エーテル・直霊

https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=1432 【シュタイナー教育で有名なルドルフ・シュタイナーの思想と転生モデル】より

医学の発達により人間は中々「死ねない」存在になった。そうした中でデス・エデュケーション(死の教育)の必要性が注目されている。しかし我々は当然死んだことはない。そこで太古より宗教者は、他界モデル、転生モデル、宇宙との一体化モデルなど様々な死後モデルを提供した。ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925)の転生モデルは死はすべての終わりでないとするのみではなく、過去から現在を経て未来までも包括した魂の進化論を説いている。

シュタイナー教育で有名なルドルフ・シュタイナーの思想と転生モデル

シュタイナー教育とは真逆な評価を受けがちなシュタイナーの思想

ルドルフ・シュタイナーはドイツの神秘思想家であるが、一般的には独創的な教育理論「シュタイナー教育」の創始者の名で知られている。その神秘思想=人智学(anthropos アントローポス)を背景として構築されたシュタイナー教育を指導するシュタイナー学校は世界に普及しており、賛否はあるが教育界で知らない者はいない。しかしシュタイナー学校では神秘思想そのものを教えることはない。その教育は絶賛され、その思想は嫌われると言われるのは、あまりにオカルト的で荒唐無稽に思われるからである。

シュタイナー思想とは

シュタイナーによると人間は体・魂・霊の3要素によって構成されている。この3分説自体は珍しいものではないが、シュタイナーは各要素がさらに3段階のレベルがあると説いており、本稿では最も基本となる体の構成に絞る。

人間の体は物質体の上に、エーテル体・アストラル体・自我の順に重なった重層的な構造になっている。このうちエーテル体とは生命体である。鉱物のような無機物と有機物を分けるものがこれである。生命活動は行うが意思や感情を持たない植物はエーテル体のみを有する。アストラル体は意識体、感情体と呼んでよい。植物には無く、動物と人間が有している。そして自我はいわゆる理性、知性、認識などの諸要素を含み、人間のみが有する(便宜上こう書くが、シュタイナーにおける自我の概念は複雑で、それのみで一冊の本が書けるほどである)。人間存在の構成を鉱物・植物・動物的性質に分類したシュタイナーだが、彼はこれを哲学的概念でも生理学や生物学でもなく実体として捉えている。シュタイナーの転生モデルはこの構成が基本となる。

シュタイナーの転生モデルのキーワード 死後と再生

シュタイナーによると、人間は死後、肉体からエーテル体・アストラル体・自我が離脱する。やがてエーテル体、アストラル体が崩壊し、自我だけが残るという。自我は再びアストラル体、エーテル体を纏い、肉体に受肉する。この際、自我は前世で犯してしまった発達を妨げるような行為(他人を傷つけるなど)を反省し、来世における課題になるという。来世でその課題を解決することで、自我はよりレベルが上になり、また死を迎える。この円環が繰り返され、自我は進化していく。この転生モデルにおいては我々は気が遠くなるほどの過去から、現在に至り、神のみぞ知る未来へと歩いていることになる。

自分が生まれる前に世界があったこと、歴史が存在したことを不思議だと思ったことはないだろうか?宇宙の歴史を考えれば我々の寿命など一瞬であり、何の意味があるのかと考えたこともあるはずだ。精々7、80年生きて死の恐怖に怯えることに空しさを感じることもある。シュタイナーの転生モデルでは我々はいつの時代にも存在したし、これからも存在する。今生の生も死も悠久のサイクルの一環である。死に怯える必要はない。死はより進化して次のステージへ向かうための通過点に過ぎないのである。

仏教における輪廻転生は苦しみの円環である。天界ですら永遠ではいられず、最期には地獄の何万倍の苦しみの末、輪廻に放り出されてしまう。だから仏陀はこの円環からの解脱を説いた。これに対してシュタイナーは死後の転生を生前の発達と同じ次元で捉えている。仏教の輪廻は文字通りの円であるなら、シュタイナーの説く転生は螺旋状に上昇していくイメージである。

シュタイナーの思想や転生モデルはオカルトか科学か

シュタイナー研究者・西平直が言うように「あなたはそのような話を本当に信じているのか」と問われれば、そのまま信じることは中々に難しいだろう。しかしシュタイナーは極めて論理的な人物で、自らの思想は思考による科学であると断じている。

人間モデルや転生モデルはシュタイナーの「超感覚」で幻視したものを、論理的に基礎付けたものなのである。その立場から彼はオカルト関連にありがちな、安易な神秘体験や「悟り」の体験などに対して自重するよう呼びかけている。また同時代に盛んだった交霊やエクトプラズムなどの心霊現象にも否定的であった。あくまで理性、思考の重んじるシュタイナーは、そのような自分を見失うような現象に身を置いてはいけないと説く。だからシュタイナーは自分の思想の入門書として「自由の哲学」を推奨している。

「自由の哲学」は純粋な認識論を展開する哲学書でオカルト的要素はまったくない。これまでのエーテル体やら転生やらを期待して読めば、第1章で挫折することは間違いない。しかしこれを読み通すことでシュタイナー思想を冷静に理論的に検討する下地ができる。超感覚的世界を論理的にまとめたものがシュタイナー思想といえる。

生死の意味を知る

シュタイナーが説く転生モデルでは、人間は死んで終わりどころの話ではない。死後も生と死を繰り返し、より高みに昇り続ける。そもそもが今生の我々も太古からの輪廻の末に生まれてきた結果である。現在の我々の喜怒哀楽は、昔からそしてこれからもずっと続いていく壮大な物語に挿してある栞のようなものだ。転生が進化の過程であるなら、自分の死は恐れるものでなく、他者の死は悲しむものではない。突然死や夭折など理不尽とも思える最期にも、何らかの課題としての意味があると向き合うこともできる。もちろんそんな簡単に納得がいくわけはない。シュタイナーは著書を読む行為自体が「行」になると述べている。秋の夜長にめくってみるのもいいだろう。

シュタイナーには膨大な著書が存在するが、特に4大著書と呼ばれる「自由の哲学」「神智学」「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」「神秘学概論」は必読。私見ではこの順で読むことを薦めたいが難解である。西平直「シュタイナー入門」で概要を掴むのも良い。

参考資料

■ルドルフ・シュタイナー著/高橋巖訳「自由の哲学」ちくま学芸文庫(2002)

■ルドルフ・シュタイナー著/高橋巖訳「神智学」ちくま学芸文庫(2000)

■ルドルフ・シュタイナー著/高橋巖訳「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」ちくま学芸文庫(2001)

■ルドルフ・シュタイナー著/高橋巖訳「神秘学概論」ちくま学芸文庫(1998)

■高橋巌「現代の神秘学」角川選書(1989)

■西平直「シュタイナー入門」講談社現代新書(1996)

■西平直「魂のライフサイクル」東京大学出版会(1997)


https://note.com/okame_miyazaki/n/nbeffc437667c 【「大和魂」を説明できる?】より

                                   おかめ

ちょっと唐突なタイトルになってしまいましたが、この「大和魂」という言葉、おそらく日本に住むほとんどの方が、一度は耳にしたことがあるかと思います。

その語感から、なんとなく勇ましいようなイメージはあるけれど、具体的に何かと聞かれると、、、実際よく分からないし、正直そんなこと考えたこともないよ! という方がほとんどかと思います。例にもれず、私もそうでした。

以前書いた、宮崎市の平和の塔について、もう一つ、どうしても記事にしたいと思っていたことがありました。それが、この「大和魂」についてです。

平和台公園にある平和の塔には、それを囲んで、高さ4.5mの信楽焼の4体の像(四魂像)が置かれています。

漁人の姿をした奇魂(くしみたま)像、 武人の姿をした荒魂(あらみたま)像、

商工人の姿をした和魂(にぎみたま)像、そして、農耕人の姿をした幸魂(さちみたま)像。

平和の塔を中心に、4体の御魂像がある。実はこれが、「大和魂」を表しているようなのです。・・・???ですよね^^;

ちょいと説明させてください<(_ _)>

「大和魂」と聞くと、何か一つの考え方のようなものがあるのかな?と思ってしまうのですが、考え方というよりは、一つの"しくみ"と表現した方が、近いかもしれません。

しくみ・・・ますます ? ですね。「親子」で例えてみたいと思います。

1人のお母さん(もしくはお父さん)の周りに、個性の違う4人の子ども達がいるとします。

お母さんは、それぞれの子どもの個性を認めつつ、伸ばしつつ、各々の力を発揮できるような環境を、日々整えています。

でももし、子ども達の元気があり余って、危険なことになりそうになったら、それを止めようとします。

この例えでお母さんとしたのは、「大和魂」の直霊(なおい)と言われるもので、この世のすべての神様の根源から与えられた、分け御霊(わけみたま)なのだそうです。

そして子ども達は、平和の塔の四魂像が表す、四つの魂。

それぞれにこんな個性があります。

奇魂(くしみたま):観察や分析、統合といった知力

荒魂(あらみたま):前に進み、切り開いていく力

和魂(にぎみたま):平和、調和を望み親しみ交わる力

幸魂(さちみたま):思いやりや相互理解を望み、愛し育てる力

どれも素晴らしいですね。

しかし、もしその個性が行き過ぎてしまったとしたら。こんなことが起きそうです。

奇魂が行き過ぎたら、、、数字やデータのみを重要視し、人の心を顧みない判断、行動をする。

荒魂が行き過ぎたら、、、勝ち負けにばかりにこだわり、物事の本質が見えなくなる。

和魂が行き過ぎたら、、、人の意見ばかり優先して、自分の意見を言えなくなる。

幸魂が行き過ぎたら、、、愛する気持ちが一人よがりになり執着に変わる。

そこで、この四つの魂を、一つ高い視点に立って調整するのが、お母さんのような役割を持つ、直霊(なおい)というわけです。

なのでもし、この直霊に問題がおきてしまうと大変で、直霊(なおい)が、曲霊(まがい)になってしまいます。

「まがう」という言葉は、区別がつかない、間違う、といった意味で使いますよね。

ちなみに、私が子ども時代にはまだ言われていた、「お天道様がみてるよ」といった呼びかけ(今も言われていますかね?)は、

もともと、直霊、つまり客観的に自分を省みる力を、育てる為の教育だったのだそうです。

ちょっと遠回りの説明となりましたが、大和魂が持つこのしくみのことを、「一霊四魂」と言います。

平和の塔は、塔を直霊として、その周りに四魂を象徴した像を置くことで、大和魂を表していると言えるのです。

一人ひとりの中にある一霊四魂を、直霊を中心として正しく機能させることが、「大和魂」なのですね。

10年ほど前、数か月を海外で過ごしたのですが、それは私にとって、「日本人である自分」に向き合わされた時間でした。

当時私は、日本の文化も、歴史もほとんど知らず(自分が知らないということも、知らなかった…)、知っていたのは自分の身の回りにあった狭い世界のことだけ。

日本について質問されても、うまく答えられない。その苦い経験から、日本について「知っていること」が、とても重要なことのように考えていました。

帰国してからは、日本に関する本を読んでみたりと、知識的なことは以前より意識するようにはなったものの、何かもっと深いところで、大切なことがあるんじゃないだろうかと、漠然と感じるようになりました。

そんな中で、大和魂の本来の意味を知ったとき、やっと、自分が在りたかった日本人の姿を見つけたように思います。

大和魂は、知っていたり理解しているだけでは機能しない、実践して初めて活きるもの。

これは私の勝手な想像ですが、きっとそういった在り方が、過去に、日本人独特のバランス感覚として世界でも評価されていたのではないかな〜と感じています。

知っていてもできないということは、本当にたくさんあります。三日坊主ということわざもあるくらいですから^^;

でも難しい分、価値があるのではないでしょうか。

良くも悪くも、これからどのような世界になっていくか、本当に分からない世の中になりました。

でも、自分の在り方だけは、どこにいても、どんな状況の中でも、自分で決めることができます。

そして、どのような世界になるかは、結局は一人ひとりの在り方によって、形作られるものだと思います。

在りたい自分でいることが、在りたい世界につながると信じています。

追伸:今回はたまたま大和魂を記事にして、私個人としては、それを日々実践していきたいなと思っていますが、日本人の方であっても、何か違うな〜と思う方もいらっしゃるでしょうし、逆に外国の方で共感される方もいらっしゃるかもしれません。あくまで私個人の経験からくる価値観で書いていますので、日本人ならこう、という気持ちは全くなく、それぞれが、それぞれの在りたい姿で居られることが一番だなと思っています。豆知識的に捉えて頂けましたら幸いです^ - ^

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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