関東の臍(ほぞ)あたりなり南瓜咲き 五島高資

https://tibs.jp/20200714_2810/ 【丹田は身体の真ん中】より

1998(平成10)年、東京国際仏教塾の開講式で行われた鎌田茂雄先生の記念講演のを18回に分け、ご紹介しております。本日は第11回です。

ほとんど知る人はいないと思いますが、 平野重誠という江戸末期のお医者さんがいます。

この人の著書に 『養性訳』 という本があります。

これは、 養生する、 身体が悪いから養生するという意味では全くありません。 生命力をいかにして養うかという本なのです。

「琴、 三線などの芸をするにも、 その名を得たるものは、 指をもって弾くことはせずして、 ただ必ず臍ほぞの下 (臍せい下か丹田たんでんのこと) の兼ね合いをもってする由、 その達者に聞くところなり」

一切の芸は、 指でするものではなく、 臍下で行うものである、 と言っているのです。 ですからいかに臍下丹田ということが重要かということなのです。

では、 息を整えるにはどうしたらよいかという、 全身の息を臍下に充実させること。 臍下に集中させることが、 息を吐くことなのです。

その後どうするかというと、 手足を軽やかにする。 顔、 肩、 背、 胸、 手足、 全部を軽やかにする。

これはなかなか出来ないことなのですが、 肩や手足に力を入れない、 ということは非常に重要になってまいります。

皆さんもよく御存知のことですが、 物を運んだり物を持つとき、 決して手では持ちません。 どこで持つかというと腰で持ちます。

必ず腰を下まで落として、 腰で持ち上げます。 それをうっかり手で持とうとすると、 ぎっくり腰になってしまうのです。

平野重誠はこうも言います。 丹田は身体の真ん中である。 手足を動かす根本である。 鼻と通じて天地の大気を引き込むところである、 と言っています。

したがって、 丹田は息を引き込むところでもあるのです。 天地の気というものが、 鼻から入ってきて終局的にはここに集まる。 そしてまた鼻を通じて出ていくのです。

だから丹田は根本であると説いていくわけです。  -つづく-


https://tibs.jp/20200715_2821/ 【死ぬために生きている】より

1998(平成10)年、東京国際仏教塾の開講式で行われた鎌田茂雄先生の記念講演を18回に分け、ご紹介しております。本日は第12回です。

息というものは、 宗教の一つの原形をうまく表しているわけです。 それでは、 もう少し生と死ということを、 佐藤一斎先生がどういうふうに言っているかと言いますと、

【生は是れ死の始め、 死は是れ生の終わり。 生しょうぜざれば則すなわち死せず。 死せざれば則ち生ぜず。 生せいは固もと生せい、 死しも亦生またせい、 「生生せいせい之これを易えきと謂いう」 とは、 即ち此れなり。 】

(生は死の始め、 死は生の終わりである。 生まれなければ死ぬわけもなく、 死ななければ生まれるわけもない。 宇宙の大生命の上から見れば生はもとより生であり、 死もまた生である。 「生々これを易という」 とはこのことである)

生は是死の始め、 死は是生の終わりなり。 この通りなのです。 生きている。 生は死の始めだということは、 人間がこの世に生まれたということは、 死ぬために生きているわけです。 死は生の終わりである。

次に何と言っているかというと生ぜざれば則ち死せず。 死せざれば則ち生ぜず。 死があるから生がある、 というように考えているわけです。 生まれなければ死ぬわけは無いのです。 また、 死ななければ生まれるわけも無いのです。

宇宙の大生命の上から見れば、 生はもとより生。 死もまた生なのです。 そう考えれば良いのではないかというのです。   -つづく-


https://tibs.jp/20200716_2818/ 【生死一如】

1998(平成10)年、東京国際仏教塾の開講式で行われた鎌田茂雄先生の記念講演を18回に分け、ご紹介しております。本日は第13回です。

仏教はインドで生まれました。 ガンジス川の近くで死体を焼いています。 そして、 焼いた死体の骨をまたガンジス川に流してしまうのです。

人間はガンジス川の流れから生まれ、 わずか六十年なり八十年なりをこの世で生きている。

そしてまた死ぬと、 全部のヒンドゥー教徒はそこで死体を焼いて、 骨にして、 灰にしてガンジス川の流れに戻している。

ガンジス川というのは永遠なる輪廻なのです。 天から下ってインドの大きな平原を流れ、 再び天に帰って行く。 人間もその中で生まれ、 働き、 死んでそしてガンジス川のほとりで焼かれ、 ガンジス川に帰る。

流されて帰っていくことを、 呼吸法と考えてもいいし、 呼吸を宗教的考えで説明してもいいのです。

生きていることと、 死んでいることとは裏と表なのです。 そう考えると、 仏教では生死一如と言います。 生と死というものは、 二つであって二つではない。 二つのように見えますが、 実は裏と表。 一つのものの、 裏と表なのだ、 ということになろうかと思います。  -つづく-


https://tibs.jp/20200717_2830/ 【清忙とは清々しい忙しさ】

1998(平成10)年、東京国際仏教塾の開講式で行われた鎌田茂雄先生の記念講演を18回に分け、ご紹介しております。本日は第14回です。

哲学的に生と死とを考えて、 普段の生活をどういう事に注意しなければならないかというと、 もう少しお話しします。

皆さんもこれから仏教全般を勉強したり、 あるいは各宗派の様々な宗教行事に参加される方もいらっしゃるでしょう。 また、 宗教的な行をしたり、 作務もすることになると思います。

作務とは労働のことですが、 禅宗では 「さくむ」 と書いて、 労働のことを 「さむ」 と言います。 労働には変わりなく、 草をむしったり掃除をすることを作務と呼びます。

それをする時の心掛けと言いましょうか、 気持ちの持ち方、 生き方について佐藤一斎先生はこう言っています。

これからお話しすることは、 ややお年寄りの方に当てはまるのですが、 若い方もいずれは歳をとるのですから、 聞いておいても良いのではないでしょうか。

【清忙せいぼうは養ようを成なす。 過閑かかんは養ように非あらず。 】

(心にすがすがしく感じさせる忙しさは養生になる。 あまりにひま過ぎるのは養生にならない)

簡潔にして良い言葉です。 清忙とは心で清々しく感じる忙しさです。 ですから清らかな忙しさと書いてあるのです。

気持ちが清々しい忙しさというのは、 「ワァー。 忙しい忙しい、 朝から晩まで追い立てられている」 というのはいけないのです。 何となくゆとりのある忙しさ、 というのでしょうか。 清らかな忙しさというのは、 ゆとりのある忙しさということです。 こういうように、 心で清々しく感じる忙しさ、 それは養生になる。

実際に人のために少しでもお役に立つこと、 公園で落ちている紙くずを拾ってあげる、 ということは清忙になる。 気持ちが清々しいでしょう。 人様のためになっているかな、 と思うでしょう。

ところが万引きで忙しい忙しいでは、 清忙とは言わないのではないかと思うのです。

万引きが仕事だ、 と言われてしまうならば仕方がないのですが、 「今日は忙しくて忙しくて、 こんなに稼ぎがあった」 と言ったとして、 やはりそれは清忙とは言わず悪忙ではないでしょうか。

清忙でなくてはならないのです。 清忙は養生だ、 と言っているのです。 清忙は体にも心にも役に立つのです。

その反対が過閑は養に非ず。 暇ひまがあり過ぎることを、 過閑といいます。 暇があり過ぎるのは養生にはならない。

人間、 定年退職して暇ができます。 仕事をしている時には、 昼間から酒を飲むようなことはありません。 怒られますし、 仕事になりませんから。 しかし、 定年になるとやることがありません。

朝から散歩して、 朝から酒屋に寄ったりして。 朝一杯飲み、 午後も一杯飲まないと気持ちが落ち着かないとか言いまして。 そして陽が落ちて、 電気がつくようになるとまた一杯。 というようになると、 だんだんアルコール中毒になってしまうでしょう。 暇がいけないのです。 暇があり過ぎるのがいけないのです。  -つづく-


https://tibs.jp/20200718_2837/ 【早寝・早起きも養生】より

1998(平成10)年、東京国際仏教塾の開講式で行われた鎌田茂雄先生の記念講演を18回に分け、ご紹介しております。本日は第15回です。

過閑は養に非ず

連休などはあまり良くないのです。 朝から晩までテレビを観て、 たまの連休だからいいじゃないかと。 1年中連休だったら人間は死んでしまいます。 体が駄目になってしまうのです。 朝から晩まで寝転がってテレビを観ていたのでは目も悪くしてしまいます。 そして朝から酒屋に行って、 酒ばかり飲んでいたのでは、 どうにもなりません。

ですからここに言うのです。 過閑は養に非ず。 定年退職されたら何かしらしなければならない。 それも良いことでなければならないのです。

何でもすればいいだろう、 ということでスリの学校へ入ったのでは、 やはりまずいのです。 良いことでなければ。 清忙と過閑ということを覚えておいて下さい。

早寝・早起きも養生

そしてもう一つ良いことを一斎先生は言っています。

【暁あかつきには早起はや お きを要ようし、 夜よには熟睡じゅくすいを要ようす。 並ならびに是これ養生ようじょうなり】 (朝早く起き、 夜はぐっすり眠る。 この二つはともに養生である。)

朝は早く起きる。 夜は早く寝て熟睡を要するということですが、 今テレビでいい番組というのは、 10時頃からあるのでしょう。 若い人達にとって、 夜の10時頃から深夜の1時頃までが一番いいテレビなのです。 ですから、 テレビというものは体にはあまり良くないのです。

人間、 9時には寝ないといけないのです。 そして朝は五時に起きると見違えるようになります。 お寺へ行くと当然そうなります。 夜の就寝は九時ですから。

私も若い頃、 中国の寺へひと月・ふた月・み月と滞在して仕事をしていましたが、 中国の寺ではだいたい朝3時半起床が多いのです、 四時からは読経がありますから。 そして寺の掃除。 7時頃に簡単な食事を済ませ、 その後上手に寝ればよいのです。 その後に睡眠を取り返せばよいのです。 要するに朝は早く起きなければいけないのです。

朝は早く起きる。 夜は熟睡をする。 ならびに是養生なりと。 とても良いことを言っているのです。

【老人は養生に托して以て放肆ほうしすること勿れ。 養生に托して以て奢侈しゃしなること勿れ。 養生に托して以て貪冒とんぼうなること勿れ。 書しょして以て自ら警いましむ。 】

(老人は養生にかこつけて勝手気ままになったり、 奢り耽ったり、 無闇に欲張ったりしてはいけない。 このことを書いて自ら戒めとする)

老人は体を大切にしなければいけない、 と思って怠けていてはいけないというのです。 放肆はいけないとは、 怠けるのはいけないということです。 つまり放肆というのは、 勝手気ままなことです。

老人は養生するのだから、 といって勝手気ままに、 生活をしてはいけないのです。 確かにその通りです。

養生に托して奢侈なること勿れ。 奢侈もいけない。 奢侈は奢ることです。 いい物ばかり食べる。 贅沢をするということがいけないというのです。 奢ってはいけない。   -つづく-


https://tibs.jp/20200719_2840/ 【「安」 の一字こそが重要】より

1998(平成10)年、東京国際仏教塾の開講式で行われた鎌田茂雄先生の記念講演を18回に分け、ご紹介しております。本日は第16回です。

それでは老人で一番必要なのは何か、 といいますと、

【老を養うは一の安あんの字を占たもつを要す。 心安こころやすく、 身安みやすく、 事安ことやし。 何の養か之これに如しかん。 】

(老人の養生には安の一字を保つ事が肝要である。 即ち心が安らかで、 身も安らかで、 事をなすにも安らかであること、 これに過ぎた養生はないのである。)

簡単だというのです。 老人の養生は一つの安の字。 安心の安。 安心の安は心を安らかにすること。

それから、 心安く、 身安く、 事安しと、 こう言っているのです。 良い言葉ですね。 心を安らかにしなければならないから、 心安しです。 そして、 見安くです。 体も安らかにしなければいけない。 最後は事安しです。

気持ちを安らかにするためには、 信仰も大切です。 信仰の結果、 気持ちが安らかになっていくのです。 身が軽やかで、 安定していなければならないのです。 体を安定させるためには、 規則正しい生活が必要なのです。

事安しは、 何か起こるとします。 皆さんの家庭でも、 しょっちゅう何か起こるでしょう。 子供が独立してしまって、 夫婦だけでも色々な事が起こるのです。 どちらかが病気になると、 一緒に病院へ行かなければならない。 まして入院となると、 何か届けに行かなければならないし、 見舞いにも行く。 奥さんを介抱している間に、 今度は自分が具合が悪くなり、 夫婦共稼ぎでなく、 夫婦共介抱という事になってしまうのです。

80歳代の夫婦が、 互いに看病していかなければならない。 相手の身を何とかしていかなければならない。 ですから、 事安しというのは大切な事なのです。

事件が起こるといけないのです。 家族の中でも、 親戚の中でも、 仕事の上でもです。

心安く、 身安く、 事安しのこの安の一字こそが、 老年期を送るのに一番重要である、 と言っておられます。   -つづく-


https://tibs.jp/20200720_2814/ 【虚空に生まれ虚空に帰る】より

1998(平成10)年、東京国際仏教塾の開講式で行われた鎌田茂雄先生の記念講演を18回に分け、ご紹介しております。今回は第17回です。

天地と鼻と通じるようになる。 そうしますと人間というものは、 天地虚空と言ってもよいのですが、 仏教の言葉を使えば虚空です。

その虚空の大いなる命、 生命。 その中のほんの一環として自分の心がある。 身体がある。 そして、 自分がある。 だから自分というものは、 虚空の中のたった一つでしかない、 ということです。

虚空というものを、 仏、 あるいは神と置き換えてもよいのです。 が、 自己というのは虚空の中に生かされて虚空の中へ消えてゆくのだ。 つまり仏の中に生かされて、 仏の中へ戻ってゆくのだ、 ということになります。

これは自然科学的にもそうなります。

天地 (虚空) の呼吸

宇宙があり、 その宇宙のエネルギーから地球ができる。 生物ができる。 人間ができ、 そしてまた、 人間が死んで行く。 すると土に帰る。 虚空に帰って行くわけです。

人間というものは、 宇宙の生命の中から生まれて、 またその中へ帰っていくのです。

その現世にいる、 七十年なり八十年なりを生といい、 その自分の現世よりも前は死であります。 そして、 現世よりも後も、 また死と呼んでいるわけでもあります。

これは別に死と呼ばなくてもよいのです。 こういうふうに生きて呼吸をして、 そしてまた、 帰って行くにすぎない、 ということになります。

平野重誠が言っているのは、 呼吸法として言っているだけでして、 この呼吸法で言っていることを、 宗教に転用します。

すると、 仏の中から生まれ、 生かされて、 そしてまた、 仏の世界へと帰って行くのだと。

それを浄土と呼んでもいいわけですから、 死んでから浄土へ参ると言ってもいいし、 行く前は業と呼んでもいいのです。

こうして生まれ、 死に流れていくことを、 輪廻と呼んでもいいわけですから、 仏教ではこのような呼び方をしているわけです。

それを呼吸法に転換しますと、 天地の虚空のなかで呼吸をしている。

自分の呼吸であって、 自分の呼吸ではない。 天地 (虚空) の呼吸を、 ただ自分が行っているだけである、 というのです。

ですから、 仏とか、 神とか、 虚空とか、 宇宙の生命力とかは、 皆同じ言葉です。

ただし、 キリスト教の場合は、 神が絶対の力を持っていますが、 仏教の場合、 仏様は悪を懲らしめる、 というような強いことは致しません。

ただ絶対的な命がある、 という点では同じようなものなのです。   -つづく-


https://tibs.jp/20200721_2844/ 【焦らず徐々に積み重ねる】より

1998(平成10)年、東京国際仏教塾の開講式で行われた鎌田茂雄先生の記念講演を18回に分け、ご紹介いたしました。

本日で最終回となります。

いろいろお話し申し上げましたが、 要は標題にありますように、 『志気に老少なし』 と、 第二の人生であっても、 定年後の人生であっても、 気持ちには老人も若い者も無いのです。

ですから、 老人だからといって、 気持ちを持たないのはいけないですし、 志気を高く持たないのはいけないのです。 そのためには佐藤一斎先生が言うように、 気をつけなければならないのです。

あまり焦っては駄目です。 ゆっくりとやる。 何でもゆっくりやるのです。 特に年寄りは駄目です。 一気にやった事は、 一気に崩れるものなのです。 徐々に積み重ねたものは、 なかなか崩れません。

お経を覚えるにしても、 朝から晩まで 「観自かんじー在菩薩ざいぼーさー」 なんてやる必要は無いのです。 自然に体についていく事が大切なのです。 何でも無理はいけないのです。 「南無妙法蓮華経」 と唱えたほうが良いからといって、 100回が500回、 500回が1000回と。

それはやったほうがいいですよ。 やらないよりは。 ただ、 あまり焦ってはいけないのです。 太鼓を叩きすぎて手首を痛めますから、 あまり無理はいけないのです。

手首は大切な場所です。 ここは基本になります。 私はこの関節を壊さぬように、 自分でチェックしています。 ですから一日八時間原稿を書いていても、 何でもありません。

もっと大切なのは、 足です。 膝です。 仏教塾でもいろいろと訓練 (修行) をする時、 正座をしますでしょう。 正座で苦しくなったらやめればいいのです。 無理してぶっ倒れるまでする必要は無いのです。 ですから膝を大切にして下さい。

足腰と言うでしょう。 私に言わせれば、 むしろ腰足なのです。 最後は腰なのです。 腰を絶対に痛めない事と、 壊さないように鍛えるのです。 腰というのは体の要です。 肉体の要と申します。 重要の要です。 ですから腰足なのです。 腰が駄目になると足が駄目になります。 腰と手首には十分気をつけて下さい。

是非皆さんのご希望の道に進まれまして、 東京国際仏教塾に入塾された目的を達成して下さい。

-終わり-

今回は鎌田先生の講演を18回に分け、ご紹介いたしました。「毎日、少しずつ、無理なく」…この考え方は先生の講義の中身に共通するものと考えた次第です。

また機会を見つけ、連載という形で取り上げる予定です。お楽しみに!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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