http://www.kankou-sakuragawa.jp/page/page000064.html 【国史跡 真壁城跡】より
中世、真壁・大和周辺を治めた真壁氏の城跡です。
山裾の微高地を利用し造られた平城で、戦国時代に造成されたと思われる四重の堀や土塁が良好な状態で残されています。平成6年に12.5ヘクタールが国指定史跡となり、中世の遺構を今に伝える貴重な城郭となっています。
現在見学できる真壁城は戦国時代後半の姿です。当時の建造物は城内には一切残っていませんが、土塁や堀が戦国時代の様相をよくとどめています。一部は土塁の復元も行っており、現在も発掘調査と史跡整備を進めています。
駐車場は現在真壁第一体育館が建っている本丸部分か、お城の北東部にある駐車場をご利用下さい。無料です。(※観光バスでお越しの際は、真壁体育館に事前に連絡をしてください)
また、本丸にある国指定の記念碑脇に簡易なパンフレットが置いてあります。カラーパンフレットは在庫がありませんので、ご了承ください。
土塁に登って散策することもできます。
さらに詳しく真壁城跡について調べたい場合は、桜川市HP「国指定真壁城跡」をご覧ください。
または、真壁伝承館歴史資料館を見学されるか、文化財課 ☎0296-58-5111(代表)までご連絡下さい。
https://jh.irukamo.com/makabejo/ 【真壁城の感想】より
残念!無念!名門(だと思う?笑)真壁氏の居城『真壁城』ですが、工事なの何だかわからなくて、全然近づくことが出来ませんでした・・・
真壁氏は桓武天皇からの流れの桓武平家とされ、坂東平家・常陸平家の代表とされる大掾氏(だいじょうし)は勢力を持った一族で、真壁氏もその流れを組んでいる一族です。真壁氏はその昔、北条時行と乱を起こし所領を没収されたりと四苦八苦の名家ですが、戦国乱世になると、真壁氏は結城氏・小田氏・宇都宮氏・江戸氏などと争いを続け、佐竹義昭(義重のお父さん)から偏諱を受けて『真壁義幹』と名乗ったり、北条からの圧力が増すと北条氏政の偏諱を受けて『真壁氏幹』と名乗ったりと何とか乱世を渡り歩き、最終的には佐竹義重の家臣となり真壁氏幹は武勇に秀でていたので『鬼真壁』の異名をとるほどの活躍を見せます。
最終的には佐竹義重の子、佐竹義宣が関ケ原で西軍に付き敗北・・・出羽国秋田への国替えとなり、真壁氏も佐竹氏に従い秋田へ移り住んだようです。
筑波山の麓にある真壁氏の真壁城は小説にもよく出てくるのですごく期待していたのですが、真壁城の発掘・整備工事も重なり全く近づけない状況だったので断念しました・・・
悔しい!!!!!!!!!!!!!!(´;ω;`)ウゥゥ
あぁぁぁぁ・・・・愛おしの真壁城は田んぼとフェンスの向こう側に見えます・・・・・・
https://sites.google.com/onodenkan.net/hiro1/%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E3%81%AE%E5%9F%8E/%E7%9C%9F%E5%A3%81%E5%9F%8E 【真壁城 (まかべじょう) (国の史跡)】より
【案内・感想】 県道41号に面して「セブンイレブン」(表記番地)北より東に行くと真壁体育館が建てられ、体育館駐車場隅に「真壁城址」の石碑が建てられている[マップコード123 688 608*21]。
体育館敷地が本丸跡で、北側に子育稲荷神社がある。碑を左に見て東に行くと視界が開けて二の丸があり、さらに東に堀と土塁をめぐらした中城(地図)、外郭(地図)がある。外郭(四の丸)の南東隅には、鹿嶋神社が建っている。
7年後訪れてみると、本丸、二の丸は変わりなかったが、中城(三の丸)の東から南にかけて土塁が復元され、外郭南の虎口周辺の土塁が復元されていた。
南東約800mにある遍照院本堂東には真壁氏累代の墓が祀られている。
また、城門が雨引観音楽法寺(桜川市本木1)の黒門として移築されている。
平成六年(1994年)10月28日、国の史跡に指定された。
【歴史】 承安二年(1172年)大掾直幹の子・長幹が真壁郡に入って真壁氏を名乗り、築城した。以後18代の真壁氏の居城であった。
興国二年(1341年)十二月、北畠親房の「御方城々」として、真壁城がみえ、南朝方の城であった。のち北朝方に立場を変え、真壁氏は地頭職を有した。
応永三十年(1423年)、12代真壁慶幹のとき小栗満重の乱に小栗方で参加したため足利持氏軍によって落城したが、その後の混乱の中で慶幹の従兄弟・朝幹が真壁に復権した。
17代久幹のときに次男義幹が柿岡城に分家し、18代氏幹に至って甥の柿岡城主房幹(弟義幹の子)に家督を譲ったため、真壁城は真壁本家の城ではなくなった。
慶長七年(1602年)佐竹氏の家臣団として真壁氏は出羽角館へ移住し、空城となった。
そののち慶長十一年(1606年)浅野長政が隠居料として真壁藩5万石を与えられ、慶長十六年(1611年)長政の跡を継いで浅野長重が入城した。
元和八年(1622年)長重は笠間城へ移動となり、廃城となった。
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