https://tenki.jp/suppl/romisan/2018/07/13/28259.html 【朝顔、昼顔、夕顔、夜顔。一つだけ違う種類があります。】より
朝顔、昼顔、夕顔、夜顔。どれも似たような名前の花ですが、この中で仲間でないものといえば、ドラマにもなった昼顔です…というのはさておき、植物として、一つだけ違う種類のものがあります。ヒントは、実を食べることができます。
アサガオ/奈良時代に薬として渡来。江戸時代から観賞用に。
ヒルガオ科サツマイモ属。
朝早くに花を咲かせ、昼になる前にさっさと閉じてしまいます。色は白やピンク、青や紫など、花の大きさも大輪から小輪までと様々な品種があります。
日本へは、奈良時代の末期に遣唐使が中国から薬として種子を持ち帰ったものが始まりといわれています。
小学1年生の夏休みの観察といえばアサガオを思い出す人も多いと思いますが、最近は猛暑対策として、ベランダの窓で緑のカーテンとして育てている家庭も多くなっています。
ヒルガオ/地下茎でふえる。かわいらしい花だけど雑草扱い。
ヒルガオ科ヒルガオ属。
アサガオと同じように朝に花が咲きますが、昼になってもしぼまないので、この名がついたといわれています。
観賞用として育てられることはなく、道ばたや野原などに生えています。地面の下に白い色の地下茎を伸ばして増えるため、一度生えると取り除くことが難しい、雑草魂の強い種類です。
ユウガオ/仲間はずれはコレ。実をヒモ状に削るとカンピョウになる。
ウリ科ユウガオ属。
アサガオ、ヒルガオ、ヨルガオはヒルガオ科の植物ですが、ユウガオはウリ科の植物。したがって、4つの花の中で仲間はずれは、ユウガオです。
夕顔は源氏物語では、元祖癒し系の女性として描かれているので、物語だけを読むと何かステキな花を思い浮かべますが、実際のユウガオはウリ科の植物で、大きな実を実らせます。長い実はナガユウガオ、丸い実はマルユウガオで、主にマルユウガオの実を細長いヒモ状に削って乾燥させると、カンピョウになります。
花は白。夕方に開き、翌日の昼にはしぼんでしまいます。
夜顔/闇夜に香りを放つ、夜の花。
白い花が印象的なヨルガオは、夕方から咲き始め翌朝にはしぼんでしまいます。夏は夜8時ごろから咲きはじめ、あたりにいい香りを放ち、朝にはしぼむという、まさに夜型の花です。パッと明るいアサガオとは対照的に、真っ白な花が夜道にぼんやりと浮かぶ姿は艶やかです。
アサガオ、ヒルガオ、ユウガオ、ヨルガオ。同じ「カオ」一族ですが、それぞれ個性的で、それぞれの美しさがあります。
特にアサガオは小学1年生でも簡単に育てることができるので、アサガオの観察日記は夏休みの宿題には欠かせません。また、最近はグリーンカーテンとして、ベランダに見事に花を咲かせている家庭もよく見かけるようになりました。猛暑の夏、涼しげなアサガオのカーテンを見かけると、来年はウチでも育ててみようかな…と思う方も多いのではないでしょうか。
https://note.com/higawari/n/n6f944f161445 【違う顔を見せる】より
どこどこでアルバイトしていると言ったところ、知人に「じゃあ今度働いてる時行きますね!」と言われた。僕はそういう嫌がらせは良くないと思った。つまり、相手が嫌がると知っていて「もう!やめてくださいよ〜」と言うのを期待/想定したコミュニケーションである。いじりと言ってもいい。
だけど、もしかして嫌がらせではないのかもと思い別の知人数人に意見を伺ったところ、嫌がらせではないのではないかとの意見がほとんどであった(※)。そこでわかったことは、仕事中に知人が来ても嫌ではない人と、嫌な人がいるということだ。言うまでもないが僕は後者である。前者がいるとは思いもよらなかった。だって、自営業でもなし、好きに振る舞うわけにもいかないし、こちらは店員として接する他ないじゃないか。友達ではいられないわけ。そんな状況で会ったところで仕方ないでしょうよ。
思い出したことがある。僕は、テレビドラマとかで職場での親の顔を見るみたいなシチュエーションがとても嫌で見たくない。自分にそういった経験があるわけではないが、とにかく嫌だ。恐怖があるのかもしれない。そもそもなぜ、自分に接する顔ではない親の顔を見たいのかがわからない。まるでその顔が別人のようであったら、そんな不安があるのかもしれない。もちろん、このシチュエーションはたいがい肯定的に(ドラマなどでは)描かれる。普段の家での親の顔とは違う顔を見て、たいてい見直した、みたいなことを子供が言う。しかし、そうなのかなと思う。そういえば僕は親が実家で子供になるのも、あまり慣れていない。そりゃそうだが、別に親の子供の立場を見たくないという感じだ。例えばこれのネガティブなものとしては、親が不倫相手の前で見せる顔、みたいなものがある。それはショックなものだろうが、そうでなくたって普段自分に見せる顔以外の顔を、僕は親であれ友達であれ、見たいと思わない。そんな状況はなるべくなら避けたい。が、なぜこんなに嫌なのかは、よくわからない。
※ そもそも「じゃあ今度働いてる時行きますね!」はいじりどころか「今度飲みましょうよ!」のような意味のない発言ではないのかとの指摘があった。尤も僕は「今度飲みましょうよ!」を意味なく使うことがないので、本気だと受け取るから、意味のない発言は控えて欲しいと思う。
facebook相田 公弘さん投稿記事【現象そのものには色はついていない】
小林正観さんの心に響く言葉より…
ある日あなたが、自転車に乗って転んで大怪我をしたとしましょう。
全治一週間のケガを負ってしまって大変だと思うかもしれませんが、それはあなた自身がシナリオに書いてきたこと、すでに決まっていたことなので、特別なことではありません。
その転んでしまったという現象に対して、落ち込むことも、笑って過ごすこともできますし、ただ何も感じず淡々と過ごすこともできます。
その現象をどう受け止めるかは、自分次第ということです。
ほとんどの人は、現象と自分の感情が一体だと思っているかもしれません。
よく、「上司に怒られたので、とても落ち込んでいる」という人がいますが、上司が怒ったことと、自分が落ち込むことは別です。
「上司が怒った」という現象と、悲しい、辛いという感情が別々に存在しています。
もともと、現象そのものに、色はついていません。
私たちが勝手にその現象に感想をつけて、「嬉しい」「悲しい」という色をつけているにすぎません。
目の前の現象に一喜一憂せず、ニコニコと、淡々と、そうなりましたかと捉えていくと、自分が楽になります。
一喜一憂する人には共通点があります。
辛いことがあったからといって、すぐ落ち込んでしまう人がいますが、面白いことに、そのような人は誉められると、すぐに有頂天になるようです。
すぐ落ち込む人は、すぐに有頂天になる。
これはどういうことでしょう。
それは自分自身を人と比べて、他人の評価に一喜一憂しているということ。
つまり、自分自身の考え方や、思想を持っていないということです。
これは幼児性の表れと言えます。
自分自身の生き方や考え方をきちんと持っている人は、人の評価に左右されません。
人と比べることに意味はありません。
私たちは淡々と生きていけばいい。
大事なことは、一喜一憂せずに、ただ受け入れていくということ。
目の前の現象に、「嬉しい」「悲しい」という色をつけるのは自分なのです。
『無敵の生きかた』廣済堂出版
目の前の現象を、「幸せだ」とか「不幸せだ」という色をつけるのも自分。
現象そのものに色がついているわけではない。
だからある人は、それがあったからこそ「幸せだ」と思い、別のある人は「不幸せだ」と思う。
万人が「悲惨だ」、「辛い」と思うようなことでさえ、「そのことがあったおかげで今の自分がある。幸せだ」と思う人もいる。
また、幼児性について小林正観さんは次のように語っている。(楽しい人生を生きる宇宙法則)より
『家庭のことで言いますと、同じ言葉を他人から言われたときに、怒らないで踏み留まることができるにもかかわらず、同じ言葉を妻から言われるとものすごく腹を立てて爆発してしまう夫がいます。
また、同じ言葉を他人から言われても怒らないけれども、夫から言われるとキレてしまう妻がいます。
それは、どういうことかと言うと、外では踏み留まる能力があるにもかかわらず、家庭では踏み留まらないということなんですね。
《踏み留まれない》のではなくて、《踏み留まらない》んです。
これを一言で言うと“幼児性”です。
実は、“幼児性の克服”のためにも結婚というものが存在します。
家庭を持って、妻に対して夫に対して、あるいは子供に対して、「私」が気に入らなくて爆発する、その「私」の“幼児性”を是正するために結婚というものがあり、家庭というものが存在します。
家庭というものは、ただ自分の思いを通すための甘える場所でも、ストレスを発散させる場所でもありません。
幼児性を削っていって大人になっていく作業の場所として、結婚があり、家庭が存在するということです。』
「幼児性を削っていって大人になっていく作業の場所として、結婚があり、家庭が存在する」
日々、幼児性を削る努力を重ねたい。
facebookHiroshi Kaneiさん投稿記事
子どもの頃は、無鉄砲に色を塗る。枠なんて気にしない。思うままに色を塗る。
青いゾウ、紫の木、赤いクマ、緑の海――全部、ありなんだ。
でも大人になると、みんな「枠の中を塗りなさい」って言い出す。見たままに色を塗れって。
結局は「塗り絵」になる。たとえ絵を描くんじゃなくても、文章を書こうと、歌おうと、踊ろうと、演じようと、創ることすべてに当てはまる。
でも、私は思うんだ。自分の感じたままに創造すればいい。“枠の外”を創造すればいいんだ。
私は緑の海を見たい。赤いクマを読みたい。紫の木を愛したい。青いゾウを読むことを、心から願ってる。
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この詩は、大人になるにつれて創造性が制限されていくことへの違和感と、子どもの頃の自由な感性を大切にしたいというメッセージが込められています。とても詩的で深い内容です。
この詩の作者は「Wordsmith(ワードスミス)」と記されています。これは「言葉の職人」という意味で使われるニックネームやペンネームのようなもので、特定の有名詩人の本名ではありません。
ただし、この詩はアメリカの都市でよく見かける「ストリート・アート詩(street poetry art)」の一種で、「Wordsmith」と名乗るアーティストが公共の場に詩を貼る活動をしていることで知られています。ロサンゼルスやオースティンなどの都市で見かけられることが多く、Instagramでも活動しています。
彼(または彼女)の詩は、人生・創造性・人間らしさについてシンプルかつ力強く語るものが多く、SNSで共感を呼んで拡散されることもしばしばです。
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あなたの心に残る色は、何色ですか?正解のない世界を、正直に生きてみよう。
枠の外にこそ、ほんとうの自分がいる😇
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