれぞれに活動の場所から夕日を見て夕焼の景色を思い出にする。
光の波長が道筋の粒子のよりも大きいと通過しやすいという現象は「レイリー散乱」と呼ばれる。夕方には太陽光の入射角が浅く、大気層を通過する距離が伸びて青色が通過しにくく、赤などの長波長の光が見られる。1883年のクラカタウ火山の巨大噴火の後には世界中で鮮やかな夕焼が見られた。
夕方には「太陽の蜃気楼」と呼ばれる現象もあり、「だるま夕日」が見える場所がある。室戸ジオパークでは夕方の海岸でこの現象を待ってカメラを構える人の姿がよく見られる。私も一度だけ室戸岬の砂岩泥岩互層の岩の上からみごとなだるま夕日を撮影して感動したことがある。
秋夕焼準平原の沈みけり 和夫
https://keigetu0024.livedoor.blog/archives/7566484.html 【秋の夕焼け、秋夕焼(あきゆやけ)、秋夕映(あきゆうばえ)。】より
秋は夕暮れ、夕日のさして、、と枕草子でありますから夕焼けはてっきり秋の季語と信じていました。しかし、俳句を始めて夏の夕日が一番大きく綺麗で夏の季語季題と知りました。
秋に詠みたい時は秋をつけなければなりません。行く秋を惜しむ寂しさも加わるのが秋の夕焼けですね。
光太郎の棲みたる山の秋夕焼 岡田智了
秋夕焼芯はまつくろかもしれぬ 夏井いつき
秋夕焼どの橋渡り帰らむか 石山惠子
秋夕焼ゴッホのいろを絞りきる 土濃塚古銭
病棟の端より父と秋夕焼 慶月
秋の夕日に特別の思い出を持つ人は多いのではないでしょうか。
1995年の3月から10月の初めにかけて父は高松の日赤で闘病生活を送り74歳で亡くなりました。
私は毎月のようにこちらから見舞っておりました。最後から二番目に行った時は、体力を付けたいからといい廊下をゆっくり歩く父に付き合いました。病棟の西の端まで行き、夕日が綺麗ねと二人で見つめました。骨髄異形性(白血病の一種)で家族にはいつでも覚悟しておくようにと言われていました。父は退院したら遊びに行くからと希望を持って、私は堪えながら夕焼けを眺めていました。
https://www.linderabell.com/entry/autumn/sunset/AkinoYuyake 【秋の夕焼け(あきのゆうやけ)】より
秋の夕焼け
単に「夕焼け」と言えば、夏」の夕焼けを指します。「夕焼け」 は夏が最も鮮やかで大きいからです。と言う訳で「夕焼け」は本来は夏の季語です。
一方「秋の夕焼け」は、夏の夕焼けの強烈な色、暑さとは違って、どこか寂しさを伴なうものです。
「秋の夕焼け」は黄金色
「夏の夕焼け」は、赤が強く、茜色に染まることが多いのですが、秋が深まるにつれて、色が淡くなって、黄金色の夕焼けになります。
そもそもなぜ夕焼けの空は赤いのか?
晴れた日の昼間は気持ちの良い青空が広がりますが、日没が近づくと、西の空は真っ赤な夕焼けに染まります。なぜ朝や夕方には赤色に染まって見えるのでしょうか。
太陽の光は、人間の目には見えませんが、複数の色が含まれています。
それぞれの色は異なる波長を持っていて、
波長が長い順に「赤」「橙」「黄」「緑」「青」「藍」「紫」の7色に分けられます。
これら太陽から届く可視光線は、全ての波長が重なると、ほぼ「白」になります。
太陽光が大気層に突入してくると、大気中の空気分子や様々な微粒子群によって
散乱されます。
短い波長ほど大気中に多く散乱され、波長の長い光は散乱を受けにくいため、大気中への広がりは少なくなります。なお微粒子が無ければ散乱は発生しないため、殆ど真空の宇宙空間や月面では、太陽光は散乱されないため、真昼であっても真っ暗にしか見えません。
晴天真昼の場合は、太陽光が通過する大気層中の距離が短いので、波長の長い「赤」「橙」の散乱量は少なく、波長の短い「青」が散乱し、更に散乱された光は周辺の微粒子により
何度も散乱が繰り返されて、空一杯に広がり、「青」く染まって見えることになります。
なお「青」よりも波長の短い「藍」「紫」の光は上空の高い所で散乱・吸収されるため、
平地では人間の目まで届きません。
一方、日の出や日没時は太陽の高度が低く、光が空気の層を斜めから差し込むため、大気の中を通る距離が昼間より長くなります。
すると、波長の短い「青」系の光は昼間よりも更に散乱され続け、地表に到達した時には、
残り僅かの状態になってしまいます。
それに対して、波長の長くて散乱しにくい「赤」「橙」の光が届いて目立つようになります。
これが朝焼けや夕焼けが赤く見える理由です。ただ、空全体に広がるまでには至りません。
ではなぜ、夏と秋冬では夕焼けの色が違うのか?
では夏の夕焼けと秋の夕焼けでは見え方が変わるのでしょうか。
これはまず、空気中に含まれる「水蒸気の量」が関係しています。
空気中の水蒸気が多いと、波長の短い光が散乱してしまうことから、波長の長い「赤」の光が散乱されずに目に届きやすくなります。
それに対して秋から冬にかけては、湿度が低く空気が澄んでいることから「赤」に比べて波長が短い「橙」「黄」の光も散乱されずに届きやすくなります。
そのため、「橙」「黄」「黄金色」の夕焼けを見ることが出来るのです。
また秋冬は水蒸気が少なくなるのと同時に塵や埃も舞いにくくなり、光が四方八方に飛び散ることないために、「橙」「黄」の光が残ったまま日が沈むため見ることが出来るのです。
秋の暮れ(あきのくれ)
「秋の暮れ」(あきのくれ) という季語があります。
秋の一日の夕暮れという意味と、秋という季節の終わりという意味があります。
但し、秋季の終わりの場合は、「暮の秋」(くれのあき) と言って区別する場合もあります。
古来より二つの意味で使われてきましたが、この二つの意味が渾然一体となっていることもあります。
秋の情趣は「夕暮れ」にこそ深まるものとされ「秋の夕暮れ」(あきのくれ) という季語は、もののあわれの極みを感じさせるものとして、古来多くの詩歌に親しまれてきました。
秋は夕暮れ
清少納言は『枕草子』の中で、「春はあけぼの」「夏は夜」「冬は早朝」、そして「秋は夕暮れ」が素晴らしいと言っています。
秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと 近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、
三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへ あはれなり。
まいて、雁などの連ねたるが、 いと小さく見ゆるは、いとをかし。
日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
現代語訳-
秋は、夕暮れ。夕日がさして、今にも山の稜線に沈もうという頃、
烏がねぐらに帰ろうと三つ四つ二つ 三つなど思い思いに急ぐのさえ、
しみじみと心に沁みる。 まして、雁などが列を連ねて渡って
いくのが遥か遠くに小さく見えるのは、なかなかに面白い。
すっかり日が落ちてしまって、風の音、 虫の音などが様々に奏でるのは、
もう言葉に尽くせない。 『枕草子 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』角川書店
三夕(さんせき)
「三夕」(さんせき) とは、新古今和歌集』に所収されている、「秋の夕暮れ」を結びとした3首の名歌です。
1. 寂連法師
寂しさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕暮れ
寂しさというのは色によるものではないのだ。
山には常緑樹である槙が立ち並んでいるが、秋の夕暮れはやはり寂しいものよ。
2. 西行法師
心なき身にもあはれはしられけり 鴫 (しぎ) 立つ沢の秋の夕暮
世を捨てて出家したはずの我が身にも、人生の無常が身にしみる。
秋の夕暮れ時、鴫が羽音を残して飛び立った 後の静けさよ。
3. 藤原定家
見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ
見渡すと春の桜も秋の紅葉も何もない。 ただ寂れた、苫葺きの小屋があるだけの
秋の夕暮れよ。
釣瓶落とし(つるべおとし)
秋の日の暮れやすいことを「秋の日は釣瓶落とし」と言います。
童謡「夕焼け小焼け」
『夕焼け小焼け(夕焼小焼)』は、大正8(1919)年に中村雨虹 (うこう) が作詞し、
大正12(1923)年に草川信 (しん) が作曲し、大正12(1923)年に7月、文化楽社から文化楽譜『あたらしい童謡』として発表された童謡としては最も広く親しまれている作品の一つで、
全国各地に数多く歌碑が建てられている、まさに日本人の心の原風景とも言えるかもしれませんね。
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