雨上がりの朝

https://note.com/odorunatsuko/n/n05916f54d9d9 【雨上がりの美しさ】より

                                 おどるなつこ

雨上がりの朝は本当に美しい。キラキラと庭が煌めいている。その瞬間はほんの束の間で、あっという間に露は消えてしまう。私はいつも、こんな瞬間だけを楽しみに生きている。

美しいものだけを見たい。楽しい瞬間だけを覚えていたい。それだけを重ねていたら、きっと生きている間こそが天国になるはず。いつもそう思う。

暴力的な世代に属する。

人前で見せしめのように引っ叩かれた幼少期。でも、たくさんの友達と外遊びをしていた時間は、日々宝物のようだった。いまだにたくさんの景色を覚えている。

生徒手帳に下着の色まで指定されているのを読んで、絶望した6年生の終わり。先生は竹刀を持って歩き、部活ではたびたびビンタが張られる、そんなことを横目に帰宅部になった中学。おそらく、初めて鬱になっていたであろう中2。

高校進学したが、おそらくまた鬱を発症、家族から聞いたショッキングな言葉がきっかけと思われ、私なんていなければよかったと思い、高校ではほぼ眠っていたように思う。

高卒後、不動産屋さんの貼り紙には赤い字で「ダンサーお断り」と書いてあり、私は真面目にも「ダンス修行中です」と申告しながらアパートを見つけた。

当時はまだまだ、社会全体において暴力は普通で、バイト先のキャバクラでは社長が売り上げの落ちた売れっ子ホステスに氷水をぶっかけて叱咤激励していたし、月曜日に働いていたバイト先が水曜日には消えていたこともあった。もちろん働いた給料はもらえないし、取りつく島もない。

暴力への恐怖というのは、大人になったときにも時々顔を出し、20代の半ばになっても、人がパッと動いたときに咄嗟に自分の頬を庇ってしまったりした。

人の間

そんな合間合間で、私と素直に向き合ってくれた方々がいる。

「そういうことは思ってても言わない方がいいんだよ」とか、「こら、先輩には敬語で喋れよ」とか、人と人が接していく中で、ちょっと気をつけた方がいいことを、ちゃんと教えてくれたバイト先の人々。

そんな声かけから、私の姿勢も少しづつ修正されてきたのだろう。

色々な人と人の間で、色々な価値観を見聞きして、その度に全部を取り込んでみて。誰でもそうなのかもしれない。誰でもそうやって自分の姿勢というものを探していくのかもしれない。

ハラスメントとかコンプラとか

私はよく本を読むのだが、今回の鬱病の3~4年の間は全く読めなかった。やっと読書を再開できて、脳みその回復も促進される心持ち。

最近では「コンビニ人間」に代表される村田沙耶香著作を続けて読んだが、どれだけ常識や社会通念が当てにならないものか、身に沁みる。

今回の鬱病の間に、だいぶ社会の変化が加速した感じがしている。コロナによる社会変化で炙り出されたものも大きいのではないか。きっと良いことだけど、必ず両面があるだろう。

社会通念は変わるものだ。

だからこそ、社会通念の潮流に流されることなく、何かを選択する姿勢を保ち続けたい。誰もが、それを選択できるといいなと思う。

雨上がりが美しいと感じられる今日に感謝。ふきんもさっぱり煮洗いした。


https://ameblo.jp/shimizu-ken/entry-12910778546.html 【雨上がりの朝。ぬかるみと暑さと、覚悟】より

雨上がり、気温ぐんぐん上昇中。今日は、まだ水が残る、ぬかるんだグラウンド整備からスタート。日焼け止め、水分、塩分チャージ必須。子どもたちに負けじとコーチ陣も気合い十分。

でも正直、この暑さに少しビビってます笑。


https://note.com/kikyo1130/n/n7862ceb75513 【雨上がりの朝】より

めずらしく寝落ちをして、平日よりも早い6時半ころ目が覚めた。数時間しか寝ていないのに、とてもすっきりとした気分だった。気まぐれにカーテンを開けてみると、柔らかな日差しを感じる。夜中に聞こえた雨の音もしない。

よし、二度寝はあとにしよう。

簡単に着替えて、コートを羽織り、すっぴんのまま外へ出る。ドアを開けると、冬にしては暖かな、涼しいと寒いのちょうど中間くらいの空気が玄関に流れてきた。雨に濡れたすべてのものが、何となく白みを帯びた日差しを受けて、きらきらと優しく輝いている。

ひさしぶりに見る朝6時台の景色に、新鮮な驚きと懐かしさを覚えながら近くを歩くと、東の方の雲が淡いピンクのようなオレンジのような色に染まっていた。普段8時台にしか家を出ない私には、絶対に見られない光景だ。朝の空はこんなにきれいだっただろうか、と少しもったいない気持ちになった。

もう少しだけ先へ歩いたあと同じ道を戻っていたら、全体的に花の咲き始めた木に目が留まった。梅だろうか。雨粒の残った花があまりにもきれいで、柄にもなく写真を撮ってみる。

ピントの合った写真が撮れたことに満足すると、再び帰り道をたどり始めた。土曜日の7時前はまだ街も寝ているようで、人の往来はほとんどなく、生活の音も匂いもしない。冬の雨上がりの空気は、ほどよく冷えてしっとりとしている。そのせいなのか、これまで幾度となく歩いた道も今日はまるで違う世界のもののようだ。

休みの日に早起きするのも悪くないな。

そんなことを思いながら、ベッドに潜り込み、いつものように二度寝をむさぼった。

https://www.sagami-portal.com/city/scmblog/archives/27951 【雨上がりの朝】より

師走を迎えた12月1日朝、前夜の雨が上がり、お天気が急に回復しました。そんな朝は、開館準備のために館内を歩いていると、光と影のうつろう様子が楽しくてついカメラを向けてしまいます。

階段の途中から前庭を見通したところ

上の写真は、2階の喫茶室からエントランスへ下りる階段の途中から見た、博物館前庭側のガラス壁面です。朝陽が木もれびとなってガラスへ当たり、影と乱反射のぼかしが複雑な模様を作っていてとても美しく見えます。

外光を積極的に取り入れる設計になっているエントランスは、見上げると空が見通せる場所がたくさんあります。

外光を取り入れるための天窓

絶妙な影が壁面に伸びていました。

窓枠の影壁面に伸びています

中庭のガラス壁面には、昨夜の風雨でイロハモミジの葉がぺたりとくっついていました。

風雨でガラスに張り付いたイロハモミジの葉

外は強い風が吹き、雲の動きが早いのでしょう。影が目まぐるしく濃くなったり消えたりしています。木々の紅葉もこの風で大方が落ちて、博物館のまわりも冬景色へと模様替えが進みそうです。


https://note.com/hitomihasegawa/n/n1683a7a321c7 【もう一度、雨の朝を好きになった日】より                   長谷川仁美/文筆家、ライター

晩秋と冬の、雨の日が好きだった。とくに、朝。まだ世の中が動ききっていないころ、朝食をとりながら目をやると、窓の外は白っぽくぼんやりとしていて、暖房であたためられた室内にいると、なにかに守られたぬくぬくとした心地よさを感じられたから。

そんな雨の朝が憂鬱になったのは、最近のこと。子どもを保育園へ送っていくとき、晴れと雨とでは、全然違うから。

小雨なら、私も子どももカッパを着て自転車ダッシュするけれど、2人ともどうしても膝以下が濡れてしまう。しかも子どもは「カッパ、きらいなの」と物憂げ。大雨なら、大問題。「雨、弱くなってくれー」と窓の外に祈りの視線を向けながらの朝食。それでもやまない時は、しかたないので重量制限くらいの体重の子どもをベビーカーに乗せて運んでいた。ベビーカー用のレインカバーをつけるものちょっと億劫だし、子どもは楽しそうだが、私の方はカッパ(ちょっと防水能力低め)を着ても結構びしょぬれで、足元はびっちょびちょで。あっという間に、雨の日をブルーに思うようになり、翌日の天気予報が雨だと、前夜から「どうか弱い雨でありますように」と祈るような気持ちになる日々……。

昨日も今日も、朝、雨が降っていた。昨日は自転車で行ったけれど、今朝はふと思い立ち、「傘を持って、歩いて行ってみる?」と子どもに聞いてみた。すると、「うん。かさ、もっていこうか」と嬉しそう。

我が家に子どもを乗せられる自転車が来たのが5月の終わり。それまでは毎日徒歩通園していた保育園へ、半年ぶりに歩いていくことになった。カッパは無理やり着せたけれど、傘を持たせて長靴をはかせると、子どもは楽しそう。以前は、傘を持っても傘が安定しなくて危なかったけれど、もう完璧に傘を持って歩けている。しかも、半年前より歩調がしっかりして、歩くスピードも倍くらい。雨で、傘をさしているのに、倍くらい。想定よりかなり早く、保育園に到着。

おおお、すごいぞ~。そして、嬉しすぎる~。元気に教室に入っていった子どもを見送り、帰り道を歩きながら、気持ちがものすごく高揚していることにきづいた。

子どもって、あっというまにいろんなことができるようになるけれど、とはいえ、それはずっと上り調子ではなくて、右肩上がりしてちょっと止まってその状態のまま水平にぴーっとその状態がキープされ、ある日突然また右肩上がりになって、ということが、とても多い(ような気がする)。子どもの成長ってそういうものなのか、こちらがなかなか気づかずある日気づいて驚いているだけなのか、その両方なのかわからないけれど、とにかく、ある日突然なにかができるようになっている、という状況を目の当たりにすることがとても多い。

そんなとき、嬉しさと同時に、ちょっとした寂しさのようなものも感じてしまうのが、子育ての不思議なところ。たとえば、歩けるようになって「すごいすごいうれしいな」って思うけれど、同時に、「もう私がいなくても移動できるようになっちゃっちゃのね」とセンチメンタルになってしまう、とか。

でも、今回の発見は、ただただじんわり嬉しいタイプのものだった。保育園から帰ってきて玄関を開け、リビングの電気をつけると、白く煙った窓の外が沈み、オレンジ色であたたかい部屋だけが浮かび上がってきた。

そう、こういう冬の朝が好きだった。ちょっと忘れていたけれど、また、こういう思いを取り戻せて、よかった。コーヒーの湯気さえも、こんな心地よい冬の朝を演出してくれている。さあ、今日もがんばろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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