弘法大師の道

 https://kobodaishinomichi.jp/kobodaishi/koubou_01.html【01日本人にとって山は聖なる場所】より

「修験道の魅力とは、日本人がこれまで持ってきた山との関わり方だと思うんですよ」(田中)

田中:ここ金峯山寺は修験道という山伏が修行に来る寺で、吉野から熊野にいたる大峯山系を中心とした山岳修行の根本道場です。

開祖役行者(えんのぎょうじゃ)以来1300年にわたって、行者たちが命がけで修行をし、あるいは山に籠り、行じ続けてきた聖地。大自然の中に神仏がおわしますことを前提として、自分を高め、磨いていく…そういう世界に入っていく道場なのです。

夏には各派の修験のお寺が、奥駈修行といってこの大峯山系の行場を行じるのですが、例えば、ここ金峯山寺の蔵王堂という大きなお堂を出発し山中に入っていくと、だんだんお堂が祠になり、祠がなくなって木や岩になる。建物はないけれどそこに神仏がおられて、神仏と共に行をおこない、そこに祈りを捧げていきます。

修行は朝4時頃から夕方15~16時頃まで1日11~12時間歩き続けますが、ただやみくもに歩くのではなく、1日におよそ15~20カ所の「靡(なびき)」という拝所に祈りを捧げます。「靡」は山の中に入っていくと大木になったり、岩になったり池になったりします。

まり自然そのものに神仏がおられて、そこに自分を超えた聖なるものを感ずる。

“歩かせていただく”、と感じるわけですね。そういう心の在り様がいちばん大事であって、普段の自分の心の中に持っているいろんな灰汁(あく)のようなものが行を通じて解けていくんです。

また「懺悔懺悔六根清浄(さんげさんげろっこんしょうじょう)」という掛け念仏を急坂に来るたびに唱えますが、「さんげ(懺悔)」とは、人間が犯したいろんな罪や間違いを、神仏の前でひれ伏して清めていただくこと。そして一度死んで生まれ変わるという「擬死再生」を行の中で体験する、これが山伏の修行なのです。

奥駈修行は吉野から熊野まで歩きますが、それは単に熊野に行くことが目的ではなくて、吉野から熊野に至る行者道・奥駈道で身心脱落するような経験をしながら歩き、神仏との関係の世界を持つことが大事なのであり、その結果、最後には熊野に至るということなんです。 こうした日本人が古くから自然の中で感じてきた、その豊かさ、そして脅威や怖さ…自然は怖いですからね、晴れていてもちょっとした天候の加減で遭難したり、危険が伴う。

そういうところに身を置いて、自然と直に対峙をし、人間の力を超えた世界に触れ、人間性を取り戻したり、自分の悪いところを清めていただく。そういう行として山を行くのであって、西洋登山のような自然を征服するとか、人間のある種の満足感を達成するために行くとか、そういうものではない。修験道の魅力とは日本人がこれまで持ってきた神仏との関係、信仰的な世界に裏打ちされた山との関わり方だと思うんですよね。

https://www.youtube.com/watch?v=qe1KyrXikpU

https://kobodaishinomichi.jp/kobodaishi/koubou_01-02.html 【特別対談 修験道とトレイルランニングは似ている?】より

鏑木:そうですね。僕がやっているトレイルランニングはスポーツですけれど、お話を聞いて共通点がすごくあると思いました。

山を走るランニングですが、常に自然と対話しながら走っているんです。やみくもにピークを目指すのではないというお話がありましたが、まさにトレイルランニングもそうで、自分自身あるいは自然との対話です。

山伏の方々のように山を巡りながら拝む、といった行為は私たちはしませんが、気を感じる場所では立ち止まってふと自分自身に問いかけてみたり、あの場所に行くんだ、ということが目的ではなくて自分の足の向くまま、気の向くままに山を楽しんで帰っていく。

時には自然の中で風雨にさらされたりいろんな危険もあります。そういった中で自然と上手くやりとりしながら、自然を征服するのではなく、自然の流れの中で上手く自分自身を、活路を見出して走る、そういったところに魅力があるんです。

どうしてもトレイルランニングというと、ただ山を1分1秒を争って走るというイメージがあるんですが、そんなことはないんです。いちばんの醍醐味は山を走ることによって自分自身がわかるんですね。

10時間以上歩き続けるとおっしゃってましたが、まさしくそうで、私たちも時に20数時間ぶっ通しで走る中で、ホントに自分自身の精神が壊れていって、幻覚の世界でいろんなものが見えてくるんです。

疲労の極限の中で山中を走っている時に、自分自身が一体何者なのかが初めてわかるんですね。あ、自分っていうのはこういう人間なんだ、と普段ではわからない本当の自分の姿がわかる。私たちは信仰心から走っている訳ではありませんが、そうしたメンタリティという部分では似てるなと思うんです。そういう意味では、吉野や熊野の山を走るということは私たちにとっても魅力的です。

田中:初めて修行に来られた方を「新客」と言うんですね。私たちの修行は、私のように

何度も行っている人間も、初めて来た人も同じように一緒に歩く。その時、新客の人に常に「我を捨てましょう」と言います。

都会の生活、日常生活では何でも自分中心に生きている部分があるじゃないですか。けれど山に行くと都会で生活している論理というか、いわゆる自分の都合を山に持ち込むのではなくて、神仏の山の世界の在り方に合わせること、それが修行なんです。自分の自我を持ち込んだままではその世界に入っていけないので「我を捨てましょう」と言うのです。

難しいんですけどね、なかなか捨てられるものではないのですが。でも歩き始めて6時間くらいはみんな元気に歩いていても、8時間も超えてくるとね、「なんでこんなことしてんねん」と愚痴が出る。更に「懺悔懺悔六根清浄」と1時間くらい唱え続けていると、「なんでこんなにしんどいのに声出さなあかんねん」とかいろいろと思うわけです。それでもそれがさらに、10時間も超えると「まあ言われるようにしよ」、「終わりと言われるまでしよう」とあきらめが出てくる(笑)。却ってすんなりと我を捨てて、我の塊であった自分が消えて、ちょっと素直に、「俺もこんなんでええのかな」とか「重荷がとれたな」とかね、そういうことになるんですね。

ただちょっとトレイルランニングと違うと思うのはね、その歩く行為の中に、自分を超えたもの、それは神でも仏でもいいのですが、そういうものとお経を唱えながら対峙する時間や相向かう時間があって、それによって自分の我がとれていくような、気づきが生まれるような…そんな儀礼というかシステムが山の修行の中ではまさに1000年もかけて作られてきた、そういう凄さというか、心地よさがあるんだと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=xqoNZlZ_gG4

https://kobodaishinomichi.jp/kobodaishi/koubou_01-03.html 【特別対談 03 日本版トレイルランニング】より

田中:ちょっとお聞きしたいのは、トレイルランニングというのは欧米で始まるわけですが、一神教の世界というのは、自然と人間が神の同心円にはいないんですね。日本人の神仏は、人間の同心円の中にいて、自然もあって、神が超越していない。これに対して神が超越している一神教というのは逆に言うと、神と契約した、帰依した人間はどのように自然を切り取ってもいいという、そういう論理が実はあって、その道筋で自然を征服してきたし、平気で自然を切りきざんできたのです。でも私たちの自然との関わりは、自然の中に神仏がおられ、その中に入らせていただく。そういう基盤を持っているので、自然に対する想いの形が違うんですね。最近の日本人はある種、豊かになりすぎたせいもあって、どこか心が壊れかけているところがありますが、それでも日本人としてのDNAの中に自然との関わりを大事に守ってきました。逆に欧米の人たちはそうじゃないところから始まっている。西洋登山の歴史はわずか200年程度なんですね。昔の欧米人にとっては森や山というのは悪魔が棲む場所でそこには入っていかなかった。欧米の森は一度自然を平らにしてもう一度木を植えたと言われます。

日本人は自然そのものをそのままで尊んできた。だから「お山」に入ると、そういう敬虔な想いを自ずから取り戻すと思うんです。欧米発のトレイルランニングはその辺はどうなのかなあ、と。

鏑木:そうですね。僕も海外のレースやフィールドを走るんですが、すごく景色がいいんですね。だから海外のフィールドはいいのかなと思っていたんですけど、日本に戻ってきてしっとりした森の中を走ると、また海外とはまったく違った雰囲気を感じるんですよね。

僕がみなさんによくお話しするのは、トレイルランニングをする時に山と喧嘩しちゃダメだよ、ということです。

山を征服している、とか山に勝つんだ、みたいな気持ちでいっちゃうと自分がダメになってしまう。上手く山と仲良く、トレイルを仲間や友達だと思って走らないと自分が潰れちゃう。そこをよく話しますね。

山岳信仰と似ているところがあるかどうかはわからないですが、先程の同心円の中に神様がいるというお話と同じような感じです。

確かにトレイルランニングはもともとは西洋のスポーツなんですけれども、実は僕は「日本版トレイルランニング」というのがあってもいいんじゃないかなと思っているんですよね。もっと山のことを知ったり、山の持つ歴史を知ったり、宗教的な部分もあってもいいと思うんですよね。そういうものを感じながら山を走るスタイル、それはまた西洋にはないスタイルなので、そういったスタイルのトレイルランニングをこれから自分自身でやっていきたい。

そういう意味では、修験道というものに少しずつ近づいてきているのかなあ、なんて思ったりはしているんですけれどもね。

田中:やはり日本人が持ってきた自然との関わりとか、いろんなものとの関わり方というのは、欧米人が持ってきたものとは明らかに違うところがある。

だからトレイルランニングでも日本で関わっている方は、DNAの中に自然に対する畏怖とか敬虔な想いをお持ちなのかなと思います。

日本人は近頃は何でも欧米化していって、自分たちが持っていたものを少し卑下するところがありますが、本当は欧米人が憧れるようなものを今なお持ち続けているというところがあるんですね。

欧米で育ったやり方をそのまま日本に通じさせるのではなくて、今おっしゃったような日本的な形で新たな魅力を創り出すことが、本当の意味での日本人にとってのトレイルランニングになると思いますし、神との関係、仏との関係、信仰的なこと、あるいは人間の生きている根源的なことがわからなくなった現代において、そういうスポーツを通じて実は日本人が長く大事にしてきた世界に触れることができる、安心できることが大事になるような気がしますね。

鏑木:先日、熊野古道を走るというイベントをしたのですが、参加者が言っていた印象深い言葉があって。「普通の山道を走るのもいいけれど、宗教的な意味がある、昔からいろんな人が通ってきたいわく因縁のある道を走るというのはプラスアルファの喜び・楽しみがある」と。

そういうスタイルこそまさに西洋にはないスタイルです。そうした部分をぜひ若い方にも感じていただきたい。

いいきっかけになればいいなと思っているんですね、トレイルランニングという新しいスポーツで。

吉野や熊野には素晴らしいフィールドがたくさんありますので、いろんな形でご紹介していけたらなあと僕は思っています。

田中:ひとつお願いがあります。欧米的なものというのは常に自分たちの論理を自然の中に持ち込もうとするんですね。

我々は歩かせていただく・入らせていただく、そういう日本人が大事にしてきた自然との関わり方を守ってきたという自負があるのですが、日本人のトレイルランナーの人たちにもそういうものを持って山に入って欲しい。

我々の修行の参加最低条件は、地下足袋で行きましょう、ということです。

地下足袋は実は痛くて、ランニングシューズとかトレッキングシューズのほうが足は楽になるんですよ。だけど我々にとって山というのは神仏の世界なので、山が傷ついて痛がるようなことはしない。

ストックも使用しない。我々は金剛杖という木の杖を使う。木ですと岩を突くと木が摩耗していきますが岩はそんなに傷まないわけですよね。

そういう自然に対する労わりや、そこに神仏を感ずる計らいみたいなものをアイテムとしても持っているわけです。

地下足袋ホントに痛いんですよ。あれが痛いから行きたくないという人もいるくらい痛いんです(笑)、でも足の裏を通して岩の痛み、自然の息吹、息遣いみたいなものを感じられるんですね。

そういうものをどこかで持っていただければ・・・。

鏑木:確かに普通の山道を走るのとはまた違う意味があるなと思うんですよね。言ってみれば「郷に入っては郷に従え」という言葉のように、意味がある道にはなぜ意味があるのかということを理解して、そのルールに従って行動するということはすごく重要なことなので。

田中:ひとつ大きなルールがありましてね。山上ヶ岳一帯は女人禁制なんですね。

女人禁制の在り方はいろいろご意見があるとは思うんですが、少なくともあの山を信仰の山として守ってきて、今に続いている意味というのは、信仰に関わっている人間がこれからどうしていくかというのが非常に大事で、そうじゃない人たちが自分の論理で壊していくというのは違うと思うんですね。

先程言ったその山が持っている歴史・風土を尊びながら入らせていただくのであれば、自分たちは関係ないからと土足でふみにじっていくような、自分の論理を持ち込んでいくというのは非常に問題も多い。無理に入っていかなくても回り道をすればいいだけですから。

鏑木:ええ、金剛杖の話も地下足袋の話も女人禁制の話も、きちっとした意味のあることですから、意味のあることをちゃんと理解しておこなうというのはルール、スポーツもルールがありますからね。

トレイルランニングは最もそういうところ、自然環境と対峙しなければならなかったり、いろんな歴史も重んじなければならないというところもありますので、しっかりと守らなければいけないなと思っています。

https://www.youtube.com/watch?v=-T1nKToY5lQ

https://kobodaishinomichi.jp/kobodaishi/koubou_04-04.html 【03 手ごたえを感じるまであきらめない生き方。04 空海の人生を変えた吉野~高野の道をたどる。】より

村上:空海は大学を中退するのですね。当時、大学に入ると官僚の道を歩むので、一族もそれにすがっているのですが、それを捨てる、ある意味では親不孝者になるのですよ。

それでも、自分が衆徒僧となって何かつかみたい、仏教の教えの中で何かをつかみたいと、そういう気持ちでいくわけです。そういう気持ちにさせたのが、吉野から高野の道なのですけれども。古代の道っていうのは尾根道なんですね。稜線を歩くのですけれども、必ず案内人がいるんですよ。そして、神の山も通りますから、許された人しか入れないわけですよ。

天平:はい。

村上:そうすると、さっき言ったように、山は川の源流ですから汚しちゃいけないので、そこへ入っていくためには、源流を神としてまつっている部族と一緒に行くわけです。山を歩きますので、山人ですね、犬を連れた猟師。お大師さんが歩いた、紀の川沿いの神というのは丹生の神なんですよ。

天平:丹生? 丹生川上神社の?

村上:まさにそうなんです。丹生川上神社に関係する部族ですね。その山人に連れられて、吉野に入って、そして1日で南の大天井ヶ岳あたりに行っていますけれども、それから西へ2日かけて高野に入った。そして、天野の丹生明神ですね、そちらのほうへ下りて行ったのだろうと思うんですね。そのコースの分かれ目というのは、紀の川の分水嶺だと思っています。そこから南は熊野のほうへ流れていて神が違いますので、だから多分、南の方へは行かなかったのだろうと思うのですね。

天平:部族によって通っていいところが決まっているんですね。

村上:そうですね、山って言うのは、今でもそうですからね。

天平:僕、天川村へよく行くんですが、大峰山も通ったんですか?

村上:そうです、多分。大峯の山々が見えるのですよ。弥山とか山上ヶ岳が。多分、雪を少し頂いていた頃だと思うのですよ。獣が動かない時期が一番安全ですから。それは雪の頃でしょ。熊とか、蜂とかね。その頃だと大峯の高い所に雪が積もっていますから、実に神々しい感じだと思うのですね。

それから実際に金峯山の山、山上ヶ岳には確実に入っていると思います。ひょっとしたら弥山まで行っているかもしれないのですよ。後でね。そういう中で養われた、畏敬の念を持ったと思うのですよ。紀伊半島の雰囲気が大変な魅力になった…。

天平:肌で感じて。

村上:そうですね。だから、皆さんにもこれから歩いてほしいですね。

吉野から高野の道っていうのは、今でも歩ける峰々なんですけれども、ただ、街道ではないのです。尾根道だってことはまず間違いないですから。そのあと、高野山へ来た時には吉野と高野を往復している可能性があるので、その時は洞川も通っているだろうし、と思いますね。ところどころ伝説が残っていますので。

その道をいっぺん歩いてもらって、追体験をしてもらえればありがたいなと思います。追体験というか、要するに、自然と出会ってほしいということですね。

天平:そうですね。

村上:紀伊半島のね。

天平:空海さんも肌で素晴らしさを感じた紀伊半島を、皆さんも肌で感じに来てほしいということですね。

村上:そういうことです。心の浄化っていいますか、古い遺伝子の中にある自然に対する畏敬の念というものを持ってもらえればいいかなあというふうに思いますけれどもね。

天平:そうですね。

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