俳句と人生

https://haiku-ashita.sakura.ne.jp/zuisou28.html 【第 28 回  俳句と人生】より

生も死も同じことかよかたつむり 梧郎

 冒頭の句は現代の著名な俳人の句でも、歴史的に名高い文人の句でもありません。姻戚関係にあった、通称「五郎叔父さん」が詠んだ句です。本名は近藤五郎。俳号は「梧郎」。六年前の十月に九十三歳で亡くなりました。その間、約五十年を超える期間、俳句を詠んでいました。京都の鴨川のそばの京都らしい町屋に住み、訪れると雑種の犬と鴨川沿いを散歩したり、お茶を飲みながらたまには俳句談義もしました。「わしの句はいい加減じゃから」といつも謙遜していました。亡くなる少し前に訪問した時、単色の平べったい酒器を土産に貰いました。その側面に書かれていたのが冒頭の句です。その酒器は今、書斎の本棚の一角で、私を見守っています。

 秋が立ち止まって物思う季節であるならば、来し方行く末を思うのも良いと考え、今回は俳句に人生を絡ませてみようと思い立ちました。以前の稿で俳句はスナップショットであり、ビデオで撮るようなドラマや景色は不得意と書きました。確かにそうだと思います。

 フランスの文豪スタンダールの墓碑銘は「生きた、書いた、愛した」です。彼の一七八三年からの六十年間の人生をこの一言で言い表したことになります。「生きた」の中には六十年間分の様々な苦楽があったと思います。「書いた」については「赤と黒」「パルムの僧院」等の作品が遺されています。「愛した」は当事者の胸にのみ刻まれていることでしょうが、「愛した」を三つの動詞の最後に位置づけたことは、このことに相当の思い入れがあったに違いありません。この一文は鮮やかな省略として、極めて俳句的であると思っていますし、この一文をもって俳句で人生が詠めるかも知れないと思わずにはいられません。

 もう一つ、俳句で人生が詠めるかもしれないと思わせる、俳人からの応援文をご紹介します。中村草田男が遺した、「俳句と人生」という書名の講演録の中に「現代俳句の諸問題」という講演の収録文があります。そこには俳句と短歌を比較して、それぞれの特徴及び俳句の宿命とも言うべき最短詩であるが故の言葉が負わねばならない役割について書かれています。曰く、短歌の一重性に対して俳句には二重性がある、と述べています。少し解説しますと短歌は三十一文字もあって長いので、具体的な事象に加えて感情まで述べることができる。そのため短歌のみで完結できる。しかし俳句は短か過ぎて感情まで述べることができない。そのため具体的な事象の表現で感情までも述べなければならない。従って俳句は二重構造にならざるを得ない。つまり俳句の二重性とは句に読み込んだ具体的な事象に一人二役を負わせるということのようです。これは宇咲冬男師の象徴性、象徴句にも繋がる考え方ではないかと思っています。言い換えれば、俳句は二重性を持っていて、具体的な事象を読みながら感情までも詠み得るとも言えるかと思います。ここに俳句で人生が詠める秘訣がありそうです。

 話を冒頭の五郎叔父に戻します。私たちと親しい、彼の長女が「卆寿のけむり」と題した句集を九十歳の誕生祝に編集しました。句集の表書きには彼女がこの句集を作ろうとした主旨や父親の句を初めて目にして、風貌に似合わずロマンチストであることを知ったこと等が書かれています。そしてあと書きには、彼の句歴として次のように記されています。「大正三年二月十五日生まれ。成年後、叔父にあたる臼田亜浪の「石楠」に入会。亜浪没後はいずれの会にも入会せず、老人俳句会の指導をしてきたが、九十歳に至って、その任も後輩に譲り、今はのんびりと句作を楽しんでいる。作句は吾が心の憩いの場である。」と。この「卆寿のけむり」から数句を抽きます。

犬と居て春のあくびを貰いけり     しばらくはぼんのくぼ押す夜の蝉

炎天の吾が影靴を覆ひ得ず       切り紙のみんな意味あり星祭

水栓の洩れては冬日妊みけり      編む妻へ毛埃り静かなる光

嫁ぐ娘に語るともなく蜜柑むく     冬帽子茶色の歳を卓に置き

話題途切れ一人の冬と向かい逢う    元日や生年月日ふと忘れ

市井に生き、句を嗜み、多くの人に慕われ、威張りも大声も出さず静かに生きた人でした。私は心ひそかに、彼のことを人生の達人と思っていました。風に柳がそよぐように決して気張らないから折れもしない、あんな生き方ができたらと。しかし、そんな風に見える彼にもきっと山坂があり、眠れぬ夜もあったのだろうと思っています。

占いの大家が人の心をつかむ手立てとして、話の初めにこう言うそうです。「随分苦労をされましたね」と。それで十人中九人までが頷くとか。つまりどんな幸せと傍目には見える人でも、その人なりに苦労をしたと思っているということです。 その実は分かりませんが、様々あった人生を短い一句に託すのは確かに難しいと思いますが、五郎叔父の句はその断片を切り取ったものでありながら、その人となりや生き様を充分に覗かせているように思います。

 今回は、人生を語る句を紹介するには未だ至っていないと思っております私自身の句の出番はありません。最後にご紹介する句は、冒頭の句の書かれた酒器のもう片面に書かれた、人生の達人が詠んだ句です。京の町屋の炬燵のある部屋で、小さな坪庭に降る雪を眺めつつ、手をさすっている叔父の姿が目に浮かびます。そして彼が見つめている手の皺が密やかに彼の人生を語っているのだとも…。

手の皺も命の一つ雪や降る   梧郎


https://mag.nhk-book.co.jp/article/34260 【人生を詠う ~仕事【NHK俳句】】より

2023年度『NHK俳句』では、村上鞆彦(むらかみ・ともひこ)さんを講師に迎え、「人生を詠う」をテーマに1年間さまざまな名句を紹介しています。今回のテーマは「仕事」。

また、8月号の兼題は「新豆腐」です。

 前回は「恋愛」をテーマに、誰かを大事に思う心を持ち続けることが、生き生きとした俳句を生むことにもつながるということを確認しました。

 今回のテーマは「仕事」です。先日、句集を読んでいたら、こんな句が目に止まりました。〈夏の雲ファラオの壁画みな働き 西山ゆりこ(にしやま・ゆりこ)〉。ファラオとは、古代エジプトの王のこと。その墳墓の壁画に描かれている人物たちが、みな何かしら仕事をしているという句意です。ファラオの時代から、さらにもっとずっと昔から、私たち人間はみな生きるためにせっせと仕事をしてきました。仕事は私たちの人生において大きなウエイトを占めます。それだけに、仕事をする上で生まれる喜怒哀楽の様々な場面は、私たちの人生に彩りやアクセントを与えてくれます。今回はそんな「仕事」にまつわる俳句を鑑賞してゆきましょう。

降る雪やこゝに酒売る灯をかゝげ

鈴木真砂女(すずき・まさじょ)

 ドラマチックな人生と数々の恋の句で知られる鈴木真砂女が、銀座(ぎんざ)の路地に小料理店を開いたのは五十歳のとき。「卯波(うなみ)」というその店は、多くの俳人や文人に愛されました。この句の「灯をかゝげ」とは、実際に提灯(ちょうちん)を吊るしているというよりは、店を営業しているということの比喩的な表現でしょう。銀座の路地に降る雪を仰ぎながら、ここでこうして暮らしていくのだという静かな決意が伝わってきます。「降る雪や」に万感の思いが籠(こ)もります。〈水打つてそれより女将(おかみ)の貌(かお)となる〉、これも真砂女らしい句です。

畦(あぜ)塗るやちちははの顔映るまで

若井新一(わかい・しんいち)

 作者は新潟(にいがた)県で農業に従事しています。「畦塗る」は春の季語で、水を入れる前の田んぼの畦を泥でしっかりと固める作業のことです。てらてらとしたその表面に映った自分の顔に、いつしか「ちちははの顔」が重なって見えたのでしょう。かつて「ちちはは」もまた、毎年この畦を塗ってきました。そのまた「ちちはは」も同じように……。営々と土に拠って生きてきた自らのルーツへと静かに思いを深めてゆくような味わいがあります。

仔牛(こうし)待つ二百十日の外陰部

鈴木牛後(すずき・ぎゅうご)

 作者は北海道の酪農家です。この句は、牛の出産を固唾(かたず)をのんで見守っている場面です。「二百十日」は秋の季語で、立春から数えて二百十日目のこと。台風が来ることが多く、厄日とされます。折しもその日に出産のタイミングが重なったとなれば、緊張感もひとしおでしょう。「外陰部」の一語には、ある種の凄味(すごみ)があります。軽薄な興味から使うとたちまち句の底が割れてしまうような語ですが、ここではゆるぎなく収まっています。漢字の多用も、張りつめた空気の感触を伝えます。この作者には〈にれかめる牛に春日のとどまれり〉という句もあります。こちらは明るく、伸びやかな句です。両句から、牛と苦楽を共にしている作者の暮らしが垣間見えます。

 

 時代をだいぶ遡(さかのぼ)って昭和十一年、五十歳目前の竹下しづの女(たけした・しづのじょ)は、夫を失った後の母子家庭を支えるべく、図書館の出納手(すいとうしゅ)として働いていました。その折の句、

汗臭き鈍(のろ)の男の群に伍(ご)す

竹下しづの女

 同僚の男たちに立ち混じって懸命に働いていても、女というだけで何かと低く見られることが多かった時代です。「汗臭き鈍」という断定には、その鬱憤(うっぷん)がこもっているようです。もちろんこれは理由のない非難ではありません。しづの女には才覚があり、いわゆるできた人でしたから、できない周囲の男たちがまだるっこしくて仕方がなかったのです。今から九十年ほど前に、このようなしたたかな句が働く女性によって詠まれていたということに感銘を覚えます。

 

 雇用機会や賃金・待遇などの男女間の格差は、時代と共に次第に是正されてきました。代わって現代では、正規―非正規雇用という二つの働き方における格差が問題となっています。

非正規は非正規父となる冬も

西川火尖(にしかわ・かせん)

 子どもが生まれ、父親となることは、この上もなく嬉しいことです。しかし作者は、一抹の不安も抱えています。それは、自分が非正規であるということ。今のままで家族をしっかりと養ってゆけるのかどうか……。しかし「非正規は非正規」であり、望めば簡単に正規になれるというものでもありません。現代の非正規として働く多くの方の不安を代弁している句です。

 

 思い通りの会社で、思い通りの仕事ができて、という順境にある人はごくわずかでしょう。誰しもしばしば、次の句のような感慨を抱いたことがあるのではないでしょうか。

会社やめたしやめたしやめたし落花飛花

松本てふこ(まつもと・てふこ)

 破調の句で、「やめたし」が三回出てきます。それほどにやめたいのです。休日の花見の席でふと会社のことを思い出してしまい、暗い気分になっているのかもしれません。しかし「落花飛花」には、どこか救いがあります。目線を上へと誘うものがあります。この後、作者は望み通りに会社をやめたのかどうか、そこは読者の想像に委ねられています。

 今回は「仕事」にまつわる句を鑑賞しました。特殊な仕事をしている方は、題材の面はもちろん、その仕事によって培われたものの見方や感じ方など、その特殊性をうまく俳句に生かすことができれば、他の人には詠み得ない独自の領域を開拓できる可能性があります。また、仕事一般に関する題材も多く、アプローチの仕方によっては新鮮な句が生まれることも期待できます。仕事は仕事、俳句は俳句と切り分けているという意見も聞きますが、仕事もまた自分の人生を形成する大切なものとして、積極的に詠っていきたいものです。

選者の一句

さざなみの下より掬(すく)ふ新豆腐  鞆彦


https://mag.nhk-book.co.jp/article/48371 【だから俳句はやめられない——原点は句会にあり【NHK俳句】】より

4月は始まりの月、『NHK俳句』では新選者を迎え、新しいテーマの放送がスタートします。第4週の選者は昨年に引き続き、俳人・高野ムツオさん。大好評の句会「語ろう!俳句」をバージョンアップしてお届けします。

句会には、中西アルノさん(乃木坂46)が、レギュラー出演! 中西さんの独特の感性が光る俳句も見逃せません。一緒に楽しみましょう。

今回は、高野ムツオさんが語る、さまざまな気づきを与えてくれた思い出の句会についてのエッセイをご紹介します。

原点は句会にあり

 その夜は不意の大雨で、山裾にある小さな寺の本堂には大きな雨音が響いていました。私が物心付いた頃からよく訪れていた寺で、小学四年生だった私は、その夜も父の後を追って遊びに来ていたのです。寺では句会が催されていました。二十名以上、近隣の愛好者が集まっていたと記憶しています。会場は本堂の脇の広間でした。私は、句会よりも夜の本堂の様子が興味しんしんで、恐る恐る須弥壇(しゅみだん)の裏側を覗いたり、天蓋(てんがい)の瓔珞(ようらく)が蝋燭(ろうそく)の炎で揺れるのを見つめたりしていました。その時、句会場の方から「睦夫(むつお)、この句、お前のか」という声がしました。披講された一句に誰も名乗りがなく、念のため、私に確認したのでした。確かに私が作ったものだったので、自分の俳句だと伝えました。ただ頷いただけだったかもしれません。私の句だとわかると、誰からともなく嘆声が漏れました。同時に正面にいた柔和な和服姿の女性が笑みを浮かべながら「今夜の寺の様子がよく出ていますよ」と声をかけてくれました。この女性が、はるばる仙台市から三時間以上もかけて同じ宮城県栗原市の片田舎まで指導に来てくれていた阿部みどり女先生でした。昭和三十二年、みどり女七十歳の時です。

夏の雨うるさくひびく夜の寺

睦夫

 これが私の十歳の処女作となりました。句会初体験でもあります。照れくさい中にも句会で句が選ばれることの晴れがましさを経験しました。

 

 この後、私は俳句に魅せられるようになり、中学生の時分には、その寺での月例句会に出席するようになりました。

 高校一年生の五月ごろ、高校で開かれた句会をよく覚えています。私は工業高校に進学しました。当時は工業高にも文芸部があり、さっそく入部しました。自己紹介で私が俳句に親しんでいるということを話したのでしょうか、みんなで句会をやろうということになりました。顧問の菊池謙先生も参加してくれました。先生は歌人でもありました。

釣り人の草に埋もれて春の雨

睦夫

はその時の一句です。先生はこの句を選んで「草と人が一体になっている。そして、それらを包むように春雨が降っている。つまり人間と自然が溶け合った世界が描かれている」と講評してくれました。私は驚きながら聞き入りました。単に通学電車の車窓から眺めた一コマを切りとっただけだからでした。先輩は先生にすかさず質問をしました。

「でも、それは先生だから言えることで、作者はそんなことは考えていないんじゃないですか」。確かに、その通りです。しかし、先生は少し表情をこわばらせながら、「作者がどう表現したかったかは問題でない、作品がどう鑑賞できるかが大切なんだ」と言い切りました。句会という場を通して、俳句の秘密の一つを教えてもらった瞬間でした。

 私に社会性俳句など当時の新しい俳句について目を開かせてくれた人は父の友人で、松本丁雨(まつもとちょうう)という俳人です。「麦」や「末黒野(すぐろの) 」の同人でした。私が高校二年の昭和四十年正月に「末黒野」の主宰皆川白陀(みながわはくだ)が横浜からやって来ました。若い俳人根岸文夫(ねぎしふみお)が一緒で丁雨の俳友古内一吐(ふるうちいっと)とともに五人で炬燵(こたつ)を囲み句会を開きました。一吐は当時「鶴」の中堅として注目されていた人です。句会は人数が多いのも緊張感があっていいですが、気のおけない四、五人で楽しむというところに本来の醍醐味があります。遠慮なく語り合うところに俳句の世界が広がるのです。

 

 その夜は雪がずっと降り続いていたので、私は、

灯をつなぐ町は雪国雪しんしん

という句を投じました。私と白陀以外の三人が採りました。披講が終わってから、内心得意になっている私の傍で一吐が「この句は白陀のだべ」と目を細めました。雪国への挨拶であるからです。白陀は静かに「いや、私なら、

灯をつなぐ雪国の町雪しんしん

だ」と応じました。低いが、自信に溢れた声でした。両句の調べの軽重は歴然です。「町は雪国」には表現の気取りがあって、全体を軽薄にしてしまっています。推敲の大切さを作品を通して教えられた時でありました。

高校卒業後、地方公務員として働きながら、國學院大学に入学しました。大学でも俳句仲間ができ、句会を楽しむことができました。句の指向するところはそれぞれ違ってはいましたが、二十歳前後の若者同士で囲む句会は、それまでには経験できない刺激に溢れていました。私はみどり女の「駒草」から金子兜太(かねことうた)の「海程」へと航路を切り替えたばかり。しかも無季にこだわって句作していましたので、句会でほとんど評価されませんでした。ある日、大学の俳句研究会の仲間、島谷征良(しまたにせいろう)と宮入聖(みやいりひじり)と大塚青爾(おおつかせいじ)の四人で、青爾のアパートの一室で取り留めない雑談に花を咲かせました。自然と句会でもやるかという流れになりました。

 

 当時、嘱目(しょくもく)的な作り方を遠ざけていた私は即興が苦手でした。出句する句作りに難儀していると、ふと数日前に仕事で出かけた三浦半島の情景が脳裏をよぎりました。まあ高野らしくない写生句と揶揄(からか)われても、と思いながら、

秋耕へ暮色沖よりせまりくる

という句を投じました。すると、ふだんは私の句に辛辣な批評をする征良の言葉にいつになく力がこもっているのです。「秋耕」と「沖」の取り合わせが面白いと言います。両者をつなぐ「せまりくる」も感心していたはずです。征良はこう付け加えました。「高野さんはやっぱり、こうした句を作るべきですよ」。真からの友情が溢れた言葉でした。無季俳句ばかり作っていた私を心配していたのでしょう。

 

 むろん、私の無季俳句への挑戦はその後も続きました。しかし、帰郷したのち、風土や自然を自分なりに俳句に咀嚼(そしゃく)しようと考えるようになったのは、この征良の言葉が心の底に楔(くさび)のように残っていたからだと振り返っています。

 だから、今もって句会はやめられないのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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