facebook出口光さん投稿記事【「魂」の語源は】
みなさん、おはようございます。「魂」は「たましい」と読みますね。もともとある和語「たましひ」に漢字「魂」が当てはめられたました。
それでは、「たましい」という和語は「たまわりしひ」に由来すると言われています。
賜りし霊(ひ)つまり天帝からの分け御霊(みたま)だというのです。
天帝とは?古事記では「天之御中主」(アメノミナカヌシ)の大神を日本書紀では「国常立」(クニトコタチ)の大神を意味します。
この根源神は呼び名が違うだけで同じだと言われています。生きとし生けるものに「賜りし霊」、たまわりしひがあるという日本古来からの伝統的な考え方です。
しかも万物に命が宿る、神が宿るという。全てに命の輝きを観る!そう想うと世界が輝きますよ。
facebook相田 公弘さん投稿記事
「本当は、“今・ココ”しかない」というお話です。
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「より良い仕事を成し遂げたい時は、どう願ったら良いのでしょうか?」まず、「本当は、“今・ココ”しかない」と知ることです。過去は「過ぎ去って、今はない」から過去なのだし、未来は「未だ来ない」から未来なのです。本当にあるのは、「今・ココ」という現在だけなのです。そして、これは実に実に不思議なことなのですが、「“今・ココ”に集中し、今の役割になりきって行動する」と、なぜか、必ずその行動が、過去から未来にわたるすべての人や物事にとって、最善・最適な行動となるのです。
なぜだか自分ではわからないことですし、そう計画して行動したわけでもないのですが、なぜかそうなるのです。
そうした不思議な「いのちの成り立ち」を、道元禅師は「現成公案」と名づけました。
「“今・ココ”という現在(現)に、成り切って(成)行動していけば、その行動は、世界全体(公)にとって、最善・最適(案)な行動となる」と、おっしゃっているのです。
そういうことがわかって、私はずいぶん楽になりました。「未来や過去に気を取られず、何もかも忘れて、現在出会っている仕事だけに没頭していればいいのだ。
そうすれば、必要な時に必要な“考え”なり“人の話”なり“出来事”なりが現われてきて、次にやらねばならない仕事がわかってくる。そうすれば、次はその仕事に没頭すればいいだけなのだ」と。そう決意すると、なぜか仕事全体のつじつまが合って来て、最高の仕事ができるのが不思議です。
開運!まいにち神様立花 大敬 著KADOKAWA
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お釈迦様の教えに“一夜賢者(いちやけんじゃ)”というものがあります。
「過去を想うことなかれ、未来を願うなかれ。それは過ぎ去ったことであり、まだ来ていないものであるから。現在をよく見極め、動じることなく実践せよ。そうして今日一日を精一杯生きよ。明日、死神の大軍が来ないとは誰もいえない。このことをよく知り、心を込めて今日一日を全力で生き切るものを、一夜賢者という」
一夜賢者の“一夜”とは、一昼夜、昼も夜も、つまり一日という意味です。今日一日、昼も夜も、今ここに全力で取り組む!人と会うときも、勉強するときも、仕事の時も、目の前のことに全力で!ということです。大徳寺大仙院“尾関宗園”住職の「今こそ出発点」という詩があります。
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今こそ出発点
人生とは毎日が訓練である わたくし自身の訓練の場である 失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である 今この幸せを喜ぶことなく いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう わたくし自身の将来は 今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る
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「今・ココ」が全て。一夜賢者になりましょう。※魂が震える話より
facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
自由に根差して
連休はいかがお過ごしでしたか? 初夏かと思えば、肌寒い雨となり・・・きまぐれなお天気ですが、体調にご留意ください。
さて、「表現者」という言葉を聞くことがありますね。(特別な)才能のある人、といったイメージを抱きがちです。確かに、表現者=発信者としての使命感や矜持を持った人もおられます。
少しニュアンスは異なりますが、「生(生き方・在り方)」とはまさに表現であり、職種や能力に関わらず、そういう意味で、みんな「表現者」と言えます。
常々「童心こそは天才の種」と言っていますが、こちらもなんとなく似ています。偏差値が高いとか、競争に勝つとかが天才ではなく、自由に心のままに自らを生きる、そんな「天才」を誰もが自分の中に秘めていて、年齢とか環境には無関係です。
子どものころ、誰もがなにかを夢中で、描き、歌い、作っていたことでしょう。誰かの評価を得るためでも、役に立つかどうかを測るためでもなく、「やってみたいから」「やらずにはいられないから」。
損得も計算もなく、あるのは湧きあがる衝動や好奇心。まさに、純度の高い「表現」であり、天才性のなせるものだったと思います。
残念なことに、人は成長とともに、「正しさ(常識)」や「役割」や「効率」に縛られていきます。知らず知らずのうちに、他者と比べるようになり、自分を「らしさ」にあてはめていきます。
子供時代の、意味をもつ必要もない、純粋な行為の中には、根源的ないのちの輝きがあったのですが・・・。
表現とは、いわば自由の境地でしょうか。
何者かになるとか、沢山の選択肢を持つという「状況」や「状態」のことではなく、どこまでも広がっていくようなとらわれのない「心のありよう」ですね。
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