https://blog.goo.ne.jp/jotozanshinshoji/e/4debc6ad427d2dd5cf71e3bca605eb60 【宮沢賢治「永訣の朝」と法華経 1】より
宮沢賢治は、今から100年ほど前、大正時代の終わりから昭和の初めにかけて、数多くの童話や詩を書いた人です。
今でこそ、「銀河鉄道の夜」「雨ニモマケズ」「注文の多い料理店」など多くの作品が人々に愛されていますが、生前、彼の作品はほとんど知られていませんでした。
「永訣の朝」は、賢治26歳の時に、妹トシを失った悲しみを歌った詩です。女子大学を優秀な成績で卒業して、さあ、これから世のために働きたいと願っていた妹が、結核に冒され24歳の若さでこの世を去らねばなりませんでした。
賢治は妹の死を嘆き悲しみながら、人としてどう生きることが幸せかに気づき、この詩を書きました。
「永訣の朝」は、中学校や高校の教科書にも掲載され、賢治がどんな思いを込めたのか、多くの解説があり、文学的解釈があります。しかし、ほとんどの解説や解釈は、法華経を表面的にしか理解していないなあと感じます。
賢治は法華経を熱心に信仰していました。法華経の理解なしに賢治の文学をほんとうに理解することはできないと思います。
毎日法華経を読んでいる者の視点から、「永訣の朝」を読んで、気づいたことを書いてみたいと思います。
「永訣の朝」(青空文庫)
1 「あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ」
熱に苦しみ、今まさに死にいこうとしている賢治の妹トシが、最後の頼みとして、「冷たいさっぱりとした雪を取ってきてください」とあえぎあえぎ伝えます。それを聞いた賢治は大急ぎで庭に出て、きれいな雪を選んで持って帰ろうとします。
この雪はどこをえらばうにも あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ
法華経(妙法蓮華経)は、サンスクリットで「サダルマ フンダリカ スートラ」と言い、「白い蓮華のような正しい教え」という意味です。「濁った泥の中から清らかな花を咲かせる蓮のように、この濁世にあってすべての衆生を救う本当の教え」という意味です。
「永訣の朝」と同じ頃に作られた「オホーツク挽歌」という詩には、「ナモ サダルマ フンダリカ スートラ」という句が何度も繰り返されています。「ナモ」とは、南無すなわち「帰依する」「信じる」という意味。南無妙法蓮華経をサンスクリットで表現しています。
妙法蓮華経従地涌出品(じゅじゆじゅっぽん)第十五には、
世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し(不染世間法 如蓮華在水)
という句があり、日蓮宗の僧侶なら何度も何度も口にしたことのある言葉です。
「濁った泥の中から清らかな花を咲かせる蓮のように、この濁世にあってすべての衆生を救う存在でありたい。」という願いを込めてこの句を唱えます。
「あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ」という詩句は、妹に頼まれ大急ぎで外に出た賢治が、目の前の光景が「濁った泥の中から、清らかな花を咲かせる蓮のような教え」すなわち、法華経の教えそのものだと気づき、改めて感動しているのだと思います。
https://blog.goo.ne.jp/jotozanshinshoji/e/5069ee57e361e2e2f634c986bcf28351 【宮澤賢治「永訣の朝」と法華経 2】より
「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまっすぐにすすんでいくから」
ああとし子 死ぬといふいまごろになって わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまっすぐにすすんでいくから
妹に頼まれたあめゆきを取ろうと庭に出て、目の前の光景が法華経の精神そのものであることに賢治は改めて気づかされます。(第一回に書きました。)このことを妹に感謝し、自分も正しい教えに基づいて生きていこうと心を新たにします。
正しい教えとは、賢治の場合、法華経のことでした。では、法華経に基づいて生きるとは、どんな生き方なのでしょうか?
それは、自分だけでなく、人の幸せを考えて生きること、人を敬うこと、人を感謝することです。
法華経には、数多くの菩薩が登場します。菩薩は自ら道を求めて常に精進するとともに、すべての命あるものを救おうと手をさしのべます。すべての命あるものを、等しく仏になる種を持ったものとして、敬います。
妹に「あめゆじゅとてちてけんじゃ」(あめゆきを取ってきてください。)と頼まれた賢治は、
「まがったてっぽうだまのやうに」くらいみぞれのなかに飛び出していきます。
妹の頼みをなんとしてもかなえてやりたいという賢治の強い思いが「まがったてっぽうだまのように」という表現に表れています。
また、妹トシが「あめゆきを取ってきてください」と頼んだのは、「わたくしをいっしょうあかるくするため」つまり、他人を幸せにするためだと気がつき、感謝しています。
兄も妹も、法華経の教えにそった生き方をしたいとの思いが、「永訣の朝」からは感じられます。
https://blog.goo.ne.jp/jotozanshinshoji/e/cb6fe887caa63d0faf41b97836d2c79b 【宮沢賢治「永訣の朝」と法華経 3】より
「うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる」
これは、妹トシが激しい熱とあえぎの間に、ひとりごとのようにつぶやいたことばです。
「また人間に生まれてくるとしたら、今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきたい。」
トシは大学在学中に結核を発病し、入退院を繰り返します。大学の卒業はなんとか認められ、花巻女学校の教師見習いになりますが、満足に働けないまま、死んでいかねばなりません。
「自分のことばかりで苦しむのではなく、すべて人のために働きたい。」
トシの切実な願いでした。
伝教大師最澄は、「すべての人が仏になれる」法華経の教えを広めるために、日本に天台宗を伝えました。
その最澄のことばに、「 好事を他に与え、悪事を己れに向え。己を忘わすれて他を利するは慈悲の極みなり」ということばがあります。
これは、いいことは人に分け与え、悪いことは自分が引き受け、自分の幸せは忘れ、人の幸福のために尽くす、これが最高の慈悲であるということばです。
己のことは忘れ、他人に尽くす。法華経にもそんな菩薩が何人も登場します。
https://blog.goo.ne.jp/jotozanshinshoji/e/e0952562c153f8de28fa00b0ae776f01 【宮沢賢治「永訣の朝」と法華経 4】より
永訣の朝の最後は、 どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ という句で終わっています。
日蓮宗の僧侶は経を読んだ最後に、必ず次の言葉をとなえます。
「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜん 」(妙法蓮華経化城喩品第七)
「どうかこの功徳がすべての人々に広がって、わたしたちとすべての命あるものと、みんな一緒に幸せになれますように。」という願いです。
両者は共通しているところがあるように思えます。
もうひとつ。
トシは、はげしい熱にあえいでいます。賢治は冷たく透きとおったみぞれを急いで取りにゆき、トシに与えようとします。
そして「どうかこれが天上のアイスクリームになって」と祈ります。
法華経には
甘露を以て灑ぐに 熱を除いて清涼を得るが如くならん (妙法蓮華経授記品第六)
という言葉があります。
「冷たく甘くおいしい飲み物をそそぎ、熱を冷まし、清らかさと涼しさを得る。」という意味です。
特にこの言葉は、施餓鬼という行事の際にとなえます。
餓鬼道に落ちて熱や渇きに苦しんでいるいのちに飲み物や食べ物を施して供養する行事です。
賢治は、熱に苦しんでいるトシの苦しみを救いたいと思うと同時に、賢治の行為がすべてのひとの幸いにつながってほしいと願い、「永訣の朝」という詩を結んでいます。
https://blog.goo.ne.jp/jotozanshinshoji/e/93cf3e8ef9ac8cd4f19e51732a01e896 【宮沢賢治「永訣の朝」と法華経 5】より
5 どうかこれが兜率(とそつ)の天の食に変わって
「永訣の朝」の最後は、初版本では
どうかこれが天上のアイスクリームになって やがてはおまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
のように「天上のアイスクリーム」となっています。
しかし、発表後に賢治自身が手を入れた宮沢家所蔵本では、
どうかこれが兜卒(とそつ)の天の食に変って やがてはおまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
のように、「アイスクリーム」の部分が「兜卒の天の食」になっています。
「兜卒の天の食」とは、どんなものなのでしょうか?
法華経の普賢菩薩勧発品に
もし人あって(法華経を)受持し読誦し其の義趣を解せん。是の人命終せば、千仏の手を授けて、 恐怖せず悪趣に堕ちざらしめたもうことをえて、即ち兜率天上の弥勒菩薩の所に往かん。(妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八)
(もし、法華経の教えを大切に守り、声に出して読み、意味を理解しようとする人は、現世の命が終わるとき、たくさんの仏たちが手をさしのべて、悪道に堕ちて恐ろしい目に遭うことなく、すぐに兜率天の弥勒菩薩のもとに生まれ変われるだろう。)
賢治とトシは、法華経の教えを大切に守り、声に出して読み、意味を理解しようとしていました。必ず兜率天の弥勒菩薩のもとに生まれ変わることができると信じていたのでしょう。
自分が苦しみから救われるだけでなく、自分の行いによって、多くの人々が救われるようにと願っていたのでしょう。
妹の死は、個人的な出来事です。しかし、個人的な悲しみにとどまることなく、妹の死を機会に生きることの意味について再確認し、人の幸せはすべての人の幸いを願うことにあると気づかされたという点にこの「永訣の朝」の素晴らしさがあると思います。
Facebook釈尊の教えを知るための仏教講座 ·宇谷 勝幸さん 投稿記事
【法華経 分別功徳品 第十七 花が降るってどういうこと?】
「さらに、その菩薩の群衆のすべてと、それらの四衆たちに花の雨が降り、注ぎ、振り撒かれた」
(『梵漢和対照・現代語訳 法華経』植木雅俊訳より)
(1)法華経を読んでいると、ときどき、ちょっときれいな場面に出くわします。
(2)この「花の雨が降る」シーンもそのひとつです。空から白い蓮の花が舞い降りて、釈尊の上だけでなく、弟子たちの上にも降ってくる。
(3)ちょっと現実離れしてるというか、ファンタジーっぽい感じもある。
(4)でも、少し調べてみました。こういう「花が降る」っていうのは、ただ派手な演出じゃなくて、仏教でいう「功徳の印」だそうです。
つまり、釈尊の教えがちゃんと説かれて、その場にいた人たちが真剣に耳を傾けたとき、自然と調和したかたちで、なにかよいことが起きるよ、というような意味というか(中村元 仏教学大辞典)。
もっと簡単に言えば、いま、この場はとても大切な時間なんだせ!っていうのを、花が降ることで知らせてくれているわけです。
しかも、その花は、教えを説く釈尊だけじゃなく、話をちゃんと聞いている弟子たち、つまり私たちと同じように「学ぼうとしてる人たち」の上にも降ってる。
これは、「法を聞く者もまた仏に成る可能性をもつ尊い存在である。」という、根本的な法華経の考えとも言える(竹村牧男『法華経の思想』春秋社)
それって、「聞いてるあなたも、ちゃんと尊いんだよ」って言われてるようだな!って。
もちろん、実際に花が降ってくるわけじゃないけどね。
でも、こうして、みなさんと、このグループで、釈尊の教え、仏教を学ぶときも、目に見えない花が降ってるかもね、なんてね。
ときに、信じつつ、ときに、批判しつつ、学んでいきたいです。
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