坂本宮尾・句集『ゆるやかな距離』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%8E%9F%E6%96%87%E5%AD%90 【桑原文子】より

桑原 文子(くわはら あやこ、1945年4月11日 - )は、英米演劇研究者、東洋大学名誉教授、俳人。俳人としての名は坂本宮尾。

大連生れ。旧姓・坂本。1968年東京女子大学英文科卒、1971年東京都立大学大学院修士課程修了、ロンドン大学、ケンブリッジ大学で英米演劇を学ぶ。東洋大学教養部助教授、教授。2012年退職、名誉教授。

1966年東京女子大学白塔会で山口青邨の指導を受け俳句を始める。76年夏草新人賞。80年夏草同人。仕事や家庭の事情から作句を中断。90年「夏草」再入会。「天為」、「藍生」創刊とともに参加。93年藍生賞。2004年『杉田久女』で俳人協会評論賞。2015年桂信子賞受賞[1]。

著書

(記名のないものは坂本宮尾名義)

『アメリカは楽しかった 息子たちの異文化体験』サイマル出版会 1994

『天動説 句集』花神社 藍生文庫 1995

『この世は舞台』蝸牛社 俳句・俳景 1997

『はじめてのABC辞典 名詞500語』桑原文子 蝸牛新社 2001

『杉田久女』富士見書房 2003 

『杉田久女 美と格調の俳人』角川選書 2008

『木馬の螺子 坂本宮尾句集』角川書店 2005

『マザー・テレサ」と会談

『近松門左衛門は生きている』を出版2078

共編著

『チェコ語=日本語辞典』小林正成,桑原文子共編 京都産業大学出版会・丸善 1995

『うたう渦まき 四行連詩』木島始共著 蝸牛社 1999

『現代チェコ語日本語辞典』小林正成,桑原文子編 大学書林 2001

『杉田久女全句集』坂本宮尾編 角川ソフィア文庫 2023

翻訳

オーガスト・ウィルソン『フェンス』桑原文子訳 而立書房 1997

オーガスト・ウィルソン『ピアノ・レッスン』桑原文子訳 而立書房 2000

オーガスト・ウィルソン『ジョー・ターナーが来て行ってしまった』桑原文子訳 而立書房 2014


http://blog.livedoor.jp/toshio4190/archives/1085339010.html 【坂本宮尾句集「ゆるやかな距離』(角川書店)】より

昨年のアンソロジーの巻頭エッセイをご執筆いただいたご縁により坂本宮尾「パピルス」主宰の第四句集『ゆるやかな距離』(角川)が送られてきた。

坂本氏は「天為」(有馬朗人)、「藍生」(黒田杏子)に参加したのち、2018年に「パピルス」を創刊している。

『真実の久女』(藤原書店)をはじめ、『竹下しづの女』など数多くの女性俳人に関する評伝、評論集があり、2004年に第18回俳人協会評論賞、2016年に第6回桂信子賞を受賞している。

今回の句集は、2016年~2024年までの354句をまとめたもの。初句索引に加えて、集中354句に使われた季語索引がついているが、その数は300近い。354句に対して300近い季語数。その幅の広さに感心させられる。

共鳴句を記して、御礼とさせていただく。

  鏡の中に青林檎置き忘れ          混沌のなかの文机初明り

 濃き墨で描きし円の涼しさよ        束ねたる島辣韭より島の砂

 やはらかな風アネモネを買ふ日なり     なまぐさき闇のかぶさる鵜飼舟

 朝削り夜は書き足して火恋し        釘撒いたやうな詩人の賀状来る

 バンダナに隠るるみどりごの昼寝      石割つて聴く石のこゑ日の盛

 辞書繰れば月日の匂ひ年暮れぬ       無花果のとほき甘さや雨つづく

 白鳥の助走ひかりを巻き起こし       新涼や小皿にまるくオリーブ油

 久女への終りなき旅菊枕          鉛筆の木の香あたらし朗人の忌 


https://www.haijinkyokai.jp/reading/post_69.html 【俳句の庭/第70回 修行の山、英彦山 坂本宮尾】より

昭和20年旧満州、大連生まれ。東京女子大学の白塔会で山口青邨の指導を受ける。「夏草」終刊後、「天為」、「藍生」の創刊に参加。評伝『杉田久女』で第18回俳人協会評論賞受賞。第6回桂信子賞、第5回与謝蕪村賞受賞。句集『天動説』、『木馬の螺子』、『別の朝』、『自註現代俳句シリーズ坂本宮尾集』、句文集『この世は舞台』。著書『真実の久女』、『竹下しづの女』。現在は、「パピルス」主宰、俳人協会理事。

 忘れ難い山といえば、九州の英彦山が浮かぶ。杉田久女が名句〈谺して山ほととぎすほしいまゝ〉を詠んだ山である。ある夏、この修験道場の霊山で句を詠んでみようと思い立った。四半世紀ほど前のことで、まだスロープカーがなかった。和服姿の久女が登ったのだからたいしたことはないだろう、と高をくくっていたが、銅の鳥居から奉幣殿まで続く長い参道を登っただけで音を上げた。

 そこで一旦帰宅して、登山用の装備で再挑戦した。九月の土曜日で奉幣殿にはかなり人がいたが、そこから上は人影がなかった。山伏が築いた石段は一段が大きく、登るのに苦労した。途中には鎖場もあり、急峻であった。

山頂の手前の行者堂で、読書をしている人の姿が目に入った。その人も私に気がついたらしく、ウインドブレーカーのフードを被ると、くるりと背を向けた。山で出会う怖ろしいものは、蛇でも熊でもなく、人間だと思った。一人通れるだけの狭い山道で、片側は崖である。私は疲れも忘れて、一目散に山頂に向かった。山頂の上宮の前には数人が休んでいてほっとした。行者堂の人も私が現れて驚いていたのかもしれない。

 上宮の社殿は山頂とは思えないほど立派であった。久女は何度も英彦山の宿坊に泊り、一人で山を歩いては多くの句を詠んだ。竹下しづの女も上宮の景を詠んでいる。明治生まれの女性は、肝が据わって気合いが入っていたのだと敬服した。私は先達の名吟に感嘆するばかりで、一句も得ることができなかった。上宮は傷みが激しく、現在は修復作業を行っているようだ。


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