file:///C:/Users/minam/Downloads/tusinkyoikuburonsyu0_18_12.pdf 【芭蕉とカント
─俳句の論理構造─】より 石 神 豊
はじめに
俳句は五・七・五という、たった十七音で表された短詩文である。俳句の成立は、室町時代の末期に俳諧の連歌 (* 滑稽味をもった連歌 ) 1から五・七・五の上の句 ( 発句 ) が独立してできたものである。江戸時代前期に松尾芭蕉 (1644 -94) によって、俳諧が本格的な詩文芸として確立され、さらに明治になって正岡子規がいわゆる近代の俳句として一般のものとしたといわれる。
俳句 ( 俳諧 ) の魅力は、そのたった十七音からなる短い詩文が、一つの生ける世界を眼前に創りだしてみせるところにあると思う。俳句の約束ごととして、「季語」と「切れ」がある。季語は季節を示す語であるが、この語は自然の世界を取り込む役割をもっているといってよい。また、「切れ ( 切れ字 )」とは俳句が一つの「間ま」を含むことを示している。この「間」は、句が別次元の、あるいは哲学的にいうなら超越論的な意義をもっていることを意味していると考えられる。こうした約束ごとを規制だとして排除する立場もあるが、俳句の深みはやはりこの二つ約束ごとに負っているところが大きいのではないか ( ただし、切れのない句もある )。俳句の芸術性というと難しいが、一方で現実性・日常性を離れることなく、また一方で、ある種の精神性・理念性をもっている点に、俳句の芸術性あるいは創造性をみることができるのではないかと思う。この生きた宇宙をわずか十七音で現前化させるのが俳句の真骨頂である。
この俳句を一つの命題、あるいは判断としてみることはできないだろうか。命題、判断はふつう「SはPである」という形をとるが、俳句の場合もこの形をもっているとみることができる。ただ、俳句の場合は表現上の簡素化が進み、たとえば「である」は通常省かれるし、動詞が省かれることも多い。また俳句における「切れ字」は、一つの単純な命題とはやや距離をもった部分だといえる。
命題、判断としてみるといっても、なにかことさらに俳句を難しくみようというわけではない。命題や判断はその文が論理、意味をもつ文だということである。同じく俳句は論理、意味をもっている。哲学において命題や判断を重視するのは、そこに思想が示されるからである。「万物は流転する」( ヘラクレイトス ) とか「人間は社会的動物である」( アリストテレス ) というような命題が、ある思想を含んでいることは何となく理解できよう。ただ、この思想を探究するためには哲学的考察が必要である。ヘーゲルは、「哲学の役割は表象を思想へと変えることでしかない」2 と述べている。「五月雨をあつめて早し最上川」という芭蕉の句をあげてみよう。これはたとえば「降り続いている五月雨を一つに集めた最上川は、すさまじい速さで流れている」という「S は P である」の形に言いかえることができる。
一般に文章は表象的に ( 事象として、あるいはイメージ的に ) 表されるが、その奥に広い
意味で思想があるといえ、その思想を把握するために哲学的分析、あるいは哲学的吟味が必要なのである。俳句もまた同じではないだろうか。そこで俳句の詩文に具体的に哲学的吟味を加えてみたらどうだろうか、というのが本稿の趣旨である。俳句のもつ論理構造や意味を見出すことができれば、俳句がもっていると思われる不思議な魅力を、広く理解するのに資することにもなろう。
本稿では、とくに芭蕉の俳諧 (* 俳句といってもよいが、明治以前は一般に「俳諧」といっているので、それにしたがう ) をとりあげてみたい。芭蕉については多くの論考があるが、
哲学的な分析、吟味を加えたものはあまりないように思われる。また論考の多くは表象の次元に止まっているように思われる。芭蕉は、冒頭に述べたように、従来の俳諧を本格的な詩文芸として独立させ、その後の俳諧、近代俳句への道を切り開いた功労者である。彼の俳諧には、新しい知見が盛り込まれているように思う。
そして本稿では、哲学的に理解するうえで役立つと思われるものとしてカント哲学の見解、なかでもとくに主著の『純粋理性批判』の中で、超越論的弁証論として論じられている箇所の見解をとりあげてみようと思う。そこでは自然にしたがった因果関係、自由による因果関係という二つの見方が語られていて、命題分析に有益だと思われるからである。
1 「古池や蛙飛びこむ水のおと」の句をめぐって
芭蕉の俳句の中でももっとも有名なものの一つに「古池や蛙かわず飛びこむ水のおと」という句がある。この句は芭蕉の作風 ( 蕉風 ) が確立されるうえで重要な句とされている。芭蕉の弟子の各か が み務支し考こう(1665 - 1731) はこの句が成立したいきさつについて、「葛
くずの松まつ原ばら」という聞き書きの中で次のように述べている。
弥生も名残をしき比ころにやありけむ、蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、「蛙飛とび込む水の音」といへる七五は得給へりけり。晋しん子し(* 其き角
かくのこと ) が傍かたはらに侍りて、山吹といふ五文字をかふむらしめむかと、をよづけ
(* およずける:大人びたことをいう ) 侍るに、唯ただ「古池」とはさだまりぬ。しばらく之
を論ずるに、山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして實じつ也。實は古今の貫道なればならし (* ならし:であろう )。されど華實のふたつはその時にのぞめる (* 希望できる ) 物ならし」3
ほぼつぎのような情景である。1686 (貞享3) 年の 3月末、江戸深川の芭蕉庵で句合せが開かれた。そこで、芭蕉はカエルが水に飛び込む音を聞いて、はじめに「蛙飛びこむ水のおと」と作ったところ、その場にいた弟子の其き角かくが、上に冠する五文字として「山吹や」がよいと大人びたことを言ったが、芭蕉はそれを退けて結局「古池や」とした。そしてこのわけについて芭蕉は次のように語った。たしかに「山吹」は華やかさがあり風流である。しかし「古池」は質素であるが実がある。時代を貫いて大切なのは実のほうであり、いま「古池」としたのは、その実をとったのである。そして華にしても実にしてもそうしてこそ希望しうるものなのであろう、と。
当時まで和歌に詠まれた蛙 ( カワズ=カエル ) とは河か じ か鹿ガエルであり、その鳴き声が愛でられたのであった。そして「山吹」はしばしば蛙の声とともに用いられたのである。このことを踏まえて其角は、芭蕉の「蛙飛びこむ水のおと」に対して、すかさず古来の「山吹」を提唱したのであった。彼は「山吹+蛙の鳴き声」という伝統的な組み合わせに対して、「山吹+蛙の水音」という組み合わせが伝統を破る革新的な主張に沿うものと考えたからである。
しかし、芭蕉はもう一歩進んでいた。「山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして實じつ也。實は古今の貫道なればならし」と論じたという。山吹もなるほど風流であって華やかさのある詞である。しかし、ここで「山吹」を用いることは、古来の伝統に反対ののろしをあげるような激しいものであり、どうであろうか。それは、「華」をとることで「實」を捨ててしまうことになる。むしろ地味ではあるが「古池」をとるほうが、真情にかなうのではないだろうか。また、「實」は古来貫かれてきた歌の道であろう。たしかに華實兼備 (* 外観と実質、表現と内容をともに備えること ) こそが、歌学では理想とされてきたものである。この二つは重要である。「されど華實のふたつはその時にのぞめる物ならし」、つまり「實」をとるというこの道をとってこそ、花も実もある理想的な文芸が期待できるのではないだろうか……。
同じ支考が著した俳論『続ぞく五ご論ろん』にも、 詩歌といふは道なり。道に華實あるべし。實は道のみちにして、人のはなるべからざる道をいふ也。華は道の文章にして、神のこゝろをもやはらげるべし4との文章がある。ここでも詩歌の道として華實が重視されると述べているように、華實は、いわゆる蕉しよう風ふうの内容にかかわる重要な問題であるように思われる。
蕉風とは、貞てい門もん(* 松永貞徳を祖とする江戸初期俳諧の一派 )・談だん林りん俳諧 (* 西山宗因の作風のもと、貞門に対して軽妙で自由な一派、芭蕉も加わっていた ) の滑稽や機知を中心とする俳諧の流派に対し、芭蕉が通俗性を脱却して新しい文芸性を確立したことをさしていう。たしかに「俳諧」とは字義のとおり滑稽さをもったものであり、若き時の芭蕉もそうした了解をしている。俳諧の通俗性 ( 日常的性格 ) や滑稽さは、ある意味で民衆文芸としての利点ともいえ、そうした民衆的な性格は芭蕉自身終生大事にしたものであった。しかし、それだけでは俳諧は低俗なものとなってしまう。不惑の年齢になった芭蕉に俳諧の革新をうながしたもの、それはおそらく派手さがめだつようになった俳諧に対して、<中身のある俳諧を>という思いではなかったか。つまり「實」のある俳諧文学の提唱である。しかしこの「實」をとるということは、其角が錯覚したように「華」を捨てるということではない。むしろ「實」の方向に「華實ともに」希望できるというのが芭蕉のとった道であった。その後の彼の多くの句には、そうした彼の思いが反映しているように思われる5。正岡子規も芭蕉晩年の十年間の句
の素晴らしさを讃えている6。
支考は『俳諧十論』(1719刊 ) のなかで、この「古池や」の句をもって蕉風開眼の
句であると明言している。
古池の蛙に自己の眼をひらきて、風雅の正道を見つけたらん、爰ここを天よりうけつぎて、自悟とも自証ともいふべき也。世にいふ俳諧はいざしらず、俳諧はよし芭蕉庵を元祖といふべし。7
支考の言葉は、芭蕉の弟子としての自負が前面に強く出ている感があるが、「古池や」の句のもつ意義を端的に指摘し、俳諧の世界における芭蕉および蕉風の正統性を位置づけたものとしてインパクトをもっている。堀切実は『俳聖芭蕉と俳魔支考』という著作の中で支考の理解の卓越さを認める。堀切はこの著作の中で、蕉門の俳論「三冊子」から、「松の事は松に習へ、竹のことは竹に習へ」「物の見えたる光、いまだ心にきえざる中うちにいひとるべし」との二つの芭蕉の教えをとりあげ、「古池や」の句にいたる芭蕉の境地を次のように述べている。 自然界の普遍的な本質の実在を信じつつも、これを「松」や「竹」といった一つ一つの個性的本質のなかにとらえようとする即物的な直覚法であった。その個の本質から普遍の本質への微妙な一瞬の転換によるポエジーの獲得が、「物の見えたる光─」の教えにこめられているのであった。芭蕉が「風雅の誠」をせめるべきことをいい、また「私意を去る」ことによって「物我一如」の根源的認識に到達すべきことを説くのも、このことにほかならない。蕉風開眼の句と喧けん伝でんされた「古池や」の句には、そのことがみごとに示されているとみてよかろう。8
「風雅」とは俳諧のことであるが、私心を捨て大自然と一体となった永遠不変の境地のことを「誠」という。また「物ぶつ我が一いち如によ」も同様な意味である。堀切にしたがえば、
「古池や」の句は「個の本質から普遍の本質への微妙な一瞬の転換」を示しているという。つまり、そこに芭蕉という人物のポエジー ( 詩心 ) があるのだとする。ややわかりにくい表現であるが、要は普遍的なものを個物の中にとらえることだといってよいだろう。
<子規の芭蕉評>
芭蕉の俳諧における革新がいかなるものか、「古池や」の句を通して多少みてきたが、ここで俳句を近代文学として確立するのに力を尽くした正岡子規 (1867-1902)が、芭蕉についてどう語っているかを少しみておこう。
子規は、俳諧の神ともされていた芭蕉に対する批判者として文壇に登場した。彼の歯に衣着せぬ批評には小気味よいものがある。新聞「日本」に連載した 1893 ( 明治26) 年の「芭ば蕉しよう雑ぞう談だん」では、「余は劈へき頭とうに一断案を下くださんとす曰いわく芭蕉の俳句は過か半はん悪句駄句を以もつて埋うめられ上じよう乗じょうと称すべき者は其その何十分の一たる少数にすぎず」9と述べている。つまり、芭蕉の句の大半はダメであり、よいものはほんのわずかだというのである。もっともたんに悪評をつくのではなく、蕉風を確立したのち亡くなるまでのわずか十年ほどに二百句もの好句を作ったことに驚き賞賛していることはすでに述べた。
上の「古池や」の句に対し、子規はいかなる評を述べているか。1895 ( 明治28) 年の『俳諧大要』の中でこう述べている。 初学の人俳句を解するに作者の理想を探らんとする者多し。しかれども俳句は理想的の者極めて稀まれに、事物をありのままに詠みたる者最も多し。しかして趣味はかへって後者に多く存す。 古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉 という句を見て、作者の理想は閑かん寂じやくを現はすにあらんか、禅学上悟道の句ならんか、あるいはその他何い ず く処にかあらんなどと穿せん鑿さくする人あれども、それはただそのままの理想も何もなき句と見るべし。古池に蛙が飛びこんでキャプンと音のしたのを聞きて芭蕉がしかく詠みしものなり。 稲妻やきのふは東けふは西 其角
といふは諸行無常的の理想を含めたるものにて、俗人はこれを佳句の如く思ひもてはやせども文学としては一文の価値なきものなり。10 つまり子規によれば、芭蕉の「古池や」の句はなにも理想を詠よんだものではなく、ただ事実ありのままを写しとったものにすぎないのだという。古池があり、その池にカエルが飛びこんで音がしたというだけのことである、と。ここには子規一流の写生重視の観点が出ている。芭蕉に対してなされる一般に理想主義的解釈に傾いた理解の仕方は捨てて、むしろ率直に事実ありのままを詠んだものとみるべきだというのである。
ここには子規なりの鋭い指摘があるように思う。事実をありのままに写しとるところに俳句の趣向があり、作者の理想や教訓的なことがらを句の形を借りて述べようとするところにそれはないという子規の評は納得できるものである。子規が自然を力強く詠った与よ謝さ蕪ぶ村そん(1716 - 1783) を高く評価したことは知られている。「古池や」の芭蕉に対しては、やや批判的であるとはいえ、一定の評価はしているといえよう。
芭蕉のあとにあげている其角の句については、そうした理想 ( ここでは諸行無常という観念 ) が先走っていて「文学としては一文の価値もない」と手厳しい評を下している。
ただ、子規のこの理想批判をもって、俳句における理念的なものを全面的に否定したというのは間違いであろう。子規のいう理想とは、作者の主観的な理想であり、それは他者にとっては異質なものでしかない。したがって教訓もそうであるが、そうした作者の理想が表に出ることで、俳句のリアリティが損なわれるということを批判したのであり、その意味からもありのままの作為のない表現を通して示されるべきだといっているように思われる。
「古池や」の句に再度戻ってみよう。「古池や蛙飛びこむ水のおと」の句において、伝統的な「蛙─鳴き声」ではなく、「蛙─水の音」とすることが表現上の一つの革新であったことは理解できた。しかし、それだけで終わったならば、それだけの話でもある。わずかな新表現の提唱にすぎないことになる。それでは、あとから付加したとされている「古池や」とは何か。
「古池」は、語感からいえば「誰も気にとめない、かなり前からそこにある池」とでもいいかえられるような池のことである。「この句の古池は、もと杉さん風ぷう(* 深川の土地を所有し、芭蕉庵を造るなどして、芭蕉を経済的に支えた門下の人物 ) が川魚を活かしておいた生い け す簀の跡で、芭蕉庵の傍らにあったと思われる」11 と山本健吉は述べている。長谷川櫂は『古池に蛙は飛びこんだか』という著作の中で、古池は「ただ芭蕉の心の中にある古池である」12 という。
長谷川は「古池や」という「切れ字」になっている点に注目する。「古池に」という普通の言葉であったならどうか。「古池に蛙飛びこむ水のおと」という句ならば流れとしてスムーズではあるが、なにか物足らない感じもする。また、「古池」の水と、「水のおと」の水が重複するから句全体が重くなる。「古池や」は明らかにそれとは違う雰囲気をもっている。上述したように、「蛙飛びこむ水のおと」だけで一つの革新的表現である。しかし、この「古池や」の表現に、この句のもつもう一つの大きな意義を長谷川は見いだしている。
和歌の規範を破っただけならば、古池の句は壇林の延長線上の一句にすぎないだろう。そもそも壇林とは和歌の規範を破っていく衝動であったからである。それだけなら、古池の句はかつて壇林に心酔した芭蕉の壇林的衝動の残り火が蛙を襲っただけの句にすぎない。
古池の句のもう一つのはるかに大きな意義、それは俳諧の発句にはじめて心の世界を開いたことだった。( 中略 ) ……芭蕉はこの古池の句以後、心の世界を映し出す句を堰せきを切ったように次々と詠む。13
長谷川は「古池や」という句頭の詞は、開かれた「心の世界」を映し出す役割をもっているというのである。言いかえれば「蛙飛びこむ水のおと」とは別次元の世界の開示であるということであろう。「蛙飛びこむ水のおと」という文章は、現象世界の記述であり、実際に経験されたことがらの表現である。ところが「古池や」はこの一語で独立した世界を意味し、具象的、経験的世界を超えたところにある世界を示しているという。長谷川は、現象世界、あるいは感覚的世界に対して心の世界といっている。『「奥の細道」をよむ』という他の長谷川の著作14 でも「古池や」の句を「現実と心の世界の取り合わせ」とよび、「古池型」と名づけ、『奥の細道』の句を分類さえしている。
ただ、この長谷川の区分の仕方はあまりにも安易ではないだろうかと思われる。「古池や」は心の世界、「蛙飛びこむ水のおと」は現実の世界だというのでは、単純な二元的世界論である。芭蕉は二元論者だったのか、おそらくそうではないだろう。
この点、正岡子規の洞察には鋭いものがある。「古池や」の句について子規はこう述べる。
……芭蕉は只ただゞ惘もう然ぜんとして坐りたるまゝ眠るにもあらず覚むるにもあらず。萬
ばん籟らい(* 万物が立てる音 ) 寂せきとして妄想全く断ゆる其瞬間、窓外の古池に躍やく蛙
あ( 飛び込む蛙) の音あり。自らつぶやくともなく人の語るともなく「蛙飛びこむ水の音」といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。芭蕉は始めて夢の醒めたるが如く、暫しばらく考へに傾
けし首こうべをもたげ上あぐる時覚えず破顔微笑を漏らしぬ。
以上は我わが憶おく測そくする所なるを以て、実際は此の如くならざりしやも計り難けれども、芭蕉の思想が変遷せる順序は此この外ほかに出でずと思はる。15
子規は、芭蕉が「古池や」の句を発想したときの心境を推測しているが、この句がたんに現実を示した句であるとはしていない。「蛙飛びこむ水の音」という句には、芭蕉のある新しいものの見方、あるいは思想がある。まさにこの思想が受胎した瞬間こそ句を読んだ瞬間であったということであろう。子規は芭蕉の意はこの下二句で尽きているとし、「古池や」は「下二句のために場所を指定せる者のみ」16と述べている。
子規はあるがままを重視し、それと分離した理想は認めない。しかし、子規がすべて心的なもの、理念的なものを拒否したとはもちろんいえない。そうではなく、このあるがまま(自然)のなかにそうした心的なもの、理念を見出すのである。いわば、現実とこころが一体となった句をもっとも高く評価しているように思われる。それは現実だけでもない、心だけでもない。それらが一体となったものであり、「真実」という表現があたるように思われる。たとえば子規が「老ろう健けん雄ゆう邁まい( * 老練で勢いがあり、強くたくましい )」な句として評価する、芭蕉の「夏草やつはものどもの夢のあと」や「五月雨を集めて早し最上川」などの句にしても、この句が示す実際の情景、現象的なことだけを評価しているのではなく、そうした自然表現の中に、心をも含む「真実」の世界が表現されているがゆえに評価しているのだと思う。
ただ本稿筆者は、「古池や」の句に関して、この詞がたんに「下二句のために場所を指定せる者のみ」とした子規の考えには賛成しがたい ( * 本稿3 を参照 )。
2 二つの因果関係─カントの超越論的弁証論より
カントの『純粋理性批判』はその名のとおり理性批判の書である。理性はとくに人間に特有な働きとして考えられる。たんに自然界を中心とした経験にもとづく思索のみならず、それを超えて、経験に縛られない ( つまり純粋な ) 理性独自の思索をもたらす。そこに大いなるイデー ( 理念 ) の世界が広がるのである。たとえば代表的な理念として「魂」「世界」「自由」「神」などがある。人間は理念なくしては大きな仕事をなしえないともいえるし、理念をもつがゆえに芸術や宗教の世界とも結びつくのである。ただ理念は、そうした人間に希望をもたらすとともに、同時にそこにはある落し穴があることを知らなければならない。それは、理念に関して、二つの矛盾する命題が提出されるということである。それが「純粋理性のアンチノミー( 二律背反 )」といわれるものである。カントは超越論的弁証論として、理性の大きな力とともに、そこにある矛盾した事態について明らかにしたのであった。
カントは、理性のおちいるアンチノミーに四つあるといっているが、ここではその三番目の「自由(と必然)」に関するアンチノミーをとりあげる。これは因果関係の考察でもある。
およそある事象が存在するとき、それが成立するためにはそれを規定するものがなければならないと考えられ、その規定のことを「原因」と呼ぶ。ここにいわゆる因果関係(因果律)があることになる。ところがこの因果関係について、対立するとみられる二つの考え方がある。
<テーゼ> 自然法則にしたがう因果関係が唯一のものではない。自由による因果関係がある。
<アンチテーゼ> すべては自然法則にしたがう因果関係によって成立する。自由による因果関係は存在しない。
みられるとおり、自由に関してこの二つの考え方は対立している。<テーゼ>側にいわせると、自然法則の因果関係は「原因のまたその原因」という具合にどこまでも遡り、結局止まることがなく、第一の原因というものはありえないことになる。この因果関係の系列はどこまでいっても完結しないのであるから、
<アンチテーゼ>側の主張はけっして普遍的なものとはなりえない。したがって自然法則とは異なる別の原因がなければならず、それは原因として絶対的な自発性をもったものでなければならない。ゆえに自ら系列を始めるところの原因、つまり自由がなければならない。
一方、<アンチテーゼ>側にいわせれば、絶対的自由という作用によって因果系列が始まるというのは、そもそも因果律に反している。そこには断絶があり、連続している経験的な統一を無視するから内容的にも空虚でしかない。つまり自由というのは、内容のない空虚な思惟物にすぎないのである。また、自由は法則によって規定されないから、それ自身無法則的なものであるといわざるをえない。自然か自由かは、合法則性か無法則性かということになろう。自由は幻影でしかない。
カントがここで示す「自由か必然 ( 自然 ) か」という対立は、古くからある問題であるとともに、種々の場面で提起されてきた問題でもある。古代のプラトニズムと原子論の対立、世界創造説と形成説の対立、意志の自由をめぐるエラスムスとルターの対立、近代の合理論と経験論の対立、道徳また法的責任のあり方をめぐっての主観説か客観説かの対立など、種々のものをあげることができる。この問題は、意志や目的をもつ人間にとって永遠の課題なのかもしれない。
カントは、この問題を理性自身がもつ問題としてとらえた。すなわち上の二つの立場が同じ理性によって提起されるということであるが、そこにまた解決のむずかしさもあるという。ここでは因果関係 (Kausalität) の考察が中心となって、自由という宇宙論的理念 (* 宇宙論的とは、すべて事象には原因がありその究極の原因を探究することを意味する ) が導かれるのである。そもそもなぜ自由という理念が必要なのか。経験との関係ではどのようなことがいえるのか。カントは宇宙論的理念について述べる。
宇宙論的理念は、勝手に案出されたものではない。理性が経験的総合の進行を続けていくと、必然的にかかる理念に到達せざるをえないのである。つまり理性は、経験の規則にしたがって常に制限されてしか規定されることができないものを、一切の制限から解放して、その無制約な全体性を把握しようとするのである。17 経験的な進行において、原因─結果という系列は無限の進行となる。だからこそ経験はたえず新しい知見を積み重ねることができるのである。しかし、この世界のすべてを経験しつくすことはおそらく不可能である。「経験の全領域はそれがどれほど広がっていこうと、たんなる自然の化身へと変えられるものでしかない。しかしこういう仕方では、因果関係における諸条件の絶対的全体性を求めることはできない」18のである。そこにこの経験的系列の束縛があり、この重さに通常は耐えることができないから、理性はこの系列から解放された状態─無制約な全体性─を想定するのである。そこにいわゆる第一原因というものが案出されるのである。すべては第一原因から始まるのであり、それは無条件なものであり、すべての開始である。このことで経験的系列の ( 完結しないという ) 不完全さは解消されることになる。キリスト教などでは、この無制約な全体性 ( 全知全能なもの ) として人格的な神 ( =創造神 ) を置いたともいえる。
カントは因果関係に関してきわめて重要なことを指摘している。われわれが経験的な因果系列を考えるとき、そこには時間的な経過 が想定されているということである。しかし、「われわれがここで問題にしている絶対的に第一の始まりというのは、時間のそれではなくて因果関係に関することである」19。つまり、一般に経験的にいうところの因果関係は時間 ( 経過する時間 ) を含んでいるとみられる。しかし本来、因果関係というのは時間とは別のものである。そこにこそ自由の場所があるのである。自由の原因というものは非時間的なものである。そこで、前者を時間的因果関係と呼び、後者つまり非時間的因果関係を原理的な因果関係と呼ぶことにしよう。そうすると、ここに異なる二種の因果関係があることになる。そこで次のように分類することができる。20
① 自然にしたがう因果関係=時間的因果関係……原因とは時間的な開始。
② 自由による因果関係=原理的因果関係……原因とは原理的な開始。
ここで①を外的因果、②を内的因果ということも可能であろう。ともかくこの二種類をはっきり区別することが大切なのである。こうして因果関係に二つの種類があることがわかったうえで、ところでこの二つは果たして本当に対立するものであるのか。先にあげたアンチノミーでは、<テーゼ>と<アンチテーゼ>の主張は、自由による因果関係を認めるか認めないかという点で対立しているように見えた。しかし、いまここでまとめた ① ②は対立関係にあるとはいえない。なぜならそれらは因果関係の意味合いが異なるからである。すなわち同じ因果関係という概念を用いてはいるが、時間的に進行する因果関係と、時間とは無関係な ( いわばゼロ時間の ) 原理としての因果関係である。ということは、世界における事象に関するこの二つの因果関係は、対立するどころか、むしろ両立する、あるいはひょっとすると相互に補完するという可能性もあることになるのではないか。
ここから振り返っていえば、最初の<テーゼ><アンチテーゼ>の表明も、じつは矛盾するかのように見えたにすぎないということもはっきりしてくる。自由の存否をめぐって使われた「因果関係」という概念がもともと異なる意味において使われていたのであり、論理学にいうところの「媒概念曖昧の虚偽」にあたるからである。
カントは「理性の宇宙論的自己矛盾の批判的解決」という節において、このことをはっきり述べている。
ここから次のことが明らかになる。宇宙論的な理性推理の大前提は、条件付きのもの ( 媒概念 ) を純粋カテゴリー ( 理念 ) の超越論的な意味において受け取り、また小前提はこの同じ条件付きのものを、現象にのみ適用された悟性概念の経験的な意味において受け取っている。そしてここに弁証的虚偽がある。これは大前提と小前提とに現われる媒概念をそれぞれ異なる意味に解したために生じた虚偽である。21
この文章は、一般に宇宙論的推理について述べているのであるが、われわれの論じている第三アンチノミーでいえば、「自由による因果関係がある」という命題と「自然にしたがう因果関係がある」という命題において、同じ「因果関係」という概念が異なる意味において使われているということである。すなわち前者は超越論的な意味、後者は経験的な意味において使われている。しかし論理法則によれば、媒概念は同じ意味において使われなければならない。先の<テーゼ><アンチテーゼ>においては、この媒概念が同じ条件において用いられてはいないのであり、対立は(同じ条件の概念だとする)仮象の上に成り立っていたのである。したがってこのアンチノミーは、論理的な虚偽にもとづいたものであり、思い違いであったといっ
てよいわけである。結局のところ大切なことは、①と②の峻別ということになる。すなわち因果関係に二種類の異なるものがあるということを知ることである。
次にあげるカントの文章は、この二種の因果関係を明確に定位している。
生起するものについては二種類の因果関係しか考えることができない。自然にしたがう(nach der Natur) 因果関係なのか、それとも自由による(aus Freiheit) 因果関係なのかのどちらかである。( 中略 ) ……ところで現象の因果関係は、時間的条件に基づいている、したがってもし前の状態がずっと存在し続けているとしたら、時間的に初めて発生するような作用をもたらすことはできない。こうして、生起し発生するものの原因の原因性は、それ自身また発生したものであるから、悟性の原則にしたがってさらにそのまた原因を求めねばならないことになる。これに反して、私が宇宙論的意味において自由というのは、ある状態をみずから始める能力のことである。したがって自由の因果関係は、自然法則にしたがって時間的に規定するような別の原因にふたたび支配されることはない。この意味において自由は純粋な超越論的理念である……。22
この文章の下段で言われているように、宇宙論的意味の自由、すなわち第一原因としての自由とは「ある状態をみずから始める能力」である。この自由をまた「超としての自由とは「ある状態をみずから始める能力」である。この自由をまた「超越論的自由」とよぶのである。理性にはこの超越論的自由がある。「超越論的」とは自己自身に関係することであり、他の支配を受けることがないことを意味しているが、また、この自己関係は自発性を意味し、己自身を知るという自己知をも意味している。この超越論的自由によって理性は、現象世界に規定されることのない自分自身の世界を獲得するのである。それは他によらず自ら思考することである。ところでここに一つ問題がある。それは自由による因果関係と自然にしたがう因果関係との関係である。すでに二つの因果関係は対立するものではないということは見た。しかし、それでは両者はまったく無関係かというとそうではないのである。結果である事象については共通するものである。異なるのはその原因の性格の相違なのである。つまり、ある現実の事象について、その事象は自然必然的に成立したものなのか、それとも自由 ( 超越論的自由 ) の原因性から生じたものなのかということである。つまり、ここに同じ一つの事象について二つの原因性が考えられるということになる。これについて、『純粋理性批判』でのカントの叙述とは離れるが、プラトンの『パイドン』に語られるものをあげてみたい。
(ソクラテスは牢獄で死刑の執行を待ちながら座っていて、友人と自分がここにいる原因について対話をしている。ソクラテスは、ここに自分が座っている原因について、ある人がこう語ったと友人に話しかける場面である)
僕 ( ソクラテス ) の身体は骨と腱から形作られており、骨は固くて相互に分離していながら関節でつながっている。腱は伸び縮みできて肉や皮膚とともに骨を包み、皮膚がこれらすべてのものを一つのものにまとめている。そこで、骨が関節の中で自由に揺れ動くのだから、腱が伸びたり縮んだりすることによって、僕はいま脚を折り曲げることができるのであり、この原因によって僕はここで脚を折り曲げて座っているのである、と。さらにまた、君たちといま対話していることについても、彼は他の同じような原因を語ることだろう。音声とか、空気とか、聴覚とか、その他無数のそのようなことを原因として持ち出して、本当の原因を語ることをなおざりにするのである。23
いうならばこれは、ある人が事象 ( ソクラテスが座っていること ) の原因として「自然にしたがう因果関係」を述べたということである。ソクラテスは、こうした説明を本当の原因とは認めない。
だが、本当の原因とは次のことである。アテナイ人たちが僕に有罪の判決をくだすことをより善いと思ったこと、それ故に僕もまたここに座っているのをより善いと思ったこと、そして、彼らがどんな刑罰を命ずるにせよ留まってそれを受けるのがより正しいと思ったこと、このことなのである。24
ソクラテスが本当の原因と認めるものは、自分自身の判断にあるという。どう判断するかは自分の自由である。彼はより善い、より正しいと思うほうを選んだ。その結果としていま座っているのだというわけである。すなわち、彼が座っているのは「自由による因果関係」によるものだということができよう。
しかしながらこの二つの因果関係は矛盾するのでもない。たしかに座るには身体的なもの ( 関節や腱など ) が原因とならなければ座ることはできない。だからそう説明する人がいても間違いとはいえないのである。しかし、そうしたこととは別にソクラテスを座らせている原因がある。それはソクラテス自身の価値判断であり、意志である。この判断、意志に働いているのはカントのいう超越論的自由である。つまり、自然にしたがう因果関係と自由による因果関係とは、座っているという事象において矛盾なく接合しているのである。カントも『純粋理性批判』において、「行為的主観」また「実践理性」という概念をもちだし、行為あるいは実践的な自由において、二つの因果関係は結びつくと語っている。 こうして、( 理性をもった ) 人間にとってすべての事象は自然の因果関係によって成り立つものであると同時に、自由の因果関係によって同時に成り立っているといってよい。「S は P である」という判断あるいは命題は、理論理性では「○○である」という事実判断であるが、意志 ( 実践理性 ) では「○○であるべき」という当為判断である。
人間が行為するということ、そこに実践的自由がある。そこではいかに自然にしたがった因果関係が作用していようと、それにもかかわらず自由による因果関係が働きうるのである。こうしてとくに自由の因果関係において、「意志」の意義が大きく浮かび上がってくるといえる。この意志論の展開は、『純粋理性批判』の後に書かれた『道徳形而上学の基礎付け』で論じられ、『実践理性批判』へといたる。
そしてカントの第三批判書である『判断力批判』は、正面から上に述べてきたような自然と自由の接合の問題に焦点を当てている。この書からの一節を引用する。
ところで感性的なものとしての自然概念の領域と、超感性的なものとしての自由概念の領域との間には、見極めがたい溝がたしかにあり、そのため自然概念の領域から自由概念の領域への移行は ( 理性の理論的使用を介しては ) 可能ではなく、あたかも前者から後者へのどのような影響も及ぼしえないような多くの相異なる世界が存在するかのようである。それにもかかわらず、後者の世界は前者の世界に対してある影響を及ぼすべきである。すなわち、自由概念はその諸法則によって課せられた目的を感性界のうちに実現すべきであり、したがって自然もまた、自然の形式の合法則性が少なくとも自然のうちで自由の諸法則にしたがって実現されるべき諸目的の可能性と調和し ( zusammenstimmen ) うるというように、考えられなければならない。25
つまり、自然界はたんに自然の因果関係にしたがってのみ規定されているように見え、自由の因果関係とは関係のないように思われるのであるが、じつは自然界の合法則性と自由が自然のうちで実現する目的が合致することが可能でなければならないのである。こうして自然の因果関係と自由の因果関係はいわば調和すると考えられるのである。
この『判断力批判』に述べられるところの展開は別稿に委ねざるをえない。カント哲学は人間哲学としての大きな意義をもっているが、それはまた自然と自由の関係の問題を論じた哲学でもあった。人間はもともと自然と関係する感性と、自由をもつ理性の関係性の中で生きているといえ、カントはこの関係性の中で哲学を追究した (* カントの「アプリオリな総合判断はいかにして可能か」という課題は、自然と自由の調和の問題でもあった ) のであった。
3 芭蕉の句の論理構造
ここでふたたび芭蕉の句に戻ろう。以上みてきたカントの哲学的観点は、芭蕉の句に即していかなることを語りうるか。「古池や蛙飛びこむ水のおと」という句について、カントの観点を踏まえて再度アプローチしてみよう。
まず句の「蛙飛びこむ水のおと」という部分であるが、この文章はひと連なりになっており、表象的にも理解しやすい。つまり、この文はひとまず自然の因果関係(「原因:「蛙が飛びこんだ」⇒結果:「水の音がした」」) を示しているといえる。しかし、俳諧としての文はそれだけではない。この文が自然にしたがう因果関係を示すだけならば、たんに即物的な現象の記述にすぎないことになる。少なくとも俳句、俳諧が文芸であるかぎり、この句が成立することにおいて、そこには作者のなんらかの主体的な関与があるとみられる。
「蛙飛びこむ水のおと」はたしかに一つの具体的な事象を示しているが、いまこの文章を判断・命題の形で書き直すとすれば、「水の音がしたのは、蛙が飛び込んだからである」、あるいは「蛙が飛び込んだから、水の音がした」ということになろうか。この判断は事実をそのまま描写した事実判断とみられるが、それと同時に、「そうあることが善い」あるいは「そうあるべき」とする判断、つまり価値や当為を内に含んだ判断とみることが可能ではないだろうか。もし可能ならば、ここには作者の主体的な関わりがあることになる。この句では、作者とはむろん芭蕉自身である。
つまり芭蕉の句において、この下句に示された事象は自然の因果関係だけで説明が尽くされるものではないということである。ここにカントのいう自由の因果関係という考えを適用するならば、この「蛙飛びこむ水のおと」という事象は、読み手である芭蕉自身の自由によって生じた事象とみることができるのである。つまり眼前の事象は、原理的に芭蕉自身が引き起こしたものとみることができるということである。逆に言えば、芭蕉がいなかったならば、この事象そのものも成立しなかったといえる。……しかしながら、通常こうした解釈はなされることはほとんどないし、もしあったとしても、そうした解釈はあまりにも主観的な観点であるとして忌避されるようにも思われる。そこで芭蕉自身がどう考えているかをみてみよう。
芭蕉に『笈おいの小こ文ぶみ』( * 芭蕉の死後、門人によって出版された ) という作品があるが、そのはじめに芭蕉自身の俳諧論が語られている。
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫
かん道どうする物は一いつなり。しかも風雅におけるもの造化にしたがひて四し い じ時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。
像かたち、花にあらざる時は夷い狄てきにひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を
出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。26
この一段は、はじめに西行、宗祇、雪舟、利休などをあげそれら優れた先人たちは皆、同じ天地自然 ( 造化 ) に立脚しているということを述べている。つづく「風雅におけるもの」とは芭蕉自身をさしているといってよい (* 作品の中では風羅坊という名の主人公 )。芭蕉もまた芸の先人たちと同じく自然にしたがい、四季の風物の中に過ごしているのである。
つぎの「見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし」との文は、田中善信によれば「この言葉は世俗的な世界にいながら、その中に美を見いだしていこうとする芭蕉の姿勢を示したもの」27 だという。芭蕉は世俗を離れるということをけっしてしなかった。世俗的な世界を離れて俳諧は成立しないというのが彼の基本的なスタンスであったと考えられる。この世界はたんに客観的世界ではなく、この世界はまた美の世界でもあるのだ。「見る処」すべて花であり、「おもふ所」すべて月なのである。これ以下の文章は「目で見たり心で思ったりするものが花や月のように美しくなければ、野蛮人や鳥獣と同じである。こうした粗野なあり方から脱出して、天地自然に身を任せ、そこへと帰るべきである」という意味である。 この芭蕉の文章は、一方で現実の事象をどこまでも重視し、自然の因果 ( つまり
世俗的な世界 ) から離れてはならない、しかし他方、同時にそこに美の世界をみるべきことを主張しているといってよい。美の世界、それは理念 ( イデー ) の世界である。
そこでは自由からの因果が認められる。つまり「自然を離れずそこにまた同時に自由を見いだすこと」、それが芭蕉の俳諧の哲学である。一つの事象に二つの因果がみられる。そのことは一つの文章 ( 判断 ) に二つの意義が込められているということに反映する。先に述べたように、ヘーゲルは「哲学の役割は表象を思想に変えること」と言っていた。一見、「蛙飛びこむ水のおと」は表象的文章であり、事実を記しただけのもののように思われるが、この文章に作者の思想を読みとるところに哲学の役割がある。ここに自由からの因果関係という観点を見出すとき、芭蕉の心を読むことに通じるように思う。
詩人タゴール (1794 - 1846) に「宇宙論」とのタイトルをもった論稿があるが、その冒頭に掲げられた詩はつぎのような文章で始まっている。
わたしの意識の色の中で エメラルドは緑となり、 ルビーは紅となった。
わたしが空に向けて眼を開くと、 光が東から西に輝きわたった。
わたしが薔薇を見て 「なんと美しい」と言うと、 薔薇は美しくなった。28
エメラルドがグリーンであり、ルビーが紅であることは自然の因果といってよい。
また登る太陽の光が東から西へと輝くこと、薔薇の美しさも自然のなすわざである。
しかし、この事象は同時に人間 ( タゴール自身 ) の意識が成立させているものであることを、この詩は明瞭に述べている。ここには自由からの因果の存在がはっきり主張されているのである。
ここに文芸あるいは芸術というものの普遍的な意義が示されているといってよいように思う。一つ一つの事象が自然のものであると同時に自由な人間自身のものであること、このことに気がついたとき、そしてそのことを表現したときにだけ真の文芸作品が生まれるのだということである。この点において芭蕉はタゴールとも通じるものをもっているといってよいように思う。芭蕉の句における句頭の「古池や」の意義についても再度考える必要がある。この詞が切れ字であって、他の文とはある距離をもっていることについてはすでに注意した。句の中に一つの別次元をもちこんでいるといってもよい。これについて長谷川櫂は、「古池や」を心の世界としているが、たんにそうした意味だけではないと思う。長谷川は「俳句は「場」の文芸である」29 とも言っている。氏の言わんとするところは、俳句ができるのは「場」があるからであり、俳句の言葉はこの「場」を前提にしている ( したがって読む場合もこの「共通の場」に参加することが必要である ) ということである。筆者 ( 石神 ) はこの長谷川の表現を俳句全体ということではなく、むしろ切れ字に当てはめて考えてみたい。つまり、「切れ」において「場」が示されるということである。
筆者のこの解釈の背景には、西田哲学がある。西田哲学は「場の哲学」ともいわれるが、それは「何かがあるということはそれを成立させている場がある」とする理解の立場である。この意味で、芭蕉の句を見てみた場合、「蛙飛びこむ水のおと」という事象が成り立つということは、それを成立させている場があるということにほかならないということである。
「蛙飛びこむ水のおと」が二義性をもった文だということを述べた。すなわち、自然的因果と自由の因果である。この両義は句の中でけっして対立するものでなく、異なるものでありつつも両立し、むしろ両者がある意味で結合しているとみるべきである。さらにいえば芭蕉という人間の中で、この両義は調和し一つになっていると考えられるのである。「造化にしたがひ造化にかへる」とは、二つの因果が調和している姿のことを表したものではないだろうか。
つまり、ここにはたしかに芭蕉自身における「場の開け」があるといえる。それは科学的な客観世界の展望でもなく、また心理的な内面世界の洞察でもない。芭蕉に開かれた「場」とは、自然世界であると同時に人間世界であるという「場」である。言いかえればそれが文芸の「場」であり、他の諸道と同じく俳諧がそこで精神的な高みをもちうる「場」である。そしてそれはまた自分だけの世界ではなく、共通の世界でなければならない。なぜならば、俳諧は個人のものではなく、皆のものだからである。皆が共有するもの、それは自然世界であり、人間世界である。この「場」においてこそ、真の文芸が成り立つのである。それゆえ芭蕉は「古池や」という詞を句頭に置いたのだと考えられないだろうか。
支考が「葛の松原」で言うように、「古池や」はのちに加えた詞である。芭蕉が「蛙飛びこむ水のおと」と詠んだとき、芭蕉はこの詩文に自分の俳諧のあるべき姿を知った。そして、二つの因果のありかたを全体として成立させている場について思いをこらした。とその時、その「場」として浮かび上がったもの、それが「古池」であった。古池という場においてこそ、「蛙飛びこむ水のおと」という命題が成り立つのである。華やかな「山吹」ではない。「古池」という、誰もが知っている共通の場でありながら、しかし通常は意識から隠れている古層ともいうべきものを芭蕉はあえて拾い出したのである。
このことによって、「古池」はにわかに歴史の古層から蘇り、その存在の大きさが示される。それは共通の場の開示でもある。いわば眠れるものが目覚める、その本来もっているポテンシャルを示すにいたるということ、このことを芭蕉は「古池や」で示す。こうして芭蕉は、新しい自分の立場を古来の世界に根づいたものとして世に示すことができたのである。「古池といふ五文字は質素にして實じつ也。實は古今の貫道なればならし。されど華實のふたつはその時にのぞめる物ならし」( 前出 )という支考の言葉は、こうした経緯を語るもののように思われる。
芭蕉の「古池や」の句は、こうして蕉風といわれる新しい俳諧のあり方を示す代表的な句となった。ここには芭蕉という人間が躍如している。そして彼は、新しい境地をさらに深めるために旅に時を費やし、弟子や知己を訪ね、多数の歌集を撰し、驚くべき文芸活動をしていったのである。「古池や」の句を詠んだ 1686 (貞享3) 年以後、よく知られた旅だけでも「鹿か島
しま詣もうで」(1687)、「笈おいの小こ文ぶみ」( 同 )、「更さらしな科紀き行こう(1688)、「奥の細道」(1689) と続いている。子規はこれをさして「芭蕉死後かつて漂泊の境涯に安んじたる俳人を見ず」30 と述べている。そして、なくなる 4日前に「旅に病やんで夢は枯野をかけ廻めぐる」の句を残した。そのとき七・五を「なおかけ廻る夢心」とも詠み、弟子の支考にどちらがよいかと尋ねたという31。実際、彼は旅において病気になったといわれるが、なにもそのことを句にしたのではなく、それほど旅を求め続けたということであろう。芭蕉は旅において自然と自由の調和に生きた人であった。つまり、彼にとっては旅こそが彼の生きる「場」であったと考えられる。
注
1 文中括弧内に * 印を付した説明は本稿筆者による。以下同じ。
2 Hegel, Enzyklopädie Ⅰ , Suhrkamp,§20.
3 『校本芭蕉全集 第七巻』富士見書房 , 1989, p.240.
4 『古典俳文学大系10 蕉門俳論俳文集』集英社 , 1970, p.219.
5 支考の「葛の松原」をめぐる解釈については、堀切実『俳聖芭蕉と俳魔支考』角川選書 ,
2006、長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんだか』中公文庫 , 2013 などの記述を参考にした。ただし、
本稿での解釈は筆者に責がある。
6 正岡子規「芭蕉雑談 ( ぞうだん )」、『明治の文学 第20巻 正岡子規』筑摩書房 , 2001,
p.161.
7 各務支考『俳諧十論』第一「俳諧の伝」、『日本哲学思想全書 第12巻』平凡社、1980,
p.36.
8 堀切実『俳聖芭蕉と俳魔支考』角川書店 , 2006, p.83.
9 上記、正岡子規「芭蕉雑談」p.161.
10 正岡子規『俳諧大要』岩波文庫 , 2002, pp.22-23.
11 山本健吉『芭蕉全発句』講談社学術文庫 , 2012, p.221.
12 上記、長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんだか』p.54.
13 同上 pp.65-66.
14 長谷川櫂『「奥の細道」をよむ』ちくま新書 , 筑摩書房 , 2007.
15 上記、正岡子規「芭蕉雑談」pp.165-166.
16 同上 p.167.
17 Kant, Kritik der Reinen Vernunft, Kants Werke Ⅲ , Akademie Textausgabe, B490. ( 訳
は『純粋理性批判(中)』篠田英雄訳 , 岩波文庫 , 1984, p.143 を参照した )。
18 ibid., B561. ( 同上 p.207).
19 ibid., B478. ( 同上 p.132).
20 この二区分は筆者なりにまとめたものである。
通信教育部論集 第18号 (2016年3月)
21 ibid., B527-528. ( 同上 p.176).
22 ibid., B560-561. ( 同上 p.206).
23 プラトン『パイドン』岩田靖夫訳 , 岩波文庫 , 98C-D.
24 同上 , 98E
25 Kant, Kritik der Urteilskraft, Kants Werke Ⅴ , Akademie Textausgabe, SS.175-176.
( 訳は『判断力批判』序論Ⅱ , 牧野英二訳 , 『カント全集8』岩波書店 , 1999, p.21 を参照
した )。
26 『古典俳文学大系5 芭蕉集』集英社 , 1970, p.456.
27 田中善信『芭蕉』中公新書 , 2010, p.234.
28 『タゴール著作集 第7巻』森本達雄訳 , 第三文明社 , p. 319.
29 長谷川櫂『俳句の宇宙』中公文庫 , 2013, p.13.
30 上記、正岡子規「芭蕉雑談」p.194.
31 支考「笈日記」,『日本俳書大系 第3巻』日本俳書大系刊行会 , 1926, p.12.
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