貝塚の碑

https://hitorijikan-nico2.hatenablog.com/entry/osanpo/omori-kaizuka-ota-city-202405 【【お散歩】『大森貝墟の碑(大田区)』発掘者モース博士を讃える碑】より

こんばんは!都内在住アラフィフ主婦のnicoです。ひとり時間を楽しんでいます。

先週ご紹介した「品川歴史館」を訪れた数日後、都内でも古代を感じられる遺跡が多々あることを改めて認識し、気になり始めました。

そこで、品川歴史館と至近距離にあることがわかった「大森貝塚遺跡庭園」に行ってみることにしました。

最初にランチでもしようと大森貝塚周辺を探索しましたが、飲食店が少ないエリア。

やっと雰囲気のよさそうなタイ料理店『タニ・キッチン』を見つけたのですが、平日のお昼はテイクアウトのみ😅陽射しが強い日で土地勘もなく、日除けがある屋外の場所を見つけられるかわからなかったので断念。

池上通りを大森駅方面に歩きながらお店の探索を続けていました。すると、

偶然にも「国史跡大森貝塚入口」と書かれた案内を発見。私が行こうとしていた

「大森貝塚遺跡庭園」はその場所からもっと品川寄りにあるところで品川区に位置します。

こちらは大森駅に近い大田区に位置する場所にあったので、「えっ?思っていた場所と違う!」と、一瞬頭がバグりましたが、行ってみることに。

案内の矢印に従って、恐る恐るNTTデータの敷地内の通路を進みます。

↓ 水色の門を通り抜け、不安になるくらい真っすぐ、そして階段を下へ降りて行きます。

すると、日陰になったところに「モース博士と大森貝塚」と書かれた案内板が。

これが「大森貝墟の碑?」と思ったけど、念のため更に先に進んでみました。

すると、線路わきに緑に囲まれた「大森貝墟の碑」が建っていました。

途中で戻らずに最後まで進んでみてよかった…😌と思いながら池上通りまで戻ると、

さっきは素通りしていたけど石碑や案内板が並んでいることに気づきました。

先ほど見た線路わきの「大森貝墟の碑」の縮小版レプリカと共に石碑建立の理由が書かれた案内板などがありました。

石碑建立についてはモース博士の訃報を知って、ゆかりの方々が大森貝塚や博士の功績を後世に伝えるために建てたということが書かれていました。

そして、なんと石碑の裏面にも言葉が彫ってあることに気づき、どうしようか…と思ったけど、心残りにしたくなかったので、また石碑まで戻りました…😅

↓ とっても見えにくいけど、

せっかく戻って撮影したので載せておきます。

明治十年モールス先生の発見に係り門下生理学博士佐々木忠次郎故松浦作用彦両氏と共に発

掘研究せし顕著なる遺跡也 昭和五年四月建之 出典:「大森貝墟の碑」裏面

(どこで改行していいかわからなかったので、石碑と同様の改行にしています)

後で調べたところ、1877年(明治10)にモース博士によって発見された大森貝塚は大田区と品川区の2箇所に石碑があります。

モース博士が詳細な発掘場所を書かなかったことなどから、長い間、大田区説と品川説の2つが存在していました。しかし、その後の調査により発掘場所は品川区側ということがわかったそうです。

ただ、大田区側の石碑も関係者のモース博士に対する尊敬と敬愛の気持ちが込められていることが伝わってくるので、拝見できてよかったです😊


https://ameblo.jp/hituzou/entry-12733370672.html 【史跡「大森貝塚」二つの石碑の謎に迫ってみる(東京都)】より

≪縄文人のグルメな暮らしが見えてくる≫

ひつぞうです。今回のコンセプトは“誰もが知っている教科書に載った歴史スポット”。目指したのは大森貝塚です。僕らの世代において、とりわけ先史時代から弥生時代にかけて名を馳せた歴史スポットといえば、岩宿遺跡、登呂遺跡、そして大森貝塚です。ところが大人になって登呂遺跡を訪れてビックリ。遺跡とは名ばかりの寂れた公園。振り向く人もいません。なぜなのか。

考えてみれば簡単です。新たな発見により、歴史は日々塗り替えられるからです。新しい“スター”の誕生のたびに、かつての“大発見”は埃を被ってしまう。まるで人気商売のようですね。果たして大森貝塚はどうなっているのか。その往訪記です。

★ ★ ★

ランチを終えて、品川から大森に移動した。通勤の車窓から無感動に眺めるいつもの景色がそこにある。このどこに“偉大なる発見”の現場があるのか、見当すらつかなかった。初めて降りたつ大森界隈は、品川と僅かに離れただけなのに、庶民的な佇まいの街だった。JRの線路と並行する池上通りを北に200㍍ほど歩く。やがて石碑が見えてきた。

「これなのち?」サル レプリカかな。すぐ先にはNTTデータビルがあり、脇に《史跡大森貝塚》と小さく記されたゲートが設えてあった。なになに?開錠9時から17時まで?

「NTTビルの敷地だからじゃね?」サル 玉砂利の敷き詰められた小路を進むと…あった。

しかも思い切り線路わき。

考えてみれば動物学者エドワード・S・モースが1877年(明治10年)に大森貝塚を発見したのは、鉄道工事中の斜面だったというから当然といえば当然。しかし、ほぼ毎週眺めているのにまったく気づかなかった。

「そのあたりが偉大な学者と野良ヒツジの違いだにゃ」サル

さて。タイトルに掲げた“二つの石碑”の話である。

ここ大田区山王の石碑はモースの弟子、佐々木忠次郎博士が中心になって、1930年(昭和5年)に建てた《大森貝墟》の碑である。ところがその1年前。300㍍ほど東京寄りに《大森貝塚》の碑が大阪毎日新聞社長・本山彦一の尽力でひと足先に建立されていた。モースの調査から40年経過した時点で既に調査ポイントが誰にも判らなくなっていたのだ。

もうひとつの石碑があるという大森貝塚遺跡庭園に向かうことにした。“庭園”とは云うものの、ごく普通の児童公園である。五十過ぎのおっさんがカメラ片手にウキウキ顔で訪れる場所ではなかった。「浮いてるよ。マジで」サル

貝塚をイメージしたのだろうか。気持ちの悪いオブジェが周囲を取り巻いている。そこに立派な頭のモース博士のブロンズ像が待っていた。見学可能な貝塚の露頭が数箇所あるように案内には記されているが、ほとんどが埋め戻されて一箇所だけ公開されていた。

「ふむふむ。いいもの食っているにゃ」サル

ところが実際はこの有り様。長い歳月、歴代の悪童たちが掘り尽くしたのに違いない。まあ、責める訳にはいかない。僕も子供の頃、近くの遺跡発掘現場に忍び込んでは勝手に土器の破片をほじっていたから。「軽く犯罪入ってるにゃ」サル

五十年も昔のことだし、時効でしょ。「良心は疼かないのち?」サル塩を塗りこむね…。

まあいい。精巧な出土史料は品川歴史館で観ることができるし。

これがその問題の石碑。こうして二箇所の石碑が時を措かずして建てられたものだから、最初の発見がどこだったのか混乱に陥ったそうだ。同じ村の中だったら、そこまで面倒にならなかったのだろう。村境を挟んでの議論は、大井村(現品川)と新井宿村(現大森)の名誉争奪戦の様相を呈したのに違いない。結局はその後の調査で大井村のそれが最初の調査場所という見解に収まった。モース博士が大森停車場から現地まで通ったことで《大森貝塚》の名称が定着し、後日誤解が生じたのだろうと言われている。

ということで、石碑の背景は判ったが、肝心の貝塚を見なければ話しが終わらない。更に400㍍東京寄りに歩く。

品川区立品川歴史館に着いた。立派過ぎる。やはり東京にはカネがあるのだ。

品川が貝塚と東海道一番宿の街であることを物語っていた。

早速お出迎え。貝類の他に獣骨や土器の破片も混在している。三内丸山遺跡でもそうだった。

これが当時の地形図と《大森貝墟碑》(下)と《大森貝塚庭園》(上)の位置関係。間に黄色い村境があるのが判るね。「台地の上だったんだにゃ」サル

そこがかつての海岸線だったから貝も魚も採れたんでしょうな。品川宿の様子も精巧に再現されている。(なんとなく不気味)

そもそもモース博士の来日の目的は腕足類の研究だった。「なに?うであし類って」サル

ワンソク類だよ。三味線貝(シャミセンガイ)が現生生物の代表で日本に多く棲息したんだ。

「貝なのち?」サル

確かに二枚貝に似ているけれど、全く独立した古いタイプの生物なんだよ。江の島に臨海実験所を設けて採集活動したことも有名な話。モース博士は進化論を最初に日本に紹介したことでも知られる。

貝塚発見と調査の結果は《Shell Mounds of Omori》と題して『東京大学理学部紀要』(1879年)に収められた。これが日本の考古学研究の基礎になったんだ。

そこ(貝塚発見)までだったら、御雇外国人博士のひとりで終わっていたかもしれない。

第一回(1877年):日光

第二回(1878年):北海道

第三回(1879年):瀬戸内・九州

第四回(1882年):京都

モースは日本の風土と暮らしに強く惹かれるようになり、全国を都合四回に分けて旅した。そして正確なスケッチをたくさん残した。いずれこれらの仕事も日本の民俗学へと結実していく。こよなく日本を愛し、日本の学問向上に助力を惜しまなかったモース博士。他の歴史スポットと同じく、思い切り“過去の大スター”に成りさがっていたが、モースを駆り立てた日本への情熱と功績を知ることができたのは大きな収穫だった。

品川歴史館の前身は実業家・安田善助の邸宅。戦後は電通社長の吉田秀雄記念館として利用されてきた。裏には庭園が開放されていた。もう桜の蕾が綻びかけているかもしれない。

=後記=

※昭和40~50年代にかけて、保護のために立入り制限したことが、逆に貝塚の荒廃を招いたと解説にありました。憂慮した地元有志の尽力で保存が進み、1984年(昭和59年)に新たな発掘調査が行われて、石鏃や貝製装飾品などが発見されました。その成果は歴史館で見学できます。

=おまけ=

(左より玄乃智(7号)・穂乃智(金沢)・恵乃智(蔵付)。酵母だけで全く味が違う)

横浜駅の傍で、鈴鹿の銘酒《作》三点唎酒セットが1200円(税別)で飲める。味を確かめる程度で満足し、この日は家路についた。

「美味かった!」サル


https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/kaizuka/kaizuka.html 【大森貝塚】より

モース博士が発掘した大森貝塚は品川歴史館から徒歩5分の場所にあります。現在、大森貝塚遺跡庭園(品川区大井6-21-6)として整備されています。貝塚とは大昔のゴミ捨て場で、貝以外にも動物の骨・土器・石器など様々なものが見つかっています。

モース博士と大森貝塚の発見

エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838~1925)は、アメリカ人の動物学者で貝の研究をしていました。1877年(明治10)に腕足類の研究のため来日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見しました。これが大森貝塚です

大森貝塚遺跡庭園のモース博士像

大森貝塚の発掘

モース博士による発掘は1877(明治10)年9月から12月に行われました。1879年(明治12)には日本初の発掘報告書である“Shell Mounds of Omori”を出版しました。この発掘は日本初の学術的発掘であり、このことから大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれています。

その後、1984年と1993年の大森貝塚遺跡庭園整備などの発掘調査が行われ、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量に見つかりました。1984年、1993年の発掘資料のいくつかは、品川歴史館に展示しています。

大森貝塚発掘風景(1877年)

“Shell Mounds of Omori”より

大森貝塚碑

土製耳飾り1986年(昭和61)発掘直径3.8センチメートル

ニホンジカの角製釣針1993年(平成5)発掘軸長118.6ミリメートル

大森貝塚遺跡庭園

庭園内には1929年(昭和4)に立てられた「大森貝塚碑」や、モースの銅像や貝層の標本など、縄文時代・大森貝塚について学習できるようになっています。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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