facebookHiroshi Kaneiさん投稿記事
君は“厄介者”とか“変わり者”と呼ばれた。間違っていたからじゃない——ただ、他と違っていたからだ。群れが疑問も持たずに崖に向かって突き進む中、君は立ち止まり、空を見上げ、風の音に耳を澄ました。そして、こうつぶやいた——「別の道があるはずだ」と。
黒い羊は群れに溶け込まない。溶け込めないからじゃない——そう“しない”だけだ。
あまりにも多くの「伝統」という名の崖、「普通」と呼ばれる檻を見てきたから。
だから一人ででも踏み出す。孤独でも——目覚めている。
波風を立て、静寂を破り、時に橋を築く。それは、群れが必要としていたことさえ知らなかった橋。すべての“黒い羊”たちへ。
君は静かなる革命。パターンの中のずれ。合唱の中の野生の一音。群れに馴染む必要なんてない。君は、前へ進むために、型にはまらない人生を選ぶために生まれてきたんだ。
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■黒い羊であるということ。---「黒い羊」は孤立ではなく、目覚めや先駆けの象徴
群れに逆らうことは、間違いじゃない。それは「目覚めている証」かもしれない。
伝統という名の崖、普通という名の檻——その先に、別の道があると信じるあなたへ。
あなたは静かな革命を起こすために生まれてきたんだ😇
facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
悲しみは
「私は、異なるものは異なるままに、助け合って共に生きるということが、この地球上に人類が長く生きていくために必要な原理だと考えておりますが、それは今とてもむずかしいことになっております。その途を開くのは何か、ということを考えてみますと、悲しみの共有ではないか、痛みの共有ではないか」。 (鶴見和子「邂逅」より)
悲しみは、人に子どもの心をとりもどさせてくれるといった言葉も、どこかで目にしたことがあります。
私たちは大人になるにつれ、強くあら「ねばならない」と教え込まれます。けれども、人生には、ただ立ち尽くすしかないような、言葉も届かないような悲しみがあります。
自分がどれほど無力かを、どうしようもなく思い知らされるとき。そのとき、私たちの中に眠る子どもの心が、顔を出すのかもしれません。ありのままの姿を、受け入れることができるのが「子ども」というわけでしょうか。
悲しみは、原初の感情ですね。
それはやがて変容し、「優しさ」や「寛さ」、「思いやり」や「まなざしの柔らかさ」へと姿をかえていきます。そんな意味でも、起点となるものです。
かなしい=悲しいと書き、また、哀しいであり、そして愛(かな)しいでもあり・・・。どこか祈りのようでもあり・・・だからこそ、悲しみの共有は、人と人とを深く結びなおす力をもっているのだと思います。
キラキラとまぶしい日にどうしようも悲しくなる、と友人が言っていたのを思い出しました。光にはまた影を見るのですね。愛が深いほど、悲しみも深いのです。
見えないものを見る力
日本人にとって「色」とは、赤や青といった区分ではなく、光の濃淡のことでした。たとえば「赤」は明るいことを意味する「明(あか)し」から、「黒」は暗いことを指す「暗(くら)し」から来ていると言われます。そして「白」は、ものごとがはっきりと現れるという「顕(しろ)し」からのように。
単なる感覚ではなく、光の本質を映すものでしょう。
色とは、光と影のあわいに生まれるもの。その光を、まぶしいと光のままに感じるのではなく、そこに陰があるからこそ立ち上がる「気配」や「深み」として捉えてきました。鋭い感覚です。
「おかげさま」という言葉にも表れています。
光だけでなく、陰(影)までも思いやる。それこそが日本人の感性であり、長くこの風土に育まれてきた「見えないものを見る目」なのかもしれません。
もうじき雨の季節を迎えていますが、ただ「雨」と言ってしまうには、この国の雨はあまりにも多彩です。
愛おしいように静かに降る「愛雨」、草木の成長と人の暮らしを助ける「慈雨」、天がそっと涙をこぼすような「天泣(てんきゅう)」、またたく間に通り過ぎる「村雨」や「驟雨(しゅうう)」・・・。
使われる漢字も美しければ、響きもまた趣深く、それぞれの雨にはそれぞれの物語があるのですね。
目に見えないものを感じとる力。移ろいを愛おしむ心。
それは、自然とともに生きてきた者としての、本分なのだと思います。田んぼがきらめいています。
●早々に真夏並みの暑さがやってきそうです。水分補給など、体調の管理には十分ご留意ください。
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