https://kyonsight.com/jt/miya/futaara.html【二荒山神社[ふたあらやまじんじゃ]】より
栃木県宇都宮市・馬場通り1-1-1
主祭神:豊城入彦命 配神:大物主命・事代主命
・『続日本後紀』
(巻五の巻末に)[承和三年836十二月]丁巳(13日)奉授下野国従五位上勲四等二荒ノ神正五位下[承和八年841四月]乙卯(15日)奉授下野国正五位下勲七(→四)等二荒ノ神ニ正五位上
[嘉祥元年848八月]甲寅(28日)奉授下野国正五位上勲四等二荒神ニ従四位下
・『日本文徳天皇実録』巻九
天安元年857十一月庚戌(17日)在下野国従三位勲四等二荒神充封戸一烟
・『日本三代実録』
[貞觀元年→天安三年859正月]廿七日甲申(27日),下野国従三位勲四等二荒神正三位
[貞觀二年860 九月]十九日丙寅。詔。下野國正三位勳四等二荒神社。始置神主
[貞観七年865十二月]廿一日戊辰。授下野國正三位勳四等二荒神従二位
[貞観十一年868二月]廿八日丙辰。進下野國従二位勳四等二荒神階加正二位
836年から国史に記録された由緒のはっきりしている有名社。「二荒の神」と「の」つきで呼ばれていた。
・本居宣長『古事記傳』二十三之巻 水垣宮巻にも記述がある。
「下野國河内郡,二荒山神社は,此豐木入彦命を祭ると云り。然もありなむ」
「二荒山ノ神社」と「ノ」つきで呼んでいる。
吉野朝時代の白星兜,建治三年1277の鉄製狛犬が保存されている古社で,規模も大きい式内社であり,詳しい紹介は多数あるので,そちらに譲りたい。
大通りに面して木製明神鳥居が立ち,広前の東西両脇には,かつて「うえのさん」と呼ばれた百貨店があった。2000年末に破産したため,跡地を更地にし,西に高層マンション,東に商業ビルを建築するにあたり,境内広場を石敷にして整備した。その後2008年10月12日に栃木県産の欅を用いて高さ9.7mの両部鳥居が新築された。
日光の二荒山神社は[ふたらさん神社]と称すが,宇都宮の二荒山神社は【ふたあらやま神社】が正式。市民は「うえのさん」と同様[ふたあらさん]と「さん」づけで呼ぶので,読み方を[ふたあらさん神社]と誤解している方も多いが,それでも[ふたらさん]とはいわない。『下野国誌』のルビは[フタラヤマノ]となっているが地元ではほとんど聞いたことがない。往古に宇都宮大明神と称したため[みょうじんさま]と呼ぶこともあったといわれるが,近年は聞いたことがない。
江戸時代の地図を見ると,中心部は神社が広大な面積を占め,参道南部の宇都宮城より広かった。城下町でもあったがむしろ門前町であった。
▉拝殿左手に女体宮(三穂津姫命)が鎮座するので,良縁・安産祈願にぜひ。お賽銭を忘れずに。
となりの,本殿左手奥に十社(県内式内社の神・看板写真参照・二神めの表記は『古事記』ふうに天兒屋命,『日本書紀』では天兒屋根命)。
朱塗りの鳥居群があるのは初辰稲荷神社(倉稲魂命)。ここにある石燈籠に刻まれている天明五年1785の文字が二荒山神社境内の中でいちばん古い。
拝殿右手に「お天王さん」と呼ばれる須賀神社(素戔嗚命),となりに市神社(大市姫命>『古事記』に大山津見神の娘として神大市比売[かむおほいちひめ]と表記され宇迦之御魂神と大年神の母)。須賀神社前の石燈籠は弘化三年1846。
▉2017年9月に県立博物館の「中世宇都宮氏」展に宝物の鉄製狛犬が展示された。和犬でおとなしそうな表情。背中に「建治三丁丑1277二月 吉田直連施入」の文字が見える。小生知る限り県内最古の狛犬で,次いで2番目に古いのは益子の長堤八幡宮の嘉吉三年1443木製狛犬である。いずれの狛犬も秘蔵され,ふだんは目にすることができないので知られていないが,特筆すべきことである。東照宮の寛永十三年1636,青龍神社の明暦四年1658が有名な狛犬だが,それより359年前の超貴重品。
同展では「奉修理明応七年戊午1498十二月十五日神主藤原下野守成綱」棟札も見ることができた。
▉91年前の資料を見つけましたので載せておきます。昭和九年『宇都宮市地誌』
▉マニアックな話題はこちら「宇都宮二荒山神社に伝わる高尾神」
▉記念碑・歌碑なども多数奉納されている。境内配置図や宝物写真,塩谷町喜佐見分祠解説も載っている当社のホームページをご覧いただきたい。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
神明帳十一社 河内郡 一座 大 二荒山神社 式内十一社 二荒神社 二荒山神社 (河内郡宇都宮)中里式部
*『下野国誌』嘉永元年1848脱稿 嘉永三年1850刊行
巻三 二荒山神社 河内郡 宇都宮駅 中里市正(本文略)
*『下野掌覧』万延元年1860
延喜式ニ載タル當國十一座 日光山大明神 宇都宮ニアリ
*『下野神社沿革誌』5巻49丁 明治三十五年1902刊
河内郡宇都宮市鎭座 國幣中社 二荒山神社 祭神豊城入彦命 大物主命 事代主命 宮司正四位子爵戸田忠友
本社は延奉(→喜)式内にして往時下野一の宮と稱す 明治五年1872縣社に列せられ次て國幣中社に昇格せらる 境地は市の中央に突起したる一高丘にして頂上に本社拜殿幣殿額殿神樂殿末社寶庫社務所等ありて社殿構造輪奐宏壯にして嚴粛人をして崇敬の心を生せしむ 此地甚た眺矚に富み遙に芙峰の白皚々たるを指し近くは筑波峰尖の碧⾭々たるを眺め西北には黑髪の連山正に呼へは答へむとす 亦眼下には全市街を俯瞰し手を以て攫み得へく脚を伸へて踏藉し得るか如し 境内には櫻樹を植ゑ春時に到れは萬花亂發遠望すれは霞の如く近けは瓔珞を綴るに似たり 實に此市の一勝地なりとす 故に日々士女の登拜するもの絶ゆることなし
鳥居下の由緒書き 鳥居額 明治十六年1883社号標
整備された大広前 下の宮から 神門 神門 神門手前の由緒書き 拝殿 拝殿 本殿
神楽殿 神楽殿 神楽殿額 神楽殿右手 神門 東側廻廊 廻廊内 廻廊内 廻廊内 廻廊内
手水舎 見晴し台 広々とした境内 拝殿左手 女体宮 女体宮と本殿 女体宮隣りに十社 十社 神庫 初辰稲荷神社 右:明神の井 明神の井解説
西から
塩釜桜 青銅製神馬 イチョウ イチョウ精子研究碑 須賀神社・市神社 須賀神社神輿
神門外の境内社・石碑 石段中腹左手右端から,剣宮(素戔嗚命),十二社(肇国の神・看板写真参照),弘化三年1846の鳥居と石燈籠つきが菅原神社(菅原道真公)。その奥の石碑は昭和50年代の筆塚と針霊碑。
石段中腹右手左端から,鳥居・石燈籠つきが松尾神社(大山咋神・中津島姫命),荒神社(素戔嗚命),水神社(罔象女[みつはのめ]大神)
西側の裏参道に東照宮(源家康公)が鎭座。本殿扉に徳川の三葉葵の金紋。右隣りに不明の石宮一基。「宮の細道」立て看板には通称の「おたりや堂」で紹介され,石段右手のライオンズクラブの標識には「東照宮」と書かれている。
ここから少し上った左手に巨大な「蒲生君平顕彰碑」が奉納されている。
拝殿右手の石碑などもこちらに掲載した。
最初の踊り場左右に境内社 石段左手 石段右手
右手松尾神社木鳥居 左手菅原神社石鳥居 左手
劒宮 十二社
菅原神社
菅原神社鳥居額 弘化三年1846 弘化三年1846
筆塚と針霊碑 松尾神社 松尾神社
明治九年1876石燈籠 荒神社 水神宮
見晴し台石垣 東照宮
東照宮 不明の石祠
徳川の紋 右:蒲生君平顕彰碑
蒲生君平顕彰碑解説 第十四師団建築記念碑 宇都宮市剣道連盟植樹
前田雀郎句碑 杉苗奉献碑
歌碑 戸田忠至の御神徳碑 上野勇一歌碑
蕪村句碑
2014年ポスター 2014年10月26日菊水祭 菊水祭
菊水祭 火焔太鼓 2014年おたりやポスター
下之宮
二荒山神社攝社下之宮
[ふたあらやまじんじゃ・せっしゃ・しものみや]
栃木県宇都宮市・馬場通り3-1
祭神:豊城入彦命
二荒山神社の元になった由緒ある古社。かつては現在の二荒山神社から南に尾根が続き,パルコあたりが盛り上がっており「池辺郷荒尾崎」と呼ばれた。別名を「小寺峯」といい,北西に鏡ヶ池が広がっていた。
崇神天皇の皇子豊城入彦命がここ小寺峯に三輪山の大物主命を勧請したという説によれば,推定2000年ほど前,つまり文字もない時代の創建と長く信じられてきた。
豊城入彦命から数えて四世から六世代後の下野国造・奈良別王による創建説によっても1600年ほど前の古墳時代の創建となる。
承和五年838に北峯の「臼が峯」に遷座し,後年「宇都宮大明神」と称したのが現在の二荒山神社である。臼が峯はこれによって「明神山」と呼ばれるようになる。発祥の地はそのまま「下之宮」として残され,お城から見て二荒山神社参道・明神馬場の北の先右手にあって西面していたが,本多正純が二つの峯の間を削って東西に大通りを造成した際に参道ともども分断された。
(このあたりは宇都宮市のホームページをご覧いただくと図解されているので一目瞭然です。)
1919年に宇都宮藩主となった正純は1622年に「釣天井事件」で失脚するが,秀忠暗殺画策の罪状以外に本丸石垣を幕府に無断で修理したこと,抜け穴を掘ったことが取り上げられている。したがって1620年前後に「大通り」を造成したことになる。
明治五年1872に戊辰戦争の死者を祀る「招魂社」が下之宮境内に建立される。招魂社は昭和15年1940に作新学院北の一の沢に遷座し,昭和22年1947彰徳社,昭和28年1953栃木県護国神社と改称する。
宇都宮は昭和20年1945に米軍の無差別空爆を受ける。戦後の復興期には,下之宮脇には「仲見世」と呼ばれた,大通りからオリオン通りまで南北に屋台を何十台も並べたような露店がずらりと並び,隣接して映画館や花屋敷などができ,県内随一の賑わいをみせることになる。昭和20年から昭和35年ころまでのことである。東京オリンピックを控え,昭和36年1961の都市計画で小さな丘だった小寺峯も平らに削られ,小ぶりの社殿が新築された。
その後,平成9年1995年3月8日に都市再開発によりパルコ西入口にコンクリート造りを主体に本殿が改築され,拝殿が新築された。桜花咲き誇るころ境内一面雪に埋もれるが如き風情はなくなったが長持ちしそうだ。
2010年ころにも年寄りは下之宮ではなく招魂社と呼んでいた。
なお,境内にあった「およりの鐘」は昭和19年1944に駅前の宝蔵寺に移されている。
*『下野神社沿革誌』5巻49丁 明治三十五年1902
河内郡宇都宮市鎭座 官祭 招魂社 祭神宇都宮藩主戸田忠恕 宇都宮藩士六十二人鹿児島藩士十五人山口藩士二人鳥取藩士七人彦根藩士四人 祭日四月十五日 社掌角田十郎
本社は明治五年1872十一月の勸請にて舊宇都宮縣知事戸田忠友及ひ同藩士一同の創建にして戊辰東征の役大義の爲に斃るゝものを祀りしものにて…境地は馬塲町臼ヶ峰の頂上に本社拝殿社務所等ありて境内には櫻樹を植へて社殿を圍繞し花時には滿地雪に埋もるゝか如く冷香水の如く人を撲て來り亦四方眺望絶奇なるを以て市中の子女來り遊ひ亦日々詣するもの少なからす
本殿
作法 由緒
本殿 手水舎 二荒山神社鳥居が見える
■延長五年927十二月成立の『延喜式』巻三. 神祇三. 臨時祭に「二荒神社一座. 下野國」
『延喜式』巻十. 神祇十. 下野國十一座. 大一座. 小十座に「河内郡一座. 大. 二荒山神社明神大」
2020年から遡ること1093年前に小生でも読める字で中央の律令の細則を定めた三大格式の一に記録された。巻九と十を『延喜式神名帳』と呼ぶ。「河内郡の二荒山神社」と記されたが,宇都宮と日光でそれぞれ当社こそ式内社であると主張している。
これには明治維新が大いに影響する。改元4か月前の慶応四年1868神祇官通達で権現,牛頭天王など仏語を神号とすることを禁止したため,栃木県では89%が「xx神社」に変更された。
このとき由緒も調べてお上に提出せよということで,どちらもすでに江戸時代には二荒山神社を名のっていなかった宇都宮大明神も日光三所/社権現・日光大権現も『延喜式』を根拠に「二荒山神社」で登録したことが混乱の原因になった。(正確には日光に神仏分離が実施されたのは明治四年1871一月)
日光は「都賀郡」であり修験道の聖地として認知されていたが,神社としては「河内郡」の宇都宮(宇豆宮,宇津宮)の方が妥当ではないか。
式内社論争については近年刊行された『栃木県神社の歴史と実像』(影山博,2019)『日光の三神』(吉野薫,2018)に詳しい。両氏とも式内社には宇都宮が妥当と述べておられる。
二荒山(男体女峰二霊峰)を遥拝するには宇都宮は遠すぎないかと思われるだろうが,勝道上人生誕の地芳賀からも二峰は遠望できるし,宇都宮からは冬場は特に霊峰にふさわしく白銀に輝いて望めるので,二階建ての文化住宅はもとよりビルジ!ングもなかった大昔はいかような光景が広がっていたか。
(補陀落>二荒説はいかにもありそうだが,補陀落が語源なら和歌山をはじめ全国に二荒が蔓延したに違いない。補陀落が二荒の文字に転換されるのも違和感がある。下野訛りと言われれば引き下がりますがw)
https://note.com/gam_bee_65/n/n22751e5236a3 【ここらへんの史跡をゆく【スピンオフ編】~ 補陀洛/ふだらく】より
ひと月ほど前「シリーズ⑮~久能山」の文末に、私のある疑問を書いた。
その疑問とは‥「久能山東照宮と日光東照宮を結んだ線上に富士山があるのは何故?」
家康は一度も日光を訪れたことがないにも関わらず、自らを日光に祀るよう(久能山からの移霊) 遺言を残している。
ネットや YouTubeを見てみると‥
古来より富士山は不老長寿信仰の霊峰であった。「富士」は「不死」に通じる。家康は、亡くなって久能山に祀られた後に、「不死の道」を通って日光に遷座することで、永遠の神になることを望んだ。
ほとんどの記事がこんな趣旨だった。私も「そういうことなんだろう」とは思うが、何かモヤモヤする。
そのモヤモヤは‥ 日光東照宮は家康の死後建立されたが、その場所にはずっと前から輪王寺と二荒山(ふたらさん)神社が存在していた。久能山の歴史もかなり古いと聞いた。であれば、「久能山、富士山、日光の配置は、東照宮以外の "別の必然" があったはず」ということ。
更に調べてみた(と言っても文献を漁った訳ではなくネットで)。
【久能山の歴史】 ※Wikipediaより要約
推古天皇の頃(592-628年)、秦氏にあたる秦久能忠仁が久能寺を建立した。山号は補陀洛山(ふだらくさん)。奈良時代は多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。平安時代に天台宗に改宗。時は移り1568年 駿府を制した武田信玄は久能寺を平地に移転させ、この要害の地に久能城を築いた。しかし武田氏滅亡とともに駿河は徳川家康の領有となり、久能城もその支配下に入った。家康の死後1617年 遺命により久能山東照宮が造営された。
【二荒山神社】 ※Wikipediaより要約
767年創建。日光三山をご神体として祀る神社。日光三山は男体山(古名を二荒山)、女峰山、太郎山からなる。その他の日光連山や華厳の滝、いろは坂も神社境内に含まれる。
「二荒山(ふたらさん)」の名の由来は、観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」から変化したものといわれ、後に空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたとする。空海の来訪は伝承の域を出ない。
【補陀洛山(男体山)】 ※コトバンクより
下野(しもつけ)の修験僧勝道上人(737‐817)は初めて男体山頂をきわめ,782年(延暦1)日光山を開いたと伝える。以来,日光山の主峰である男体山は補陀洛(ふだらく)山,二荒山とも呼ばれ,神体山としてまた修験の霊場として崇敬された。
【補陀洛(ふだらく)】 ※Wikipedia他資料要約
観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山。インドの南端の海岸にあるとされた。二世紀頃から観音信仰が大乗仏教に取り入れられるとともに、「補陀洛」は多数の経典に理想の地として描かれた。補陀洛思想は海上ルートで伝えられたことにより、東アジア各地に観音霊場として補陀洛山を成立させた。中国の普陀山、韓国の洛山、日本の熊野那智や日光などである。チベットのポタラ宮も同一語源。
***
古代より久能山と日光は、「補陀洛」で繋がっていたと考える。久能山には補陀洛山久能寺があった。男体山=補陀洛山⇒二荒山(ふたら)⇒にこう⇒日光への変遷から、日光は「補陀洛」そのものと言える。
私の想像は‥ まず奈良時代より前、駿河の海沿いに補陀洛山久能寺が創建された。そしてそこから「不死の山」を越えた遠く山あいの地 日光が修験の場となったのではないか。
補陀洛まんじゅう本舗 日光
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古代にこれほど精度の高い測量技術があったことは驚きだが、正確に東西南北を測ることはできたはず。男体山から富士山を見晴るかすこともできるので、この地理的配置は可能だったに違いない。
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【まとめ】
このレイラインは、発祥(古代)は「補陀洛ライン」、そして徳川の時代になり「東照宮ライン」になったものと考えます。
このライン上には、他にも関連する史跡が遺されています。
・鉄舟寺(旧 久能寺):静岡市清水区 1568年 武田信玄が久能寺を平地に移転させた際、ライン上に建立している。
・世良田東照宮:群馬県太田市 1644年 3代徳川家光の命により、徳川氏の遠祖の世良田義季の墓がある長楽寺の境内に創建。
・土津神社:福島県猪苗代町 このラインを更に北に延ばした線上に建立。1675年創建 徳川秀忠の四男 会津藩主保科正之を祀っている。
以上、新米歴史マニアの考察です。ご意見、感想をお聞かせ下さい。
< 了 >
※現在2月26日朝 4:45。大事なことを書き忘れていました。ふとんの中で思い出し眠れなくなって、今机に向かっています。少し書き加えさせていただきます。
鎌倉市材木座にある補陀洛寺は、1181年に源頼朝が平家打倒の祈願所として建立したお寺。頼朝は、戦いに観音菩薩の念持仏を帯同したほど観音信仰が強い人物でした。鎌倉観光公式ガイドには「頼朝の供養をここですることになっていたといわれています」の記述もあります。
大の頼朝ファンの家康は、このお寺の存在や補陀洛思想をよく承知していたはず。そんな家康が、補陀洛をその名の由来とする「日光に自らを祀って欲しい」と思うのは、極めて自然な成り行きだったと考えます。
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P.S. ハナ肇とクレージーキャッツの「ホンダラ行進曲」は1963年のヒット曲。サビ部分の「ホンダララ ホンダララ ホンダラホダラカホーイホイ」の「ホダラカ」は「補陀落」をもじっているそうです。作詞の青島幸男が浄土真宗の僧侶を父に持つ植木等に敢えて歌わせたのかもしれませんね。
2011年 キムタクのCM(マンダム)にもこの曲が使われていました。
https://www.youtube.com/watch?v=UZ9HDi0gbVU
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