facebook加藤隆行さん投稿記事
【休みを日常へ活かす】
長いようであっという間だったゴールデンウィーク。多くの方は、いよいよ今日で終わりですね。…って言うと、ちょっとため息が出るかもしれませんが、今日はひとつ、ボクからの提案です。この休みのあいだに「なんとなく感じたこと」を未来のヒントに変えてみませんか?
たとえば──「旅行は楽しかったけど、 正直ちょっと疲れた」「誰にも会わずに過ごした日が、 いちばん落ち着いた」「子どもと一緒にごはん作った時間が、 やたらと幸せだった」
「田舎に帰省して実は行き帰りの 車の運転が一番楽しかった」「何もせずに昼寝してる自分を、ちゃんと好きだった」……そういう“感覚”って、けっこう大事なんですよね。
日常だと忙しさに飲まれて、「やるべきこと」だらけでそれをこなすので精一杯になりがちだけど、休みのときって不思議と“本音センサー”が復活するんです。
心や体が「こっちが心地いいよー」って小さなサインを出してくれてる。
その感覚を、見逃さずに拾ってあげると、ただ「休んだ」「遊んだ」ってだけじゃなく
これからの生き方の“コンパス”になるんです。
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だからボクは、連休明けにはこう問いかけたりしてます。「何が心地よかった?」
「何がダルかった?」「何をもっとやりたかった?」「本当は、何をしたくなかった?」
ここに、自分らしさのヒントがたっぷり詰まってる。
そして、いきなり全部は変えられなくてもいいから、そのヒントをもとに、日常にちょっとだけ休みのとき感じた”本音の自分”を入れていくのです。
朝5分だけ、静かな時間をつくってみるとか、人と会いすぎないように予定を減らしてみるとか、こどもとの時間を必ず増やしてみるとかドライブをもっと休日に取り入れてみるとか、
会社でもちょっとだけ昼寝してみるとか、そんなこと。小さくていい。でも、確実に変わっていける。
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連休って、「非日常」だけど、その中で感じたことは、まぎれもなく“本当は日常でも感じたいこと”なんです。だから休みの”感覚”を参考にしてそれを日常に取り入れてみる。
この連休がみなさんの明日からの毎日にとって未来の心地よさのヒントになりますように(^ω^)
ボクはもっと公園に行って緑の葉っぱを眺めてボーっとする時間を増やしたいなと思いました。普段からやってるけど、もっとね(^ω^)
【劣等感の裏にあるもの】
以前、ある方に言われた一言がいまも心に残っています。「嫉妬しているヒマがあったら、 パクれ!真似しろ!」なかなかストレートな言葉でしたが、そのときの自分には妙に刺さりました。当時のボクは、人と比べては落ち込み、劣等感に沈むことが多かったのです。
「あの人はなぜ、 あんなにうまくいっているんだろう」「自分には、あんな才能ないし……」そんなふうに感じているボクに、その人はこう教えてくれました。
「嫉妬っていうのはさ、 自分には“ない”、 あいつには“ある” って思ってる状態だろ。
だったら、 そこには“ある”んだから その人のやってることを パクればいいし、真似すればいい。 そしたら、自分にも“ある”が 増えていく。」そしてもうひとつ、大切なことを教えてくれました。「しかもな、それって“クセ”なんだよ。 “ない”ところばっかり見ちゃうクセ。 ほんと、ただのクセなんだ。 でもさ、よく見ればわかる。 “ない”と思ったところには、 必ず“ある”がセットで隠れてる。」──これは本当にその通りだと思います。
自分には”なく”ても相手には”ある”のなら、そこには間違いなくヒントが”ある”。
もし「自分には影響力がない」と感じているのなら実は「まわりへの 配慮ができる繊細さ」
が“ある”ということでもあるし、「自分には強い主張がない」と思うなら、それは「人の話を丁寧に聴けるやさしさ」が“ある”ということかもしれない。
私たちは無意識に、「自分にないもの」にフォーカスするクセがついているんです。
でも、“ない”と思っているその背景には、実は“ある”が必ずちゃんと存在している。
そして、嫉妬してしまう相手も、決して“完璧な人”ではない。ただその人の「成果の一部」が、自分の目にたまたま大きく映っているだけ。だからこそ、「すごいな」と思う相手がいるなら、観察して、真似して、取り入れてみればいい。そうやって行動してみれば、「自分にもできるかもしれない」っていう実感が、ふっと湧いてくるかもしれない。
“ない”と思い込んでいた場所に、“ある”が芽を出し始めるんです。
すると、「あれ?あの人の“ある”って、 自分にとっては、そこまで努力してまで欲しいものじゃないかもな」って気づくこともある。するとその”ある”への嫉妬執着は薄まり、その人を
あの人はスゴイなと尊敬できるようになるってことが起こってくるのよね。自分の経験上。
だから今日も、嫉妬しているヒマがあったら、いろんな“ある”を見つけて育てましょうや。この世はあるあるだらけやで(^ω^)
【善意という根っこ】
こないだ友人と話してたんです。政治の腐敗から、世界情勢の混乱、ワクチン被害、医療ビジネス、ボクら個人事業の世界に広がる情弱・劣等感ビジネスまで──。
まぁ、ちょっと真面目な話をしていて、ふと、こんな話題になりました。
「悪意には、善意は勝てないのか?」なんだか哲学っぽいけど、ボク、こういうの小さい頃からずっと考えてたんですよね。生きてると、やっぱり思っちゃうじゃないですか。
たとえば、意地悪な言葉のほうが場を制したり、誰かを蹴落としたほうが上に行けたり、
ズルして得してる人が得意げにしてたり。そんなのを見るたびに、「真面目にやってる 自分ってバカみたい…」って落ち込むこともある。誠実に、優しく、まっすぐに向き合っても、それが裏目に出ることだってあるしね。
でもじゃあ、「お前は悪意で生きたいのか?」って言われたら──それは違う。
やっぱり、選びたくない。そのとき気づいたんです。そもそも、悪意と善意は同じステージにいないんだって。悪意は、他人を貶めて勝とうとする。誰かから奪うことで、自分の価値を証明しようとする。
でも善意はちがう。勝ち負けじゃない。誰かを助けたい、つながりたい、信じていたいものを信じ続けたい─ただ、それだけ。だからボクたちは、悪意に勝つために善意を使ってるわけじゃない。自分でいられるように、信じたいものを信じ続けるために、善意を選んでるだけなんだと思う。
たしかに、「一時的」には悪意が勝つこともある。悪口を言えば注目されるし、誰かを蹴落とせば、上に行ける場面もある。
でもね、善意って──“後から効いてくる”ものなんです。それはまるで、種みたいなもの。
まいたそのときには、何も起きない。むしろ土に埋もれて、見えなくなってしまう。
だけど、ある日ふと芽を出して、気づけばしっかり根を張ってる。それが、誰かの心をやわらかくしたり、信頼をつなぎ直したり、未来を少しだけ、やさしくしてくれる。
善意は争わない。だから「負ける」ことも、ないんです。
たとえるなら──悪意は剣で、善意は土。剣は土を斬れない。でも土は、すべてを育てていく。そして、もしも自分が悪意を使ってしまったときは、それはきっと、自分の土を育てることを放棄したとき。つまり、自分を信じられなくなり「自分に負けたとき」、なのかもしれません。
だからこそ、今日もあなたの善意が、誰かと、そしてあなた自身の生きる「根っこ」になりますように。(^ω^)
【感覚を取り戻す】
ボクたちのメンタルって、実は「感覚」でできています。たとえば、「腕をもがれる想い」という言葉。べつにほんとに腕が取れてるわけじゃない。でも、確かに「もがれた感じ」がする。そう、メンタルの痛みって、頭の中だけじゃなく、ちゃんと「身体」で起きているんです。
先日、こんな話がありました。「自分は本当はできると思っているのに、 突然、自信を失って、 力が抜けたようになってしまう そんな葛藤の中にいる」そう打ち明けながら、その方は、静かにうつむきました。詳しくお話を聴いていくと、以前に、「本当は自分ならなんとかできた」なのに、自分はそこに手を出せずどうにもならなかった。という経験があったそうです。そのときの感覚を探っていくと、その方はポツリと言いました。
「腕がもがれたみたいでした」ああ、これが無力感なんだな、とボクは思いました。
それは頭で「つらい」と思う以上に、身体の芯から感じる痛みだったんです。
だからこんな提案をしていきます。「腕、感じてみましょうか」じんわりと、腕を感じてみる。触ってみる、握ってみる。ゆっくりと伸ばして、ひらいて、ぐーんと遠くへ、手を伸ばしてみる。「ほら、ちゃんと、ある」自分の腕が、ここにある。ちゃんと動く。ちゃんと広げられる。遠くにだって、手が届く。それをじっくり、しっかり味わってもらいました。
腕をぐるぐるっと回してみる。最初はぎこちなかったその動きが、だんだん、のびやかになっていきます。そして、ほんの少し、顔に元気と笑顔が戻ってきました。
失われたと思っていたものは、誰にも奪われてなんかいなかった。本当は、ずっと、ここにあったのです。メンタルを癒すって、時にはこうして、「身体を思い出すこと」から始まるのかもしれません。
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これまでの人生、とくに幼く若き日に感じた「感覚」。それがあなたのメンタルを形作っています。奪われたと感じた力を、もう一度、自分の中に見つけていく。ちいさな動きから、静かに取り戻していく。腕はここにある。力はここにある。生きるための、自分の能力は、ちゃんと、自分の中にある。それを、どうか、忘れないでください。
今日も、自分にそっと触れながら。じんわり、あたたかく”感じて”みればいつでもそこに「ある」ことに気付けると思います(^ω^)
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