人生の四季

facebook相田 公弘さん投稿記事『老いをどう生きるか』坂村真民

 一遍上人も芭蕉も、五十一歳でこの世を去られた。二人とも老翁の感じがする。

十分に生き切られたからであろう。特に芭蕉は自ら翁といっている。

四十歳になると世を譲り隠居した時代だからであろう。五十歳になると翁という感がしたのであろうが、現在は六十歳になっても翁どころではなく皆溌剌たるものである。

でも後もそうないから老いは老いである。この老いをどう生きるか、これが今後の一番大きなものになってゆくだろう。ぼけず、寝たきりにならず、家族に迷惑をかけず、どう有意義に生きてゆくか、それは老いてから考えてはもう遅い。若い時から考えておかねばならぬ重大な問題である。今日の老人の悲劇は、そんなことを元気な時考えなかったことからきている。

 いつ死んでもいいと、日本人はよくいうが、それは根本的にまちがっている。

釈尊は、そんなことは一度も言っておられない。熱砂を踏んで八十歳まで教えを説いて

歩かれたのは、衆生よ、私のごとくあれと、自からお示しになったことを思わねばならぬ。

わたしは釈尊の晩年に、そしてその死に人間としての最高の美しさを感じる。

二度とない人生を、どう生きるか。開きはじめた朴の花を仰ぎながら、切に思った。


https://www.seguchi-blog.com/h-itsuki/ 【人生の四季~五木寛之氏の講演を聴いて】より

今年はうれしいことがたくさんあった一年でした。

中でもスペシャルにうれしかった出来事をひとつご紹介して本年のブログ更新を締め括りたいと思います。

人生の四季

私にとって今年最大にうれしかったこと。

それはとある不動産会社のイベントで、作家である五木寛之さんの講演会に参加できたことです! (^^♪

説明不要の大作家さんですが、個人的にも最高・最強に大好きな作家さんのお一人です。

誠実な語り口で一生懸命お話してくださり、とってもとっても素敵な講演でした。

テーマは「人生の四季について」

中国では人の一生を自然の移り変わりになぞらえて、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」と、4つの季節で区分する考え方があるそうです。

青春…若々しく、まさに人生の春に喩えられる季節のこと。いわゆる青年の頃。

朱夏…社会に出て働き、家庭を築き、社会に貢献する人生の活動期。

白秋…社会における役割や生々しい生存競争の世界から一歩引いて、澄み切った青空のように静かで自由な境地に暮らす季節。50代後半から70代くらいまで。

玄冬…70代後半からの20年間。

「白秋期から先をいかに前向きに生きていくか」ということが話の核心だったようで、その点を中心にお話されていました。

朱夏の季節を必死にもがいている私にとって正直ピンとくる話ではありませんでしたが、人生は長く、それを長期的に考えることの大切さを思いながら聴いていました。

ささやかな過去を大切にする

もうひとつ、次のような話もして下さいました。(同じことが著書にも書かれていましたので一部抜粋いたします)

(前略)私は、この時の体験があるおかげで、最終的に人間とは信ずべきものだ、と思えている気がします。人間の世界観をつくるものは、知識だけではないと、つくづく思います。むしろ、日々の生活の中で触れ合った人間とのささやかな出来事や体験が、人を育み、悩み苦しむこころを支えてくれる。だから、そういう体験をたくさん積み重ねていくことが、こころを励ます有効な方法なのではないでしょうか。

出典元:迷いながら生きていく(五木寛之)

年齢を重ねれば重ねるほど、こころは弱ってしまう。

うしろ向きに考えたり悩んだりすることが多くなってしまう。

でも、そんなときにこころの支えになってくれるのは、過去のちょっとした体験(思い出)だといいます。

そう語ったあとで、五木さんにとっての何でもないけれどささやかな、でもクスッと笑ってしまうような思い出エピソードを、ひとつふたつ教えてくれました。

五木さんは人間関係に悩むとき、当時のエピソードを思い出して「人間って結局はかわいい存在だよな。捨てたもんじゃないよな。」とご自身に語りかけるそうです。

過去を振り返り、味わうこともあっていい

今を生きることが大切で、過去にとらわれてばかりではいけない。

私自身はそんなふうに考えて生きてきました。

でも、五木さんは過去をもっと大切にしてもいいと言う。

むしろそうしなければ、これから先の人生を楽しく生きていけないと言う。

そんな話を聞いて、私にも過去にとらわれてしまうダメな自分がいるけれど、そんな自分をもっと認めてあげてもいいのかなと感じました。

講演会後は肩の荷が下りたように、何となくこころが軽くなりました。

五木さんの本を読むときも大体同じ。

背中をそっと押してくれるような、自分を肯定できるような気持ちにいつもさせてくれます。

一時間ちょっとの短い時間ではありましたが、実りある話を聞くことができてうれしかったです (^^)v

まとめ

・人の一生を4つの季節に区分する考え方がある

・年齢を重ねれば重ねるほど、こころは弱っていく

・ささやかな過去の体験や思い出が、悩むこころを助けてくれる


https://www.wlpm.or.jp/inokoto/2016/04/26/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E8%89%AF%E6%9B%B8%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%E3%80%80-%E7%AC%AC1%E5%9B%9E-no-1%E3%80%8E%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%AD%A3-%E7%99%BA%E5%B1%95/ 【キリスト教良書を読む  第1回 No.1『人生の四季 発展と成熟』】より                          工藤信夫 医学博士

はじめに

言うまでもなく、自分にとって意味ある本というものは、自己発見と確認の書である。自らの混沌に“光を与え”、方向づけを与えるからである。

このことは、詩篇の記者が「みことばは、……私の道の光」(詩篇119・105)と呼んだことにも通じる事実であろう。

四十代半ばから十年あまり、スイスの精神科医P・トゥルニエの著作を読む会を主催してみて、私のもとに寄せられた参加者の感想はこれを裏づけるものであった。その多くは、「私が漠然と思っていたことを(トゥルニエ)博士は、“ことば”にしてくださいました」とか、「この会があったからこそ、四十、五十代の坂を越えることができました」などというものであった。

良書というものは、人を照らすと同時に“人生の導き手”なのかもしれない。そして、この関係は、“神と人との関係”になぞらえることができる。神が道を照らす方であれば、人間は照らされる側である。神が教え導く方であれば、人間は教えられ、導かれる存在である。こう考えると、キリスト者にとって良書との出会いは死活問題となる。

二〇〇五年に始めた“キリスト教良書を読む”という学び会は、このような発想に基づいたものであった。

もちろんこれは二十年、三十年と続いた講演活動を顧み、一回きりの話ではその人の生き方、信仰が理解できるはずも、伝わるはずもないという反省から、札幌から長野、神戸に至るまで、全国八か所でなされるようになった。十人、十五人の参加者が決められたテキストを読み、その感想を持ち寄り、分かち合うことは“神の多様性”を示し、信仰の質を高め、深めることになることを実感した。

そこで私は、その会でよく取り上げられた何冊かの本を紹介し、読者の今後に資することを期待してみたいと思う。

P・トゥルニエの著作と『人生の四季』

ヨルダン社の閉鎖によって、そのシリーズの多くは入手困難になったとはいえ、トゥルニエの著作とその主張は、今日でもなお、深い納得、説得力をもって多くのキリスト者に語り継がれている。一九七〇年、今から四十年前に翻訳された『人生の四季』が、二十刷以上を重ねて今日でも読まれ続けているという事実がそのことを裏づけている(日本キリスト教団出版局にて再版)。

日本に〝ライフサイクル(人生周期)”という言葉が導入されたのは一九七〇年代と記憶するが、P・トゥルニエはそれに先立って、人生を春、夏、秋、冬と分け、その発達課題とキリスト者の生き方をこの本で提示している。たとえば、子ども時代は〈人生の春〉―準備期であり、子どもの尊重がそのテーマになるという。トゥルニエは言う。「子供の誤りを正そうとしてではなく、自分の子供たちの本性を発見しようという真の好奇心に燃えて子供たちのいうことに注意深く耳を傾ける親たち、とりわけ父親たちが果たして何人いるでしょうか」(三浦安子訳、ヨルダン社、二七頁)と。

そして、「詩人の言葉でもって私たちは子供と語らなければなりません。子供たちは詩人の言葉でもって人生を理解しているのですから」(三二頁)という。

しかるに悲しいかな、親というものは「早く、早く」と子どもを急き立て、あれもこれもと教え込んで〈現実主義者〉に仕立てあげようとし、せっかくの創造性、独創性をダメにする。ところが将来、人生の成功への鍵となる冒険心、感動、好奇心、他者と深く交わる能力などは、遊びの中で、また“ゆとり”のある時間、“何もない自由な空間”の中でこそ培われるという。「子どもは大人の父」というワーズワースの言葉があるが、感性において、彼らは大人よりはるかに優れた存在なのである。

また、〈人生の夏〉は、神が人間の反抗を許し、人間の失敗をも生かして、そのご計画をなし遂げることを知らしめる活動の時期であるという。

前者の例は使徒パウロであり、後者はペテロである。つまり、パウロはその前半が迫害者だったからこそ回心後、従順、忠実な下僕となり、ペテロは大きな失敗をしたからこそ、殉教者となり得たのだという。

これは、私たちが通常良しとし、またキリスト者に尊ばれがちな安易な従順、服従と、なんと異なることか。

そして老年期、〈人生の冬〉とは、統合の時期であり、断片的、孤立的また無意味と思えた過去の出来事一つひとつが統一体であり、見えざる神の導きの御手の中にあったことを知る時期だというのである。

この本は、これからもキリスト者の人生の導きの書であり、励ましの書であり続けるに違いない。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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