死の受容

Facebook藤井 隆英さん投稿記事

【できるわけがない死の受容を学ぶ意義】-死を目の前にしてできることとは-

「私の研究なんてなんの価値もない、死の受容などできるわけがない。私の言ったことなど信じるに値しない。捨ててしまいなさい。死はあなたのものだ」

死の受容のプロセス5段階が書かれていることで有名な本『死ぬ瞬間』の著者キューブラー・ロスは晩年に自分の死を前にしてこのように言ったそうです。

自分が自分でなくなるという死を目の前にして、受容することなどできるわけがありません。

誰しも死を抗うことはできないが、死側からすると生きていること自体が抗っていることに他ならない。

抗っている状態の存在が受容することは、服従することでしかありません。

それは思考を私でなく、支配側に明け渡してしまうことなのです。

死を目の前にしてできることは、死を問い続けることだけです。

死への物語を知り、問いの題材を増やすため、私たちは死のことをもっと学ぶ必要があります。

しかし間違ってはいけないのは、物語として示された死をうのみにし、受容したと錯覚すること。

それは時に個人にとっての安心を呼ぶが、わたしで生きていることでない上に、物語強要の連鎖を起こし、錯覚した服従のまま死に向かうこととなる。

絶対的な死を目の前にして、わたしは何ができるのだろうか。


https://weekly-haiku.blogspot.com/2017/12/20177-9.html 【【2017年週俳のオススメ記事 7-9月】選と弔い】より                  福田若之

与えられた枠は、これからここに書かれるものにふさわしいものではないだろうということを、まずははっきりさせておかなくてはならない。この記事は、実のところ、いわゆる「オススメ記事」の紹介にはなりそうもない。

今年は、読者たちのための、あるいは、著者たちのための、卒のない、万遍ない回顧なんてしてやらない、と決めた。ここにこれから僕の書くものを読んでも、7月から9月のあいだに起こった出来事については、ほとんど何もわからないだろう。

だって、金原まさ子は6月27日には亡くなってしまっていたというのだから。

7月から9月の『週刊俳句』の目次を眺めていて、ああ、そうだった、と思った。7月30日更新の第536号から、月をまたいで翌週の第537号にかけて、金原まさ子の追悼特集が組まれている。

第536号の小久保佳世子による追悼文は、「金原まさ子に死は似合わない」と題されていた。死の似合わないひとだったからだろうか。僕は、『週刊俳句』のバックナンバーを眺めるまで、金原まさ子が亡くなってしまったことを、忘れていた。

僕は、「金原まさ子百歳からのブログ」の熱心な読者ではなかった。だから、ほぼ毎日1句を更新していたというそのブログの更新が途絶えたとしても、それが僕の生活のリズムやそのほかに影響をおよぼすというようなことは、なかったのだ。

それでも、長いあいだ、うちには金原まさ子の第4句集である『カルナヴァル』(草思社、2013年)が2冊あった。西原天気邸でおこなわれたこの句集の発送作業を手伝ったときに、1冊をいただき、その後、しばらくしてから、なぜかもう1冊が郵便で届いたのだった。

そのうちの1冊を、ようやく、読みたいというひとに譲ることができたのも、たしか今年のことだったように思う。けれど、それはほんとうに今年だったのだろうか。僕にはそれさえ、もう、ぼんやりとしはじめている。

いずれにせよ、そうした具合だから、ついなんとなく金原まさ子はまだ生きているというような気がしてしまっていたことも、無理のないことと言ってしまえば、そうなのかもしれない。

そして、そんな僕には、きっと、金原まさ子を追悼するということについて、何かを語る資格はないのだろう。けれど、だからといって、年末の回顧記事でこの7月から9月までを任された僕には、もはや、それを語らずにすませてしまうなどという資格は、なおさらないだろう。そして、そんな僕だからなのだろうか。『週刊俳句』の特集に寄せられた追悼文の数々に、僕は、ほんとうの意味で共感することが、まだできないでいる。

ひとつ、ただちに書き添えておく必要がある。それらはもちろん、それぞれに気持ちのこもった追悼文には違いないのだ。すなわち、「分かりました。ヒミツは守りますから」と書く小久保佳世子の身ぶりだけでなく、「「一度でいいからインターネットで自分の名前を見たい」」と題された第537号に掲載の追悼文に「金原さんが美しいと思われる男性についてうかがっていて、あのとき、金原さんは、山中伸弥教授のルックスを絶賛されていたのだけれど、その部分は原稿から削除されてしまった」という秘密を書いてしまわずにはいられない上田信治の身ぶりもまた、そうした気持ちの表れには違いないのである。

しかし、金原まさ子という書き手が、ほどほどにあたたかく、ほどほどに淡々としたこれらの文章によって見送られてしまうということに、なぜだろう、僕は、なにかやりきれないものを感じずにはいられない。

この感情はたぶん僕の身勝手なのだろう。それでも、どうしても。

第536号に「金原まさ子・週俳アーカイブ」がまとめられている。アーカイブ化とは、記憶の保存であり、だが、それゆえに、忘却の過程でもある。僕たちは、さまざまのことを、覚えるようにして忘れてゆく。喪というのは、簡単にいえばそういうことだ。僕たちは忘れない、ゆえに、僕たちは忘れる。

僕たち、などと書くことの身勝手を、やはり許してほしい。喪について、僕が、僕自身を含めることなしに書くことができることなんて、何ひとつとしてないだろう。

僕は、いま、この場所から、第537号に掲載された金原まさ子「『カルナヴァル』以降250句」を読み返そうと思う。すべての句を取り上げるわけには、やはりいかないけれど。その選は、同号に追悼文を寄せてもいる上田信治によるものだ。

金原まさ子を追悼するために、上田信治が読み返し、書き写している。追悼文でも句集から7句を拾い、「これらの句を自分は記憶し、語り継ぎたいと思っています」と書いている上田信治が、ですがそれだけではまだ足りないのです、と言わんばかりに。

僕の知るかぎり、上田信治という選者は、「好き嫌い」を越えた「いい悪い」があるとする立場から、それを自らの選の基準に据えようとしているひとだ。たとえば、『クプラス』創刊号(2014年3月)の座談会、「「いい俳句」を馬鹿まじめに考える」では、関悦史が「つまり俳人は「いい」についてはおおかた共通の認識があって、意見が分かれるのは「嫌い」で受け入れられない部分によるのではないか」と問いかけたのに対し、「さっき関さんが、一致しないのは「好き嫌い」の「嫌い」の部分じゃないか、という話をされました。でもそんな「好き嫌い」、はじめに抑圧しておいてくださいよ、とも思うんですよ」と返している(43-45頁)。個人的な事情は極力抜きにして、ドライに、クールに。それが、上田信治の普段の選の手さばきであるはずだ。

けれど、彼がたとえば次に示す句を選んだとき、その選は、ほんとうに上田信治個人の救いに関わっていなかっただろうか。

共に死のうと赤貝と菜の花と

いましぬとむこうもふゆかサムゲタン

あさってからわたしは二階の折鶴よ

小鳥死んだら春夕焼と入れかわれ

霊界行バス白い椿で満席よ

死にたてよ八重桜きて包みこむ

もちろん、選者としての上田信治が、たとえば、金原さんはいまごろ白い椿で満席の霊界行バスに乗っている頃だろう、などといった想像に身をまかせ、それによって救われるためにこれらの句を採ったなどとは僕も思わない。そういうことではなく、むしろ、金原まさ子が、その生前に、こうしたユーモアによって死を笑い飛ばしていたということに、上田信治の救いがあったのではないか。

「赤貝と菜の花と」の句が示唆するように、そして、「折鶴」の句や「小鳥」の句に明示されているように、金原まさ子にとって、死とは、何かその本性からして今とは別のものになることだった。それは消失ではなく、変身だった。だからおそらく、金原まさ子は、グレゴール・ザムザの虫への変身を彼の死と受け止めることで整理しようとする彼の家族に同意しただろう。ただし、その場合、虫はもちろん虫としての死によってもまた別の何かになるのでなければならない。それは「小鳥」が「春夕焼」と入れかわるようにして、なされるのでなければならない。

つまり、死とはまた転生でもあるのだ。第537号に掲載された柴田千晶による追悼文、「四度目の」に倣って、金原まさ子の「辞世の句」を記しておこう。上田信治の選には入っていないが、それは《転生三度目の脂百合ですよ》という句で、添えられた文章には「わたしは「やにゆり」」という一節も見える(「「金原まさ子さん 辞世の句。」」、『金原まさ子百歳からのブログ』、2017年7月5日更新)。

また、金原まさ子にとって、死は瞬間の出来事ではない。「八重桜」の句を見てみよう。死を通じての変身は、あたかも、羽化したばかりの昆虫が、すぐには飛びたつことなしに、そのやわらかい皮膚をそれ自身にとってふさわしいものにしていくのと同じように、その死後においてゆるやかに進む。《空蝉をゆさぶっている笑いかな》と詠嘆されるこの激しい「笑い」は、だからきっと、死を笑い飛ばすのと同様のユーモアに起因している。「死にたて」の状態はまだ途中経過に過ぎないのであって、たとえば「八重桜」に包まれることによって、ついに別の何かになるのだ。だから、「死にたて」とは、要するに、《永き日のまだ魚でなく鳥でなく》といった状態のことだろう。

さらに言えば、《雪の夜の痴れ虫となり徘徊す》、《絨毯にくるんで私が捨ててある》、《風のいちじく見にゆく途中すこし変》、《ハミングの男がふたり鹿になる途中》あるいは《血圧ゼロうすいむらさきクロッカス》といった句を読んでいると、書き手としての金原まさ子にとって、こうした意味での〈死〉――とまでは言わないとしても、〈臨死〉――は、日常茶飯事だったという気さえしてくる。

かつて、僕と生駒大祐は、古脇語というひとつの名のもとに身を隠して、あるアンケートの回答に次のとおり書いた。

金原まさ子が描き出しているのは、われわれ(それは金原まさ子本人も含む)にも知覚可能な、しかし、われわれの存在不可能な世界である。その中にあってわれわれに向かって情報を発信しているのは、言ってみれば、その世界における金原まさ子のアバターなのだ。彼女のアバターはその世界で、現実の物体の姿をした別のアバターたち(だが、それを操っているのは現実の人間ではない)との交流を繰り返す。故に、彼女の俳句はまぎれもなく前衛的でありながら、ほとんど思想的意味を持たない。

(「新調の原動者は誰か」、『クプラス』第2号、60頁)

いかにも古脇語が書きそうなことだ。思い返せば、古脇語という「アバター」を僕たちふたりで一度殺してみることにしたのも今年のことだったのだけれど、そのことはここでは脇に置いておくことにしよう。いま考えたいのは次のことだ。すなわち、引用した一節において、「アバター」を通じての「知覚可能な、しかし、われわれの存在不可能な世界」への主体の「発信」や「交流」として描きだされている出来事は、要するに、日常茶飯事としての〈死〉ないし〈臨死〉だったのではないだろうか、ということだ。

ただし、ここでは、金原まさ子のこのたびの死が、実際にそのようなものだったかどうかが問題なのではない。実際、単純にして絶対的な「消失」と本性的な次元での「変身」とを、外的に区別する手立てはない(もし虫がほんとうに《ほんとは人ではりがね虫ではないのです》などと語りだすとしたら話は別だが)。そして、まさしくこの手立てのなさこそが、カフカの『変身』においては、グレゴールの家族の決断を可能にしていたのである。

だから、重要なことは、むしろ、上田信治が、金原まさ子の句を選ぶことを通じて、彼女が死をそうしたものとして捉えていたということを再確認し、思い出したに違いないというそのことなのだ。このことは、上田信治のように金原まさ子の句に親しんできた選者にとっては、あくまでも「再確認」にすぎず、決して目新しい「発見」ではありえないだろう。けれど、そこに上田信治の救いがやはりあったのだと、そう僕は考えてみたいのだ。

それにしても、この僕の欲求はどこから来るのだろう。いや、それは僕にとっては問うまでもなくはっきりしている。要するに、上田信治が金原まさ子の句を読むことによって救われたとみなすことによって、つまり、そのように上田信治を読むことによって、僕もまた、きっと、かろうじて、いくらかは救われたいと思ってしまったのだ。

しかしながら、この思いの由来はやはり僕にやりきれなさを感じさせるのと同じ僕自身の身勝手に違いないのであって、だからこの文章は、金原まさ子の死に対して年忘れの機会を与えられるによってしか向き合えない僕の、どこまでも身勝手な、僕自身のやりきれなさに対する弔いでしかないのだろう。

だから、僕にできるせめてものことは、今後も、金原まさ子に対して身勝手な読み手として振る舞いつづけることでしかないだろう。普段は彼女のことをのうのうと忘れておきながら、ほんのたまに、ふいに、それまで忘れていたことさえ忘れたかのようにして、都合よく思い出してみせたりする、そんな読み手として、僕は振る舞い続けるしかないだろう。

金原まさ子の名を見ると、僕は、あの発送作業を手伝った午後に、西原天気が何か僕の知らないミニマル・ミュージックを流したことを思い出す。僕は、そもそも、ミニマル・ミュージックなんてよく知らないのだけれど、そして、そのとき流れた旋律のひとつとして僕はもう思い出すことはできないけれど、とにかくそれは、たしかに何らかのミニマル・ミュージックで、それが発送作業をする僕たちの動きに、ひとつのリズムを与えていたということだけは、はっきりと思い出せるのだった。僕はそんなふうにして金原まさ子の名を読む、まったく身勝手な読者にほかならない。

そして、そんな身勝手な読者である僕は、たとえば、上田信治が250句を選ぼうとして、どうやら厳密に数えることができなかったらしい、ということに救いを求めたりさえしてしまうのだ。

実は、掲載されている句は延べ数で257句ある。そして、僕の数えまちがいでなければ、そのうち、紙媒体で公表された作品とブログに掲載された句との完全な重複は5組(《ウェットティッシュ百箱うかぶ春の海》、《絨毯にくるんで私が捨ててある》、《人のかたちに砂掘っている月夜の子》、《あさってからわたしは二階の折鶴よ》そして《見えるので葱のむこうを視てしまう》)、表記のみ違う句が1組(《星踏んだらし土踏まずの青痣》と《星踏んだらし土ふまずの青痣》のぶれ)で、これらをすべて重複とみなして差し引いたとしても、251句あることになる。もしかすると、上田信治は《藤がじぶんを白い足だと思いこむ》と《藤はじぶんを白い足だと思いこむ》を同じ句とみなしたのかもしれないが、この助詞の違いを違いとみなさずに、たとえば、《山羊の脳入りカリースープをイエズスと》と《山羊の脳入りカリーゴートをイエズスと》の名詞の違いを違いとみなしているのだとすれば、それは、仮に一見正当な基準によることに思えたとしても、おそらく、厳密には正当なことではないはずだ。

上田信治の選のドライさやクールさが、金原まさ子の死を前にして、この数えまちがいにおいてほんのすこしだけほころびをみせているような気がするとき、僕は、やはり、かろうじて、彼の選に救われる気がしてしまうのだった。こんなことを書かれるのは、選者としての上田信治にとって、もしかしたら、くやしいことなのかもしれないのだけれど。


https://weekly-haiku.blogspot.com/2015/07/6_19.html 【【週俳6月の俳句を読む】

受容】より                          猫髭

末期長くあれかし新茶啜りをり  利普苑るな

わたくしのようなその日暮らしの老人は、今日の苦労だけで手一杯なので、明日は明日の風が吹くで済ませているから、「末期長くあれかし」と切り出されると、十四五センチほど後ずさってしまうが、「新茶啜りをり」と、それはさておき、落ち着くためにはお茶を一服、といった、まるで吊橋のど真ん中で悠然と野点をはじめたようなほっこり感の「新茶」を出されると、ではお相伴にお預かりいたしますと少し安堵する。「ふだん着でふだんの心桃の花 細見綾子」という、末期の目も普段の目と変わらないという受容の目をこの作者は持っているのではないかと思わせる一句である。

『死ぬ瞬間(On Death and Dying)』(1969年)を著わしたエリザベス・キューブラー=ロスは二百人の死にゆく患者との対話の中で五つの死の受容のプロセスがあることを、「否認」→「怒り」→「取引」→「抑鬱」→「受容」という五段階として記している。ホスピスにおけるターミナル・ケアもこのプロセスに添っておこなわれる。これは死に至る病でなくとも、不慮の事故や災害が起こった時も同じような心の動きをひとそれぞれのやり方で経ると云われる。絶望せずに、どのように生きることが最善なのかと希望を持つためには、良い悪いではなく、否定でも肯定でもなく、現状をありのままに見つめる「受容」という目が必要になる。しかし、「否認」から「受容」に至るまではひとそれぞれ。いつまでも「何でこんな目に遭うんだ」と怒り否定し続ける老人もいれば、良寛さまではないが「災難に逢ふ時節には、災難に逢ふがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」と現状を「受容」の目で見て、新しい出会いに感謝しながら生きる子どももいる。

勿論、これ以外のプロセスもあり、例えば、母は東北大震災と津波で被災し、これまで代々守って来たことが文字通り水泡に帰したことを認めるよりは「忘却」を選んだ。震災の記憶は一切封印され、逆行し過ぎて父と結婚していたことも忘れ、現在女学生に戻っている。傍から見れば認知症だが、それで本人が幸せならそれでいいという例外である。厭なことは忘れる能力が人にはある。認知症は、母の場合は自己防衛力と言える。若いと現実逃避と云われるが、逃げられるうちは逃げていいのである。

この作者の場合、「受容」に至るまでどのくらいかかったのかはわからないが、この句を読む限り、世界で一番幸せの目線が低い文藝である俳句の力もあったのではとわたくしには思われる。末期に新茶を楽しむというは妙法にて候。

麦秋や病院よりも白き墓

墓の色は生まれた場所によってことなる。昔から近隣の採掘場から切り出された石の色がその地元の墓の色となるからだという。東北は宮城県の稲井石や泥冠石、福島県の鍋黒石や黒御影の浮金石などの産地が有名で黒い墓が多い。関東は神奈川県の小松石や山梨の山崎石を産し、灰色の墓が多い。それ以外は花崗岩に恵まれたため白御影石が多く、日本人の墓の色に対するイメージのほとんどは白である。

しかし、この句の「白き墓」というのは、十句の中に置くと、日本の花崗岩の墓だけではなく、西洋の白い十字架の墓も想起する。ミネアポリスだったか、飛行機の乗り継ぎの時間が長いので外へ出て見たら小高い丘の緑が一面真っ白な十字架で埋められていたのを思い出した。作者はキリスト教信者なのか、教会の墓地が見える病院にいるのか。この「白」が清潔の「白」を旨とする病院の「白」よりも「墓」の方が白く見えたということを、白い死のイメージへの憧憬として読めるが、季語は「麦秋」なので、風が渡ると一面素晴らしく黄熟した穂が波のようになびく麦畑を背景に読む方が、気持がいい風を感じる。

虚子は『新歳時記』で「むぎあき」と読ませているが、小津映画で育ったわたくしは「ばくしゅう」と読む。映画『麦秋』のラストシーンの「紀子、いまごろどうしてるんでしょう」という母親の言葉のあとで流れる麦秋の光景が目に浮かぶが、「白き墓」という西洋的な墓のイメージとあいまって不思議な明るさがある。

猫の待つわが家遠しや薔薇香る

「薔薇香る」で病室に活けられた花瓶の見舞の薔薇が香り、『失われた時を求めて』のように、その香りから、自分が入院するまで暮らしていた我が家の庭に咲いていた薔薇の香りがたちのぼる。「猫の待つわが家」というのは、そこなら安心して末期を送れるような家ということだろう。この十句には家族は父と猫(飼っている動物も家族の一員である)しか出て来ないので「猫(だけ)が待つわが家」と読むと侘しいが「猫の待つわが家」なので、そこには猫の世話をする人も一緒に暮らしているわけで、人は家族という看取る人の間で生き死にするから人間なので、病院の医者や看護士もその意味では人間ではなく、他人という人である。それが「遠し」ということだろう。眠るなら薔薇の花に囲まれて、目覚めるならば親愛なる人間のそばでは、「白雪姫」も「眠れる森の美女」もそうである。

病床の夏暁パッヘルベルのカノン

「パッヘルベルのカノン」というのはクラシックにうとくても、聞けば「ああ、あれか」とわかる有名な曲で、ドイツの作曲家ヨハン・パッヘルベルがバロック時代中頃の1680年頃作曲した「三つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」というのが正式名称である。印象的なメロディが繰り返し、第一ヴァイオリンから第二、第三と、順々に二小節づつ渡されて行って、それが延々続いても飽きないという不思議な循環曲で、「世界一の一発屋」と言われるほど、そこら中で流れまくっているメロディといえる。多分結婚式とかホテルや喫茶店のBGMなどで流れていたのだろうと思っていたら、たまたま見たTVドラマでも劇中のホテルのパーティーで流れていたので恐れ入った。

「夏暁のパッヘルベルのカノン」とは言い得て妙で、YouTubeで検索したら、小鳥の声をバックにした朝日の背景画の三時間バージョンまであった。ちなみにクルト・レーデル&ミュンヘン・プロアルテ管弦楽団の”Canon in D”を繰り返し聴いてみたら、何度聴いても聴き飽きなかった。BGMのために生まれたような邪魔にならないメロディで、絶対音感の持ち主は雨垂れを聞いても音符になるので五月蠅いと雨戸を閉めるほどだが、バロック音楽だけは音符にならないからBGMとしても聴き流せると言っていた。この「カノン」などまさしくそうだろう。

「病床」で作者は聴いているが、ふと、岸本尚毅の『高浜虚子 俳句の力』の冒頭を思い出した。

もしもホスピスの施設に入ることになったら、何をもって枕頭の慰めとするでしょうか。私の場合、思い浮かぶのは、モーツアルトと虚子です。ホスピスでベートーベンを聞かされても無用の強心剤のようで迷惑です。バッハやブルックナーの神学的厳粛さも、異教徒のわたくしには鬱陶しい。諦めのような透明感と安らかさを湛えたモーツアルトこそが死にゆく魂のためのモルヒネにふさわしい。虚子の俳句もそうです。

確かにベートーベンだと心臓麻痺をおこしそうだなということはわかるし、モーツアルトが癒しの音楽だというのもわかる気はするし、人が恋しいときにはショパンが聴きたくなる気持もわからないではない。しかし、ホスピスに虚子の句というのは、よくわからない。

大寒や見舞に行けば死んでをり 虚子

って、ブラッ句・ジョー句ではないか。勘弁してください。

行きつけの阿佐ヶ谷の喫茶店のクラッシック専門の常連に「パッヘルベルのカノン」のようなホスピスで聴くようなバロックは他にあるのか聞くと、モーツアルトの「ヴェスペレ(晩課)”Vesperae solennes de confessore” K. 339」第5曲「ラウダーテ・ドミヌム(主をほめ讃えよ)”Laudate Dominum”」(K.339)を教えてくれた。何でもモーツアルトがカトリック教会の晩の典礼のために作曲を依頼されたのだが、モーツアルトはこの神父とそりが合わなくて乗り気じゃなかったけど、この五曲目の聖書の詩編117を歌うソプラノの独唱だけが飛び抜けて綺麗なのだと言う。あれこれ次は何聴こうとLPをあさりちゃんしているときにこれ聴くと、ああこれで一日が終わったと、必ずそう思って満足してしまうんですと言っていた。YouTubeで検索すると、Edith Mathis, Cecilia Bartol, Nicoletta Panni, Barbara Bonney, Maria Stadeなど、いろいろなソプラノ歌手が歌っていたが、みな素晴らしく、確かに一日の終りに飲む一杯のモカ・マタリと同じように、寝る前に聴く一曲なのかもしれない。一生ではなく、一日を終えるための音楽というところがいい。

聖五月額に楔打ち込まれ

逆縁の不孝よ父よ初蛍

夏蝶や水玉柄の脳画像

「末期」というタイトルと、この三句で、作者が脳腫瘍を患っており、父が子を看取る逆縁を嘆いていることから、母は既に亡く、親に先立つ不孝に心を痛めていると読める。「不幸」ではなく「不孝」である。「親孝行は子どものライフワーク」なのだ。わたくしは作者のことをほとんど知らないので、この「末期」十句だけで読むだけだが、「逆縁の不孝よ」で、「末期」という大変重いタイトルなのに、作者が自分の今を「不幸」とはとらえていないことが、この十句を静かな印象にしているのではないかと感じた。

一年で最も美しい季節を聖母マリアに捧げてロザリオの祈りをするカトリック教会の「聖五月」という季語は(プロテスタント教会に聖人崇拝はない)、イエス・キリストの磔刑を想起させる「楔打ち込まれ」を和らげているし、「逆縁」と「父」と「初螢」の、この句だけ闇夜だが、螢の光る儚い美しさ、「夏蝶」も螢と同じように飛ぶものであり、「水玉柄の脳画像」は、脳腫瘍の部分は死んで黒くなるとはいえ「水玉柄」という措辞は、フランク・シナトラが歌う”Polka Dots And Moonbeams”が流れそうな粋な見立てのようだ。内容が重い句ばかりなのに、しんとして明るいのは、自分の不幸ではなく父への不孝を案じる作者の優しさと、その優しさが選び取った季語のせいだろう。

かはほりや隣のベッドより寝息

海外では「夜の燕」とも呼ばれる蝙蝠が黄昏どきを大きな蛾のようにひらりひらりと飛んでいる。まだ寝るには早い時間なのに、隣の人はもう寝息を立てている。自分の息と重なるようで重ならない呼吸である。それを聴いている私は一体誰だろう、体を抜けだした魂なのか、とも思えてくる。たそがれとはそういう時間かもしれない。

「末期患者」という場合の末期(まっき)は医学的末期という意味であり、現在の医学では手の施しようがない状態を指す。末期(まつご)と言いながら、まだ病院に居られるということは治療の望みが絶たれたわけではないが、手術か投薬か様々な医療方法によって延命の可能性が高まるかどうかの判断が難しい状況ということかもしれない。医学的にはInformed Consentと云われ、医者が患者に医学的なTruth(真実)をTelling(説明)し、患者と何度も話し合い、患者が手術を拒否することも含めて、自分で選択できるようにお互いが納得するプロセスで、「医療的に正しい情報を伝えられた上での合意」とされているが、医者と患者だけではなく、患者の家族の判断にも配慮しなければならないので、精神的にも患者だけではなく家族の負担も一番強いられる段階である。

だが、作者は発句で「まっき」ではなく「まつご」と詠んでいる。わたくしは職業がヘルパーなので、脳腫瘍で「余命二週間」という文字通り末期(まつご)の患者の介護をしたこともあるが、脳画像は水玉どころか真っ黒で、投薬も既に停止され、右手がかろうじて動くだけの全介護状態だった。それでも、二週間どころか、一年以上過ぎても存命し、座ってiPADで遊べるようになり、今はアメリカで暮している。わたくしが病気の末期(まっき)と命の末期(まつご)は違うと思うのは、そういう体験から来ている。この場合の末期症状というのは脳腫瘍という発見時の腫瘍(T:tumor=腫瘍)のステージがT0~4のT4ということだった。脳幹出血で余命三時間と言われて、三年後の今は一人暮しをしている症例もある。

だが、作者は水玉柄の段階で「末期」と自覚している。ということは脳腫瘍はT4ではなく、別の部位の癌が、遠隔転移(M:metastasis=転移)してM1(転移あり)という水玉柄の脳画像ということになる。この場合の発見時の癌で生存率五年の難病指定は膵臓癌と肺癌の二つである。

静かな世界とわたくしは読んできたが、もし、そうであるなら、これは全世界から音が消えた無音の静けさの世界である。

病窓より航路と線路朝ぐもり

病院の窓からは船と電車が見える。船も汽車も航路と線路という定められた目的地と帰還地を持つ。行く場所も帰る場所もなく病室にいる身には、行き来する船も汽車も、行く場所、帰る場所がある確かさを持つ。船も汽車も下りれば、人はどこへ行くかは自由だが、自由を奪われた身には、見ることで心を遊ばせるしかない。「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりにも遠し」(萩原朔太郎)、せめては新しきパジャマ着て、きままなる空想の旅にいでてみん、と窓外の航路と線路に心を漂わせる。だが、海にも山にも黄泉平坂はある。『古事記』には、黄泉(よも)つ国に伊耶那岐の命が死んだ伊耶那美の命に会いに行く話がある。作者には窓から見える船も汽車も此岸と彼岸を行き来しているように見えたのかもしれない。そのとき、病室は「出雲の国の伊賦夜坂(いふやさか)といふ」ことになる。

下五の季語「朝ぐもり」。「朝曇り、昼旱り」の諺にもとづく、熱さが特にきびしくなる朝は却ってどんよりと曇ることがあるという季語である。歳時記では次に「日盛り」が来る。静かだが、暑い一日が始まろうとしている。

目鼻消し泣きたき日あり雲の峰

挙句である。「目鼻寄せ泣きたき日」だと感情を解き放って思い切り泣く狂言の姿になるが、「目鼻消し」だと能の小面のしぐさになる。うつむいた小面の哀しみを見るようだが、「雲の峰」という「朝ぐもり」から力強く青天に育ちゆく入道雲は生命の躍動を感じさせる。

最後に、俳号が「利普苑るな」なので、りふえん・るな? ドイツ人と結婚したひとなのかと後記を見ると、広島生まれで大阪在住の日本人らしい。「りーふぇん」と読むそうな。読めっかよ、森鷗外じゃあるまいし、茉莉(マリ)、不律(フリッツ)、杏奴(アンヌ)、類(ルイ)のドイツかぶれとも思うが、りーふぇんで思い当るドイツ人の女性が一人いた。

レニ・リーフェンシュタール。ベルリン・オリンピック映画『民族の祭典』の監督である。わたくしにはオリンピック映画ではこれと市川 崑の『東京オリンピック』(平均台のチャフラスカとマラソンのアベベのよだれは忘れられない)が映画として傑出していると感じた。また、アフリカはスーダンのNUBA族を十年間に亘って撮り続けた写真集『ヌバ』の写真家であり、1973年に出されたその写真集の迫力は衝撃以外の何物でもなかった。七十一歳でスキューバダイビングの免許を取得して水中写真集” CORAL GARDENS”” WONDERS UNDER WATER”を出し、百歳を越えて映画『原色の海』を撮るという凄い天才だが、終生、海外ではナチスに協力したと批判され、映画製作は妨害され続けた。彼女のことを欧米で話題にした時も余り良い顔はされなかった。ヒトラーの凄まじい演説で知られる映画『意志の勝利』は、未だにドイツ国内では放映禁止である。彼女が池袋パルコで「ヌバ」の写真展のために1980年だったか来日したときは、わたくしも講演を聞きに行った。講演会後の彼女に対する質問は、ナチに協力したことをどう思うかといった馬鹿な質問ばかりだった。政治という権謀術策の世界と、映画や写真の美の世界は全く別世界の話である。わたくしは彼女がオリンピックのアスリートたちを美しいと感じたから美しく撮ったように、ヌバ族を美しいと感じたから撮ったまでだと思っていた。レニは今でもわたくしには美に入れ揚げた美の殉教者である。

利普苑るなさんがレニのファンであるなら、昔からのレニのファンとしては嬉しい限りである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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