facebook出口光さん投稿記事【日本建国の精神】
みなさん、おはようございます。日本建国の精神とは何か知っていますか?
日本書記に、初代の神武天皇の言葉として「座して、八紘をおおいて宇となさん」と書かれています。つまり、八紘為宇(はっこういう)です。
「武力を使わないで、平和理に世界をひとつの屋根のもとに統治せん」と宣言されたのです。
宮崎県の平和台公園に行った時、そこには戦前、皇紀2600年を記念して建てられた巨大な平和の塔があり、「八紘一宇」という文字が彫られています。これは、八紘為宇と同じ意味です。その塔の四隅に、四人の像が配置されています。
それぞれ、荒魂(武人)、和魂(商工人)、幸魂(農耕人)、奇魂(漁人)で、信楽焼きで創られています。
八紘一宇は、「世界を平和なひとつ屋根にする」という日本建国の精神であり、大和魂そのもので、その構造は「一霊四魂」と呼ばれます。彫刻家日名子実三(ひなごじつぞう)の設計で、日名子は、日本サッカー協会の八咫烏のシンボルマークも創った人です。
この巨大な塔の高さは、36.4mで、みろくの世を意味します。
この塔は、戦後、軍国主義の象徴と見なされ、八紘一宇の字は削られ、荒魂の像も破壊されました。今は復活しましたが、未だに宮崎県の多くの学校では、この塔をスルーしているそうです。武力を使わないで、言葉の力で世界を平和にする。なんて素敵な建国の精神でしょうか。
https://www.advan-group.co.jp/times/hato_peacesymbol_reason/ 【ハトが平和の象徴とされるのはなぜ?】より
ハトが平和の象徴とされるのはなぜ?
平和を訴えるポスターにはよく白いハトが登場しますね。
ハトが平和のイメージでありシンボルなのは、なぜなのでしょうか?
ハトがいつから平和の象徴として用いられるようになったのかについて調べました。
旧約聖書のノアの方舟伝説が由来
平和のシンボルとして、ハトがオリーブの枝をくちばしにくわえて飛んでいる図がよく見られます。これは、旧約聖書の「創世記」に登場する、ノアの箱舟の物語にもとづくものです。
ノアは、アダムとイブの世代から数えて10代目の人間でした。人々はすでに堕落した生活を送っていたので、神は怒り、大洪水を起こして地上から人間をなくしてしまおうと考えます。
そして神を敬うノアだけに、箱舟をつくって家族と地上のすべての生き物を1つがいずつ乗せるよう指示します。
そして、神の言っていたとおり大雨が降り、やがてそれは大洪水へと発展していき、それによって人間のみならず、あらゆる生命がこの世から姿を消していきました。
ノアは様子を見るために40日目にカラスを放ちますが、まだ水が乾く前であったためカラスはすぐに戻ってきます。
その7日後に、今度はハトを放ったところ、オリーブの枝をくわえて戻ってきました。これによりノアは水が引き始め、神の罰である洪水が終わったことを知るのです。ここから「オリーブの枝とハト」は、神と人間の和解のシンボル、人間が神との和解によって得た平和な世界を共に築いていく、平和を象徴するシンボルとなりました。
平和の象徴のイメージを世界中に広めたのはピカソ
「国際平和擁護会議」の宣伝用にピカソが制作したハトのポスター
「ハトが平和の象徴」というイメージが世界的に広まったのは、1949年にパリで開かれた「第一回平和擁護世界大会」のポスターのためにピカソが制作したハトの絵がきっかけと言われています。その後もポーランドのワルシャワで行われた「平和擁護世界大会」のポスターでは、核兵器廃止を求めて翼を広げて飛ぶハトをモチーフにしたポスターを手掛けます。
ピカソは幼いころからハトに深い愛着を持ち、モチーフとしても多く用いました。アトリエでハトを飼っていたこともあり、さらには自分の娘にも「パロマ(スペイン語で鳩)」と名付けています。
ピカソにとってハトは身近な題材であり、政治的メッセ―ジの象徴でした。平和擁護世界大会のポスターも有名ですが、ハトを抱く少女を描いた代表作『鳩と少女』はピカソの出世作でもあります。
https://gendai.media/articles/-/146201 【日本人のほとんどが知らない、「昭和のヤマトタケル」と呼ばれた「悲劇の皇族」の存在】より
知られざる「戦前の正体」 辻田 真佐憲 文筆家 近現代史研究者
プロフィール
神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか?
右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。
歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。
※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。
もう一人の「陣没した皇族」
陣没する皇族は珍しかったからこそ、能久親王はヤマトタケルと讃えられた。では、それ以降はどうだったのだろうか。
じつはもうひとり、陣没した皇族がいる。それは、能久親王の孫にあたる北白川宮永久(ながひさ)王だった。永久王の父・成久王(能久親王の三男。長男は側室の子だったため、竹田宮家を創設。次男は夭折)もパリ郊外で自動車の運転をあやまり事故死しているため、北白川宮家は悲劇の宮家ともいわれる。
永久王は、1910(明治43)年2月に生まれた。皇族男子は軍人になる慣習にしたがって陸軍に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。1940(昭和15)年3月、駐蒙軍参謀部つきになり、蒙疆(もうきょう、現・中国内モンゴル自治区)に赴任した。
すでに日中戦争が発生しており、現地には日本の傀儡(かいらい)政権である蒙古聯合(れんごう)自治政府が成立していた。駐蒙軍はその政務指導や警備などを任務としていた。
永久王は6月に駐蒙軍参謀となったが、それから間もない9月、超低空で飛んできた訓練中の戦闘機に接触して重傷を負い、病院に運ばれるも死亡してしまう。30歳の若さだった。死後、少佐に昇進した。
「昭和のヤマトタケル」となった永久王
永久王の死亡は事故死ではなく戦死とされ、日本国内でも大々的に報道された。このときもヤマトタケルとの比較が行われている。翌年、ビクターよりレコードが発売された「故北白川宮永久王殿下を悼み奉る歌」(北原白秋作詞、陸軍軍楽隊作曲)の2番を左に引いてみよう。
竹の園生(そのう)のみ身にして あへて潜らす弾丸の雨、
「日本武」のさながらを 雄々しく宮はましましき。
永久王はまた、神武天皇を支えた皇子にもたとえられた。コロムビアより発売された「嗚呼北白川宮殿下」(二荒芳徳作詞、古関裕而作曲)の4番はつぎのとおりだった。
おもへ神武の大御業 扶け奉れる皇子の如
御魂捧げし御いさをに 今大東亜興りゆく
嗚呼若き参謀の宮殿下
蒙古聯合自治政府の首都である張家口(ちょうかこう)には、蒙疆神社が鎮座していた(祭神は、アマテラス、明治天皇、国魂神)。「昭和のヤマトタケル」となった永久王は、対米英開戦が迫る1941(昭和16)年、この神社に合祀されることになったのだった。
さらに連載記事<「日本の初代天皇」とされる「神武天皇」のお墓がどこにあるか知っていますか>では「戦前の日本」の知られざる真実をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
*本記事の抜粋元・辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書)では、「君が代はなぜ普及したのか?」「神武天皇によく似た「ある人物」とは?」「建国記念の日が生まれた背景とは?」……といった様々なトピックを通じて、日本人が意外と知らない「戦前の日本」の正体を浮き彫りにしていきます。「新書大賞2024」で第7位にランクインした、「ためになる」「わかりやすい」と話題のベストセラーです。
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