https://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/kazunomeisou. 【数の瞑想】
https://www.tryeting.jp/column/8920/ 【ピタゴラスが見た、数が万物を織りなす世界〜「アテネの学堂」スーパーガイド④〜】より
「直角三角形の、直角をはさむ二辺の平方の和は、斜辺の平方の和に等しい」、直角三角形の三辺をそれぞれabc、斜辺をcとすると以下の式が成り立つ。
誰もが一度は習ったこの定理は、「ピタゴラスの定理」と呼ばれ、紀元前6世紀の数学者、天文学者、宗教家で哲学者であったピタゴラスによって発見されたとされている。
「人生を何度生きてきたのか!」と驚嘆されるほどの知性を持っていたとされ、哲学者であると同時に「万物は数である」とする宗教団体を創設し、教団で学問を追及した。その分野は数学、天文学、音楽など多岐にわたり、その後のヨーロッパ文明、そしてコペルニクスからニュートンという現代科学へ大きな影響を与えた。絵画『アテネの学堂』に描かれたピタゴラスの姿を入り口に、その稀有な知性を辿ってゆきたい。
その者の言葉、万物の真理、金言なり
「アテネの学堂」の左下に、淡いピンクの衣に身を包んだピタゴラスがいる。
座して本に何かを書きつけ学問を探求している。その周りは時代を超えたピタゴラス学派の弟子と思われる人々が取り囲み、彼の言葉を一言も聞き漏らさんとしている。
ピタゴラスの後ろにいる弟子が誰かは諸説ある。おそらくボエティウスだろうと言われているが、エンペドクレス、タレントゥムのアルキタス、イアンブリクスだとも言われている。
しかし、アナクシマンドロスの彫刻との顔の類似点も度々指摘されている。
ターバン姿のイブン・ルシュドは弟子の中でもよく目立つ。
右前にいる若者はピタゴラスが研究していた“Epogdoon(エポクドーン)”という、西洋音楽理論で言うところのメジャーセカンドを表す黒板を持っている。
ラファエロはピタゴラスとユークリッドのグループを左右に配することで、万物の背後にある真理を追求するという、ルネッサンスの知性の根幹を担う画面構成としたのだろう。
20回生まれ変わった男
ピタゴラスはエーゲ海の東部にあるギリシャのサモス島の人であったと伝えられている。
魔術師やシャーマンのようにみなされていた哲学者シロス島のペレキュデースやヘルモダマスに師事したのち、ミレトスのターレスの塾に入った。
ターレスはピタゴラスに数学、幾何学に関する知識を与え、その後更なる好学のためエジプトへと渡った。当時のエジプトは天文学や測量、土木で非常に高度な文明を誇っていた。
ピタゴラスは様々な学問を習得するとともに、エジプトの共通語も学び、あらゆる土着宗教祭儀にも参加したとされている。10年ほどの留学期間の後、ペルシャ軍のエジプト遠征に伴い、捕虜として現在のイラクのメソポタミア南部の都市国家バビロニアへ連れて行かれた。
バビロニアはエジプトより更に高度な文明を誇りピタゴラスを驚かせた。有名なピタゴラスの定理の「三平方の法則」も、最初はバビロニアで見たものと言われている。古来よりバビロニアでは(またエジプト、中国、インドなど他地域でも)測量などで使用されていたと考えられるが、意味や法則性に興味は持たれていなかったため、ピタゴラスが初めてその数の法則性を探求し、定義した人物であると言えよう。
サモス島ピタゴレイオンの遺跡
その知識量は他を圧倒し、エンペドクレスはピタゴラスを「測り知れぬ量の知の所有者……人間の生を10回も20回も経ることにより万物をことごとく見通した人」と言っている。この評価はあながち大げさな賛辞ではなく、ピタゴラス自身は公然と前世の記憶があると述べており、魂は「必然の輪」を巡るという“輪廻転生”のアイディアを公言した最初の人と言われている。
これはギリシャでは全く見られない非常に東方的な考え方であったが、人間の魂が次に動物にも転生し得るというのは他にも類をみない話であった。ある時仔犬が打たれているのを目撃すると、「止めろ、打つな、友人の魂だ」と叫んだと言われている。
彼の風貌は威厳に満ちていたとされており、人々は彼を「ヒュペルボレオイ」というギリシャ神話に登場する伝説上の極北の民族のアポロンに例えた。即ち人を魅了する容姿をしていたということだろう。
またピタゴラスの話法についてクラティノスはからかいながら「対句語法や詭弁、また、大層な言葉を用いて、巧みに困惑させ、混乱におとし入れているのだ」と批判的に伝えているが、これは彼に惹き寄せられる人々の多さに他人が危惧を感じるような、カリスマ的な話法の持ち主であったことを逆説しているようにも思える。
その後、自由の身になったピタゴラスが南イタリアへ移住する頃には、ピタゴラスの名声は全ギリシャまで轟き、生徒が集まりピタゴラス学派が生まれた。学派は「数」を万物の原理とし崇拝する宗教教団の様相が強く、ピタゴラスは教祖のような存在として信奉されるようになった。
豆を畏れよ、口を閉ざせ、数を崇拝せよ
この教団には、己の魂を浄化する目的の様々な戒律があった。今でいう厳律シトー会のような、禁欲的修道会のようなものだったのだろう。
例えば新参の者は5年間沈黙を守ることが要され、師の講義に耳を傾けるのみとされ、試験のようなものに合格しなければ教祖であるピタゴラスに面会することは許されなかった。教団の教義は秘匿なものとされ、口外されなかった。
教団の者たちには水と火の通っていない食べ物、野菜や小麦や大麦や供物の菓子など主にベジタリアン食を食すように求めた。またスズキ目の魚ヒメジや、メラヌゥロスという魚、動物の心臓、そして特に豆を食べることを禁じていたことは有名である。
こうして見ると宗教団体の側面が強いように思われるが、ピタゴラスの教団の最もユニークだった点はそこで宗教的実践のみを追及するのではなく、学問的な追及をもって魂を浄化しようとしていたことだろう。
教団は、数学、幾何学、天文学、音楽の4つの学問を軸として研究を行っていた。
特にピタゴラスは幾何学の数論的な側面を最も深く研究していたと言われている。教団の戒律に従い、詳しい初期ピタゴラス教団の教えは不鮮明であるが、学徒の一人フィロラオスは「認識されるものは、すべて数をもっている。なぜなら、数がなければ、なにものも考えることも、認識されることもできないからである」と語っており、数学が万物の基本的原理として認識されていたことが分かる。
かのピタゴラスの定理を発見した際には、100頭の牡牛を神への生贄に捧げたと言い伝えられている。発見の由来ははっきりとは分かっていないが、一説にはピタゴラスが床に貼ってあった規則正しいタイルの上に図を書いているうちに見つけたとも言われている。しかし教団の発見も秘匿されていたために、真にピタゴラスによるものだったかは今日まで定かではない。
ギリシャへ度量衡を導入したのもピタゴラスだったとされている。また宵の明星と明けの明星は同じで地球は丸いとも説き、天文学の探求にも勤しんだ。医学にも無関心ではなかったとされている。
教団は音楽の中にも数を見出し、一弦琴をもとにして音階も発見している。オクターブなどの音階の比例は数的調和を持ち、それが宇宙全体にも存在し、天体は耳で聞こえない天上の音楽を奏でていると唱えられた。
ピタゴラスは「宇宙」という語を「コスモス(秩序)」と呼んだ最初の人物だったとされている。秩序は数の間の比率や調和で成り立ち、その調和が宇宙全体にも及んでいると考えた。そしてそれを把握するには人間に知性が必要であり、把握されたものは知識となっていくとした。
それでも地球はまわる
その圧倒的知性とカリスマ性によって影響力を増していたピタゴラスが、様々な敵を作ったことは想像に難くない。
最晩年、入門を断られた人々の嫉妬心からの凶行か、または彼の政治性を恐れた者からの弾圧か、ピタゴラスと教団一門は遂に拠点としていたクロトンの街を追われる身となった。
なんとか逃げ出したピタゴラスであったが、走りついた先は何の宿命か、教団で強く禁じた豆畑が広がっていたのである。ピタゴラスはそこで立ち止まり「豆を踏みつけるよりも、むしろここで捕まろう。無駄に話し合うよりも殺された方がましだ」と言って、追手に喉を掻き切られて最期を迎えた。ピタゴラスの中で豆にどんな思想的、はたまた数学的意味があったのか、それは今でも謎のままである。多くの弟子も時を同じくして殺害され、ピタゴラス教団はここで終焉を迎えた。
ピタゴラスと弟子たちの悲劇的な死後も、ピタゴラス学派は連綿と受け継がれていった。
プラトンとアリストテレスも数学を哲学の一側面として捉えた点でその影響を多大に受けており、ピタゴラスはルネッサンス期までの西洋文明の礎石のひとつとなったと言えるだろう。
反対に純粋にピタゴラス的である、万物の背後には数学的原理が隠されているという探究姿勢を受け継ぎ、一説ではピタゴラス学派であったと言われているサモスのアリスタルコスの地動説から、1800年以上の時を経たコペルニクスへの影響は多大なものがあった。
その後コペルニクスからケプラー、そしてガリレオに至り、ピタゴラス的探求はキリスト教異端のレッテルを貼られるようになる。だが、それでも、数学的好奇心は物事を明らかにし続け、地球はいつでもここで回っていた。そしてピタゴラスを起点とした壮大な道行は、ニュートンから私たちへ、科学という礎で現代へ繋がったのである。
さて、ピタゴラスの輪廻転生がもし本当だったとしたら、今この世のどこかにも、彼の全てを受け継いだ者が実在する可能性だってあり得る。
ダ・ヴィンチのような博学の探求者だろうか、はたまたアインシュタインのような世界を変える天才だろうか。もしそんな人を見つけられたら、古代ギリシャの記憶と知性の悠久の蓄積を、この目で眺めてみたいものである。
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虹の日*7月16日
https://ameblo.jp/kankoro-koro-koro/entry-12864194626.html 【語呂合わせ「は(8)い(1)く(9)」俳句の日】より
「俳句の日」は、正岡子規(まさおか しき)研究家で俳人の坪内稔典(つぼうち としのり)らが提唱し、1991年(平成3年)に制定。
「俳句記念日」は、俳句作家の上野貴子(うえの たかこ)が主宰する「おしゃべりHAIKUの会」が2014年(平成26年)に制定。
日付は「は(8)い(1)く(9)」(俳句)と読む語呂合わせから。
以下HPより
https://zatsuneta.com/archives/108192.html#google_vignette
俳句の日・俳句記念日(8月19日 記念日) | 今日は何の日 | 雑学ネタ帳
NHK四国では毎年俳句甲子園なるものを放映している。全国ネットNHKでしてないかもしれない。
愛媛県松山市出身の正岡子規の影響だと思う。高校生がグループで俳句を作り評価されて、チャンピオンを選ぶ。
愛媛ってそんなに俳句王国なのか?誰もが作るお国柄(地域性)なのだろうか。
文学って、小説は人に説明する部分があるからわかるわからない、で評価はあると思うが、芸術性を競う、短歌や俳句、詩は、評価基準がよくわからないので、嫌いだ。
でも、だれもが学校教育で俳句を作ることはあると思う。きっと作ったと思うが思い出の中に無い。芭蕉の様にほほえましいものは好き。だけど。
わかりやすい現代俳句になると、妙に生々しくて、恥ずかしいものも多いし。
嫌いだと思う。
https://ameblo.jp/hijikatasuigetu/entry-12854837869.html 【聖書のゲマトリア 六芒星と愛され憎まれた数字「13」 土方水月】より
‟13”は不吉な数字ではなく、‟愛された”数字であり、‟憎まれた”数字でもある。
聖書に書かれた言葉は数値に換算できる。日本語では数字を語呂合わせで意味のある語に変えることがあるが、ヘブル語やギリシャ語はもともと数字に置き替えられる。ラテン語の一部もローマ数字として用いられる。「V」は「5」であるし、「X」は「10」であり、「IV」は「4」で、「VI」は「6」である。また、「L」は「50」であり、「C」は100、「D」は500である。
「父なる神」は「1」であり、1の三乗も「1」である。「イエス」は「8」であり、2の三乗でもある。「2」は「三位一体の神の第2位格」である。「父と子と精霊」の「子」にあたる。そして「聖霊」は27×40=「1080」であり、27は「三位一体の神の第3位格」である3の三乗である。そして、「父なる神」である「1」と「精霊」の「1080」と「キリスト者たち」の「144000」をたすと145081となり、13、37、73に続く六芒星数の156番目に現れる145081と同じである。つまり、「キリスト者たち」は「神」と「聖霊」とともに三位一体の神と合わさって巨大なダビデの星の形になっているのであった。
そして、ヘブル語では「愛された」という言葉も、「憎まれた」という言葉も、どちらも数数値換算すると「13」になるという。
「13」という数字はもともとは良い意味であったという。ユダヤ人の男子は13歳で元服式を行い、ユダヤ教では「神の属性」を13個数えているという。にもかかわらず悪い数字になったのは「サタン」のせいであるという。「サタン」とはもともとは「悪魔」の意味ではなく「反逆」の意味であるという。
「サタン」は「ルシファー」とも呼ばれる。‟堕天使”という言葉があるが、「ルシファー」はもともとは天使長の一人であったのに、堕落して神になろうとしたという。「反逆」を企てた「ルシファー」は「反逆」の意味であった「サタン」となった。「サタン」はもともとは「敵対する者」という意味であり、聖書では、「敵対」、「反逆」、「離反」などに関して13年目とか13日とか13という数字がよく関わってくるという。
「サタン」のギリシャ語ゲマトリアは13×28=364で13の倍数であり、364という数字は「悪霊たち」というヘブル語のゲマトリアと同じで、サタンを象徴的に表している「竜」も13の倍数(13×75)であるという。また、「蛇」のヘブル語ゲマトリアは13×100であり、ギリシャ語では13×60=780であるという。「反キリスト」のギリシャ語ゲマトリアは1911=13×147であった。「獣」や「獣の刻印」や「獣の数字」や「背教」もすべて13の倍数であった。さらにはサタンの別称である「ベリアル」や「ベルゼブルによって」や「悪魔」もすべて13の倍数であるという。
また、単語のみならず文章や句の全体も13の倍数になっているという。「悪魔とかサタンとか呼ばれたあの古い蛇」は2197=13×13×13であり、これは13の立方体である。また、聖ジェロームのラテン語訳「旧約聖書」(ウルガタ写本)にしか出てこない「ルシファー」は「暁の子 明けの明星よ どうしてあなたは天から落ちたのか」と記されており、その「LVCIFER」のラテン語ではL=50、V=5、C=100、I=1、F/E/R=0であり、156=13×12となる。
キリストの千年王国後の背教者たち「ゴグ」の名も806であり13の倍数であった。
千年王国となった「イエルサレム(平安京)」の後とは今である。806の名を持つ「ゴグ」とはだれか?
三宝出版@sampoh_official
昨日も今日も迷うな迷うなと大地は支えてくれる
今日も明日も恐れるな恐れるなと天空(そら)は励ましてくれる
Facebook田中 宏明さん投稿記事
この地球という星で起こっている数々の悲劇は「自分が生きて 存在している」というとんでもない奇跡を見過ごしていることにあるような気がしてなりません
我々はこんなにも美しい星に生まれていながら 人間が創り出した社会や経済という
システムにあまりにも没頭し過ぎることで広大な宇宙を忘れています
朝日に照らされた山々を 木々を揺らす風を 美しい川の流れを 宵闇に輝く一番星の
美しさを 忘れてしまっているのです
そして何よりも このとてつもなく 美しい創造を 目撃している「自分」という存在の偉大さを忘れています
自分が存在しているという不可思議さに本当に気づいた時 この宇宙の神秘に気づいたと言っても過言ではありません
究極の神秘は 無限の宇宙や神など ではなく あなた自身のことなんです^ ^
もしそれを忘れてしまったなら 自然の中に出かけましょう
圧倒的な自然を目の前にした時 人は自分自身の 存在の不可思議さに触れることが出来ます
なぜなら 自然とは「存在」そのものだからです
人間が創り出した 観念の檻から抜け出すには 意識的に 自然の中に身を置くこと以上のものは無いかもしれません
そうして観念から抜け出した人は はじめてこの世界の美しさに気づきます
そして今まで自分がどれくらい小さな観念の世界を生きていたかという事にも^ ^
そしてもう一つ大切なことに気がつきます
それはこの美しさに本当に気づくために様々な回り道が用意されていたことです
つまり人生におけるあらゆる出来事が自分という存在の素晴らしさに気づくためにあったのだとわかるのです
全ては完璧な計らいそのものだったとわかります
そしてその瞬間「宇宙には 愛しかない」という単純な事実に気づきます^ ^
その認識を取り戻しましょう
我々は子どもの頃まさにその躍動する世界を生きていました
あの世界に戻る切符は今もずっとあなたの中にあります^ ^
思い出した人は是非教えてください一緒に遊びましょう😆🌈
以上夜中のつぶやきでした^ ^ もう少しで夜が明けそうです 自分自身を振り返っても
夜明け前が一番暗いのは 人生も同じですな😆
では皆さまも素敵な一日を🌈😆らぶ💓
一指李承憲@ILCHIjp
自分に出会うそのときまで、自らの価値が感じられるそのときまで、集中してみてください。自分自身がどれほど美しく偉大か胸に沁み入るときまで集中してみてください。私は人よりも優れていたり劣っている存在ではなく、誰とも比べることのできない絶対的な存在だという自覚が訪れます。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
世界樹・生命の樹は復活と再生、永遠の生命、豊饒の象徴として世界中の民族の神話にあらわれます。
ユダヤ神秘主義のカバラで生命の樹はセフィロトと呼ばれています。
カバラによると万物が生成したのは「神は神を見ようとした」からだと言います。
生命の樹セフィロトは宇宙と万物の創造を象徴として図で表しています。
カバラの神はアインと呼ばれます。なにもないという意味です。神は物質世界を超えているからです。
アイン・ソフは限りがないという意味です。神はあらゆるところに存在しています。
有ると無いを含めた全体が神です。
世界はアイン・ソフ(無限)から誕生し、魂はアイン・ソフ・オウル(無限の光)の中でアイン・ソフ(無限)に帰還します。
つまり魂は生命の樹から誕生し再び生命の樹に帰還するのです。
聖書の神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、エデンの園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせました。
人間が善悪を知る知恵の木の実を食べると神は生命の木の実も食べることを嫌い楽園から追放しました。
キリスト教以前の古代世界で生命の樹は知恵の木でもあり偉大な女神の象徴でした。
男性原理の時代になると、永遠の命をもたらす生命の樹は伐採され女神は抹殺されました。
古事記のイザナギとイザナミは天御柱を回って婚姻し国を生みました。
シャーマンを表す巫という漢字は、上が天を、下が大地を縦線は天と地を繋ぐ生命樹を表しています。
その生命樹の両側に舞踊る人を置いています。
生命樹を中心に舞踊ることによって、シャーマンに神や精霊が宿ることを象徴してます 。
北欧神話で混沌とした世界に天と地を結ぶ一本の巨木ユグドラシルが生まれます。
枝葉は全世界を覆いつくして上は北極星まで垂直に伸びて天まで達します。
その根は神々が住む地下の冥界、人類共通の祖先の世界まで繋がっています。
この一本の巨木から、あらゆる生命が生まれて世界に秩序と安定がもたらされました。
物質世界ではあらゆるものが生まれては死んでゆきます。
世界樹・生命の樹は朽ちることなく永遠にそびえる不滅の存在です。
すべての生命は世界樹・生命の樹と繋がり影響を受けています。
岩石、巨木、川や泉や滝、山々は神の依代であり、古代は自然界そのものが神でした。
巨木には神が宿るので、みだりに木を切ったりすることは禁じられていました。
しかし、お金の時代になると神は自然界の森から姿を消しました。
神のいない土地は売り渡され、原生林の巨木は切られてしまいました。
8,000年前の森林は地表の62%を覆っていました。
森林破壊が延々と止まることなく続き、2000年には30%に半減してしまいました。
残された森林も本来の植生の70%が失われています。
森林をガイアの肺とすると、すでに肺の半分以上が失われ残りの肺も7割は正常な状態ではないという事になります。
世界中でさまざまな生きものが急激なスピードで絶滅しています。
生態系のバランスが崩れてきています。
1850年以降、世界の平均気温は上昇しています。
ガイアはバランスを回復しようと気象変動という症状を出しています。
症状が進むとますます巨大ハリケーンや台風、熱波がひどくなるでしょう。
ギリシャ文明の消滅と森の消滅はほぼ正比例しています。
世界各地の文明は森が消えたために衰え、滅んで行きました。
人間も生きている地球と言う網の結び目の一つです。
すべての生き物はそれから離れる事は出来ません。
人間は独立した存在ではなく自然に依存している一部にしか過ぎません。
「白人はいのちの輪を見失っている」と先住民は語ります。
環境と生命全体が自分であることを私たちは忘却しています。
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