今ここにしか咲かない

facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事

まさに花こそが……

その穏やかでやさしい姿が、私たちの中に失われつつある世界への信頼をそっとよみがえらせてくれるのです。

【雑感2】『今ここにしか咲かない──道元と「パーフェクト・デイズ」にみる禅の呼吸』

「過去に引きずられない」「煩悩に囚われない」。それは、簡単には口にできても、実践するには深い覚悟がいる。しかし映画『パーフェクト・デイズ』に描かれた男の静かな日常は、その境地をひたひたと歩んでいるように見えた。

トイレ清掃員として東京で生きる男。

彼は何も語らない。過去を語らず、未来を問わず、ただ掃除に、ただ光と影に、ただ風に耳を澄ます。

その生き方にこそ、道元禅師が説いた「只管打坐」、すなわち「ただひたすらに坐る」という姿勢が重なる。

目的のための手段ではなく、坐ることそのものが道であるように、彼の日常もまた、「今」に完全にひらかれている。

道元は言う。「修証一等」……修行と悟りは一つであると。

悟りを得るために修行するのではなく、今、ただ行うことが、すでに悟りの在り方なのだ。

映画の主人公もまた、何かを求めているわけではない。ただ拭き、ただ歩き、ただ空を見上げる。

そこにある反復こそが、彼自身の“証(さとり)”なのかもしれない。

彼の掃除は、単なる労働ではなく、過去の自分を洗い流す“浄め”の儀式であり、煩悩の滓(かす)を払い清める行いである。

その姿はまるで、禅の雲水のようだ。欲望や他者との比較から離れ、ただ一日を、ただ一所を、丁寧に生きる。

監督ヴィム・ヴェンダースは、親日家であり、小津安二郎に影響を受けたと語る。

映画全体に流れる静けさ、間(ま)、繰り返しの美しさには、どこか小津的な、日本の“間”の思想が息づいている。

それはまた、「足るを知る」生き方であり、「これでいいんだよ」と呟くような優しさでもある。まさに、禅が教える無為自然の境地だ。

主人公は、神社から苗木を譲り受け、掌でその命のぬくもりを感じる。

一瞬たりとも同じではない命の流れに、心を寄せる。

自然のなかに変化を見つける感性は、坐禅の中で呼吸のわずかな揺らぎを感じ取る修行にも似ている。

変わりゆくものに耳を澄ますこと。それは、いまを生きる唯一の方法なのかもしれない。

古本屋で見つけた小さな一冊が、かつての自分をそっと連れ戻すことがある。

記憶が呼び覚まされ、心にノイズが走る。

けれど、そうして心がざわついた時にこそ、自分の内面と対話する道が開かれる。

その“ざわつき”から逃げないこと。それもまた、坐禅の心得だ。

彼のような、ただの居酒屋での時間、ただのトイレ掃除、ただのアパート暮らしにこそ、深い豊かさが潜んでいる。

誰かと比べない、自分を装わない、無理をしない、そんな「ただ」の中にしか咲かない花がある。

道元はきっと、こう言うだろう。「仏道をならうというは、自己をならうなり」と。

人生とは、完璧な日の連続ではない。

けれど、完璧でない日々の一つひとつを、静かに慈しむことはできる。

煩悩は訪れる。過去もよぎる。未来を想像し、不安も走る。

けれど、それらを否定せず、過ぎゆくままにしながら、「いまここ」に座る。

それが、禅であり、それが、生である。

【ある日本人論】

『空気の牢獄……稲作文化から日本的同調の深層』

山本七平は日本人を動かす見えざる力を「空気」と名づけた。法律でも命令でもなく、論理でも善悪でもない。ただ「空気」があるから……それに従う。

そうしない者は「出る杭」として打たれる。その支配はあまりに絶対的で、人々はそれが空気であるとも気づかず、あたかも自然の摂理のように従ってゆく。

この「空気」は、日本列島に根づく稲作文化から育まれたものだ。

水田は、共同体で水を融通しあわねば成り立たない。ひとり勝手な行動をとれば、全体の収穫が危うくなる。 

だから「全員一致」が何より重んじられ、ずれた者は村八分という形で排除されてきた。

こうして形成された「なあなあ」の文化は、個より集団を、論理より同調を、是非より空気を重んじる国民性をつくりあげた。

その象徴的な帰結が、第二次世界大戦における「一億玉砕」のスローガンである。

敗北が濃厚となってもなお、「空気」は戦争継続を叫び、多くの命を焼け野原に投げ込んだ。ところが、終戦とともに一夜にして空気は反転する。昨日まで「鬼畜米英」と叫んでいた人々が、今度は「マッカーサーを父と仰ぐ」と言い始めた。

しかもそれは恥とも思われなかった。空気が変わったからである。

この変わり身の早さ、論理の断絶、価値観の反転……それは一見柔軟性にも見えるが、

根本には「自分で判断しない」という依存体質が横たわっている。空気に従って生き、空気に従って死ぬ。そこには、自らの頭で問い、考え、決断する主体の姿が見えにくい。

対照的に、東南アジアのような三毛作地域では、自然がより自由で、個々の裁量に任される余地が広い。

種をまけば勝手に育つ大地では、他者に合わせるより、自ら選び取る力が育つ。そこでは「空気」よりも「選択」が生きる力になる。

日本社会もまた、時代の転換点に立っている。全員一致の幻想、空気による支配、同調の圧力……これらは戦後復興や高度経済成長を支えた半面、現代の多様性や創造性を押しつぶす足枷ともなっている。

水が流れるように、空気もまた常に変わっていく。

だが、その流れをただ受け入れるのではなく、自らの息で新しい空気を生み出す主体性こそ、今の日本に最も必要とされているものではないだろうか。


facebook加藤隆行さん投稿記事【世紀末救世主伝説】

俺は北斗神拳の伝承者、ケンシロウ。かつては愛する者を失い、怒りを背負い、孤独に彷徨っていた。だが、そんな荒廃した世界の中で、たどり着いた答えがある。

──人は、哀しみを知ってこそ、 ほんとうのやさしさを知る。

おまえの中にも、誰にも言えない痛みがあるだろう。ふとしたときに思い出す、あの言葉。

誰かの無神経な態度、過去の失敗、自分を責める癖。それでも──今日まで、なんとかやってきた。それはもう、立派な強さだ。「強さ」ってのは、誰にもバレずに泣いたあと、もう一度、顔を上げる力のことだ。

……オレだって時々、枕を涙で濡らす夜もある。(ラオウには内緒だ)

世の中には、理不尽も不条理もゴロゴロしてる。ズルい奴がのさばって、真面目な奴が損をして。でもな、オレは信じてる。やさしさは、最後には勝つ。なぜなら──それだけが“人を救える”からだ。

北斗神拳には、無数の秘孔がある。だが、人の心には、もっと深い秘孔がある。

それは、「自分を許せたとき」だけ開く秘孔だ。心にも、ちょっとした“トリガー”がある。

言葉ひとつ、まなざしひとつで、人は、癒されることがある。

──いいか。拳は、人を壊すこともできる。だけどな──本当の拳は、人を救うこともできるんだ。苦しんでる誰かに手を差し伸べること。泣いてる仲間の背中にそっと手を置くこと。

「もうダメかも」と思ってる自分に、「それでも大丈夫だよ」と言ってやること。

それが、心に触れる“拳”の使い方だ。そして今日、俺は、おまえに向けてこの拳を放つ。

「あたたたたたたたたーッッ!!」──今、おまえの心の秘孔を突いた。「おまえはもう、癒されている。」

だから、もう大丈夫だ。もう、誰かの期待を背負わなくてもいい。誰かに「認められるため」に生きなくてもいい。ただ、今日の自分に「よくやった」と言ってやれ。

それが、おまえにとっての“救い”になる。「愛を取り戻せ」……そして、いつかまた会おう。

心の荒野で。そのときは、おまえがオレの秘孔を突いてくれ。

……めいっぱい「愛と癒しのやつ」を頼む。────世紀末救世主 ケンシロウ

(本業:伝承者、兼 心理カウンセラー見習い)


facebook赤塚 高仁さん投稿記事

人生で最も大切な宝は、善き友そして、逆境変容の前に危機が先行するから。

苦しみのどん底、それが神の恵み。 ああ、神さまありがとう。私は豊かです。

あしあと 一歩一歩

https://ameblo.jp/seishomandan/entry-12902127358.html?fbclid=IwY2xjawKOzNFleHRuA2FlbQIxMQBicmlkETFvOTdvSWFMMXhMcU5xSE1oAR4HrczUY0RGhvD5H1_evuEVtbsUM-bTzhU3V13GnI7xwyqpIl30V2cfxfTw4g_aem_ucdDAvEW6yiLBaeu9rchgQ 【善き友こそ人生最高の宝です】より

 別府での「ひらり変容塾」第5講義を終え、残すところあと一回。

3年目の仲間たち、一人ひとりが、 自分が自分であることを許して、 歩き始めている姿が美しい。いのちの声を聞き始めたとき人は、この世にやってきた意味を思い出す。

そして、やがて去るこの世を慈しみながら旅を続けるのです。

よき友と塾に来る仲間こそ、共に旅する道連れ。人は強くはないだけど、弱くもない。

人生で最も大切な宝は、善き友そして、逆境変容の前に危機が先行するから。

苦しみのどん底、それが神の恵み。ああ、神さまありがとう。 私は豊かです。

あしあと 一歩一歩「ある夜、一人の男が夢を見ました。海岸を一人歩いている夢でした。

彼は、歩きながら自分の人生を走馬灯のように思い出していました。ふと、彼が振り返ると、砂浜に二つの足跡があることに気がつきました。ひとつは自分のもの。そして、もうひとつはいつも伴って歩いてくれた神様のものだということがわかりました。

いつも一緒に歩いてくださった神の存在に心から感謝をして、もう一度足跡を見ました。

 ところが、彼の人生で最も困難で、苦しかったときひとつの足跡しかありません。

彼は、神様に尋ねました。「神様、私の人生で最もつらく打ちひしがれていたとき、足跡はひとつしかありません。

私があなたを魂の底から必要としていた時、どうしてあなたは私をお見捨てになったのですか?」すると、そのとき天から声が聞こえました。

「わが子よ、我が愛する子よ、それは違う。私はお前を無条件で、一方的に愛している。無限に愛している。私はお前を見失いはしない。たとえ、お前が私を見失っても、私は一瞬たりともお前を離しはしない。その足跡は、私のものだ。お前が苦しみ、もう歩けないほどの悲しみの淵にあったとき、お前を背負って歩いた私の足跡なのだ」 

さあ、別府から京都へ 石田平和さんの出版記念のパーティーです。素晴らしいゲストスピーカー どうぞお越し下さい。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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