熊谷厄除大師 常光院

http://yumetora.blog3.fc2.com/blog-entry-5429.html 【遠っ走りして、熊谷 常光寺まで。】より

龍智山 常光院 毘盧遮那寺、というより 熊谷厄除大師 天台宗別格本山 常光院の方がわかりやすいかも。初めて来訪。熊谷は上州の続き、車で1時間半だから時折は行くエリア。でも常光院、知らなかった。ネットで藁葺きの本堂、中世の武士の館あと、云々発見して興味。

県外に出る機会、このところ稀。ついつい億劫だったが、たまには少々遠っ走りも佳し。今日は晴天。熊谷までドライブ。水堀+お土居の上の土塀。武家館の雰囲気残る。

本堂。中条(ちゅうじょう)氏館跡。藁葺大屋根のボリューム感、圧倒的。

これが堀とお土居+白壁の土塀。金子兜太氏のなんとも野太い句の碑。気持ちの良い字。おおらかな句。日暮れが早いし、このところ気力・体力に衰え・・・早めに帰路につく。


https://www.kumagayakan.net/info/now/labo1911.html 【熊谷・軽井沢・プラハ地域歴史

第4回 対話篇「熊谷の俳句と熊谷ルネッサンス―金子兜太×山下祐樹―」】より

根岸家長屋門前の句碑にて(2016年4月4日)

2016年4月、俳人の金子兜太氏と筆者(山下祐樹)は「熊谷の俳句」として詠まれた4つの句と向き合い、建立された句碑を巡りながら、熊谷の歴史や自然風土について対話を重ねた。その内容を紡ぎ合わせ、熊谷ルネッサンスへとつながる思索の歩みとして記し、『熊谷ルネッサンス』に掲載されている。この対話篇に再び着目したい。

熊谷篇

【利根川と荒川の狭間】

山下 「利根川と荒川の間雷遊ぶ」の句は、利根川と荒川に挟まれた熊谷の地形や風景を思い起こさせてくれます。熊谷を二つの河川を両辺とした舞台に見立て、その中であたかも雷神が躍動しているような想像が膨らみました。

金子 地域の合併により市域が広がり、丘陵や川が増え、熊谷の風景は更に多様になったように思います。熊谷は関東平野の真ん中にあり、利根川と荒川が流れる地として、熊谷独特の風土が息づいている。そう感じるのです。

山下 句の中にある「雷遊ぶ」という表現もこの地域の自然を描写し、その雷の力強さや熊谷の暑い夏を印象付けるものでした。

金子 熊谷の夏が暑いのは有名ですが、その暑さが消えない夕方には雷が到来し、街中に雷鳴が響き渡ります。雷は北武蔵の地を表す自然現象の一つでありますね。大河がもたらす湿潤な環境が雷と関係があるのかも知れません。

山下 夏の雷といえば上州の群馬を想像しますが、熊谷に到来する雷の源泉は赤城山の麓にあるのではないか。熊谷ではそんな感覚があります。上州から北武蔵にかけての地域を、雷が行き交う同じ文化圏として一括りにしても良いように思います。

【暑い夏とうちわ祭】

山下 兜太先生には「白南風とうちわ祭がやってくる」という句があります。「しらはえ」の一節が心地良く、熊谷の夏を彩る「うちわ祭」を表現した象徴的な作品として扇子のデザインにもなっています。「雷遊ぶ」の句には、うちわ祭については登場していませんが、解説の終わりに一言触れることにしました。これも「白南風」の句が影響していると思います。

金子 一つの句が更なる想像を引き出すことは面白いことです。叩き合いの轟音と雷鳴が共鳴する。そのような風景も熊谷の夏の風物詩として、多くの人々が思いを馳せていることでしょう。勇壮に響く祭りと雷が放つ印象は、熊谷の暑い夏がやってくるという気持ちの高まりを感じるに難くありません。

■大里篇

【富士山または筑波山】

山下 「草莽の臣友山に春筑波嶺」。この句を拝見した時、私は直感的に大里の根岸家長屋門の風景が思い浮かびました。春となれば、風格ある長屋門と咲き誇る桜とのコントラストが美しい場所です。一方、根岸家に身を置き何を眺めるか。句の中では富士山ではなく筑波嶺と記された。その点にとても興味が湧きます。

金子 荒川をまたぐ久下橋から雄大な富士山を見ることができますが、大里の胄山に至りますと、富士山の方角には比企丘陵の豊かな森が広がり、目にすることは難しい。ところが東の方向に目を向けると視界が広がり、遠く筑波山が浮かんでくる。そんな情景が込められています。

山下 大里の位置からすると、筑波山は北の方角にあるような印象を私は受けたのですが、地図で確認すると確かに東にあることが分かりました。あわせて、北や西にも目を向けると多くの山々がそびえています。熊谷はこうした山並みを見通せる地にあることを改めて認識することになりました。

金子 東に筑波山、北には男体山や赤城山、西には榛名や妙義、遠く白肌の浅間山などがあり、熊谷を取り囲んでいるかのようです。すると、こうした山脈とここに住まう人間を対比するかのごとき感覚が生じ、そこに根岸友山という人物の存在が思い起こされるのです。

大里・根岸家主屋において江戸時代の敷地図を

見ながら当時の歴史に想いを馳せる。

右から金子兜太氏、山下祐樹、根岸家当主の

根岸友憲氏(左前方)

【草莽の志士】

山下 根岸友山と春霞の先にある筑波嶺の対比。孤高の友山が経験した激動の時代を想像するに至りました。息子の武香と共に幕末から新たな時代の幕開けを飾った大里の誇りであります。そして句に示されている「草莽」という表現が私の心に強く響きました。この言葉にいかなる思いを込めたのでしょうか。

金子 この「草莽」は、在野にあり地位を求めず、国家存亡の危機の時、国家への忠誠心とともに行動する人物「草莽之臣」を意味しています。友山は幕末の志士として活躍し、困難な問題と立ち向かいながら、郷土への愛着を忘れなかった。在野から為し得ることの強い信念と意志、その可能性を知らしめたのではないかと考えています。

■妻沼篇

利根川のほとりに荻野吟子生誕の地があった。

春になると土手には菜の花が咲き誇る。

 

【荻野吟子の人生】

山下 妻沼には国宝「歓喜院聖天堂」をはじめ多くの文化財や建造物があり、時代を超えて継承されてきた歴史や独特の文化があります。そうした妻沼の歴史の中で、俵瀬の地に生まれた荻野吟子が放ち続ける光はとても大きいと感じています。だからこそ、「荻野吟子の生命とありぬ冬の利根」の句は特別な感覚を伴うものです。

金子 荻野吟子の人生が利根川を前にした妻沼の地から始まり、その時代の苦難に翻弄され続け、それでも決してあきらめずに日本初の女性医師となった。このことは熊谷の誇りとして広く語り継ぐべきことでしょう。吟子が切り開いた女性の社会進出という道は現代まで続いているように感じます。

山下 私は荻野吟子がキリスト教の理想郷を目指して北海道に移住し、地域医療のために開業した瀬棚を訪れたことがあります。吟子はこの地で夫を亡くすなど悲劇に見舞われています。吟子が歩んだ道は平坦ではありませんでしたが、様々な障壁を乗り越えた不屈の精神が利根に面した地で育まれたことは感慨深いことです。

【利根の四季】

金子 若き吟子が経験した利根の冬。寒冷な冬の利根川と吟子の熱き生命が密接に関わり合う。このことが「生命とありぬ」という文言に結び付きます。この地の特徴としては、冬には赤城山からの寒冷な「赤城おろし」が吹き付ける。夏は豪雨による洪水にさいなまれる「水場の地」であったこと。このような自然の特徴が吟子の生命と強い精神力を育てたのでしょう。

山下 冬を乗り越え、春になると俵瀬の土手沿いには無数の菜の花が咲きます。対岸を眺めると群馬の春めいた風景があります。

金子 赤城おろしが止み、春の彩りを感受する。利根の恵みとともにある春の季節が、吟子が持ち続けた温和な愛にもつながっているのだと思います。

■江南篇

【文殊寺での逸話】

金子 江南の地の句を詠むとき、私はまず文殊寺のことを思い出しました。こう申しますのも、かつて私は病を患い都内の大学病院に入院していました。ようやく退院となり、車で熊谷の自宅に向かう途中、文殊寺に立ち寄ったのです。その際、車から降りてから間もなく私は転倒したのです。病み上がりの体で足腰が弱っていたのでしょう。近くにいた家族は心配しましたが、受け身が良かったのか、擦り傷くらいの怪我で済んだのです。何とも助けられた、「文殊の地」の句はそんな逸話とともにあります。

山下 そのようなことがあったとは。大事に至らず幸いでした。合格祈願に訪れる方が多い文殊寺は度重なる火災を受けてきましたが、参道にある朱の仁王門は江戸時代の形態を今に残しています。江南には幼少期から行く機会も多く、私が働く文化財センターもあり、約10年を過ごしてきましたが、風光明媚な自然豊かな場所で時がゆったりと流れる。そんな実感があります。

【丘陵の眺めと飛び交う蛍】

金子 私は江南の句の構想を練る中で高台からこの地域を眺めたことがあります。比企の丘陵と深い森が覆う間に田畑や小川が広がる。実に自然に溢れた場所だなと思いました。

山下 江南の各所には蛍が自生する川があり、初夏の夕暮れには蛍の光が飛び交います。句に込められた「行雲流水」の語源を調べたところ、中国北宋代の『宋史』に辿り着き、その意味を知るうちに、江南の風景に相応しい言葉であると感じています。

■ 熊谷ルネッサンスという旅

山下 私は埼玉新聞紙上で「熊谷ルネッサンス」という連載を担当し、熊谷の歴史を振り返りながら、今に続く熊谷を記すという試みを続けてきました。兜太先生の俳句に描かれるように熊谷の奥深さを改めて感じています。

金子 熊谷の郷土に注目し、そして後世に伝える、そのような取り組みに対して、私も力添えすることができたらと思います。私は俳句という方法によって日本の風景や心を描いてきましたが、やはり自分の住まう熊谷に対する意識は特別です。ぜひ、それぞれが持つ方法や信念で進めていくことにしましょう。

山下 「熊谷の俳句」で描かれた風景や先覚者の姿と、「熊谷ルネッサンス」で目指した郷土への想いは通じ合うのではないかと勝手ながら感じています。これからも私なりの表現で熊谷の時空を超えた旅を続けていきたいと考えています。貴重なお話をありがとうございました。


https://www.nikkei.com/article/DGXMZO89788200X20C15A7000000/ 【俳人・金子兜太氏 「戦争の悪」と「人間の美」詠む(戦争と私)】より

戦後70年インタビュー

2015年8月15日 2:00

独自の作風で人間や社会の深部に迫ってきた俳人、金子兜太さん(95)。海軍主計中尉として出征したトラック島での体験が戦後の作句の原点になった。「戦争の悪」と「人間の美しさ」。前衛俳句の先駆者が生み出す17文字には島で目撃した相反する情景が織り込まれている。創作意欲は今も衰えず「伝達力のある俳句を作りたい」と語った。

――戦地での印象深い出来事を教えて下さい。

金子兜太(かねこ・とうた)氏 埼玉県生まれ。東京帝大卒。戦後は日銀に勤務しながら社会性を重視した前衛的な作品を相次いで発表。現代俳句協会名誉会長。95歳。

「1944年3月に着任したとき、半月前の空襲でやられた施設が真っ黒な残骸をさらしていました。飛行艇で着いたのが夕方だったので、よけいに黒く見える。海の深いところには貨物船や軍艦が沈んでいて、これはもう駄目だなと思う光景でした」

「戦況が悪化すると、トラック島では武器も弾薬も補給できなくなる。そこで、工作部が手りゅう弾を作って実験するという事があり、これが私の戦争に対する考えを一変させました」

「実験は兵隊ではなくて民間人の工員にやらせました。失敗して工員は即死、指導役の落下傘部隊の少尉が心臓に破片を受けて死にました」

「心に焼き付いたのはその直後のことです。10人ほどの工員たちが倒れた仲間を担ぎ上げ、2キロ離れた病院へ走り出した。腕が無くなり、背中は白くえぐれて、死んでいることは分かっています。でも、ワッショイワッショイと必死で走る。その光景を見て、ああ人間というのはいいものだとしみじみ思いました」

「ところが落下傘部隊に少尉の死を知らせると、隊長の少佐以下、皆笑っているんです。彼らは実戦を通じて死ぬということをいくつも体験してきた。だから死に対して無感動というか、当たり前なんですね」

「工員たちの心を打つ行動があって、今度は死を笑う兵士がいる。置かれた状況が人間を冷酷に変えるんです。戦争とは人間のよさを惜しげも無くつぶしてしまう酷薄な悪だと痛感しました。あの出来事は私にとって衝撃であり、今から思えば収穫でもあります。あれ以来、戦争を憎むという姿勢は一貫しています」

――戦地での創作は。

「手りゅう弾の一件の後、しばらく俳句は詠みませんでした。でも戦死した矢野兼武主計中佐(筆名・西村皎三)が『金子中尉、戦況は悪くなる。皆、暗くなるから句会をやれよ』と言っていたのを思い出し、句会を開くようになりました」

「戦後、放送作家として活躍した西沢実さんが陸軍少尉で島にいて協力してくれました。4、5人の陸軍将校と工員が10人くらいで月2回。工員たちは将校を相手に堂々と批評していました。自分たちが聞いたこともないような例を挙げて説明するものだから軍人にとっても新鮮で面白い」

「この句会は3カ月で終わりました。食糧の芋を作るため、皆が分散配置されることになったからです。食糧事情は悪化し続けて餓死者が相次ぎました。最近、気づいたのですが、この時期は全然、俳句を詠んでいません。切迫した状況では出てこないものなんです」

――終戦の直後にいくつかの代表的な句を詠んでいます。

「あの日のことははっきりと覚えていますね。全将校が集められて、無電で受けた詔勅を聞かされました。それから自分の宿舎へ帰って、日記類を燃やした」

「『椰子の丘朝焼けしるき日日なりき』の句が浮かんだのはこのとき。その後に詠んだのは『海に青雲生き死に言わず生きんとのみ』という句です。とにかく生きて、ばかげた戦争のない国にしていこうという気持ちでした」

――捕虜生活の後、日本に帰還しました。

「餓死者を出した、これは主計科の士官として仕事を全うできなかったということです。若くて元気のいいアメリカの海兵隊を見て餓死した人のことを思い出しました。筋骨隆々としていた人がだんだんやせ細って最後は仏様のような顔になって死んでいった」

「『水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る』は餓死した人を思いながら、船尾から遠ざかる島を見ていたときに作った句です」

――戦争の記憶が薄れるなかで、文学が果たす役割とは何でしょう。

「本気で作った五・七・五は力を持っている」と語る金子氏

「トラック島の記録を作ることが死者をとむらうことになる、それができるのは散文の小説やドキュメンタリーで伝えることだと思っていました。実は結構、書いているんですが、恥ずかしくて駄目。美文調で、青年の客気が露骨に出てしまっていて。これでは戦争の悪なんか伝わるわけがない。自分で決めて永久に葬りました」

「一方で、俳句にはかなり強い伝達力があることを今ごろになって感じます。本気で作った五・七・五は力を持っています。私には『こんなに悪い戦争があって、自分はそれに参加したのだから、俳句を作る資格はない』と消極的になってしまった時期がありました」

「そうではなくて『これほど悪いんだから全力で俳句を作って、俳句で戦争の記録を残していくんだ』という割り切り方ができたら良かったのかもしれません。それができなかった。今でも後悔が残りますね」

――これからの創作に向けての意欲は。

「95歳という年齢に制限される面がありますが、ビビッドで伝達力のある前衛性の高い俳句を作りたい。東日本大震災の映像を見て『津波のあと老女生きてあり死なぬ』という句ができました。戦争の悪と同時に人間はそう簡単に死なないものだと伝えたい。人間には強さがあるぞ、その強さを生かしていこうじゃないかとね」

(聞き手は社会部、稲沢計典)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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