https://blog.ainoutanoehon.jp/blog-entry-562.html 【松尾芭蕉の破調。俳句の調べ(一)。】より
俳句に対して私には、まず枯れた世界、抒情の乏しい老成した知性の世界、写実的絵画的でありえても言葉の音楽、調べの乏しい世界というイメージ、勝手な固定観念があったため、学校で名句を習ってからは、読み感じとることをしてきませんでした。
『奥の細道』はそのときから好きでしたが、その魅力は、俳文と一体となってのもので、十七字の発句だけでは文学として発する力は弱いのではないかと考えていました。芭蕉、蕪村、一茶の、好きな名句はありつつも。
一方で、和歌から連歌、俳句、短歌、詩へと姿を変え受け継がれてきた詩歌の伝統の流れのなかで、連歌と俳句についての知識と感じとる力が欠落しているので、学びなおして読みとりたいという気持ちもずっとありました。ようやく今、その出発地点から私は歩き出しています。
まず手に取ったのは、親しみやすい次の本です。
『日本の古典をよむ⑳ おくのほそ道 芭蕉・蕪村・一茶名句集』(2008年、小学館)。
この本を、『奥の細道』、芭蕉の名句と読み進み、蕪村の名句を読み始め、私はとても驚き、感動しました。蕪村の俳句は彼が画家でもあり絵画的であること、また萩原朔太郎が「郷愁の詩人」として彼の俳句の青春性、若さを好んでいたことは読んでしましたが、それ以上の発見があったからです。俳句の調べです。俳句にも和歌や短歌と同じように、言葉の音楽、調べがあるということです。
与謝蕪村の項の解説者である山下一海鶴見大学名誉教授が、蕪村の名句の鑑賞の言葉のなかで丁寧に伝えてくれていました。
俳句は、調べそのものの和歌の流れの下流に生まれた文芸なので、とても自然なことですが、十七字という限られた字数では、言葉の調べ、音数律に加えて、音色、韻、アクセント、抑揚を生むのは難しいから、俳人は調べには意をあまり向けていないと、私は思い込んでいました。
山下一海は著書『芭蕉と蕪村』(1991年、角川選書208)の「蕉蕪少々 三 切字の響き」でも、「俳句は歌うものではない」といい、山本健吉の言葉として「俳句は詠嘆する詩ではなく、認識し、刻印する詩である」と、俳句の本質を教えてくれます
続く章「四 間(ま)」にかけての、切れ字と間(ま)についての考察は、言葉の韻律を捉え、とても優れていると思います。
出典の本からまず、松尾芭蕉(まつお・ばしょう、1644~1694年)の三句の調べを聴き取ってみます。注解者は、井本農一(いもと・のういち、お茶の水女子大学名誉教授)、堀信夫(ほり・のぶお、神戸大学名誉教授)で、注解者の言葉の引用は、注解引用◎、の後に記します。私の言葉は☆印の後に印します。
閑さや岩にしみ入る蟬の声(しづかさやいはにしみいるせみのこゑ)
☆ 私が芭蕉の俳句のなかでこの句がいちばん好きだった理由に気づきました。言葉の調べがイメージと溶け合って響いているからです。SIzuKaSaya IwanI SImIIru SemInoKoe。子音S音の息をかすれさせだす音が句のイメージそのものとなって響き、子音K音も音楽的です。母音はイI音が主調でこれも句のイメージそのものとなり調べを引き締めていますが、冒頭に重ねられた母音アA音は心の感動の明るさを柔らかく響かせています。美しいとあらためて感じました。
櫓の声波をうつて腸氷る夜やなみだ(ろのこゑなみをうつてはらわたこほるよやなみだ)
注解引用◎ 深川芭蕉庵で敢て貧窮と孤独に耐える試練を己れに課した作者は、上五を思いきった破調にし、それによって世俗的欲望を捨てた自分の調子はずれな精神の律動をみごとに増幅してみせた。
☆ 定型の5音7音5音の十七音の、上五(最初の5音)を10音にしています。5音も字余りにした27音という、破格の破調で、歌としてとても魅力があります。5音を予測して読み進むと10音まで区切りがこないことに心理的な緊張間が生まれます。「なみNAMI」と「なみだNAMIda」、「こゑKOe」と「こほるKOOru」も響きあい、浮かび沈む調べの波、抑揚を生んでいます。
旅に病で夢は枯野をかけ廻る(たびにやんでゆめはかれのをかけめぐる)
注解引用◎ 作者紹介:鈴木健一(学習院大学)から。『おくのほそ道』自体は推敲に推敲を重ね、旅から五年がたって完成したものの、その元禄七年に芭蕉は「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の句を残し、五十一歳で没している。
☆ 有名な芭蕉の辞世の句ですが、調べに注意して見つめなおすと、この歌も上五が6音、1字字余りで重みを深めています。「やんでYaNde」と「ゆめYuMe」の子音Y音、N音とM音は親しく響きあい、「かれのKAreNo」と「かけKAKeMeguru」の「か」の畳韻をはらむ子音K音のこだま、N音とM音も親しく響きます。母音は、「たびtAbi」「やんでyAnde」「かれのkAreno」「かけめぐるkAkemeguru」と抑揚の波頭にアA音が光っているので、思いを遥かな方向に馳せさせる夢の明るさがあり、けして重く暗くありません。良い歌を最期まで詠んだ、芭蕉は凄さを思います。
https://ameblo.jp/senyo-1/entry-10800067205.html 【芭蕉の破調俳句からの雑感】より
俳句は五七五で書く、という決りがあるという人が多い。これは決りと言うより、五七五のリズムで書くと言った方がいいと思う。リズムといったとき、リズムが独立して作品を生み出す。五七五が決りといったときはそれ以外は認めないという排他的な意識が強くなるからである。
文学は排他的であってはいけないというのが私の考えである。五七五のリズムを尊重しながら作品に自由を与える方法を模索するべきである。
その意味で芭蕉の先験的な試みは大いに参考になる。
狂句木がらしの身は竹斎に似たるかな(きょうくこがらしのみはちくさいににたるかな)
御廟年経て忍はなにをしのぶ草(ごびょうとしへてしのぶはなにをしのぶくさ)
牡丹蕊ふかく分出る蜂の名残哉(ぼたんしべふかくわけいずるはちのなごりかな)
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな(ばしょうのわきしてたらいにあめをきくよかな)
芋洗う女西行ならば歌よまむ(いもあらうおんなさいぎょうならばうたよまん)
あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁(あらなにともなやきのうはすぎてふぐとじる)
猿を聞く人捨子に秋の風いかに(さるをきくひとすてごにあきのかぜいかに)
みそか月なし千とせの杉を抱あらし(みそかつきなしちとせのすぎをだくあらし)
こう挙げてみると芭蕉はかなり自由に発句を作っていたことが分る。作品としてはあまり良くないものもあるが、それは我々と同じで初心の時代もあれば、勉強をしている時代もある筈だから当然である。芭蕉の作品だからすべて傑作というのではない。完成され作品ばかりではないということを頭の隅に置いておきたい。
そういえば 旅に病で夢は枯野をかけ廻る も破調であった。
このことは随斎諧話という書物に載っている。著者は夏目成美である
そのなかで、門人などが、師の句を没後、根拠が無いのに、みだりにあらため削ったものがある。文字が余ったとして、憶測で直したものがある、と批判している。
五七五のリズムを基本とすることは、今も昔も変わらないが、現在は窮屈に考える人が多いことは俳句の発展を阻害していると思うのである。
五七五の定型はこれを基本とするリズムでありもっとおおらかに考えたい。
破調から新しいリズム、リズムといって語弊があるなら新しい俳句が生まれるかもしれない。そうすると必ず、それは俳句ではないという了見の小さい輩が生まれるのである。
今日は旭川へ出たので冬祭のイベントである氷の彫刻を2,3見てきたのでその写真を。買物公園をあるかなかったので、デパートの前の彫刻を撮ってきた。
デリケートな彫刻が太陽の光でさまざまな光線を作りだす情景は見事である。雪像も好きだが、氷の彫刻も好きである。それも残しておけないという儚さも日本人好みのものかもしれない。
山川草木悉皆成仏の想いが込められている。そんな気がするのである。
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