https://sheishere.jp/interview/201808-ikedasato/ 【たった17音の俳句に広がる、刹那と永遠。池田澄子×佐藤文香対談】より
俳句をつくるならひねくれてなきゃ。人と違うものの見方
<じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子>
これを見たとき、どういうことだろう? と立ち止まってしまうのではないでしょうか。いわゆる「俳句らしく」ない軽やかな佇まいに驚くかもしれません。視点がずらされ、目の前の景色がゆさぶられる感覚。知っている言葉の組み合わせなのに、たった17音に脳内がかきまわされていく。
冒頭の句も一部の教科書に掲載されるなど現代俳句の世界を牽引している池田澄子さんと、そのお弟子かつ年下の友達で、映画や音楽と同じような親しみやすさでもって、俳句の面白さを軽やかに伝え続ける佐藤文香さん。She is の8月のギフトでも共作いただいた二人に、たった17音に宿る時空の広がり、共感ではなく驚嘆の視点が大切である理由、言葉の力について語っていただきました。人はいかにものの見方によって世界の認識が変わるのか。それがありありと証明されてゆくような体験の扉が開かれることを。
俳句の先生に「あなたが書いているものは観念ね」って否定的に言われたの。(池田)
ー今日は、師弟関係でもあるお二人に俳句の魅力をお聞きできたら嬉しいです。
池田:私は中学生くらいから、「書きたい人」でした。でもそれは詩や小説が書きたかったのであって、俳句を始めたのはすごく遅いし、出会ったのもたまたまなんですよ。
37、38歳くらいのときに、俳句一日講座みたいなものに誘われて、その日は行けなかったのですが、別の日に書いた句を持って行って。そしたら先生に「あなたが書いているものは観念ね」って言われたの!
池田澄子、佐藤文香
ーそれは否定的な意味合いで?
池田:そう。それまで書いていた詩や文章では、具体的なことも書くけれど、やっぱり観念や思いを書きたい気持ちがあったので、「え~」って。それですぐに本屋で『俳句研究』という雑誌を買ったら、阿部完市の句があって、どの句だったかちゃんとした記憶がないのですけど、完市は<兎がはこぶわが名草の名きれいなり>なんて句を詠む人ですから、「これも俳句なのか」とさらに驚いて、その日から始まってしまったの。
佐藤:私は絵や音楽が好きだけど、何をやっても1位にはなれないな……と早々と感じていた頃に、今テレビ番組の『プレバト!!』にも出ている俳人・夏井いつきさんが非常勤でうちの中学校に教えに来て。もともと自分の父が日本語の研究者で言葉遊びに興味があったので、その授業が面白かったし、俳句が性に合ってるなって。
ー物語ではなく、文法に興味があったということですね。
佐藤:日本語自体、ですね。さっき澄子さんが「観念」とおっしゃっていましたが、観念を書きたくなるのは「書きたい人」の傾向だと思うんですよ。私は面白いことしたいとは思っていたけど、書きたいと思っていたわけじゃない。そして、書きたい思いがなくてもできるというのが、俳句の面白さなんです。「言葉で面白いことをしよう」とさえすれば、作品ができてしまう。
「人間の一例」としての自分を書きたいと思っている。(池田)
ーお二人の俳句への入り方は真逆だったんですね。
池田:そうですね。私も徐々に「こう思っています」と観念を伝えることが、俳句においてなぜつまらないのかに気づいていったんですよ。
ーというと?
池田:人が何かを感じる前に、「事象」があるわけです。その事象だけを書くことで、読んだ人が自ら何かを感じてくれるんですよね。だから、つくるときには観念を込めなくても、結果的に観念や情緒はついてくるものなのです。
ー「私はこう思いました」と言い切ってしまうのではなく、読んだ人が自分でいろいろなことを感じられるようにしかけるんですね。
池田さんは『思ってます』(2016年)という句集を出されていて、「思えば物心付いて以来、当然のことながらいつも何かを思っていた。が、思いは、ほぼ何の役にも立たない」とあとがきに書かれていましたが、「思うこと」について、いまどう折り合いをつけているんですか?
池田:いつでも何かを思ってしまうけれど、何を思っていたとしても、実は世の中には関係ないわけですよね。だから主語は池田澄子じゃなくて、「この時代に生きている一人がたまたまこういうことを思っている」というふうに、「人間の一例」としての自分を書きたいと思っています。
俳句は、映画のワンシーンやミュージックビデオに近い。(佐藤)
ー17音という短さについてはどう感じていますか?
佐藤:俳句は、映画のように初めから終わりまで書くものではなくて、映画のワンシーンに近いような気がしています。あとは、ミュージックビデオっぽさもあるかも。その短さのなかで、言葉を選んで、「時間を流す」のですが……。
池田:「時間を流す」というのは、言うのは簡単だけど、難しいんですよ。なんせ17音でやるわけですから。
佐藤:それがうまくいっているのは、たとえばこの句。
<かもめ来よ天金の書をひらくたび 三橋敏雄>
この句には、時間の流れが感じられると思います。天金というのは、本の製本で、上の小口だけに金箔をつけたもの。「ひらくたび」だから、いまだけのことを言っているのではなく、「本を開くたびに、かもめよ来てくれ」と思っているという時間の流れが含まれています。
ー今日はお二人に、俳句の魅力を伝えるためにいくつか句を選んできていただいているのですが、そのなかの一句ですね。
佐藤:「~のたびに」という句は、俳句としては難しい。ふつうは、ある出来事のその一回を切り取ったほうが、スポットライトが当たってビビットに仕上がります。でもこの句は、「かもめ来よ」の呼びかけと「天金」という言葉のチョイスで、句のふくむ空間全体がキラキラしている。そこがかっこいい。
刹那が永遠とつながると、名作になるわけです。(池田)
池田:<かもめ来よ天金の書をひらくたび>は、私が選んできた<少年ありピカソの青のなかに病む>と同じく、三橋敏雄が18歳のときの句ですね。
ーこれらが18歳ですか……。池田さんは、その句をなぜ選ばれたのですか?
池田:ピカソの「青の時代」は、青春期の暗く陰りのある作風の呼び名です。三橋は、恵まれない人の孤独や不安、一抹の希望を、ピカソの青の時代に重ねながら、まさに渦中にいるはずの自分のことを、この時代に生きている一人の青年として俯瞰して見ているんです。子どもがこういうことを書いたと思うと、困っちゃうよね(笑)。
池田澄子さんが今回の対談のために選んだ、三橋敏雄の作品
佐藤:「少年あり」という上の句で切ることで、「なんだろう?」と思わせるのが面白いですね。まずぽつんと一人の少年が見えて、そのまわりを囲むようにピカソの青色が浮かび上がってくる。
さっき「時間を流す」という言い方をしましたが、それって「カメラワーク」に近いんですよ。俳句は短い表現である分、語の配置や順番によってかなり風景が変わるので。
池田:うーん。「時間を流す」というのはやっぱり違うと思うんですよね……。「流す」というより「取り込む」というのかしら。
佐藤:でも、「少年あり」から「ピカソの青のなかに病む」と読み進めながらこの句を自分のなかに取り入れるときに、私は「時間が流れる」と思っているんですけど、どうですか?
池田:気持ちは同じなのだけど、言い方の問題だと思います。それよりも、「時空が広がる」というほうが近いんじゃない?
ー自分の目は一組だけですが、さまざまな場所に視点を置くことで、別の時空が広がるという感じですかね。
佐藤:そうですね。たとえば語順を入れ替えて、<ピカソの青のなかに病む少年あり>とすると、この句のよさは出ません。「少年あり」を冒頭に配置することで、提示する時間や空間……つまり時空が変わってきます。
池田:<いつせいに柱の燃ゆる都かな>というのは、三橋敏雄が八王子の空襲を思って書いたのだけれど、シェークスピアや平家物語の句だと考えることもできませんか?
ーどの時間や場所にもあてはめられますし、該当するあらゆる時空を同時に接続するような感覚もあると感じました。まさか17音でそれができるというのは、改めてすごいことですよね……。
池田:とある一場面を切り取った断面だったはずが、永遠の主題になることがあるんですよね。その刹那が永遠とつながると、名作になるわけです。永遠を見せるのは、なかなかできることではないけれど。
あまりにもいい人は俳句には向かないと思います。ひねくれていないと(笑)。(池田)
ーお二人自身は、どういう瞬間を俳句で切り取りたいと思っているんですか?
佐藤:私は書きたいものはそのときによって変わりますけど、自分が「あっ!」って思った空気感を捉えたいというのは一貫しているかな。いまの時代だと「エモい」って呼ばれることに近いかもしれないです。まあ、「エモい」で片付けられないことではあるんですけど。
池田:エモい?
佐藤:エモーショナルであるというか。センチメンタルとかセンチとかが近いかもしれないですね。「うっ」となって「あっ」となる感じ。あと、私の場合は、俳句を始めた中学生の頃から、目の前のものはどうしたら、これまでなかった見方ができるだろう? と考えていました。
俳句は空想ではなく、「見たままを書け」と言われる芸術形態ではありますが、かと言って、他の人と同じように見たのでは、作品になりません。だから、自分なりの見方を探したり、考えたりという訓練をしていました。
池田:たとえば桜がはらはら舞って儚くてきれいだなあと思うのは当たり前。それを意識的に捨てるんです。根性悪いですよね(笑)。すごく素直でいい人は、ものごとをそのまま見ちゃうから、あまりにもいい人は俳句には向かないと思います。ひねくれていないと(笑)。
ー(笑)。
佐藤:「インスタ映え」という言葉があるけど、何か共感してもらえるように写真を撮れるのは、おそらくいい人なのだと思います。だけどそれは私の書きたい俳句とは逆の感性。やりたいのはみんなの共感を集めるのではなく、びっくりさせること。言われるまで思ってもみなかったけど、確かにそうだ! と感じてもらえるものをつくりたいです。
She isの8月特集「刹那」のギフトには、二人が書き下ろした俳句のてぬぐいが。/<パイナップル抱いて雨のなか息をして 佐藤文香> <自ずから熟れて傷んで匂って桃 池田澄子>
池田:作品を書こうとすると、いい人のまま、止まっていられない。私がつくったなかにも、すごく根性の悪い俳句がありますよ(笑)。えっと、たくさんあるんですけど……たとえば桜でいくとこれ。
<想像のつく夜桜を見に来たわ 池田澄子>
ーひねくれていますね(笑)。
池田:そのとき私は、千鳥ヶ淵に夜桜を見に行ったのね。もう、行く前から目に浮かんでいるわけよ。そして実際、想像通りなの(笑)。見ればもちろん、「ああ、綺麗」と楽しめるのだけど、やっぱり「想像のつく夜桜」なのよ。
佐藤:(笑)。
池田:あとは<定位置に夫と茶筒と守宮かな>。まず、ヤモリって網戸みたいなところ、「ここにいるわよね」ってところにいるなと気づいて。そしたら茶筒も、あ、夫も絶対に家の定位置にいるな……と思って(笑)。よく考えてみるとやや夫に失礼なのですが、悪気はない。でもこの句も、いい人だったらきっと書かないでしょう(笑)。
自分を「主婦だから」とは思っていませんでした。(池田)
ー池田さんの句は、「新・台所俳句」とも呼ばれていますよね。<定位置に夫と茶筒と守宮かな>もそうですし、有名な<ピーマン切って中を明るくしてあげた>など、舞台が家のなかである句が多い。
池田:主婦目線とは思っていないけれど、お台所にいる時間が長くて、外の木よりも目の前のパセリのほうがよく知っているわけだから。
ー主婦として家事をしながら、俳句をつくることをやめなかったことには、反抗心のようなものはあったのですか?
たとえばここに登場するピーマンは、食べたらおいしい、きっと普通のピーマンです。でも<ピーマン切って中を明るくしてあげた>ということで、ピーマンから別の世界を見出して、自分が解放されるような感覚があったりしたのでしょうか?
池田:そういうことはないですね。家にいるから、家のものが見えるというだけ。自分を「主婦だから」とも思っていませんでした。
家のなかには、いつも使わない引き出しがあるでしょう? そのなかは、ずっと闇だったということが書きたかったんです。そういうことを、句をつくる、つくらないに関わらず、さんざん考えていたんです。それである日ピーマンを切ったら、ピーマンのなかも、闇だったって気付いたのね。その瞬間に一瞬でできた句です。
ー家にいるから家のなかのものがよく見えて、句のためではなく日々思弁していたことが、俳句をやっていたから句になった。
池田:いつもすぐできるわけじゃないですけど、こういうふうに句ができることも、自分にとっては自然なことなんです。あ、でも「主婦」って言葉を使った句もありました。
<主婦の夏氷が指にくっついて 池田澄子>
佐藤:「主婦の夏」って、主婦はなかなか言えません。自分が主婦であることを客観的に見ている。飲み物に入れようとしたのか、手に取った氷が指にひっついてしまって「あちゃっ」となったシーンが浮かんできます。
SNSの主流は思いを吐露することで、私たちはそれをやりたいわけではない。でもそこから生まれるすごい句も、たしかにある。(佐藤)
ー女性と俳句ということでいうと、短歌は女性の作者も多い印象ですが、俳句はどうなのでしょう? かつては多くの女性は家のことをしなければならない状況にあったので、経済的にも時間的にも、長い文章ではなく短詩形の創作と相性がよいという話を聞いたことはあるのですが。
佐藤:プロとアマチュアの境目が微妙な世界なので難しいのですが、結社の主宰や選者となると男性のほうが多いでしょうか。でもたとえば、カルチャーセンターなどに通っている人は明らかに女性のほうが多いです。
ーいまカルチャーセンターというお話がありましたが、SNSのようなプラットフォームと俳句の親和性って遠からずなのかなと感じたのですが、そこはどうですか?
佐藤:SNSの主流は、自分の思いを吐露することにある気がしていて、私たちはそれをやりたいわけではないけれど、そこから生まれるすごい句も、たしかにあると思いますね。
池田:俳句は全部が作品でなくても、それは作品としての評価とは別のところで、書くことでその人が元気になったり、生きやすくなるのはいいことです。それは「効能としての俳句」ですよね。
だけど本来俳句は、何かのためにつくるものではないわね。だからたとえばコーヒーの写真を撮ってSNSにアップすることを俳句でやろうと思ったら、「どこのお店でこんなコーヒーを飲みました」と伝えるのではなく、たとえば「これを飲もうとしたときにはコーヒーが冷めていた」みたいなことをいかにそうとは言わずに感じさせるか。
佐藤:そういえば私、以前はTwitterにいろいろ垂れ流していたんですが(笑)、澄子さんに「そんなに書いたらもったいない」とたしなめられました。
池田:書くと、書いたと思って満足しちゃうのよね。自分を慰めたり、共感してもらいたいなら書いてもいいけど、いつか作品にしたいなら「言いたい言いたい……」と、とっておいたほうがいいのに~! って。辛くてもせっかく辛いわけだし、辛さを煮詰めればいいのにって思ったのね。
「あ、私こういうこと書きたかったんだわ」って。そうなったときが完成です。(池田)
ーさっきのピーマンの句の誕生秘話に近いものがありますね。
池田:はじめに書いたものが、推敲してどんどん変わっていって、違う句になったときにようやく本心が出てきます。「あ、私こういうこと書きたかったんだわ」って。そうなったときが完成です。
佐藤:澄子さんと、澄子さんの師匠の三橋敏雄さんは、自分が書いたものに驚きたいという気持ちが強い作者ですよね。私もそうです。
池田:<待ち遠しき俳句は我や四季の国>という三橋敏雄の句は、まさにその姿勢が表れていて。「待ち遠しき俳句」をつくっていたら、そこで現れたのが「我」だったと。しかも「四季の国」と詠い上げながら無季俳句であるというふてぶてしさ。
佐藤:「俺が俳句だ」という句ですよね。かっこいい。
池田:そう。でもあくまでも簡単に出てきた俳句ではなく、待ち遠しい俳句が自分なんですよ。憎いよねえ。
佐藤:澄子さんの句で言うと、<未だ逢わざるわが鷹の余命かな>というのは、やっぱり心情を吐露する日記的な発想では出てこない。
だって、なかなか自分がこれから鷹を飼うことはないでしょうし、しかもその鷹がどれだけ生きるかなんて思いを馳せたりしないわけで、この人はどれだけ思いを巡らせるんだろうと(笑)。考えて考えて書くなら、こういう句が書きたいなあ。
別れがなかったら大変よねえ。死ななかったら人はどうする? きっとつまらない。(池田)
ーShe isの8月特集は「刹那」です。これまでお話をうかがって、俳句は断片を切り取りながらも、一瞬から永遠までの様々な時空を含められる表現だと知りました。
さらに、池田さんと佐藤さんは師弟関係として、文化を手渡していく間柄でもあります。最後に、二人にとっての「刹那」や「別れ」とは何でしょう?
池田:別れがなかったら大変よねえ。死ななかったら人はどうする? きっとつまらない。死ぬと知っているから、こうしてたまたまお会いしたことが嬉しいし、人を好きになるんです。永久に死ななかったらきっと何も考えない、恋愛もしないでしょう。
佐藤:死なないなら、新しく生まれてくる人もいなくていい。自分たちだけ生きていればいいですもんね。
<吸入器君が寝言に我が名あれ 佐藤文香>
この句も、死を意識したときに書いた恋の句です。
池田:面白い句ですよね。「君が寝言に」って健気で可愛い。これが恋だわ。
佐藤:受け渡すということで言うと、私は池田澄子を知らない人たちに、その人柄と作品を届けることをやっていきたいなと思っています。結社というシステムがあれば、主宰の作品は残っていくのですが、澄子さんは結社を持っていないので。澄子さんと私は一般的な師弟関係とは若干違う間柄ではありつつ。
ーあ、そうなのですか?
池田:友達よ、友達(笑)。
佐藤:俳句を見てもらっていたこともあるんですけど、最近は澄子さんに見せずに、勝手に発表しているから(笑)。でも、澄子さんの作品から刺激を受けて書いているという意味では、俳句に関わる上で一番大事な存在です。LINE友達でもあり、ご近所仲間でもありますが。先日は西瓜をいただきました(笑)。
「俳句だから見て」じゃなくて、ただただいいものとして、おすすめしたい。(佐藤)
池田:自分の句が忘れられたら嫌だとは感じないけれど、私をつくってくださった三橋敏雄の句に対しては、責任とお礼の気持ちがあります。私が覚えておきますよというのもあるけど、自分も死んじゃうわけで、世のなかから消えてしまうにはあまりにももったいないから。
三橋敏雄は「新興俳句」の俳人だったのですが、戦意高揚の句が国から推奨されるなか、反戦や厭戦を標榜したり、季語がない無季俳句をつくろうとしていた。そして「新興俳句弾圧事件」(1940~1943年)が起きたんです。
三橋敏雄はまだ若かったから捕まらなかったけど、彼が目指していた人たちは捕まって、俳句が書けない時代があった。彼自身もその後に戦争に行ったこともあり、社会の犠牲者に対しての思いを持ち続けていたの。少数派に心を寄せる人だった。
<人類憐愍令(じんるいあわれみのれい)あれ天の川>
<絶滅のかの狼を連れ歩く>
こういう句をつくっていた人です。たんなる優雅な風流韻事ではなかった。私自身も、自分の主題を述べるのは気恥ずかしいし、ちょっとダサいけど、命の確かさと儚さ、人は死ぬのだということをやっぱり書きたいのです。
父が戦争で死んでいて、それがいまでもずっと、悔しいです。家族を置いて死んでいかなきゃならないのはどんな悔しかっただろう、かわいそうだって。それがあったから書きたい人になったのだと思いますし、戦争反対という言葉ではないやり方で、人が生きること、死ぬことを書いているのだと感じます。
佐藤:音楽や映画、漫画や工芸、さまざまなジャンルのどこにでも、その人しかつくれないものをつくろうとして、実際につくっている人たちがいます。俳句では、澄子さんや三橋敏雄らの俳句がある。「俳句だから見て」じゃなくて、このジャンルの面白いものとして、おすすめしたい。「食べないと損、読まないと損だよ」みたいな気軽さで、「これだけは読んでおきなよ」と伝えたいなと思っています。こんなにいいものが、いろんな人から見えないところにあるのはもったいない。この言葉を欲している人がいたら、いつでも届くように、残していきたいですね。
0コメント