筑波嶺を仰ぐ猩々蜻蛉かな 五島高資

http://www.forest-akita.jp/data/kiso-bunka/kisobunka01/kiso-01.html 【東北の基層文化を探る】より

北の縄文文化

 かつて日本の開始は、大陸から進んだ文化を持った人々が渡来してきて、水田稲作を始めた弥生時代からと教えられた。「日本書紀」に記されたエミシは、五穀も家もなく、肉を食して深山の木の下に眠っていると記されている。ましてそれより遥か以前の縄文文化は、先住民族の遅れた人々の異文化であり、考古学の世界でも軽視されていた。

 ところが最近は、弥生文化に端を発する現代文明に疑問を感じる人々が増え、弥生時代以前に1万年も続き、森と共生してきた縄文文化に関心が寄せられるようになった。特に三内丸山遺跡の発見は、「未開の野蛮人」といった偏見を覆し、堰を切ったように縄文時代への関心が深まった。今や「縄文人は我々の祖先」というのが定説になっている。

縄文人の祖先

 最新の研究結果によると、縄文人の祖先は、東南アジアから中国を北上し北海道経由で本州に入った「北方系」の集団と、東南アジアから日本列島を北上した「南方系」の集団がいた可能性があるという。富山市の小竹貝塚で出土した多くの人骨DNA鑑定によると、北方系と南方系の人たちが一緒に暮らしていたことが判明している。

 我々の祖先は、既に縄文時代から、北方系と南方系が混住していたことが分かる。こうしたDNA鑑定による日本人のルーツ探しに興味がないわけではないが、むしろ東北の基層文化は、ブナ帯の自然と風土が決定的な要因になっているように思う。

1万年以上も続いた縄文文化

 氷河期の日本列島の植生は、北海道は森林ツンドラ、本州は針葉樹が主体で荒涼な環境が支配していた。やがて気候の温暖化によって、今から約1万5000年前になると、列島の多くがブナ、ミズナラなどの落葉広葉樹林とシイ、カシなどの照葉樹林で覆われ、今日の植生ができあがった。縄文時代は、この頃から約2300年前に稲作農耕が渡来するまで1万年以上も続いた。

▲ブナ ▲ミズナラ

縄文文化は東高西低・・・日本の歴史は、西高東低だが、縄文時代に限れば、東高西低だった。その最大の理由は、東日本の落葉広葉樹林と西日本の照葉樹林という植生の違いである。広葉樹林には、ブナやクリ、ナラ、トチ、クルミなどの実が豊富で、これらの堅果類が人間だけでなく、野生鳥獣にとっても貴重な食糧となっていた。

 さらに、山菜やキノコ、イワナやヤマメ、サクラマス、サケなどのサケ科魚類の宝庫でもあった。従って、狩猟漁労採集を生業とする縄文時代には、ブナ帯地域の人口が照葉樹林地域を大きく上回っていたことが分かる。

環境考古学・安田喜憲氏・・・ブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林が広がる東日本と、シイ・カシを軸とする照葉樹林が拡大した西日本を対比させ、前者の方が狩猟・採集経済の社会では、人口の支持力が高かったと指摘している。

縄文時代中期の人口(小山修三氏の推計)・・・北海道を除く日本列島の人口は約26万人。うち西日本はわずか2万人程度で、全人口の7.7%に過ぎなかった。東日本は24万人、全人口の92%を占めていた。

佐々木高明氏「稲作以前」「日本の焼畑」・・・自然の豊かな東日本では、定着的な「成熟せる採集・漁労民社会」が発達した。これに対し、資源の貧困な西日本は、縄文後期・晩期になると、雑穀・イモ類を主作物とする焼畑農耕を中心に、採集・狩猟活動によってその経済を補う、いわゆる「初期的農耕社会」が、照葉樹林帯を中心に成立したと考えている。

「縄文ブーム」を巻き起こした「三内丸山遺跡」

 1796年、菅江真澄は、「すみかの山」の紀行文の中で、現在の三内丸山の遺跡から出土した土器や土偶などの遺物があったことを記している。

 「三内村の古い堰の崩れたところから、縄形、布形の縄文土器、あるいは、かめの壊れたような形をしたものを発掘したといってあるのを見た・・・また、人の頭、仮面などの形をした出土品もあり、ミカベノヨロイに似たものもあった」

 平成6年の夏、全国的に有名な三内丸山遺跡が発見された。それは5500年前から4000年前まで、1500年間500人が定住した全国最大の遺跡だと発表され、世間を驚かせた。この三内丸山遺跡の発見は、野蛮だという縄文時代のイメージを一変させ、「縄文ブーム」が巻き起こった。

大型掘立柱建物

 直径1m、高さ14.7mに及ぶクリの巨木を使った6本柱は、近付けば近付くほどその巨大さに驚かされる。この木を人力で運ぶには、屈強な男が100人も要するという。集落の大きさが容易に想像できる。見張り台や祭り、大型の建物説などがあるという。

日本最大の大型竪穴住居

 復元された大型竪穴住居跡は、長さが約32m、幅約9.8m、床面積250m2で、日本最大。集会場や共同作業場などに使われたのではないか。この中には300人も入るという。大きいだけでなく、木の表面を焼いて腐れや虫食いを防止する処理が施されている。ちなみに大型竪穴住居とは、長さが10m以上の竪穴住居で、この遺跡では11軒見つかっている。

縄文都市

 縄文時代の道は、けもの道程度と思われがちだが、道路跡の幅は5m~14mと広く、しかも平らに地面を削り、地盤が軟弱なところには硬い土がまかれていた。集落内の施設配置は、規則性が見られる。掘立柱建物群には道路が接続し、道路の両側には大人の墓が並んでいる。

 竪穴住居は、大人の墓とは離れた場所にあり、ゴミ捨て場などの盛土遺構で区画された範囲に作られている。つまり、大規模な土木工事によって縄文都市が形成されていたのである。

再生を願う子供の墓

 子どもの墓だけは、なぜか住居の近くに集中している。幼くして死んだ子どもは、再び戻ってくることを祈りながら、神に返したと考えられている。その幼い亡骸は、土器を母の胎内に見立てて、その中に納めた。思えば、つい最近まで、7歳までに死んだ子供は別の人間に生まれ変わることができると信じられていた。だから、そんな子供は墓ではなく、土間や台所などに埋める風習があった。

食料を保管した高床式建物

 ネズミなどの害を防ぎ、風通しを良くするために高床式にした食料保管庫と考えられている。驚かされるのは、木と木をつなぐ接合部(右の写真)。鋭利な石器で接合部を切り抜き、穴と凸部を組み合わせる高度な技術が、今から4,500年も前に既に確立されていたのである。

食料の栽培と縄文里山

 自然の恵みに加えて、クリをはじめ、ヒョウタン、エゴマ、ゴボウ、マメなどの栽培も取り入れ、1500年という長期にわたって安定した定住生活が続いた。また、ヤマブドウ、木イチゴ、サルナシ、ニワトコなどで、果実酒さえ作って楽しんでいたという。

 花粉のDNA分析などから明らかになったことは、ブナ林を中心とする落葉広葉樹が広がる自然環境に、資源の維持・管理を目的とした積極的な関与が行われ、クリ林やクルミ林、漆などの有用な樹種で構成された「縄文里山」と呼びうる人為的な生態系を成立させ、生業を維持していたことである。

▲ウルシの液を塗る様子 ▲5500年前の網カゴ「縄文ポシェット」

高水準の木工、編み物、装飾品

 食料の獲得と消費に係る道具だけでなく、生活用具や祭祀儀礼用具、装飾品など縄文文化を代表する道具類が極限まで発達していたことが分かる。木地物のルーツとも言える木製容器には、仕上げの最後に漆が塗られていた。

 有名な「縄文ポシェット」は、針葉樹(ヒノキ科)の樹皮を「網代編み」で編んだ小型の袋で、中には割れたクルミの実が一つ入っていた。現在、我々が使っているカゴ類のほとんどが縄文時代の早い段階で用いられていたのである。

 また、耳飾りや髪飾り、胸飾り、腕飾り、腰飾りなど、今日見られる装身具の大半は、既に縄文人が身に着けていた。しかも漆塗りの美しい装身具もたくさん発見されている。縄文前期には、高度な漆工技術が既に完成していたという。

▲北海道産黒曜石 ▲新潟県糸魚川産ヒスイ製大珠(たいしゅ)

遠隔地との交流

 北海道産の黒曜石、新潟県糸魚川産のヒスイ、岩手産の琥珀、秋田産のアスファルトなど、活発な交易がおこなわれていた。・・・全てにおいてビッグな遺跡である。

土器を必要とした理由

 何故、縄文人は土器を必要としたのだろうか・・・魚や獣肉は煮るよりも焼いて食べる方が美味しいと思うが、土器で煮てから食べる必要があった食べ物には、どんな物があったのだろうか。

 広葉樹の森には、ドングリやトチの実、クルミ、クリなどの堅果類が豊富な実をつける。その堅果類の多くは、ワラビやフキ、ゼンマイなどの山菜と同じく、アクが強くてそのままでは食べられない。石皿やスリ石などの製粉具と加熱処理してアクを抜き、食べやすいように軟らかくするために土器が必要になった。

 また、縄文人は、多くの貝塚を残している。貝類は、煮ると蓋を開き、良い出汁が出る。恐らく、貝類や海藻類も土器で煮て食べたに違いない。こうした煮ることによって食用にすることができる動植物が多く、それが土器を発達させたと言われている。

アニミズムと土偶

 火山の噴火や地震、雷、洪水、疫病など人智を超えた自然現象を恐れ敬い自然を崇拝していた。その儀礼祭祀用具の一つが土偶である。

 中期の北東北から北海道南部には、十字状や三角形状の板状土偶が、晩期には亀ヶ岡遺跡のシンボルでもある遮光器土偶が発見される。また土偶は主に女性を形象したり、男性のシンボルをかたどった石棒もある。中期になると、男根がよりリアルになり、中には2mを超える大型もつくられるようになる。

縄文カレンダー

 内陸部の縄文カレンダーによると、春は山菜採りと貝類の採取、夏はマス類を中心とした川漁、秋は木の実・きのこ採取とサケ漁、冬は野生鳥獣の旬の季節で雪を利用した狩猟という四季の生業パターンからなっている。これは、ブナ帯に生きるマタギの生業カレンダーとほぼ同じであることが分かる。

▲大湯環状列石(鹿角市)

東北は、関東・中部地方や北海道南部などと縄文文化の先進地であった。その証として北海道・北東北縄文遺跡群は、2009年、ユネスコ世界遺産暫定リストに記載された。2019年12月20日には、2021年の世界遺産登録に向けて、縄文遺跡群のユネスコ推薦が正式に決定した。その秋田県代表が鹿角市の大湯環状列石と北秋田市の伊勢堂岱遺跡のストーンサークルである。

▲伊勢堂岱遺跡のストーンサークル(北秋田市)

ストーンサークルは、高台を大規模な土木工事で土地造成し、数千にも及ぶ大石を設計に基づいて環状に配列した。これを「日時計」とする説もあるが、いくつかの集団の共同墓地と考えられる。縄文人は、太陽の動きとその周期を理解し、日没の光景に人間の死を見ていたのであろう。また石と墓地から連想すれば、今日の先祖崇拝、石神信仰のルーツは、既に縄文時代にあったことになる。

▲亀ヶ岡石器時代遺跡(青森県つがる市)

司馬遼太郎「縄文芸術」(「街道をゆく-オホーツク海道」)

 明治20(1887)年、左足のとれた「遮光器土偶」とよばれる女性像が出た。両眼が、イヌイト(エスキモー)の使用する遮光器に似ている。異形ながら、いまにも発光しそうなほどの力を感じさせる。亀ヶ岡式土器文化の特徴のひとつは、漆塗りにある。黒漆の地に赤漆をぬって文様をつくりだした技術の高さと豪放な感覚は、"縄文芸術〟とよばれてもいいほどのものである。

 ・・・縄文人は、おそらく愉快にくらしていたにちがいない。

 日本の縄文時代は、ヨーロッパの"新石器時代〟の生活形態に相当する。おなじ採集と狩猟のくらしながら、比較にならないほどにゆたかだったはずである。えものも木の実も、日本列島は豊富だった。縄文人は各地に貝塚をのこしたが、じつに多様に栄養をとり、味覚を楽しんでいたことがわかる。

司馬遼太郎「豊かな縄文の生活」(「街道をゆく-オホーツク海道」)

 縄文文化における土器の役割は大きかった。・・・"煮炊きは第二の胃袋〟といえるが、別の表現でいえば、土器は体外の胃袋ともいえるのである。

 「これぞ文明の世だ」

 と、もし当時の縄文人が自讃したとしても、笑うべきではない。

 「米(農業)がないじゃないか」

 と、はるか後の弥生人はあざ笑うかもしれないが、たしかに農業は文明をおしすすめはしたものの、農家個々が縄文人よりいい暮らしだとはいえないのである。

 縄文人には、米に代わるべき澱粉食物としてドングリなどの木の実があった。とくに本州の東半分から北海道にかけては木の実が豊富で、苦しんで田を作る必要はなかった。蛋白質食物は、弥生時代から昭和30年ぐらいまでの2千年間の日本人よりも、東日本や北海道の縄文人のほうが、ずっと豊富に摂取していた。貝については、日本列島のどの海浜も豊富だった。日本では、ほんの半世紀前まで、どの干潟でも、ざくざく採れた。

▲弥生時代前期の反町(そりまち)遺跡・水田跡(岩手県奥州市江刺)

東北の弥生文化

 古代、東北地方には、稲作が存在しないと言われていた。つまり、昔から東北には弥生文化はなかったと思われていたのである。戦後、東北大学の伊藤信雄教授が「東北には、古代稲作が存在した」という仮説を提示した。

 青森県では、弘前市の砂沢遺跡や田舎館村の垂柳遺跡から水田跡が見つかった。しかも、垂柳遺跡は弥生時代前期のものだった。秋田県内では、籾痕のついた土器片が、男鹿市や井川町、三種町の遺跡から発見されていた。けれども水田跡はなかなか発見されなかった。平成8年、ついに大仙市・星宮遺跡で水田跡16枚が発見された。

 岩手県では、奥州市江刺の反町遺跡で水田跡18枚が見つかった。畔で区画され、ため池と用水路など、かんがい技術を伴った水田跡であった。稲作が困難と思われた北東北三県だが、弥生時代前期、既に水田耕作の技術体系がまるごと普及していたことが分かったのである。

▲復元北前船「みちのく丸」・・・日本海航路で海運を行った船

北へ移動するには、船で日本海の対馬海流に乗れば苦労せずに北上できた。7世紀、毎年二百もの船団を引き連れ、三度も北方遠征した阿倍比羅夫もこの海流を利用した。もちろん、江戸時代の北前船も同様である。

司馬遼太郎「東北の古代稲作実証」(「街道をゆく-北のまほろば」)

 「青森県の津軽地方に、もう一段以前の水田跡が出現した。・・・砂沢遺跡である。信じがたいことに、弥生前期のものだった・・・弥生文化が、北九州より発して東へ進行し、太平洋岸ではいまの名古屋あたりにやっと達したころ、日本海ではよほどスピードが速かったらしく、すでに津軽に達していた。・・・縄文時代には、日本列島を縦貫する道などはなかった。日本海を、舟で移ったに違いない。

 ・・・その後、東北各地でいくつかの弥生中期の遺跡が発見され、゛伊藤信雄仮説゛は全き形で実証された。・・・かれらの水田は、芸のこまかい装置をともなっていた。田に引く水は近くの岩木川から引いているのだが、途中で小さな溜池が築造されている。津軽は、西方の暖地と違い、水が冷たい。稲は元来熱帯・暖温帯の植物だから冷水は生育を害しかねないために、この装置によって水を温めたのである。・・・ただし、このように高い初期稲作も、どういうわけか、途中で絶えてしまった。」

 注意すべき点は、この頃、東北全体が稲作を中心とした弥生文化になったのではないということ。つまり、狩猟漁労採集の暮らしと農耕の暮らしが斑状に混在していたに過ぎない。だから、「斑状文化」と呼ばれている。

弥生の東進と縄文の抵抗・・・歴史学者・網野善彦氏は、「北九州に入った感光性の強いイネの品種が、東日本には生育せず、東日本にそれが受け入れられるためには、感湿性の強い品種が現れなくてはならなかったともいわれるが、端的に言って、弥生文化の東進を阻んだのが、最高度の発展をみた狩猟・採集生活を基礎とする東日本の縄文文化の抵抗であったことは確実といわなくてはならない」

▲秋田城跡(秋田市寺内高清水)

658~660年、最初の蝦夷征伐を行ったのは阿倍比羅夫である。彼は水軍を率い、北上して秋田と津軽を朝廷の支配下に組み入れた。阿倍比羅夫一族は、東北に早い時期から支配権を確立。前九年の役で朝廷と争った蝦夷の豪族・安倍貞任は、比羅夫の末裔とする説もある。

最北の蝦夷支配・・・秋田城、多賀城

 8世紀(奈良時代)に入ると大和政府は、蝦夷経略に意欲を燃やし、712年出羽国設置、733年には、秋田市寺内の高清水に出羽柵を移し、のちに秋田城と呼ばれた。また、760年代には多賀城を根拠とし、要所に柵を構築した。これらの柵には、防衛のかたわら耕作をする一種の屯田兵を数多く送り込んだ。

 政府に帰順した蝦夷を俘囚と称した。俘囚とは捕虜を意味し、依然として差別した呼称であった。蝦夷側にしてみれば、開拓と称して征服者たちが入り込み、横暴な行為を繰り返した。だから、抵抗するのは当然であった。774年、陸奥・出羽両国の蝦夷が蜂起、大反乱が起きている。

780年 アザマロの乱

アザマロは、俘囚ながら伊治城の守備隊長となり、政府の信任が厚かった。しかし、彼はかねてから俘囚に対する目に余る差別待遇や虐待に反感を抱いていた。780年、アザマロは、東北最高官の紀広純を殺害し、多賀城を焼討にした。

 朝廷は東北での反乱拡大を防ぐため、征東軍を組織し派遣する。その指揮官は、征東大使と呼ばれ、後に征夷大将軍と呼ばれるようになった。この征夷大将軍は、後に日本の武士の総大将という意味をもつようになる。それは・・・平家と奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が、1192年、武士の総大将である征夷大将軍となり、鎌倉幕府・武士政権をスタートさせたからである。

第一次征東・・・巣伏の戦い

 アザマロの反乱から8年後、789年、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使に任じ5万の将兵を授けた。古佐美は多賀城を根拠に衣川に布陣。この侵略に対し、胆沢の盟主・アテルイは、近隣の部族と連合し侵略を阻止するために立ち上がった。アテルイ軍は、馬や弓矢を巧みに操り、ゲリラ戦術で敵を大いに震撼させた。

 同年5月、中央からの矢の催促に古佐美軍は、6千の精鋭を二手に分け、胆沢をめざして進撃した。アテルイ軍は、陽動作戦により敵を巧みに誘導し、突如伏兵をもって反撃に転じ壊滅的打撃を与え勝利した。

第二次征東

 794年、第二次征夷大使に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を起用し、十万という空前の将兵を動員した。この時、坂上田村麻呂は副将軍であった。アテルイ軍に相当な打撃を与えたと推測されているが、降伏させるまでには至らなかった。

▲悪路王の首像(奥州市埋蔵文化財調査センター) ▲胆沢城復元模型(奥州市埋蔵文化財調査センター)

第三次征東・・・田村麻呂対アテルイ

 797年、田村麻呂は征夷大将軍に任じられ、801年、朝廷軍4万を率いて胆沢地方に侵攻した。田村麻呂は、従来の武力一辺倒による征討を改め、温情をもって心服させる方策をとり、アテルイ軍の孤立を策したと推測されている。

 802年 胆沢城造営が開始された。4月15日、アテルイとモレは、同胞500余人を率いて田村麻呂の停戦和平に応じた。十数年に及ぶ攻防で多くの同胞を失い、郷土は疲弊していた。胆沢の地を守るため降伏の道を選んだ。田村麻呂は、アテルイとモレを伴い京都に帰還した。

 田村麻呂は、彼らの武勇と器量を惜しみ、戦後の蝦夷地経営に登用すべく、天皇に助命嘆願したが・・・「蝦夷は野性で獣のごとき心を、反復してあらわし、定まった服従心はない」との理由で聞き入れられず、同年8月13日、河内国で処刑された。

鳥海山大物忌神

 800年代、鳥海山は度々大噴火を繰り返した。蝦夷征伐の前線を北上させていた朝廷は、この度重なる噴火を蝦夷反乱の前兆であると恐れていた。その大物忌神の怒りを鎮めるために、鳥海山を必死になだめようと、次々に上位の神階を与えた。気がつけば、数ある東北の神のなかでも最高位にまで達していたのである。

▲秋田城復元模型

878年元慶の乱

 秋田城司の悪政(不公正な交易を強要)に対して、俘囚の乱が発生した。秋田城が攻め落とされ、雄物川以北の独立を要求した。反乱軍は、北緯40度線周辺北側・・・秋田市以北から米代川流域にかけての12の村々の連合勢力であった。

939年 天慶の乱・・・秋田城下でまた俘囚の乱が起きる。この時、大物忌神の鳥海山が燃えるとの占いがあるので祀り鎮めることが指示されている。

 こうした蝦夷の蜂起が繰り返されるたびに、彼らは同族的なつながりを強め、その中から知恵と力のある者が、豪族として成長していった。11世紀頃、出羽の豪族として知られるのが清原氏で、雄勝・平鹿・山本の3郡を支配し、横手市付近に根拠地を置いていた。同じ頃、陸奥国で大きな勢力を持っていたのが安倍氏で、奥六郡を支配する豪族であった。

参 考 文 献

「縄文の生活誌」(岡村道雄、講談社学術文庫)

「ビジュアル版 縄文時代ガイドブック」(勅使河原 彰、新泉社)

「縄文時代の大規模集落 三内丸山遺跡」(青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡対策室)

「特別史跡 三内丸山遺跡」(東奥日報社)

「街道をゆく-オホーツク海道」(司馬遼太郎、朝日文芸文庫)

「街道をゆく-北のまほろば」(司馬遼太郎、朝日文芸文庫)

「日本史リブレット 蝦夷の地と古代国家」(熊谷公男、山川出版社)

「ジュニア版古代東北史」(新野直吉、文献出版)

「秋田県謎解き散歩」(野添憲治編著、新人物文庫)

「岩手県謎解き散歩」(今野静一編著、新人物文庫)

「秋田県の歴史散歩」(山川出版社)

「あなたの知らない秋田県の歴史」(山本博文、洋泉社)

「東と西の語る日本の歴史」(網野善彦、講談社学術文庫)

http://www.forest-akita.jp/data/kiso-bunka/kisobunka02/kiso-02.html  【基層文化 ➁】

10世紀前半以来、一世紀にわたって軍事貴族の奥州派遣が続いたが、さまざまなトラブルをもたらした。だから1025年以降、25年にわたって鎮守府将軍の補任が一時中断された。その間、出羽国の秋田城では、筆頭在庁の清原氏が、雄勝、平鹿、山本、秋田、河辺の五郡の支配者で、かつ秋田城の事実上の最高責任者の地位を占めるようになった。

 一方陸奥では、奥六郡を支配していた安倍氏が鎮守府の事実上の最高責任者の地位を占めるようになった。安倍氏は、陸奥話記や中央の記録には、「東夷の酋長」「俘囚(服属したエミシ)」と書かれていることから、古代北東北の蝦夷直系の在地豪族(清原氏も同じ)とみられていた。そんな安倍氏が勢力を拡大し、衣川の線よりも南まで押し広げる勢いであった。(写真:衣川柵に近い平泉毛越寺)

前九年の合戦(写真:えさし藤原の郷、以下同じ)

 1051年、勢力を拡大する安倍氏は、ついに朝廷と衝突、前九年の合戦が勃発する。陸奥国守・藤原登任(なりとう)は、鬼切部で安倍軍と合戦するも、大敗してしまう。驚いた朝廷は、武勇の誉れが高い源氏の大将・源頼義を陸奥守として赴任させる。しかし大赦で一時休戦となる。

 1054年 藤原経清と安倍頼時の娘が結婚。1056年、後に平泉を開く藤原清衡が生まれる。

 1055年 源頼義が陸奥国守の任期を終えて京へ戻る途中、安倍頼時の次男貞任に襲撃されるという事件が発生する。これは東北支配をもくろむ頼義の謀略と言われている。再び、戦が始まるが、安倍氏側の圧倒的優勢が続いた。源頼義は、出羽の大豪族・清原氏に援軍を求める。

 1062年 清原氏の参戦で戦況は一変する。清原軍1万人と源頼義軍3000人で猛攻。安倍貞任は厨川柵で戦死。清衡の父・藤原経清は、裏切り者として鈍刀で斬首という残酷な刑に処された。

 源氏が権益を握るはずだった奥六郡胆沢城の鎮守府将軍には、出羽の清原武則が初めて任命された。清原氏は、出羽山北地方に加え、安倍氏の旧領地を事実上支配することとなった。源義家は出羽守に任ぜられたが、内心不満であった。この源氏の不満が、後三年の役へとつながっていく。

清原武貞は、なぜ安倍頼時の娘を正室に迎えたのか

 清原武貞の息子・武貞は、敗者の娘を正室に迎え、連れ子の清衡も引き取っている。普通は敵方の女性を正室にはしない。「炎立つ」の著者・高橋克彦氏によれば、清原氏と安倍氏の間には、長年にわたる複雑な姻戚関係があったし、「蝦夷の視点で見ると、清原も安倍も同じ蝦夷の一族だということだ。その同じ一族を、源氏が巧妙に二つに割ったと考えた方が、前九年・後三年の役の実態が見えてくる」(「東北蝦夷の魂」高橋克彦、現代書館)

複雑な清原三兄弟

 ①清原武貞の先妻の子・真衡(清原氏継承NO1)

 ②後妻の連れ子・清衡(安倍氏直系だが、清原系の血も流れているとの説もある)

 ③武貞と後妻の子・家衡(清原氏継承NO2)

 この複雑な関係の三兄弟と陸奥守・源氏の野望によって清原一族の骨肉の争いに発展していく。

後三年の合戦

 1083年 真衡の養子・成衡の婚礼準備の最中、黄金を持参した叔父で一族の長老・秀武に対し、威張り屋の真衡は見向きもせず碁を囲んでいた。これに激怒した秀武が反旗を翻し後三年の役が勃発した。

 秀武は、清衡、家衡に働きかけ真衡包囲の一族連合を結成した。清原氏を二分する戦いの火ぶたが切られる中、東北支配を悲願とする源氏の棟梁・源義家が、念願の陸奥守として赴任する。出羽に向かう途中、真衡は突然病死してしまう。これは源義家の策略だったと言われている。

 清原氏の直系は弟・家衡だけなのに、源義家は、奥六郡を二分割して与える。しかも、家衡には痩せた北の土地しか与えられなかった。つまり義家は清衡を優遇したのである。それを妬んだ家衡が清衡を攻撃して戦闘が再開するというストーリーは、義家の筋書き通りに展開したと言われている。

 1086年 家衡は、不満を募らせ、兄・清衡の館に火を放ち、清衡の妻子らを惨殺してしまう。清衡は、源義家のもとに走り、二人は、家衡討伐の兵を出す。迎え撃つ家衡は、今の横手盆地・出羽山北沼館の沼柵で防備を固めた。

▲「沼柵の攻防」(戎谷南山筆・後三年合戦絵詞)

 四方を水で囲まれた沼柵は、天然の要害で、義家・清衡軍は苦戦する。やがて冬・・・大雪に見舞われ、冬の寒さが苦手な義家軍は次第に疲弊していく・・・飢えと寒さで弱る兵士を義家自ら蘇生させたという逸話が残るほどで、一旦撤退せざるを得なかった。 

 家衡が武人の名門・義家を追い返したという報せに喜んだ叔父・武衡は、福島県いわき地方からはるばる沼柵に駆けつけ、家衡に加勢を申し出た。そして、沼柵よりも強固な金沢柵に移った。

 1087年、義家・清衡軍は金沢柵に軍を進めた。金沢柵は、「壁が立っているようだ」と言われるほど断崖絶壁に囲まれ、容易に人を寄せ付けず、苦戦が続いた。この頃、京から義家の弟・義光(子孫は佐竹氏)が加勢に駆け付けた。

 秀武の提案で、柵を包囲したまま「兵糧攻め」の作戦を実行に移す。これが功を奏して難攻不落の金沢柵がついに落城。焼けた柵の中は地獄絵と化したという。

▲「金沢柵陥落」(戎谷南山筆・後三年合戦絵詞)

 家衡は、愛馬を殺し、身分の低い者に変装して逃亡しようとしたが、見破られ討取られる。武衡は、柵内の沼に潜んでいるところを見つけられて首を斬られた。口戦で義家を罵倒した千任は、舌を金箸で引き抜かれたあと木の枝に吊るされ、さらに48人の首がさらされるなど、陰惨を極める戦いで、後三年合戦の幕引きとなった。

 義家が本性を現し「甚だしい謀反も私の努力で平らげた。速やかに清原氏追討の命令を」と上申する。朝廷は「不当な内政干渉である」として国府を解任する。源義家は、目論見が外れて撤退を余儀なくされた。この源氏の恨みが、平泉滅亡へとつながっていくのである。

 東北には、漁夫の利を得たかのように、清衡の勢力のみが残った。彼は安倍氏の孫であるが、父系は藤原・・・清原と訣別し、藤原清衡を名乗る。ただし、名は「藤原」だが、実態は「安倍氏」であった。

▲中尊寺金色堂覆堂と芭蕉翁句碑(手前左)

  「五月雨の 降り残してや 光堂」(芭蕉)

1099年 平泉開府

 清衡は、幼年期に前九年の合戦、青年期に後三年の合戦を経験した。特に青年期の身内同士の壮絶な争いが晩年期の彼の思想に大きな影響を与えたと言われる。中尊寺は、前九年と後三年の役の犠牲者を敵味方なく弔い、戦のない平和な国を作ることを目的に建立された。

▲東日本大震災(岩手県山田町)・・・災害写真データベース(財団法人消防科学総合センター)

平泉が世界文化遺産に登録された訳(「東北蝦夷の魂」高橋克彦)

 「東日本大震災が起きた時、被災地と呼ばれる地域は、偶然にも福島、宮城、岩手など藤原清衡が支配した地、奥州藤原氏の文化圏だった。その被災地の人たちの、自分のことより他者の辛さを思いやる姿が、ニュースとして世界中に流れた。

 世界文化遺産の登録を申請していた平泉、藤原清衡がつくった国は、もともとこのような国だったのではないか、そのDNAが今に受け継がれているのではないか、そうユネスコに受け止められたことが、実は登録につながったのだと思う。清衡が平泉で育んだ東北の゛和゛の魂は、今の東北の人々の中に受け継がれてきたのである。」

▲経蔵・・・中尊寺経を納めていたお堂

清衡の意志が読み取れる「中尊寺供養願文」

 この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる場所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きる者全てにあまねく平等に響くのです。奥羽の地では、官軍と蝦夷の戦いが幾ばくかあり、多くの者の命が失われてきました。

 それだけではなく、毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚、殻で身を守る貝も限りなく殺されてきました。その魂は、皆あの世に消え去り、朽ちた骨は今なお奥羽の塵となっています。この鐘の音が響き渡り、大地を動かすたびに、罪もなく命を奪われてしまったものたちの魂を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものです。

▲金色堂

平泉を本拠にした理由

 平泉は、奥州の「中央」であると同時に、祖父・安倍氏が支配した奥六郡の南端・衣川柵のあった地区に位置している。さらに、北緯39度ラインに位置し、アイヌ語地名の南端に位置している。だから、安倍氏の「東夷の酋長」の地位継承を意味していると言われる。

▲金色堂(えさし藤原の郷)

 平成23年、平泉がユネスコの世界文化遺産に登録された。この平泉文化は、奥州藤原氏初代清衡の精神が発端になっている。彼は、大きな歴史のうねりに巻き込まれ、虚しい戦に明け暮れた我が身を振り返り、戦も貧困もない理想郷を平泉につくろうとした。

初代清衡の大きな人柄を育てたものは何か

 「東北で一番の地位に立った清衡が、敵味方を問わず戦死した人々に厚い情をかけ熱い涙を注ぐ姿勢を示しているのは、彼の少年時代がやはり大きな意味を持っているのです。もし少年時代に物心ともに貧しい家に養われたものであったとしたなら、どんなに安倍と藤原の血をうけていたとしても、名武将としての教養も身につけることなどできなかったに違いないのです。

 安倍なきあとも、勝るとも劣らない清原氏という大豪族に養われ、御曹司として成人することができたからこそ、長い平和を築くことのできる大きな人柄を培うことができたのです。これは十一世紀の東北にとっても、またとない重要なことだったのです」(「ジュニア版 古代東北史」新野直吉、文献出版)

藤原三代アイヌ説

 藤原氏がアイヌ系であるとする理由は・・・

清衡は、先祖代々東北に住む「荒蝦夷の首長」と名乗ったこと

藤原三代の遺体は金色堂にミイラにして安置されていること。ミイラにして葬るのは、樺太アイヌの風習と似ていること。

清衡の着ていた小袖のねじり袖は、アイヌが着ていた袖と同じであること。

清衡の棺には、ドングリやクルミ類が一杯入っていた。これは狩猟採集の文化を思わせる。シカの角で作った刀は、蝦夷の刀を思わせる。

 昭和25年、この藤原三代のミイラ調査が行われたが、その結果は、アイヌではなく倭人であることが明らかになった。DNAは倭人でも、北の風土に育まれた心は、蝦夷・アイヌ系であることに変わりはないように思う。

▲平泉・毛越寺・・・奥州藤原氏二代基衡が建立した浄土庭園/大泉が池

都を凌ぐ平泉(「東北蝦夷の魂」高橋克彦)

 「有り余る砂金を使い、大陸との貿易で膨大な量の陶器、経典などを輸入した。あっという間に中尊寺は日本で最大の経典を所有する寺になった。・・・珍しい経典があれば誰しも勉強したいので、奈良や京の僧がこぞって平泉にやって来た。あの時代の僧たちは最高の知識人であり、平泉に日本の頭脳が集結・・・さらに馬産地でもある平泉は、都を凌ぐ力を持つ場所になった」

義経、鞍馬寺から平泉へ

 源義経は、平治の乱(1159年)で父を失い、京都の鞍馬寺に僧となるための修業をするが、15歳になっても髪を剃ることを拒んだ。1174年、16歳の時に京の鞍馬寺を出て、平泉の秀衡を頼ってきた。ここで22歳ころまで過ごし、武人として立派に成長した後、鎌倉の兄頼朝のもとへ行く。

平家滅亡~義経自害

 1179年、平清盛は、後白河を鳥羽離宮に幽閉して朝廷を完全な支配下においた。いわゆる平家の軍事クーデターが起きる。この平家の軍事独裁に対して、源氏勢力が相次いで蜂起、全国的な内乱へと突入していった。

 1185年3月、壇ノ浦の戦いで平家滅亡。

 1187年、頼朝に追われた義経が平泉に亡命する。義経が平泉に入って数か月後、秀衡病死。秀衡は死の直前、次男泰衡を後継者とし、義経を大将軍として奥羽の国務をまかせ、主君として仕えるべきことを遺言した。

 1188年春、後白河は頼朝と妥協し、泰衡に対し義経の身柄の差出しを命じる宣旨を発する。鎌倉と京都の圧力に抵抗し切れず、泰衡が義経を襲撃し自害させる。泰衡は、義経の首を鎌倉に送っている。しかし、源頼朝は、なおも平泉攻撃の準備を進めた。頼朝の狙いは、義経ではなく、平泉を滅ぼす口実を得ることだった。

壇ノ浦で活躍した弟・義経を、なぜ頼朝は嫌ったのか

 頼朝は、自分の許可なく朝廷から官位を受けた武士は、関東に戻ることを禁止していた。ところが、義経は、壇ノ浦の戦い後、この掟を破って後白河法皇から官位をうけてしまった。後白河法皇は、頼朝の台頭を恐れて、その対抗馬として義経を重用しようとした。義経が朝廷の信頼を得て、武士たちの人気者になることは、朝廷から距離を置いて武家政治を確立しようとする頼朝にとって脅威でしかない。義経は、戦は上手いが、政治には疎かったといわれている。

▲厨川柵(えさし藤原の郷)

頼朝、蝦夷を征する征夷大将軍へ

 源頼義・義家親子による前九年・後三年の二度にわたる合戦は、源氏の名声を高めたが、一方、源氏が関与すると乱が起きるという理由で奥州から遠ざけられていた。源氏にとって、奥州制覇は、長年の悲願であった。

 「頼義にとって陸奥の最大の魅力は、軍事力に結びつく資源だった。矢羽根の鷲の羽根、防寒用の毛皮、武器の材料である鉄、刀鍛冶の技術、そして馬がある。・・・源氏は、とにかく東北を支配下に収めたかった」(「東北蝦夷の魂」高橋克彦、現代書館)

 源頼朝の奥州征伐は「9月17日、厨川柵」を目標に定めているが、これは頼義将軍が安倍貞任を討ち取った日と場所が一致している。つまり、前九年の合戦のやり直しととらえていたことは明らか。

 北に逃亡した泰衡は、大館で河田次郎に裏切られ、その首は紫波町まで北上していた頼朝に届けられた。頼朝は、頼義将軍が貞任の首をさらしたように、泰衡の首を八寸釘で打ち掛けさせた。その三年後、頼朝は、蝦夷を征する将軍・征夷大将軍に任じられ、名実ともに武家の総大将となったのである。

 当時「出羽・陸奥は夷(エビス)の地」と言われ、鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」には、頼朝の行動を田村麻呂になぞらえた記述もみえている。奥州征伐は、古代以来の「征夷」の延長として位置づけられていたことは明らかであろう。

北緯39~40度ライン

 アイヌ語地名の南限は、北緯39度ラインである。北緯40度ラインは、男鹿のナマハゲ、八郎潟の八郎太郎伝説、さらには縄文・蝦夷の末裔といわれるマタギの本家・阿仁を通るラインである。左図の北緯40度~北緯39度の斜めのラインは、積雪寒冷のため凶作・飢饉多発境界線・・・つまり、これより北は、稲作に不適な気候風土をもつ地域であった。

 おもしろいことに、北緯39度ラインと北緯40度ラインの間で、最北の蝦夷支配として設けられた秋田城、胆沢城、坂上田村麻呂×アテルイの戦い、前九年、後三年の合戦、源頼朝の奥州征伐・・・中央権力×蝦夷の激しい戦争が繰り返されている。・・・この辺りに東北の基層文化のヒントがあるように思う。

参 考 文 献

「ジュニア版古代東北史」(新野直吉、文献出版)

「日本史リブレット023 奥州藤原三代」(斉藤利男、山川出版社)

「東北蝦夷の魂」(高橋克彦、現代書館)

「秋田県謎解き散歩」(野添憲治編著、新人物文庫)

「岩手県謎解き散歩」(今野静一編著、新人物文庫)

「秋田県の歴史散歩」(山川出版社)

「あなたの知らない秋田県の歴史」(山本博文、洋泉社)

「世界文化遺産 平泉の源流-秋田/横手・美郷」(秋田県)

「後三年合戦そして平泉へ」(横手市観光物産課・美郷町商工観光交流課)

http://www.forest-akita.jp/data/kiso-bunka/kisobunka03/kiso-03.html 【基層文化 ③】

北の夏祭りと田村麻呂伝説

 青森ねぶたのルーツは・・・西暦800年代、征夷大将軍・坂上田村麻呂は、地理的に不案内の地では勝負が長引く。そこで,数万のタイマツに火をつけ、大きな灯篭を作り,太鼓や笛,鐘などを鳴らし蝦夷たちをおびきよせようとした。この派手な楽器や灯篭に、蝦夷たちはゾロゾロと集まり、たちまちのうちに捕まえられてしまった。田村麻呂のこの作戦が、後のねぶたになったとされている。

 能代ねぶながしのルーツも同じく、坂上田村麻呂が蝦夷を討ち払うのに、夜、米代川の川面に灯を流し、奇異に釣られて誘い出された蝦夷を平定したのが始まりと伝えられている。以下、弘前ねぷた、黒石ねぶた、五所川原立佞武多の伝説も同様である。

▲古四王神社境内の田村神社(秋田市寺内) ▲東湖八坂神社(潟上市)

疑問・・・東北に坂上田村麻呂の伝説が多いのは何故か

 秋田城に近い古四王神社には、801年、田村麻呂が蝦夷征討を祈願して田村神社を建て、大滝丸と称する蝦夷の首領を退治したという伝説がある。また、潟上市・東湖八坂神社の社殿によれば、坂上田村麻呂の創建となっている。こうした田村麻呂伝説をもつ社寺は、「秋田の神々と神社」(佐藤久治)によると、県内に85社もあるという。

▲青森市・善知鳥神社・・・由緒には、807年、坂上田村麻呂によって再建されたとある。

▲深浦町円覚寺・・・807年、坂上田村麻呂が創建したと伝えられる。田村麻呂が足を踏み入れていない津軽にも、その創建を伝える寺社縁起が数多く残されている。

悪路王伝説・・・平泉町・達谷窟毘沙門堂(たっこくいわやびしゃもんどう)

 平泉町・達谷窟は、賊の主・悪路王と赤頭がトリデを構えていた岩屋である。801年、田村麻呂は岩屋にこもる蝦夷を打ち破り、悪路王らの首をはね蝦夷を平定した後、国を鎮める祈願所として毘沙門堂を建立したという。

 坂上田村麻呂が征伐した蝦夷の酋長が悪路王だとすれば、悪路王は蝦夷のリーダー・アテルイ、赤頭はサブリーダーのモレということになる。事実、毘沙門堂境内の碑は「アテルイの碑」と呼ばれている。

長面三兄弟伝説・・・「房住山昔物語」

 1823年、菅江真澄は、坂上田村麻呂に征伐された蝦夷の首領・長面三兄弟などの山岳信仰伝説「房住山昔物語」を記録している。

 「東国の蝦夷征伐の勅命があり、将軍坂上田村麻呂が下向し賜うた。蝦夷の首長を誅伐し、残党をくまなく探し出して男鹿の山まで追討した。しかし、その中に、そこかしこに隠れなかなか捕まらない蝦夷の強兵が11人、その中でも名に聞こえたる三兄弟がいた。兄の名をアケト丸、次をアケル丸、その次をアケシ丸と言った。」

 平成23年に自費出版された「マンガで読む房住山昔物語」には、房住山(409・2メートル)周辺を舞台に、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷の強者「長面三兄弟」を退治する伝説や町名の由来となった三種川にまつわるエピソード、房住山の寺院の歩みなどを収録している。

▲坂上田村麻呂像(奥州市埋蔵文化財調査センター) ▲悪路王の首像(奥州市埋蔵文化財調査センター)

 史実では、田村麻呂は秋田、青森まで来ていない。さらに、自分たちの祖先・蝦夷が賊・鬼で、それを滅ぼした敵が英雄という歴史観は受け入れがたい・・・なのになぜ、東北各地に田村麻呂伝説が、こんなに多いのだろうか。

蝦夷アイヌ説(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)

 ①東北地方にアイヌ語地名が数多く存在する

 ②マタギ言葉にアイヌ語と共通する言葉が多く含まれる

 ③古代の多賀城、胆沢城には通訳がいた

 これらを勘案すると、蝦夷はアイヌ人であるという説である。

 この説が正しいとすれば、東北の先祖は、蝦夷アイヌを滅ぼした日本人であり、その先祖の英雄が坂上田村麻呂であるから、神社や祭りなどに田村麻呂伝説が数多く存在しても何ら不思議ではないことになる。

蝦夷日本人説、混住説

 遺跡発掘調査が進むにつれて、東北でも水田稲作が行われていたことが証明され、東北地方でも縄文文化の後にくるのは稲作を伴う弥生文化であった。だから、古代の蝦夷は、文化的にも人種の上でも辺境に住む日本人であって、アイヌとは直接の関係がないとする説である。戦後は、蝦夷日本人説が優勢になった。

 しかし、現在は、蝦夷の言葉はアイヌ語系統であったという説も出てきている。もともと蝦夷は、単一民族と考えるところに無理があるように思う。例えば、江戸時代の弘前藩国日記によれば、マタギとアイヌは共同で熊狩りをすることもあったと記録されている。つまり津軽には、江戸時代まで、アイヌが住んでいたことが分かる。だから、古代の蝦夷は、日本人とアイヌが混住していたと考えるのが妥当であろう。

▲平泉・中尊寺 ▲平泉町・達谷窟毘沙門堂

源頼朝と田村麻呂伝説

 1189年、「出羽・陸奥は蝦夷の地」と言われていた。源頼朝は、28万4千騎を率い、平泉藤原氏を滅ぼしている。鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、源頼朝が平泉を攻め、藤原泰衡らを討伐した後、鎌倉への帰路にある達谷窟に目をとめ、その名を尋ねると、「それは、達谷窟で、田村麻呂、利仁らの将軍が、綸旨を受け賜って夷を征する時、賊主である悪路王や赤頭らが、城塞を構えていた岩屋」だと教えたという。

 そして源頼朝の平泉征討は、「坂上田村麻呂」になぞらえて書かれている。つまり平泉政権に対する戦いは、古代以来の「征夷」の延長として中央権力から位置づけられていたのである。

 かくして中央に従わない蝦夷系の反乱を防ぐために、中央文化の移植と同時に、「征夷」「武将」の英雄である田村麻呂伝説を東北各地に広め、強力な武家政権を推進していった。その結果、東北各地に田村麻呂伝説が数多く残ったということであろう。

▲円仁ゆかりの山寺(立石寺) ▲円仁ゆかりの毛越寺

田村麻呂伝説と慈覚大師伝説

 「旅する巨人」と言われた民俗学者・宮本常一が「宗教者のエネルギー」として絶賛する慈覚大師円仁の概要を以下に記す。(参考文献「日本人のくらしと文化」宮本常一)

 円仁は、第三代の天台座主の方で、東北の寺々は、円仁が開いたということになっている。それは、円仁が下野(栃木県)の出身だったからである。というのは、昔の優れた聖者たちは、その郷里を最も大事にしているからである。

 円仁が大変な坊さんだったということは、円仁の遺した「入唐求法巡礼行記」を読めば分かる。当時、彼ほど優れた人はいなかった。この人が五台山に行くまでにどんな苦労をしたかということを読んでみると、東北地方を歩くことは、円仁にとって朝飯前の仕事だったと言ってよい。あの時期の人の持っているエネルギー、見通しの確かさ、それは、今の人たちと比べ物にならないほど優れたものだった。こんな偉い人が千年も前に、日本におったのである。

 慈覚大師円仁ゆかりの寺は、象潟の蛆満寺、山形の山寺、岩手の黒石寺、中尊寺、毛越寺、天台寺、青森の恐山、宮城の名勝松島瑞巌寺・五大堂などである。そして東北の至る所に慈覚大師の伝説が残っている。そもそも、武力だけで蝦夷を支配し、人の心をつかむことはできないことは明白である。だから、仏教による懐柔策として、当時最も優れた坊さん・慈覚大師円仁を送り込んだと言われている。

 軍事的征服の象徴が坂上田村麻呂伝説であり、宗教的支配の象徴が慈覚大師伝説となって、東北の隅々にまで広がっていったということであろう。

ねぶた大賞から「田村麿賞」廃止

 青森ねぶた祭りでは、昭和37年制定の「田村麿賞」の名称が、平成7年度より廃止され、「ねぶた大賞」に改称された。ねぶたの最高賞として位置づけられていた坂上田村麻呂は、青森県域に遠征した史実やその際にねぶたを用いたことが立証できないこと、地元の側からみるといわゆる征服者であって逆賊ではないか、というのが廃止の理由とされている。

 古代、東北地方は中央政府の勢力圏外で、この地を出羽、陸奥と呼び、住民を蝦夷(エミシ)と称していた。もともと蝦夷とは軽蔑した言葉である。(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)

日本書紀(659)に記された蝦夷

遣唐使が中国に蝦夷を連れて行った時の記述は・・・

天子「蝦夷の国はいずれの方にあるか」

遣唐使「東北にある」

天子「蝦夷は何種類あるか」

遣唐使「三種ある。遠方を都加留(ツガル)、荒蝦夷(アラエミシ)、熟蝦夷(にぎえみし)という。今回伴ってきたのは熟蝦夷・・・」

天子「蝦夷の国には五穀があるか」

遣唐使「五穀は無い。肉を食して生活している」

天子「蝦夷の国に家はあるか」

遣唐使「無い。深山のなかで樹木の本に住んでいる」

(注)熟蝦夷(にぎえみし)とは、大和朝廷に従う蝦夷のこと。一方、大和朝廷に従わない蝦夷を都加留(ツガル)、荒蝦夷(アラエミシ)と区別していたことが分かる。

(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)

▲「清水寺縁起絵巻」・・・坂上田村麻呂軍蝦夷征討の図(奥州市埋蔵文化財調査センター)

 「東夷は性格が強暴で、村の長はなく、皆侵し盗む。夷の中で蝦夷が最も強く、男女父子の間の節度も確立しておらず、兄弟間でも信用し合わず、山や野を行くのは敏捷であり、恩を受けたことは忘れてしまうが、怨みを抱くと必ず報いる。・・・彼らを攻撃すると草の中に隠れ、追うと山に逃げ込む。昔から未だ王化に従ったことはない」

 これらの記述は、「蝦夷は、ヤマトに従わない未開の野蛮人」と蔑視、差別していることが分かる。また上の絵巻をよく見ると、敗走する蝦夷は人種の違う貧相な姿で描かれている。この絵巻は16世紀初めに畿内のひとが描いたもの・・・つまり、近世に入っても基本的な認識は変わっていないことが見て取れる。この偏見に満ちた歴史観の延長線上で「東北クマソ発言」が飛び出す。

東北クマソ発言(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)

 昭和63年2月28日、TBS特集番組「首都移転問題」で、当時サントリー社長だった佐治敬三氏は、「仙台遷都などアホなことを考えている人がおるそうやけど・・・東北はクマソの産地。文化程度も極めて低い」と発言・・・大きな反感を買ったことがあった。

 ちなみに、「東北はクマソ(九州南部)」ではなく「エミシ(東北)」の間違いである。

東北人の怒り

 翌2月29日、河北新報が「東北差別の過激な発言」と題して報道。秋田県では、佐々木喜久治知事の指示で共済組合の保養・宿泊施設にサントリー製品の仕入れを停止した。東北で激しい反発が起き、サントリー・ボイコット運動へと発展した。

 3月4日、岩手・宮城両県議会は、「強い憤りを覚える」との抗議声明を採択した。3月9日、「八重の桜」の地・福島県議会もこれに続いた。特に、東日本大震災で甚大な被害を受けた福島、宮城、岩手で怒りが爆発している。

▲アテルイのイメージ肖像(奥州市埋蔵文化財調査センター) ▲NHK「アテルイ伝」

 河北新報社編集局「蝦夷-東北の源流」(1979年)には、「歴史は常に勝利者の手によって書かれる。東北が後進地と言われる全ての源泉はここにある・・・

 我々東北人は何をなすべきか。それは、蝦夷とそしられつつ滅亡を強いられた・・・アテルイ、安倍、清原、藤原氏の生きざまの中に見出せると思われる。・・・我々東北人の務めは・・・東北の大地に自らの足でしっかり立ち、エミシの歴史を背負って、エミシ文化を確立することではなかろうか」・・・アテルイ・蝦夷の復権を力説している。

参 考 文 献

「東北学/忘れられた東北」(赤坂憲雄、講談社学術文庫)

「東北ルネサンス」(赤坂憲雄、小学館文庫)

「日本史リブレット 蝦夷の地と古代国家」(熊谷公男、山川出版社)

「ジュニア版古代東北史」(新野直吉、文献出版)

「アジア太平洋レビュー2011 アテルイ復権の軌跡とエミシ意識の覚醒」(岡本雅享)

「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」(梅原猛、集英社文庫)

「蝦夷-東北の源流」(河北新報社編集局)

「マンガで読む房住山昔物語」(立松昴治、岩城紘一)

「2014青森ねぶ祭」(青森ねぶた祭実行委員会発行)

「日本人のくらしと文化」(宮本常一、河出文庫)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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