磨き続ける

facebook相田 公弘さん投稿記事【みがき砂】

男は何で自分を磨くか。基本は「人間は死ぬ…」という、この簡明な事実をできるだけ若いころから意識することにある。もう、そのことに尽きるといってもいい。

何かにつけてそのことを、ふっと思うだけで違ってくるんだよ。自分の人生が有限のものであり、残りはどれだけあるか、こればかりは神様でなきゃわからない。そう思えばどんなことに対してもおのずから目の色が変わってくる。

そうなってくると、自分のまわりのすべてのものが、自分をみがくための「みがき砂」だということがわかる。逆に言えば、人間は死ぬんだということを忘れている限り、その人の一生はいたずらに空転することになる。仕事、金、時間、職場や家庭あるいは男と女のさまざまな人間関係、それから衣食住のすべてについていえることは、「男のみがき砂として役に立たないものはない…」ということです。

その人に、それらの一つ一つをみがき砂として生かそうという気持さえあればね。

男の作法 :池波正太郎新潮文庫


facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事  瓦を磨いて鏡となす

禅の講和には、機知に富んだ逸話がたくさんあります。

8世紀前半の中国での話。南岳懐譲(なんがく・えじょう)という禅僧のもとに、馬祖道一(ばそ・どういつ)という弟子がいました。

ある日、馬祖が坐禅をしていると、そこに師である懐譲がやってきて問うには、「お前はずっと坐禅を続けておるが、何のために坐禅をしているのかね?」「はい、仏になるためです」

その答えを聞くと、懐譲は地面に落ちていた瓦を手に取り、馬祖の横で黙々と磨きはじめました。困惑したのは馬祖である。

なぜ、師は瓦を磨きはじめたのか。磨いてどうするのか。気になって、坐禅どころではない。

「お師匠さま……何をしているんですか?」「見てわからんか、瓦を磨いているんじゃ」

「磨いて、それでどうするのですか?」「きれいに磨いて鏡にしようと思ってな」

「お言葉ですが、いくら瓦を磨いても鏡にはならないと思うのですが。」

「まあ、確かにそうじゃな。しかしお前、それがわかっているのなら、どうして坐禅をして仏になろうなどと言ったのかね?」

 座禅は仏になるための手段なのか?と問うているようです。仏の行いをすればそのままでも仏になる。仏の心を持てば、そのとき仏である。あるべき姿を全うすればよい、仏という「概念」に惑わされるな、という話のようです。もうこんな頃から、禅僧であっても何者かになろうとする思いがあったのですね。高みを目指すことはいいことですが、それでかえって足元がおぼつかなることを戒めているのでしょうか。


facebook人の心に灯をともす投稿記事【魂を磨き続ける】

稲盛和夫氏の心に響く言葉より…《知るだけでは意味がない、反省し実行せよ》

みなさんに同じようなことを今後も言うと思うのです。それを「ああ塾長、それはこの前聴いたわ」と思ってはいけません。こういうものは、聴いただけでは意味がないのです。

繰り返し思い返して、実行に移さなければ一銭にもなりません。なぜ、私がそのことに気がついたかといいますと、それは自分自身のことだからです。

自分で偉そうなことを言ったり、勉強したりしても、 すぐにコロッと忘れてしまう。

忘れてしまいますから、 たまに思い出して、こう言いましても、私の生きている生きざまとは違うケースがあるのです。

私の場合、生きざまと、言っていることとがあまり乖離していないために、他の人から若干尊敬されていると思うのですね。普通はそうではないのです。

たとえば有名な人でも 講演をするときの話の内容と、実際にその人がやっていることが違うことがあります。きれいなことを言っているのに、全然違うガメツイことをやっていたりする。その人だって、よくありたい、と思っているのです。

それが、その瞬間に思っているだけであって、日常は コロッと忘れてしまっているから、ガメツイことをしておられるわけです。だから私はこう言っています。「反省のある人生でなければいけません」と。私の場合は、実は毎朝反省をするのです。それが習慣づいているものですから、何とかまだ救われている のです。お坊さんでも、たしかに若い頃は修行をした偉い方もおられます。相当な修行をして悟りをひらいたお坊さんもおられますが、そこから努力をしなかったら、 人間というのは元の木阿弥です。

だから、立派なお坊さんであったであろうに、年がいって老醜をさらすようなお坊さんはいくらでもおられます。

放っておいたら魂の周囲にもろもろ、芥(ごもく)がつきますから、しょっちゅう魂を磨いておかなければダメなのです。つまり、魂を磨き続けるということが“反省”であり、人生であるべきなのです。

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田中真澄氏は、「田中真澄の88話」の中でこう述べています。

「心構えはどんなに磨いても、毎朝、ゼロになる能力である。丁度、毎朝起きたら歯を磨くように、心構えも毎日磨き直さなければならない。」

多くの人は、どんなにいい話を聞いても、一晩たつとほとんど忘れてしまいます。

その時は興奮して、よし「やってやるぞ!」と意気込んだとしても…。

だから、毎朝、毎晩、繰り返し繰り返し、自分に言い聞かせるしかないのです。

現代は、「我慢する」とか、「自己犠牲」、「自己抑制」という言葉は不人気です。

しかし、およそあらゆる事業や、スポーツ、勉強、ダイエット等々で、自己犠牲や自己抑制なしに成功した人を知りません。

怠惰な心の姿勢を正すには、絶えざる自己規制、自己教育、自己啓発が必要です。

いくつになっても…毎日、コツコツと魂を磨き続ける人でありたいと思います。

【道は無窮(むきゅう)】

藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…「道は無窮(むきゅう)」という。

道に限りはない。人生、これでいいということはない。この思いを示す道元の言葉がある。

「学道の人、もし悟りを得るも、今は至極と思うて行道(ぎょうどう)を罷(や)むことなかれ。道は無窮なり。悟りてもなお行道すべし」道を学ぶ人は、悟りを得てもこれでいいと思って修行をやめてはいけない。悟っても修行を続けなければならない、というのである。

「葉隠」にもこうある。「修行に於ては、これまで成就ということはなし。成就と思う所、そのまま道に背くなり。一生の間、不足不足と思いて、思い死するところ、後より見て、成就の人なり」修行に完成はない。死ぬまでまだまだと思って修行する。そういう人こそ死んだ後に見ると、成就の人だと分かるの意である。道は無窮、とは多くの先達が一致して説くところである。最近、人間学の究極はこの言葉に尽きるのではないか、と思うようになった。

それを釈迦が端的に表現している。「上求菩提(じょうぐぼだい) 下化衆生(げげしゅじょう)」である。どこまでも自分という人間を向上させていくこと。それが「上求菩提」である。「下化衆生」とはその自分をもって人のために尽くしていくこと。

人は何のために生きるのか。何のために働くのか。何のために学ぶのか。そのすべての問いに対する答えをこの言葉は包含(ほうがん)している。人生の法則はシンプルである。それを身につけるには一生を要する。

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本書の中に「一生、自己丹誠(たんせい)」という話があった。

『禅の高僧、松原泰道(たいどう)師は「生涯現役、臨終定年」を座右銘とされていたが、その銘の通り、亡くなられる三日前まで有志の集いで法話をされ、戻られると、「のどがかわいた。ビールが飲みたい」と横になられた。その三日後に百一歳の天寿を全うされたのである。

その泰道師は晩年よく、「空しく老いないためには自分自身への丹誠が欠かせません」と言われ、「一生、自己丹誠」を目標として 日々を過ごされていた。

自分自身への丹誠は死ぬまで続けなければならない、というのである。

晩年の泰道師が杖(つえ)言葉にしていた佐藤一斎(いっさい)の言葉がある。

「たとえ視力や聴力が落ちても、見える限り聞こえる限り、学を廃(はい)すべからず」』

まさに、「道は無窮」で、一生これでいい、ということはない。

自分と言う人間を磨き続けること。少しでも向上させていくこと。「道は無窮」という言葉を胸に刻みたい。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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