下野國一之宮 「宇都宮 二荒山神社」

https://hinoki-apatite.hatenablog.com/entry/2024/08/14/191712 【下野国一之宮 宇都宮二荒山神社】より

どうも、ひのきですm(*_ _)mさぁ、宇都宮二荒山神社へと参りました

いちょう通りから御橋通りへ、小さいけれど素敵な川と橋だなと撮影しておいたのですが調べてみると昔は宇都宮城主と二荒山神社神主以外は渡ることを許されていなかったんだそうです

そのまま北上すると通りの名前はバンバ通りへと変わり大鳥居が見えてきました、想像以上に大きい!!

遠目からも分かる右手の玉垣が気になり、先にご挨拶するべきという気がしたのでそちらへ

こちらは宇都宮二荒山神社 摂社 下之宮

まだお店も開かぬ平日朝ですがなかなか賑やかな場所であるにも関わらずしっかりとした重厚な御神氣に溢れています こちらが元宮だったんですね!!

諸説あるようですが参拝後に調べたことも合わせ御由緒を纏めてみました

仁徳天皇48年(360年)、下毛野国の国造に任命された奈良別王が曽祖父である豊城入彦命を祀ったとされており(それ以前から大神大明神が祀られていたという説も)、下野国一之宮だったことからイチノミヤが転じて宇都宮になったとも言われている

元は下之宮が鎮座するこの場所も小寺峰と呼ばれる山になっており開発で徐々に削られ1961年にはほぼ平になってしまったんだとか、下之宮は途中で遷されたともずっとここで祀られたとも言われておりどちらかは不明、小寺峰と本社の臼ヶ峰を併せふたつの山があったことから二荒山神社とされたという説があるようです

賑やかな繁華街の一角とは思えぬ鎮まった空気、御祭神は本社t同じで豊城入彦命、配祀に大物主命と事代主命が祀られています

社殿裏の大通りは車通りも人も多いのですが不思議な緊張感と静寂に包まれた中、心身統一してご挨拶するとさぁーっと冷たい風が身を包む、、、あぁ、そうか、やっぱりお呼びいただいたんだな、二度寝やらかしたのに起こしてくださったんだな(でもなぜ呼ばれたのかは分かっていない)

では、、、いざ!! って!?!? 大両部鳥居ぃぃぃぃぃいいい!

す、すみません、、、両部鳥居マニアなもんで(*´д`*)ハァハァ

いやー、大鳥居ってその大きさだけでも十分凄いのにそれがさらに両部鳥居となるともうすっごいですね(語彙喪失)、失礼します!!

さぁ、石段だ!! っと、不思議ですね、この時点で物凄く氣が合うと感じ途中で振り返って眺める街も凄く良い、一歩一歩と登るにつれそれは確信に変わっていきました

なぜこれほど氣が合うのか、現時点では全くの謎でこの後色々調べても何もわからないかもしれませんが合う合わないに理由など無いのかもしれません

石段の途中で左右に境内社が並んでいました、まずは右手から

手前から大山咋命と中津島姫命(市杵島姫命)を祀る松尾神社

そしてひと際ズシンとした氣を放つお社は荒神社、三宝荒神かと思いなぜそんな覇気があるのかと思えば素戔嗚尊と書かれていて納得、京都今宮神社の疫神社と同じ感じで背後の木からも強いお力を感じます

そして最後のお社ですがなぜかこちらだけ立札が無く不明

こういう時に神様や眷属様とお話出来ればお教えいただけるのですが生憎そういった力は無いので暫し空気を感じてみる、、、うん、わからん(*´ω`*) でも凄く清らかな感じがするし水の氣が...? でも周りを見るも水は無いなぁ

調べてみるとこちらがなんと水神社...嘘やんΣ(゚д゚;) 公式な御祭神名を見つけることは出来ませんでしたが罔象女命でしょうか、脇に小さな川が流れている感覚になったのはきっとまぐれでしょう(*´ω`*)

そして三社を眺めて気づきました、それぞれのお社脇(後)に木があるのですが凄い氣を放つ荒神社の後ろだけ枝がワシャッとまるで指を前に何かを掴もうとする手のようになっています

他とは種類が違うのかわかりませんが、厄災を掴み取らんと前へせり出す木に強い有難みを感じます(写真だと立体感がイマイチ伝わりませんね)

続いて左手の境内社へ

手前は素戔嗚尊を祀る剣宮、同じ御祭神ですが荒神社とは異なりこちらは氷川さんなどと似た雰囲気です

知った上で参拝するならまだしも京都今宮さんの疫神社もこちらの荒神社もそうと知らずに同じ圧を感じるというのは巡拝していてとても興味深いところです

こちらは十二社、国常立神、国狭槌神、豊斟渟神、埿土煮神、沙土煮神、大戸之道神、大苫邊神、面足神、惶根神、伊弉諾神、伊弉冉神、天照皇大神、天忍穂耳神、彦火瓊瓊杵神、彦火火出見神、鵜葺草葺不合神が祀られます

そして道真公を祀る菅原神社です

その先には筆塚と、、、針霊碑?! つまり針供養なんですね、針霊碑という名では初めて見ました

そして石段を上がると立派な神門が迎えてくださいます

由緒や御祭神については後述にて

あぁしまった、写しきれていなかった(>_<) 琴平神社では狛犬が前脚で支える水盤でしたがこちらでは後脚(尾?)で支えています

水盤は素敵ですがそれ以上に清々しさを感じるのはなんだろう、後ろに回ると、、、井戸?!

なんとなく、じっくり境内の雰囲気を感じてからご挨拶したい気がしたのでゆっくりと境内散策

神門の左右回廊には奉納額などが掛けられていて、、、ぽ、ポップコーン自販機!? 全部うすしおでしたが絵のキャラクターが持っているバーベキュー味だったら面白懐かしくて買ってたかも(≧∇≦ )

なんと上部で繋がっている?!と角度を変えて見るとギューッと近付いて当たらず並んで延びていますね、凄く素敵な木だ(*´ω`*)

神楽殿も素敵ですね(*´ω`*)

よし、整った! 今回は始発から来て巡拝社絞ったので全てゆったりとしたマイペースで参拝しています(*´ω`*)

おっ、薄雲だけど暈がしっかり出てくれていますね(*´ω`*)

では、豊城入彦命、大物主命、事代主命へご挨拶!! 下之宮で既にご挨拶していたからか特に何も起こりませんでしたが

非常に重厚感ある素晴らしい拝殿内部で凄く引き締まるご挨拶が出来ます、そして何よりも凄く氣が良くてご挨拶を終えても暫く拝殿周りを離れたく無いなぁ、と感じるほどでした

社殿右手に神馬像、社紋は菊に三つ巴ですがこちらに三つ巴

こんなところに素敵な巨石が隠れていました、石好きにとっては堪らない(*´ω`* )

そして奥にお社は最上級に素敵な雰囲気です

また素晴らしい氣に満ちた本殿脇に祀られるこちらは素戔嗚尊を祀る須賀神社と大市姫命を祀る市神社の合殿

この静かなる癒し空間は見た目が私好みなだけでなく夫婦神で祀られてらっしゃるからでしょうか(*´ω`*)

なんとも可愛らしい表情で素敵な狛犬さんです(*´ω`*)

素晴らしい本殿も見えます、いやーここ凄く素敵だなー(*´ω`*)

そうそう、こちらの参道は正面ど真ん中に銀杏が生えているのですがこの木がまた素晴らしい氣を放っておりまして、はーと眺めていると枝々に沢山の乳が出来ていることに気付きました、夫婦神の正面ということがまた素晴らしい

続いて左手側へ

と、本殿真横にお社が!? っていうか瑞垣そのもの?!

なんとお名前は女体宮、御祭神は三穂津姫命

はて、、、と調べてみると ムハーッ となったので後述にします(オィ)

こちらは十社、素戔嗚尊、天児屋命、味耜高彦根命、武甕槌命、豊城入彦命、大山咋命、事代主命、下照姫命、誉田別命、日本武命と県内式内社の御祭神を祀っています

こうしてどういった神々を祀るということが書かれていると凄く助かりますね、無いと「なぜこの神が、どういった関係性が隠されているのか」と無駄に頭を悩ませるのでw

そして稲荷社ですが、二枝に別れる楠の後ろが凄く気になる!

と思えば井戸! 明神の井!!

参拝時は先に参拝した滝尾神社で宇都宮七水という名前だけは知りましたが他がどこなのか知らなかったので驚きました

横から入れるようになっているのですがよく見たら稲荷参道の鳥居途中からこちらへ来られるようになっています

井戸横に龍口がありまして、下方のハンドルを回すとお水が出るようになっています、流しっぱなしで無駄にならなくて良いですね(*´ω`*)

とっても清らかで気持ちの良いお水は宇都宮の名水で水質検査に適合しているけれど一応飲用は煮沸するようにとのこと、七木七水八河原、やっぱり宇都宮は水の街ですね(*´ω`*)

それではお稲荷様へ!! 朱鳥居と神狐さんが並ぶ素晴らしい参道

その先のお社もまた素晴らしくそしてビシッとした素敵な御神氣は Theお稲荷様 そのものです

心身を整え稲荷祝詞をあげさせていただく、いくつかの御神灯が円を描くようにくるくると揺れとても素晴らしい拝殿です

っぷはぁ~~~っ、最高に居心地が良い、どこもかしこも居心地が良い、街の雰囲気も良かったけれどとにかくこの山全体の居心地良さが凄い!!!

っと、まだまだ終わりません

境内左手から小路を降りていくと石段下へ、そして反対側の坂道を上がると神苑になっています。

のんびりと歩きながら何か違和感を感じてじーっと見ていると草土に石壁と同化した小さく背の低い祠が?! これだけ綺麗にされている境内で放置されているわけがないので恐らく何かしらの神様が祀られているのでしょう

神苑というより斜面が竹林になっている素敵な小径ですね、とても心地良く登っていくと神馬像の後ろに出ました

そして稲荷社脇から裏参道を降りたところに鎮座されるのが東照宮、徳川家康公を祀ります

以上! 盛り沢山でしたがどちらも凄く素晴らしい宇都宮二荒山神社でした!! この後は餃子を食べてスタミナを付け、最後の参拝地へと向かいます!

それでは後述です(*´ω`*)

いろいろあってどれからいこ(*´ω`*)←おいおいw

まず、実は日光巡拝を終え特に次の目的地も無いままちょっとのんびりしていた時、これまでずっと放置していたホツマツタヱを漸く読んでみようと腰を上げたのです

以降には界隈で偽書と断じられているホツマツタヱを読み齧った情報も少し混じりますのでご了承くださいm(*_ _)m

二荒山神社が二社あることについてはかなりの混同や錯綜が見られ難しかったのですが自分なりに考えてみました、以降 日光社 宇都宮社 とします

創建は日光社が767年(二荒権現としての開山)とされており353年の宇都宮社の方が古いことになります

927年成立の延喜式神名帳においては河内郡とされており宇都宮社がそれに当たる、日光社は都賀郡なので違うということになるので創建年と郡名からも宇都宮社が式内社ということになる

ではなぜごちゃごちゃしているかといえば日光社は後の創建であるが二荒山という呼び名と祭祀自体はそれより古かったと思われ、また日光社が大きく崇敬を集めることになったからなど諸説様々

由緒も古く郡名も合っている宇都宮社ですが宇都宮大明神として祀られていたのが神仏分離で二荒山神社に改めたという説もあったり時代毎の都合により社格を変更されたりしています

周辺に分詞される二荒山神社の御祭神を見るとほとんどが日光社の方(大己貴命と豊城入彦命という併せ技な社もあるようですw)ですがそれだけで日光社が式内社だと確定することは出来ません

個人的には郡を間違えて記載する事は無いと思う(思いたいw)ので式内社としては宇都宮社だろうと思うのですが両社を参拝した私にとっては当然ながらどちらも上下無くそれぞれに素晴らしいということ、ただ他の地域にも言えることですが歴史的肩書きや社格によって保護や補助、人気(つまり集まるお賽銭や寄付)が変わるので論社や一宮で論争となるのは仕方が無いですね

主祭神の豊城入彦命は崇神天皇の皇子で候補二人がそれぞれに見る夢によって次期天皇を決めるとされ、三諸山に登って東へ矛刀を振り回す夢を見た豊城入彦は東国統治を命じられ、三諸山へ登り四方へ縄を張り雀を追う夢を見た異母弟が後継に選ばれ垂仁天皇になりました

ちなみに豊城入彦って豊鍬入姫と似てるよな、と思ったら兄妹(どちらが上かわかりませんが)でした!! 豊鍬入姫は宮中より笠縫邑へ天照大御神を遷し祀った初代斎王です

毛野国の開祖とされる豊城入彦命を祀ったのは四世孫の奈良別王とされていますがその系譜を見て三世孫の名が御諸別王であることに気が付きました、崇神天皇の皇子達はなぜ揃いも揃って御諸山に登る夢を見たのか、なぜ豊城入彦の子孫に御諸の名が付けられているのか

そもそも御諸とは神坐す神聖な場所という意味だそうですが皇族にとって御諸山といえば三輪山でしょう、そして宇都宮二荒山神社は創建前に大神神社が祀られていたという説があるようです

そう、配神に大神神社の主祭神である大物主とその子とも言われる事代主が祀られているのです、繋がった!?

ではその大神神社は誰が祀ったのか、勝手に想像すると崇神天皇は御諸山の麓を都としており自身も御諸山の夢を見たわけですから毛野国へやって来た豊城入彦が大神様を祀ったとしても何ら不思議はない、そこへ子孫が開祖として豊城入彦を祀り主祭神になったのではないだろうか

そうだ!! 本殿脇に祀られていた女体宮はよく見れば瑞垣と一体化して扉となっておりその後ろがお社と考えれば本殿のすぐ真横、もしくは一体化していると思われるので単なる境内社とは思えない

日本書紀やホツマツタヱによると、国譲りの後に高皇産霊神から「后を国つ神だけ選んでいるのはよろしくない、我が娘を娶り皇孫に尽くすのだ(意訳)」と言われた大物主は三穂津姫を后にしたという

余り多くは無いですが三穂津姫を祀る主要な神社においては大物主の后とされていたり事代主と共に祀られているようです

ちなみに大物主と三穂津姫の御子は1人だけだったようですがその子が三代目大物主を継ぎ二人の姫との間に18人づつ36人も育てた事から子守神の名を賜り、夏越の大祓を始まりを作ったという、そしてその子孫が大田田根子なのだという(信じるか信じないかは…)

あれ?でも大神神社に三穂津姫って祀られてたっけ?と調べてみるとなんと三輪から北西に大物主の后神として主祭神に祀る大神神社の別宮だと伝わる(公式ではない)神社がありました、、、マジかっΣ(゚д゚;)

ホツマツタヱは偽書で創作かもしれませんが一部では日本書紀の また別の説では とも共通しており、もし真実であれば宇都宮社の流れや御祭神についても綺麗に繋がります

まさかこんな謎のタイミングで宇都宮へ急に呼ばれたのはホツマツタヱを読みこの流れを理解出来る条件が揃ったからなのか?! だから来なさいという事だったのか?!

豊城入彦命が誰の子かも知らず参拝してこれだけ繋がってくるなんて、あぁ、謎の使命感達が次々と意味を持ち繋がっていく

そしてこの日、最後の参拝社に選んでいたのはまさかの..


https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=20&r=96 【二荒山神社】より

二荒山神社はどのような歴史を刻んできたか

宇都宮二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)は、第10代崇神天皇(すじんてんのう)第一皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祀って(まつって)いると言い伝えられています。

豊城入彦命が天皇の命令により東国の経営のため派遣され、その東国を治めた功績もあり、それ以後豊城入彦命の子孫が東国にとどまって上毛野君(かみつけのきみ)・下毛野君(しもつけのきみ)となり、この地を支配したといいます。

神社に伝わる伝えでは、豊城入彦命の4世孫・奈良別王(ならわけのきみ)が、仁徳天皇(にんとくてんのう)の御代(みよ)に下毛野国司(しもつけこくし)に任じられ、この時、祖先神である豊城入彦命を現在の社殿南方約200メートルの荒尾崎(あらおざき)に祀ったのが始まりと伝えられています。

承和(じょうわ)3年(836年)には、朝廷より従五位下二荒神に正五位下の位を授けたとされ、時代を経るにつれて位も高くなっていきます。

承和5年(838年)に、荒尾崎から現在の臼が峰(うすがみね)に祀りました。

天慶(てんぎょう)3年(940年)には、平将門(たいらのまさかど)が東国で反乱を起こしたとき、これに対抗した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が宇都宮明神に平将門平定を祈り、乱が鎮まったことにさいして、正一位が贈られ藤原秀郷から甲冑(かっちゅう)・太刀・弓矢が奉納されました。

鎌倉(かまくら)時代康平(こうへい)5年(1062年)、源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)父子が奥州(おうしゅう)の阿倍(あべ)氏を討つときに戦勝を祈願し、その調伏祈祷(ちょうふくきとう)の功によって宗円(そうえん)が下野守護職(しもつけしゅごしき)となり、宇都宮社務職(しゃむしき)を兼ねることとなりました。 

以来社務職は、宇都宮氏が代々世襲(せしゅう)することとなり、二荒山神社は「宇都宮大明神(だいみょうじん)」として篤く(あつく)保護されていくことになります。

治承(じしょう)3年(1179年)には、源頼朝(みなもとのよりとも)が平家追討(ついとう)の祈願を行いました。

慶長(けいちょう)5年(1600年)には、徳川家康(とくがわいえやす)が関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)での戦勝祈願(せんしょうきがん)を行いました。


http://kofunnomori.web.fc2.com/other/kingsofeast.htm 【遥かなる東国へ……流され王の伝説 毛野氏】より

流され王の系譜

(略) 

東国を平定し、上毛野氏や下毛野氏の祖となったいう豊城入彦命は第10代崇神天皇の第1皇子である。

第1皇子でありながら、異母弟の活目尊(いくめのみこと・後の垂仁天皇)に皇位を譲り、大和から遠く離れた東国へやってきた理由を日本書紀は以下のように語る。

父である崇神天皇は豊城入彦命と活目尊の二人の息子のうちどちらを皇嗣とするか夢占いをさせた。その結果、弟を後継者とし、兄を東国統治の任に当らせることとした。

だが、天皇の長子である皇子に皇位継承の代わりに、東国の統治者としての権威と名誉を与えたというようなわけではない。

この時代、天皇は大和全域を支配下に置いたものの、まだ日本全域を掌握しておらず、東国も当然まだ「まつろわぬ人々」が住む地であったのだ。

豊城入彦命の崇神天皇は大和全域の支配権を確立し、余勢を駆って日本全域を支配下に収めるべく、四道将軍を任命し、平定行動を開始したとされている。

崇神天皇が10代天皇とされながらも、「御肇国天皇〈はつくにしらすすめらみこと〉」……すなわち、「初めて国を治めた天皇」と呼ばれるのは、この所以である。ちなみにこの時代に「斎宮」も始まり、豊城入彦命の同母妹である豊鍬入姫命が初代斎宮となっている。国家としての体勢が整いつつあった時代のようである。

四道将軍による全国平定というのは、大彦命を北陸に、武淳川別命を東海に、吉備津彦命を西海に、丹波道主命を丹波に遣わし、従わない者を討伐するように命じたというものである。

この中でもっとも有名なのが、吉備津彦命であろう。吉備津彦命が現在の岡山に向かい、土着の勢力を討ったのが、知らぬ者がない「桃太郎の鬼退治」として語り継がれている。討たれた土着の勢力は渡来系だったと言われ、その容貌などから「鬼」に例えられたようである。彼らが築いた山城は「鬼の城(きのじょう)」と呼ばれ、その跡が現在も岡山県に残っている。

そんな国家平定の一環として、豊城入彦命は東国行きを命じられたのである。

国家平定といえば響きはよいが、独自の勢力がはびこる地域への侵略戦争の最前線に送られたようなものである。

戦の最中に命を落とすかもしれず、その地を獲らなければ帰還することもかなわず、「流され王」といわれるほどの辛い役目を帯びての道行きであったのである。

もっとも有名な「流され王」は日本武尊(やまとたけるのみこと)であるが、父の景行天皇に疎まれ、従わない他勢力を討つために各地に赴き、ついには都へ帰ることなく没したという人生は豊城入彦命の人生にオーバーラップする。

日本武尊は系図を紐解くと豊城入彦命の弟の孫に当たるが、その実在は疑われており、豊城入彦命を筆頭に各地に派遣され、戦った皇子将軍達の記憶が日本武尊という一人の英雄を作り上げた、というのが正解 に近いのかもしれない。

豊城入彦命は日本武尊と同様、ついに都に帰ることなく、東国の地に没したと言う。

豊城入彦命の記憶は今も毛野の地に残っており、赤城神社を初めとして様々な神社で祭神として奉られている。

【墳墓説】

・総社二子山古墳(総社町11号古墳)/総社古墳群【群馬県前橋市】

・前二子古墳(荒砥51号古墳)/大室古墳群【群馬県前橋市】

・権現山古墳群【群馬県伊勢崎市】

・御門塚/森下古墳群【群馬県利根郡昭和村】

・丸山古墳【新治郡八郷町】

やつなた(やまとひむかたけひむかひこやつなた)

八綱田(倭日向武日向彦八綱田)

豊城入彦命の息子で、上毛野君遠祖といわれている。

叔父にあたる垂仁天皇の命令により、皇后の狭穂姫とその兄の狭穂彦の反乱に際し、二人を春日にあった稲城もろとも焼き殺した将軍として有名である。

八綱田の前につく長い名前は、その戦功にたいして天皇から賜ったという。

この王が実際に東国に赴任してきたかどうかは不明であるが、その名が現在も毛野の地に語り継がれている。

朝廷直属の領地があった栃木県足利市付近に、八綱田が居住していたので、梁田「ヤナダ」の地名が生まれたという。

【墳墓説】

・愛宕山古墳(総社町10号古墳)/総社古墳群【群馬県前橋市】

ひこさしまおう

彦狭島王(彦狭島命 ) 

豊城入彦命の孫で、上毛野君祖とされている。

崇神天皇によりが上毛野国造に任じられ、東国に赴任しようとして、旅の途中で没した。そこは奇しくも父の八綱田王が狭穂兄妹を焼き殺した春日の地の辺り「春日の穴咋 邑(村)」であったという。

その死を悼んだ東国の人々が屍を担いで上毛国へ運んだという。

【墳墓説】

・宝塔山古墳(総社町9号古墳)/総社古墳群【群馬県前橋市】

・笹森古墳【群馬県甘楽郡甘楽町】

・三島塚古墳【群馬県高崎市石原】

・穴咋塚/樋遣川古墳群(御陵墓伝説地)【埼玉県加須市】

・御廟塚古墳/村君古墳群【埼玉県羽生市】 

みもろわけのおう御諸別王

彦狭島王の子であり、その任に就かずして亡くなった父の代わりに、東国に下った。

まだまだ蝦夷(えみし)の勢力が強く、その騒動を鎮圧し、東国を平和に治めたという。

【墳墓説】

・蛇穴山古墳(総社町8号古墳)/総社古墳群【群馬県前橋市】

・後二子古墳(荒砥第55号墳)/大室古墳群【群馬県前橋市】

・御室塚古墳(諸塚)/樋遣川古墳群(御陵墓伝説地)【埼玉県加須市】

あらたわけ かんなぎわけ荒田別 巫別 

上毛野君の祖。「日本書記」には百済に遣わされたという記述があるが、東国に来たのかどうかは不明。

たみちのみこと 田道命 

天皇の命により、朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)征伐したという人物である。

見事勝利を得て凱旋したが、帰国後2年目、今度は、東北地方平定のため蝦夷の征伐に向かわされた。が、東北各地の反乱を平定し、更に北に兵を進める途中、『伊寺(いじ)の水門(みなと)』で戦死したという。

『伊寺の水門』の場所ははっきりしていないが、おそらく現在の秋田県北部一帯のいずれかであろうと云われている。鹿角郡の猿賀神社には『田道将軍戦没の地』と書かれた墓があるそうである。

前橋の伝説では、田道命の遺体は上野国分寺の近く、王宮のあった総社に塚を築いて葬られ、それが総社古墳群の蛇穴山古墳であるという。

その後勢いを取り戻した蝦夷が田道命の墳墓を暴くと、中から大蛇が表れて毒気を吹きかけて蝦夷を殺してしまったということである。

田道命は毛野はもちろん東北や北海道の神社などで祭神として奉られている。

【墳墓説】

・蛇穴山古墳(総社町8号古墳)/総社古墳群【群馬県前橋市】

参考文献

□「古墳めぐりハンドブック」群馬県立博物館

□群馬の遺跡〈4〉古墳時代1―古墳

□東アジアに翔る上毛野の首長 綿貫観音山古墳 (シリーズ「遺跡を学ぶ」119)

□古代上毛野をめぐる人びと

□東国大豪族の威勢・大室古墳群 群馬 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

□古代東国の王者―上毛野氏の研究




コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000