Facebook髙橋 眞人さん投稿記事
こんにちは。【今日の名言】野口晴哉(整体術の創始者)
生きることは、楽しい。生を楽しむ心があれば いつも生は楽しく展開する。
生には死あり。死ぬことによって生きているといえる。生死は別ではない。我が内に常時うごめく死を見詰めて生きる人は、生を活かす。死を見ない人は生をゆがめる。
人間は楽々悠々生きていることが自然だ。むずかしいことを敢えてやりたくなり、苦しいことを敢えて耐える時は、そのことを、その要求するがごとく行なえ。苦しいこと、むずかしいことに取り組んでいる中にでも、快があることを見出すに相違ない。
健康法とか治療法とかが要るつもりになっているのは、知識に酔って、生の感覚が鈍くなっているからだ。
健康の原点は自分の体に適うように飲み、食い、働き、眠ることにある。そして理想を描き、その実現に全生命を傾けることにある。どれが正しいかは、自分の命で感ずれば、体の要求でわかる。
我あり。我は宇宙の中心なり。我に命宿る。命は無始より来りて、無終に至る。我を通じて無限に広がり、我を貫いて無窮(無限)につながる。命は絶対無限なれば、我もまた絶対無限なり。我動けば宇宙動き、宇宙動けば我また動く。我と宇宙は渾一不二(こんいつふに)、一体にして一心なり。円融無碍(えんゆうむげ=滞ることなく障害がないこと)にして、すでに生死を離れている。いわんや老病もである。
意識は、人間の行動を決定する要素の10%に過ぎない。
人間の生活で一番重要なものは、物の交換でなくて、気の交流であるといっても過言ではない。
ちょっとある人に会ったことで急に元気が出てきたり、ある人が見舞いに来たら急にショボショボしてしまった、ということは沢山あります。それはみんな、自分の体の中の気の動きで変わったり、人の体の気の動きで変わったりするのです。
人間は死ぬ。人間がこの世に生じて七千万年、誰も死んだ。死ななかった人間は一人もいない。それ故、これからも誰も死ぬ。そのありふれた死ぬということを人はなぜ恐れるのだろうか。疲れた者が眠るごとく、安らかな楽な気持ちで死ねないものか。
人が誰も死ぬと決まっていれば、十年生きたということは、十年死んだということになる。生きるということと死ぬということは、くっついている。
生きている中には、死に至る要素が半分を占めている。新陳代謝ということや、体の中の問題だけではない。丁寧に調べれば、誰のうちにも死に至る道筋がある。
だから半分以上の死の道があったとて当然なことで、病気視して騒ぎたてることはない。病気がなくとも死ぬのである。死ななかった人間は、かつて一人もいなかったのである。
死につつある、生きている現実を見つめて、体の生活法を考えることが人の智慧というものである。
精密検査をして何ともなくて、死んだ人は沢山ある。しかも、死に至る病をもって生きている人も沢山にある。
体の中に死に至る原因のあることは誰も同じだ。癌だけではない、脳溢血だけではない、肝硬変だけではない。その息している中にも、死に近づいている働きがある。生死一如(生と死は一体であること)と言葉でわかっても、実感として感じないのが生の魔術だ。
体が鈍れば、少しのことに反応を示さない。体質反応が鈍ければ、風邪もひかない。だから頑健のつもりでいる。死が近づけば鈍るのだ。だから死の間際まで、自分が死ぬということは誰も考えないでいられるのだ。しかし、心を静めて感ずれば誰にもわかる。
他の動物は皆感じているのに、人間は頭で考えるから感じられない。頭で生きているから体の鈍りに気がつかない。気がつかないだけではない。自らその鈍りを招いているのだ。
喘息の発作を止めるために、痛みを鎮めるために、発作を抑えるためにと、体を鈍くしているのである。しかし、これらは死の道である。死というとおかしいが、体を鈍くし、異常があるのに異常を感ぜず、異常に反応して体の働きを起こすことができず、安楽であるべき死を苦しんでいるのである。
死の苦しみはない。苦しいのは生の能力があるのに、死ななければならないからである。死は全体の麻痺である。快楽であるべきである。だから死ぬのは楽だが、殺されるのは苦しいのである。苦しいというのは生きているからである。
※6月22日は野口晴哉の命日(1976年)です。
Facebook人の心に灯をともすさん投稿記事【なぜ年々、時が経つのが早くなるのか】
清田予紀(よき)氏の心に響く言葉より…
目を覚ましたあなたの目にカレンダーが飛び込んできたとする。あなたはきっと思うでしょう。「1年が経つのってホントに早いな」しかも歳をとればとるほど、1年はどんどん短くなっていくように思える。子どもの頃はあんなに1年が長かったのに......。
なぜそう思うのでしょうか。その答えらしきものを世に発表した人がいます。
それが「ジャネの法則』の発案者ポール・ジャネ。ジャネは19世紀のフランスの哲学者。
甥にピエール・ジャネという心理学者がいて、その甥が著作で紹介したことでこの法則は世に知れ渡ることになりました。
その法則とは、「生涯のある時期における時間の心理的長さは、年齢の逆数に比例する」というもの。たとえば、30歳の人間にとって1年の長さは人生の30分の1ほど。でも、3歳の子どもにとっては3分の1に相当する。つまり、30歳の大人にとっての10年間は、3歳の子どもにとっての1年間にしか感じられないということ。
10歳の頃と比べてみても、30歳の大人にとっては1年が3分の1に目減りしているわけだから、それは短く思えて当然だろうというわけです。
逆に言えば、10歳の子どもの1日は、30歳の大人の3日分もあるということになります。
小学生の頃の夏休みは長かったと感じ、大人になってからの休暇があっという間に終わってしまうように感じるのも致し方のないことかもしれません。
心理学者の中には、こんな考え方をする人もいます。
子どもの頃は、見るもの聞くもの未経験のことばかり。
それら一つひとつが、強烈な思い出や記憶となって心に刻まれるので、時間が長く感じられる。
けれど大人になると、未経験のものはどんどん減り、“経験”によって処理できることが多くなる。
その分、新鮮さや強い印象が薄れる上に、無意識のうちにやってしまえることも多くなる。
だから時間を短く感じてしまうというのです。
これに似たことは、初めての場所へ行ったときなどにも経験することがあります。
ちょっと思い出してみてください。
行きは目的地に着くまでの時間はとても長く感じられたのに、帰りはそれほどでもなかったという経験をしたことはないでしょうか。
それは、行きは知らない道、知らない店、初めて見る景色など、新鮮な刺激をいっぱい受けるので時間が長く感じられるのに対し、帰りは一度見たものばかりで刺激が乏しい上に、無意識でも歩を進めることができるので時間を短く感じてしまうということ。
無意識のうちに行なうと、時間は相対的に短くなってしまうのです。
いつもの調子でボーッとスマホをいじっていて、「あっ、もうこんな時間だ」とあわてることになってしまうのも、同じ原理が働くから。
つまり、新鮮で刺激的なことを体験した時間は「長かった」ように感じられるけれど、すでに経験済みの判で押したようなことの繰り返しでは、無意識のうちに過ごしてしまう時間が増えるので、その結果、とても「短く」感じられてしまうということ。
歳をとればとるほど同じことの繰り返しが多くなり、新しい刺激を受けたり体験をすることは難しくなります。
だから、一日、そして一年がどんどん短くなっていくように思えるのでしょう。
ということは、歳をとっても未知の分野に積極的に取り組めば、新たな刺激を受けるので、それだけ時間を長く感じることもできるということ。
もしあなたが、子どもの頃のような時間を取り戻したいと思うなら、ぜひ新鮮な体験、たとえば知らない土地を旅したり、新たな恋にトライしたりしてみてほしいもの。
そのあいだはきっと、充実したひとときを過ごせるはずですから。
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子供の頃は、すべてが新しい経験。何をするにしても、初めてのことだからだ。
しかし、歳を重ねるほど、新しいことはなくなり、毎日が繰り返しとなる。
特に、定年退職後は、仕事もなくなり、テレビや昼寝、散歩など、毎日が同じパターンで、「もう一週間もたったのか」と驚くことになる。
だからこそ、歳を重ねれば重ねるほど、「新しいこと」に触れること、「好奇心を持つこと」「挑戦すること」「冒険すること」が大事。
それはたとえば・・・「最新のスマホを手に入れること」「最新ガジェットを買うこと」「便利なアプリを入れること」「最新のデジタル関連の情報を取ること」等々。
また、昨今、とりわけ大事なのは、「ChatGPT」を使いこなすこと。
日々、マンネリにならず・・・常に「新しいこと」に挑戦する人でありたい。
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