百人百様

https://www.yamaguchi-seikei.com/column/%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%A7%98%E3%80%85%E3%80%81%E7%97%85%E6%B0%97%E3%82%82%E7%99%BE%E4%BA%BA%E7%99%BE%E6%A7%98%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%97%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%802012-4/【人は様々、病気も百人百様と知るべし】より

一人として同じ人は居ないと言われます。名前も違えば外見も違うし、考え方も趣味も人それぞれです。いろいろな人が居るから世の中に文化が生まれ、科学が発達し技術が花開きます。ダイバーシティという言葉がよく使われるようになりました。多様性という意味です。同じ色ばかりでは街も企業も学校も、病院でもより良いものになりません。

120402 イレッサという肺がんの薬があります。副作用で亡くなる方が出て問題となりました。特効薬として劇的に効き闘病生活から復活された方も居ます。要するにイレッサには治療効果の高かった方と却って亡くなるに至った方の双方のケースがあったというわけです。

このことは同じ病気であっても患者さんによって治療法が違うということを意味します。「これでがんが消えました」といっても、それが真実であっても、他の患者さんのがんも消えるとは限らないのです。病気も百人百様と知りたいものです。

お医者さんが検査データを見て首を傾げて「どこにも異常がありません」と言われることはよくあります。精神的なものから来ている体の不調は原因がよく分からないケースもあります。西洋医学は症状には原因があるとして治療法を考えます。漢方はこの痛みにはこの薬が効くというように、症状に対応して治療がなされます。医学も様々です。

このように病気とその治療は私たちが思うほどシンプルな関係にはありません。病気も様々なのですから。では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。一つはかかりつけのお医者さんを持つということでしょうか。健康履歴から家族のことまで知ってもらっておく。自身でマイカルテ、健康手帳を作っておくのも一つの手です。

知人はイレッサが効きました。喫煙歴が無くホルモンバランスが良かったとか。背景が分かれば治療法もより的確なものとなります。

Facebook加藤隆行·さん投稿記事

【みんなって誰よ?】「普通はこうでしょ?」「常識的に考えて」「みんなそう言ってる」

こういう言葉を使う人、あなたの周りにもいませんか?

ボクね、こういうの聞くと、いつも心の中で「出たな、虎の威を借る狐」って思ってるんです。というのも、この「みんな」「普通」「常識」ってやつ、よく見たら誰もいないんですよ。後ろにズラーっと「その他大勢」が並んでるふうに見せて、実はひとりでしゃべってるだけ。しかもその人、「私はこう思う」って言えばいいのに、「みんな」って言葉を使って、

“自分の言葉”を補強しようとするんですね。これ、ある意味、卑怯です。でもまあ、卑怯っていうより実際は「自信がない」んですよね。だって本当に自信があれば、「私はこう思う」でいいはずなのに。そこをわざわざ「みんな」を召喚してくるあたり、「自分ひとりでは不安なんだなぁ」と思うのです。でも日本人って、これに弱い。特に「みんな」に。学校でも、

「みんなはちゃんとやってますよ」って、「みんなみたいにできないと」「みんなに置いていかれますよ」などと、言われ続けてきたから。“みんな”という名前の巨大な怪物に、ボクらはついヒレ伏してしまうクセがある。

だけどね、このゲームには乗らなくていいんです。「ふーん、そうなんだ。 でも私はこう思うよ」これでいい。戦わなくていいけど、引かなくてもいい。自分の足でしっかり立っていれば、「普通ビーム」や「常識パンチ」「みんなキック」も当たりません。だってこっちは、

別のステージに立ってるんだから。で、こういう「常識押し付け系」の人たちって、じつは昔、親から同じことをされて来てる人が多いんですよね。

「普通はこうでしょ」「みんなそうしてるのよ」って言われて、自分の気持ちをぐっと飲み込んできた。そして「普通じゃなきゃいけないんだ」と「自分はどう思うか」を否定して、否定されて生きてきた。子どもの頃、親から「普通こうでしょ」「みんなやってるのよ」と繰り返されると、それが“正しさの基準”になります。だから大人になった今でも、その言葉を使って

誰かを動かそうとしてしまうんです。でも親にされてきて嫌だったことを、無意識に、自分もやっちゃってる。そうすることが、人に言うことを聞かせる方法だと経験で覚えてしまったから。そして、そうしないと、自分が負けちゃう気がして、不安になるから。

でも本当は、そうじゃないと愛されない気がしてただけ。「みんな」と一緒じゃないと、自分に力がないとカンチガイしてしまっただけ。もうやめよう。

“みんな”の背中に隠れてしゃべるのも、“普通”を盾に誰かをコントロールするのも。

あなたのその一言、「私はこう思う」がいちばん強い。毅然と「私」を出せる人は

幻想の「みんな」なんかとは立ってるステージが違うから。

でもまあ、「みんなそうしてるよ」って言われたら、「おお、じゃあ自分はその 幻想の“みんな”の一員じゃないんだな」って思うだけでいいんです。

ボクはそうしてます。そして「今日もまた、みんなに埋もれない 個性的なかとちゃんで良かったわ」って思ってますわい(^ω^)


https://tuneakiheraeonetnejp.hatenablog.com/entry/2023/12/20/193115 【俳句は日常体験の感動を改めて蘇生させるもの】より

 人工知能(AI)「一茶くん」に対する私の思い         児 島 庸 晃

 最近の俳壇で話題になり始めたことの一つに人口知能を使って作った俳句作品の良否が、あちらこちらで起こり、いろんなところで話題の中心になり始めているのに驚かされている私である。何故かと言えば人工知能に人間の感性とも思える情感が、どの程度理解出来るものかとも思ってしまう。これほどまでに話題になったのは北海道大大学院の川村秀憲教授らにより、写真を基に俳句を詠む人工知能(AI)「一茶くん」 の開発である。これまでのいろんな俳人の作った作品を基に解析し、その被写体である風景を読み込ませ、自らを学習させるものであるのだ。

 2018年7月13日には人間と人工知能(AI)が俳句を詠み合い、その成果を競うイベントが北海道大学で行われた。…だが、その場での良否の問題は、まだ出ていないようである。それもその筈、囲碁や将棋のように勝ち負けを競うものではないからである。ここには感情と言う人間の情感があるからである。私たちは日常生活でいろんなことを日々体験しては、その場での判断をしては次へのステップとしている。ここにはこれまでに体験して得られている知識では間に合わない事が多々ある。このときに必要とされることは即興性である。謂わば咄嗟の判断なのである。人工知能にはこれまで集めた人間の情報が入力されていてその範囲内でしか答えはない。俳人個々が作る句にはこの即興性が咄嗟に感性に響き鋭さを発揮してくれる。それ故に新鮮な俳句を生む。人工知能では即興性の感性は出ないだろう。人口知能には明確な内容の良否の判断基準がないのである。

 私たちは日常体験の感動が大切なのである。しかも俳人自身が、その場で得られた感動が個人個人によって違う。この違いを個性と言う。人口知能による作品は年数を経ていくに従いそのほとんどが画一化されて、同じような作品になり、やがては飽きられてしまうのではなかろうか。刻刻変化してゆく作者個人の即興性はそれぞれの個人意識によるところのアドリブなのである。このアドリブは画一化されてある同じ感覚意識ではないのだ。この感覚意識における受け取りは、過去となってしまったであろう情報集積処理からは新鮮さのある語彙は生まれないだろうし、俳句言葉そのものも、情報処理そのものがこの時点で過去言葉となる。人口知能といっても、人間個人そのものの知能ではない。

   鳴き捨てし身のひらひらと木瓜の花  一茶くん  

これは人工知能(AI)「一茶くん」の作品である。自然諷詠らしい句である。席題「鳴」と春の季語「木瓜の花」の人工知能俳句である。何処がどうという欠点の見当たらない句である。上手に纏め上げられた句でもある。しかしなんとなく物足りない句のようにも思える。何故だろうとも思う。よく味わってみれば分かることだが、感動が、それほどに高まらないのだ。この句を読むものに「一茶くん」の作ったときの率直な感情が伝わらない。それは何時もの見慣れた光景だからである。これまでに得られたものの範囲内にある情報を「一茶くん」が情報処理したに過ぎないからであろう。私たちは常に誰もが知らない作者だけが発見した感性を待っている。私だけにしか作れない私の感性を「一茶くん」は作れるだろうか。

 何よりも、句を作ると言うことはそのときの即興性でもある咄嗟の感動がいるのである。それは言い換えれば、その場に於ける私性が大切なのである。次の句をよく見ていただきたい。

   余花に遭うそのまゝでいてもう少し   藤本裕美子

俳誌「歯車」382号より。ここで注目すべきことのひとつに言葉の選択がある。言葉の扱いには作者の個性とも言える思考がある。その思考とは感性に委ねられていてその違いが個性ともなる。この句に作者が選んだ言葉が「もう少し」とある。作者の句に対しての私性がある。作者が見つけた言葉が「もう少し」なのでもある。この俳句言葉は作者が日常体験した作者独自の感動体験なのである。この日常体験は人工知能(AI)「一茶くん」には出来るだろうか。私性までも踏み込んだ感情表現の実体験は即興であり、これはアドリブなのである。所詮は既成観念の領域を踏み越えてこそのその新鮮さは俳句の醍醐味でもあろう。やはり画一化された幅のない俳句作品を人工知能(AI)「一茶くん」は作ってしまうのではないかとも私には思える。 

 かって流行語にもなった言葉に「インスタ映え」がある。これは自然風景の中に予期もしていない見事さを込めた発見に対して人々が感動したときの心の状態を表現した言葉なのだが、これはその時一瞬の出来事である。このことはアドリブなのである。その時にだけ得られる即興性なのである。ここで人工知能により作られた俳句をもう一句。

   湖にうつる紅葉や窓の前  一茶くん 

「緑沼の紅葉」の写真画像を認識してのふさわしい風景を詠んだものである。確かに美しい俳句である。諷詠写真俳句でもある。だが私たち俳句人には充分には満足出来るものではないのだ。何故なのか、と私は思った。何処かでも見たような光景である。見慣れた光景である。この句を通して見ている光景よりもこの情報を基にした写真を私は見ていたが、その写真の方がより細かくもっと微細に思える美しさなのである。この句を詠む以前の写真の方がもっと現実感がある。どうみても臨場感がない。身に迫ってくる迫力とも思える臨場感がない。これは私性を通しての情感とも言える即興的な重みや臨場が感じられないと私は思った。

 昭和46年頃だったと思うが、写俳俳句の広がりで俳壇を賑わせた時代があった。その発案推進運動に貢献した俳人がいる。俳句結社誌「青玄」の主宰者でもあった伊丹三樹彦である。この基本的思考は俳句作者自身が被写体に向かい目視してシャッターを切る。…ここまでは写真家のすること。だがこの奥にある深層心理は俳人の心としての志向が働く。その心は目で見ていても見えてはいない部分までも見えているように表現することであった。俳人個人だけが見えてくるもの。そのことが俳句言葉になる。これを実現するには私性の思考が配慮されねばならないのである。人工知能(AI)「一茶くん」に私性の思考ができるのだろうか。伊丹三樹彦は人口知能ではなく三樹彦自身、自分自身の知能を働かせての私性を感じさせるものであったのだ。

   薔薇園に 腰を 人生深くして   伊丹三樹彦 

写俳句集「花緑の写俳亭」より。被写体でもある風景の「薔薇」の写真の画面を目視しているのだが、ポイントは「薔薇」の写真を見ている人間の心に焦点があり、この被写体の「薔薇」は光景に値する対象である。この三樹彦の「薔薇」の写真を人工知能(AI)「一茶くん」に入力しても三樹彦の求める句にはなっていないだろう。「一茶くん」は被写体そのものの光景に焦点があり、その焦点のポイントが写真画像そのものである。三樹彦は作者自身の思いに焦点が絞られている。「一茶くん」では私性は反映されてはいないだろう。また例えば情報収集の際にこの三樹彦の俳句言葉そのものを入力しての情報処理は剽軽に与えしないだろうか、との危惧も私は感じる。二番煎じの類の俳句を思うし、感動の心も二番煎じを強くする思いである。否、三番煎じになるかもしれない。全ては既成事実の情報処理に留まるのではないだろうか。この時点で詩語は死語になっているようにも思われる。新鮮さはないだろうと私は思うのであるが…。

   雪景色きれいと言うと叱られた   三池 泉

俳誌「歯車」381号より。「きれいと言うと叱られた」の口語体の会話ともとれる俳句言葉は私性が施されてのもの。「雪景色」の被写体画像を「一茶くん」に入力しても、この私性の発想は生まれないだろう、と私は思う。人間特有の感情移入はどれほど出来るのだろうか。まだ開発途中とのことで、まだまだ語彙が不足とのこと。…だが、語彙を沢山入力していっても人の情感が詠みとれるだろうかの疑問が私には残る。人口知能が人口頭脳に置き換えられるときデータ処理では「きれいと言うと叱られた」の俳句言葉が可能になる日を待ちたい。俳句言葉そのものは人間の日常生活より生まれたもの。自然風景からの人間の感情移入は難しいのではなかろうか。作者は「一茶くん」では詠めない俳句を思考したことになる。 

   七月や水にしずかな鯉の息   寿賀義治

俳誌「渦」540号より。この句は自然の中における命の存在を強く主張する作者の心が溶け込んでいてしみじみとするものなのだが、この感情の柔らかな起伏は作者の私心であり詩心でもある。それは「しずかな鯉の息」と私性の心でもある。人工知能(AI)「一茶くん」に被写体とも言える映像を読み込ませる入力でこの微妙な感情表現の発想が生まれるであろうか、と私は思うのである。水面にほんの少しだけ動く水の揺れる状態を「鯉の息」と受け取れる感性は人間ならでの主観である。この一瞬のアドリブは瞬時のもの。決まりきった観念ではない。瞬時に感じるもの。映像入力の保存語では処理出来ないものであろう。この作者だけが発見して得た感性である。個性とは作者独自のもの。人間のその時に受け取る感覚には作者独特の個性があり、それは作者だけのものである。人間としての感性は人間の目視によるものでなければその作品に新鮮さは生まれないだろう。作者の自己主張が作者自身により作された句でもあると私は思うのである。人工知能(AI)「一茶くん」ではこのような句は出来てはいないだろう。 

 これから先のことだが本当の俳句の良さを知らない人がこの「一茶くん」を使っての流行にもなるとどうなるのだろうか。俳句への興味が盛んになり俳句人口が増えることはいいのだが、俳句への真剣さが薄れ文芸としての価値観がなくなる。たた単なる遊びになってしまい、行き着く先はゲーム感覚になりはしまいか。「一茶くん」の開発者は技能者としての利点があり、それだけの多額の実入りがあり実質プラス。でも真剣に文学・文芸に心を置くものには虚しい話である。本当の文学・文芸の心は壊れる。文学・文芸は人口知能によるものではなく、作者自身の自分自身の知能だけで可能にするものでもあろう。またそうでなければ俳人としての自分自身の可能性は見出せてはこない。長年俳句を作ってきた俳人は「一茶くん」が手頃な価格になっても使わないだろう。それは俳句の価値基準の判定がいまはまだ「一茶くん」には定まってはいないからだと思われる。

tuneakiheraeonetnejp 1年前 読者になる

FacebookHiroshi Kaneiさん投稿記事·

"You're drawing people, not characters."

「君たちが描いているのは“キャラクター”じゃない、“人間”なんだ。」

"I'm counting on you."

「君たちを信じているよ。」

とても宮崎駿さんらしい、重みのある言葉です。

「アニメも人間を描くものだ」という信念が伝わります。

“If I’m going to be retiring from filmmaking, I’d like to devote my time to more important matters. Making a film means making entertainment for a lot of people. It’s not the sort of thing you can quantify. Entertaining a group of people is no better or worse than entertaining just one person and making that individual happy. For example—this happened the other day—I have this funny-looking little three-wheeled red car which I use for my daily commute. I was parking it downstairs one day when a small child who was passing by just stopped in his tracks, staring open-mouthed. His eyes were popping out with amazement. His mother, who was with him, nudged him to go but he wouldn’t budge. Eventually the boy drew closer and closer little by little and extended his hand as if to touch it. My car is a handmade English model, with this bare Italian motorcycle engine sticking out in front, and I worried that he might burn his hand by touching it so I said something really inane like “Don’t touch it—that’s hot” or something automatic like that. So the boy gave up and left with his mother. Later on, though, I really started to regret what I’d done. Sure, I was busy and pressed for time, but I really should have invited the little boy and his mother to go for a ride in the car. I could have given that boy a fantastic experience, one which would have lived forever in the fuzzy childhood memories of a five-year-old. When I talk about devoting my time to more important matters, that’s the kind of thing I’m talking about. A personal experience like that is more meaningful than any film. That should have been the way of someone who presumes to call himself an entertainer. Someday, maybe for some other small child, next time I’d like to give him a ride.”

- Hayao Miyazaki

もし私が映画製作から引退するなら、もっと大切なことに時間を使いたいと思う。

映画をつくるというのは、多くの人のために娯楽を提供することだ。でも、それは数値化できるようなものじゃない。

多くの人を楽しませることは、たった一人を楽しませることや、その人を幸せにすることと比べて、優れているわけでも劣っているわけでもない。

たとえば――これは この前あったことなんだけど――

私が通勤に使っている、ちょっと変わった三輪の赤い車があるんだ。

ある日、その車を駐車場に停めていたら、小さな子どもが通りがかって、立ち止まって見とれていた。

口をぽかんと開けて、目をまん丸にして驚いていたよ。

隣にいた母親が「行こう」って促しても、子どもは動こうとしなかった。やがて、彼は少しずつ車に近づいてきて、手を伸ばして触ろうとしたんだ。

私の車はイギリス製の手作りで、前にはむき出しのイタリア製バイクのエンジンがついていてね。それに触って火傷でもしたら大変だから、私はとっさに「触っちゃダメだよ、それ熱いから」とか、そんな決まり文句を言ってしまった。

すると彼は諦めて、お母さんと一緒に行ってしまった。

でもね、そのあとすごく後悔した。

確かに私は忙しくて急いでいたけど、あの時こそ、その親子を車に乗せてあげるべきだったんだ。

あの子にとって、それは一生忘れられない体験になったかもしれない。

5歳の子どものぼんやりした記憶に、いつまでも残るような特別な出来事になったかもしれない。

「もっと大切なことに時間を使いたい」っていうのは、そういうことなんだ。

そういう個人的な体験こそ、映画なんかよりもずっと意味がある。

そういうふうに振る舞うのが、「エンターテイナー」と自称する者のあるべき姿なんだと思う。

今度また、もし別の小さな子に出会ったら――

次こそは、その子を乗せてあげたいと思ってるんだ。

***

彼が大切にしていたのは、“誰かの心に残る”体験。

それは映画よりも、深くて、温かい記憶になるかもしれない。

"人間を描く"とは、命を描くこと。

物語とは、生きることそのものなのかもしれません😇

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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